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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜真田丸:最終回は、真田幸村の最後よりも真田一族の顛末を描き
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最終回の放送冒頭、真田信之と本多正信が相部屋の宿で一夜を過ごすという場面から始まります。

 (一言:こんなシーンのために貴重な時間を割くのなら、もっと合戦のリアルなシーンを盛り込んでほしかったです。)
その後、真田十勇士っぽい武者(7人しかいなかったけど)の宴会シーンが続きます。
一言さながら、程度の低いマンガのようでした。)
幸村(信繁)はその宴会の場に現れ、「お前達、負けると思っているようだな、・・・・・私は命が惜しい、だから明日も決して死なん。必ずここへ戻って来る。命を惜しめ、そして必ず勝て。」と言い残し、その場を後にします。
次に幸村(信繁)が足を運んだのは、台所でした。
同行していた佐助は、すぐに台所の片隅に隠されていた真田家の家臣:与八の死体を見つけ出します。
与八は台所頭 大角与左衛門に殺されたのです。
与左衛門に対して幸村(信繁)は、「もっと早くに気づくべきだった。」と語ります。
すると与左衛門は、娘と妻が秀吉に手籠めにされて自害したために、豊臣家を恨み、滅びるまで見届けるためにここにいると答えます。
与左衛門の話を聞いた幸村(信繁)は刀を抜き、「事情はともかくお前を生かしておくわけにはゆかぬ。」と与左衛門を切り捨てようとしますが、それより先に与左衛門は食肉を刺した長いクシを自らの横っ腹に突き刺し、自害してします。

場面は秀頼を交えた軍議のシーンとなり、豊臣家の馬印:千成瓢箪を掲げて秀頼が出陣する時、豊臣は全軍を持って攻めにでることを決め、勝どきを上ます。
次に幸村(信繁)が訪れたのは、淀殿の部屋です。
淀殿は、城と共に死ぬ夢を見ると言いながら、死ぬのは怖くないと言いますが、幸村(信繁)が秀頼公が三条河原に首をさらされる光景を思ったことがありますか?と語ると突然脅えだしますが、信繁がそれをいさめ、もしも私は帰らなかったら、千姫を徳川に返せば生きるすべはあるとして、
「くれぐれもお忘れなきよう。望みを捨てなかった者のみに、道は開けるのです。」と言い聞かせます。

ところが、部屋へ戻り、堀田作兵衛に戦支度の鎧を身に纏ってもらいながら、高梨内記と語る言葉は、戦場での死を覚悟したものでした。
幸村(信繁)は「私と言う男が生きた証をこの世に残せたのか」と内記に問います。
すると内記は、「・・・・・・大事なのは、いかに生きたかでございます故。」と幸村(信繁)の名は、後世に語りつがれるだろうことを述べます。

かくしして大坂夏の陣の本戦となり、信繁と勝永が陣にて戦の手順を確認しあう中、松平忠信勢が毛利勢に鉄砲を打ちかけると、それに応戦して毛利勢も鉄砲を打ち返すという想定に反したかたちで戦いの火ぶたが切られると、止む無く幸村(信繁)と勝永は戦場へと打って出ます。
それでも当初は毛利勝永軍や真田軍の進軍により、戦況は豊臣軍の圧倒的優位に動き、毛利軍の後を進む幸村(信繁)が、家康本陣へと斬り込みますが、家康は既に逃走した後でした。
途中幸村(信繁)は徳川方の真田信吉の陣を通る際、決起にはやる信之の次男:信政の率いる軍と交戦状態となり、信政に従う三十郎は、行きがかり上やむなく幸村(信繁)に斬りかかるのですが、幸村(信繁)はその切先を交わし、「小物にはかまうな!」と、真田信吉・信政の陣脇を駆け抜けて行きました。
一方別動隊の大野治房軍も徳川秀忠の本陣に攻め入りますが、これまた秀忠は慌てふためいて逃走します。
ところが後から出陣するはずだった秀頼を、大蔵卿局が強硬に引き留めてしまいます。
そこで幸村(信繁)は秀頼の出陣が勝敗を決するとして、大助を秀頼出陣の要請に向かわせますが、
幸村(信繁)が出陣前に裏切り行為を攻めたことで自害したはずの大角与左衛門が、自らが刺した腹に包帯を巻き、秀頼の前に現れ、傷を負わせたのは幸村(信繁)だと語ったために、幸村(信繁)の命で戻った大助の出陣要請を秀頼は、大蔵卿局の「真田源次郎は裏切り者でございます。」との言上と、淀殿の「生きよ。」との制止により、出陣を思い止まってしまいます。

それでもそれまで優位だった豊臣軍が、このまま両軍の勝敗が決するかに見えた時、大野治長軍が豊臣家の馬印:千成瓢箪を掲げて大阪城へと秀頼の出陣を即すために引き返していったために、豊臣軍の雑兵は千成瓢箪が城へと帰るのは、総大将である秀頼が逃げ帰ったと勘違いし、戦線から逃亡する事態に発展し、戦況は急変します。
そして徳川軍は大坂城内へも攻め入り、高梨内記と堀田作兵衛は壮絶な最後を遂げる中、きりは千姫を連れて家康の元へと落ち延びます。

この戦況の変化を好機と見た家康と秀忠は、一気に豊臣勢を蹴散らし、攻め返します。
これにより窮地に立った幸村(信繁)でしたが、それでも幸村(信繁)は徳川の兵を払い除け、再び家康の前へと至ります。
ここで幸村(信繁)は、かねてより用意していた馬上宿許筒を取り出し、家康めがけて一発を銃撃しますが、玉は家康には命中しませんでした。
すると幸村(信繁)は更に家康近くへと馬を走らせ、もう一丁の馬上宿許筒を家康に向け構えます。
家康は、銃を構える幸村(信繁)に対し、廻りで家康を守ろうとする家臣に対し、
「手を出すな!」と一喝した後、幸村(信繁)に対し
「・・・・わしを殺したところで、何も変わらぬ。・・・・戦で雌雄を決する世は、もう終わった。お主のような、戦でしか己の生きた証を示せぬような手合いは生きて行くところなど、何処にもないわー!」と声を張り上げます。
しかし幸村(信繁)は「そのような事は百も承知、されど私はお前を討ち果たさねばならないのだ。・・・・先に死んでいった愛する者達のために。」と声を荒げ、銃の引き金を引き、今正に家康を撃たんとした時、幸村(信繁)は構えていた銃を落としてしまいます。
後から駆け付けた秀忠隊の銃が、幸村(信繁)の左腕を撃ったのです。
それでもなお幸村(信繁)と付き従う佐助は奮戦し、敵軍を潜り抜け、安井神社まで落ち延びます。
幸村(信繁)らが最後の抵抗を繰り広げる中、伊達政宗・片倉 小十郎・上杉景勝・直江兼続らがその戦いぶりを遠くから傍観し、
政宗は「見事な戦いぶりよ。」と語ると、
景勝は「武士と生まれたからには、あのように生き、あのように死にたいものだ。」とつぶやきます。
続く兼続は、「戦は終り申した。もどりましょう。」と語り、政宗らが先に戦場に背を向けます。
最後に残る景勝は、涙を浮かべて幸村(信繁)の戦いぶりを見つめ「源二郎、さらばじゃ。」と最後の別れを告げます。

境内の本堂で戦いに疲れ果てた体を休めていた幸村(信繁)と佐助でしたが、そこへ徳川の兵が二名現れ、観念した幸村(信繁)らはその兵らに討たれるかに見えたその時、二人は懐に隠し持っていた苦無で素早く討ち倒します。
しかし幸村(信繁)の気力と体力はこれで尽き果て、幸村(信繁)は「これまでだな。」と切腹の覚悟を決め、佐助に解釈を任せますが、決定的なシーンは描かれませんでした。

京において出家していた北政所は片桐且元の前で「全ては夢の又夢」と語り、

きりに守られて家康本陣に辿りついた千姫は、家康・秀忠が無事を喜び迎える中、秀頼や幸村(信繁)の末路などには何の悲しさも覚えていないかのように、無事に祖父や父のもとに辿りつけたことをただ喜び、満面の笑みを浮かべます。
千姫を無事送り届けたきりは、家康の陣を静かに去りますが、その後どこへ向かったのでしょう?
そして、秀頼・大野治長・淀殿・真田大助・大蔵卿局らの最後のシーンも、描かれることはありませんでした。
そして春は大坂から逃れ出る時娘:うめに「大丈夫じゃ」と勇気づけ、
上田で暮らすすえは、夫とおむすびを食べる幸せな光景が映し出されます。
大坂での実父の最後など、無関係であるかのように。

場面は変わり、幸村(信繁)の家康打倒への思いを止める事が出来なかった信之は、本多正信の領地に辿りつき、正信と共に、大坂からの戦の決着を告げる早馬の使者を迎えます。
その時信之は、その知らせを聞く前に、幸村(信繁)の死を悟ります。
腰袋に提げていた六文銭が、チャラリと鳴ったのです。
まるで信繁の魂が、六文銭を鳴らしたかのように。三途の川の渡し賃として。

この後ドラマのテーマ曲が流れる中、幸村(信繁)の生涯が走馬灯のように映し出されます。

最後は七年後の信之の領地の田園風景が映し出され、字幕と共にナレーションが語たられます。

これより七年後、真田信之は、松代藩十万石の大名となった。
そして幕末、松代藩は、
徳川幕府崩壊のきっかけを作る
天災兵学者 佐久間象山を
生みだすことになるのだが
それはまだ遠い先の話である。
と。
真田幸村(信繁)が生前何度も語った「望みを諦めなかった者だけに道は開ける」という言葉が、幸村(信繁)・信之らが死して遥か後に、叶えられたのだと告げるかように。

一言:これでいいんですか?大河ドラマの最終回って。)

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〜真田丸:道明寺の戦いではドラマとは違い、又兵衛が幸村の意見を聞かず
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『NHK大河ドラマ 真田丸』第49回放送『前夜』では、
豊臣方の読みでは、家康本隊が東より大和路を進軍してくると読み、大坂城を攻めるには最も攻めやすい南部からの攻撃に備え、大坂方は天王寺まで軍を進めて敵を迎え討つことにしますが、もしも東側から攻めて来れば背後を突かれるとの懸念から、幸村はそこを流れる平野川の堤を幾つか切っておくことで、その一帯を沼地状態にして徳川が攻めにくくすることにします。
開戦を前にして家康は、今一度豊臣に対して「大和の郡山城に兵を引き、今すぐ浪人を追放すれば兵を引く」と通告するよう命じますが、将軍:秀忠は、「秀頼がいるかぎり徳川の安泰はありませぬ、父上は甘すぎる。」と家康の豊臣に対する譲歩する考えに対して激しく抗議します。

戦前夜、木村重成は後藤又兵衛のもとに現れ、「後藤様には色々と学ばせて頂きました。お会い出来て光栄でした。」と語ります。
しかし又兵衛は重成の言葉を快く思わず、重成の側に歩み寄り「二度とそういう事を言うな。・・・戦前にそういう事を言うとな、必ずどっちかが死ぬというのがお決まりなんだ。」とたしなめますが、そこである事に気づきます。
「ああん?クンクン、お前何かいい匂いがするな。」と語ると、
重成は、「万一首をとられた時に、恥ずかしくないように兜に香をきしめておりました。」
これを聞いた又兵衛は、「ハハハハハッ、つまらねえ真似をするんじゃねえよ、早く持ち場へ戻れ。」と笑い飛ばします。
この時又兵衛と重成は、既に死を覚悟していたのです。
かくして決戦の当日、奈良大和路を伊達政宗率いる3万5000が、又兵衛らの待ち受ける道明寺へ、
結果、道明寺の戦いでは幸村らの到着を待たずに夜明けと共に又兵衛は先手を打って出、壮絶な死を遂げました。

道明寺の戦いについては以前〜大坂夏の陣:幸村が遅刻した道明寺の戦い〜にもにおいて記しました 。
4月30日
(道明寺の戦いの詳細①)
徳川の進軍が間近になった大坂城では豊臣家上層部と浪人の間でどうやって対処するかが話し合われました。

真田幸村は大坂城南の四天王寺辺りで終結した徳川軍を迎え撃つことを主張しますが、
後藤基次は、敵は大和路から大坂城南を目指してくるだろうから、亀瀬・関屋の隘路を抜けてきた徳川軍を国分辺りで叩く。山地の狭いそこを利用すれば十中の内、七・八は勝つだろう。
先頭を破れば、後ろの隊は郡山に退くはず。その後のことはまたそこで考えれば良い」と譲りません。
結局は冬の陣で基次から真田丸の陣地を譲ってもらった幸村基次に合わせることにし、国分方面への出撃が決ります。
一言基次は、少数の出鼻を挫いて後方の大軍を退ける作戦、幸村はあえて集結した徳川軍を混乱させ、その混乱に乗じて家康らを討つ作戦だったのでしょう、もともと浪人が大多数を占める寄せ集めの豊臣軍が各個戦場となる離れた地にて共同戦線を張るほどの連携は、どだい無理があり、戦線が長引けば長引くほど豊臣方が不利になることは間違いないところでしょう。やっぱり大将の首だけを狙う幸村の作戦の方が良かったのかな?)
一言:ドラマで描かれたように、幸村と又兵衛が相談の上で又兵衛が先行し、後詰めで幸村が出陣したのではなかったのですちなみに基次=又兵衛です。)
5月1日
(道明寺の戦いいの詳細②)
国分方面へ向かう豊臣軍の第一陣は、後藤基次ほか約6400の兵が出発。平野(ひらの)を目指しました。続いて第二陣の真田幸村毛利勝永福島正守・などの約12000が出発。天王寺を目指しました。
一言幸村基次の案に乗って、国分に向かったはずなのに、第二陣としてやっぱり自身の案にあった天王寺へと向かったのですね。先鋒を叩くだけなら基次だけで大丈夫と、基次に花を持たせるためだったのでしょうか?それともやっぱり不服だったとか?)
(道明寺の戦いの詳細③)
幸村毛利勝永の二人は基次の陣を訪れ「道明寺で合流し夜明け前に国分を越え狭い場所で徳川軍を迎え撃ち、3人が死ぬか両将軍の首を取るかどちらかになるまで戦おう」と誓い、訣別の盃を酌み交わして別れます。
一方、水野勝成を総大将とする徳川軍の大和路方面軍先発隊約3800は、午後4時には国分について宿営します。この時、国分の先の小松山に陣を置くのが良いと諸将は主張しますが、勝成が「小松山を陣地にすれば敵襲を支えることは難しい。それよりもこのまま国分に陣を敷き、もし敵が小松山を取ったのなら、回り込んで挟み撃ちにしよう」と言い、陣を置きませんでした。
夜になると、伊達政宗軍10000、本多忠政軍ら5000、松平忠明軍3800が到着。政宗は家臣の片倉重長に命じて小松山の山下に一隊を伏せさせ、兵には夜通し警戒させています。
この頃、この方面の後列である松平忠輝軍12000はまだ奈良にいました
一言小松山の地形的特徴については、現在の様子を道明寺合戦古戦場訪問記①【又兵衛はなぜ幸村を待てなかったのか ...で詳しくレポートしていますので是非ご覧下さい。
こちらの管理人さんの記述によると、小松山は玉手山一号墳という円墳で、この小松山の隣も2つほど尾根伝いに古墳があり、尾根の端っこの部分が小松山だそうです。
後藤基次の考えとは異なり、真田隊と合流するより先に徳川方の先鋒である野勝成が国分に着き、更に悪い事に援軍の伊達軍まで先着していたのですね。勝成はあえて小松山に陣を置かず、伊達軍小松山下に兵を伏せて豊臣軍を待ち構えいました。豊臣方基次は大誤算をし、徳川軍は、豊臣軍を待ち構えていた訳です。)
5月6日
道明寺の戦いで、後藤又兵衛、薄田隼人らが討死します。後藤又兵衛を討ったのは、伊達政宗の軍です。その後遅れて到着した幸村が、伊達隊と交戦します。
河内若江の戦いにて豊臣方木村重成井伊直孝と戦い討死。享年23歳。真田幸村は殿軍(後退する部隊の中で最後尾の箇所を担当する部隊を指す。後備え、殿〔しんがり〕ともいう)を務めて大坂城へ退去します。基次は享年56歳、薄田兼相は享年不詳です。
(道明寺の戦いの詳細④)
午前0時、後藤隊2800は平野を出発し、夜明け頃には藤井寺にいました。そこで真田隊らが来るのを待ちますがまったく来る気配がありません。実は真田隊らは濃霧のために時刻を誤った上に、寄せ集めの浪人が大半で行軍に慣れていなかった為、大幅に到着が遅れていたのです。戦機を逸すると感じた基次は待つのを止め出発。誉田経由で道明寺に出ます。基次はここで初めて、すでに徳川軍が国分まで進出していることに気づきます。そこで後藤隊は石川を渡ると、小松山を占領。午前4時頃、片山村方面から攻撃を開始します。
 一方の徳川軍も午前2時頃、藤井寺方面の後藤隊を発見。未明に奥田忠次軍小松山に登ろうとしたところに、後藤隊と衝突。銃撃戦の後に槍での戦いとなる。ここで忠次は戦死します。

後藤隊は続いて北から攻撃してきた松倉重政軍と衝突。松倉隊後藤隊平尾久左衛門ら200を討ち取る奮戦をしますが、逆に松倉軍も力尽き全滅しかけます。そこへ水野勝成・堀直寄が援軍として駆けつけた為、なんとかそれは免れます。後藤隊が山を下り銃撃を開始すると、伊達軍は伏せていた片倉重長隊を起き上がらせ、銃撃戦となります。午前9時頃、伊達政宗本隊小松山に登り攻撃を始めます。松平忠明隊も東からの攻撃を開始し山を登り始めます。
一言:これで後藤基次隊徳川軍に完全に取り囲まれてしまいました。)
 その徳川軍の猛攻撃で後藤隊の先鋒は壊滅。後藤隊は数度に渡り徳川軍を撃退し、70〜80人を倒しますが、三方向から迫る10倍近い敵を相手では、どうにもなりません。もはや勝ち目がないことを悟った基次は「死にたくない者は今から去れ」と言ったそうですが、基次を慕う兵達はほとんどがその場に残ったと言われます。
後藤隊は最後の戦いをしようと西に下って平地に出ると隊を二つに分け、徳川軍に突撃を開始します。決死の覚悟の後藤隊は敵の1〜2隊は打ち破ったものの、丹羽氏信軍に側面を攻撃され混乱します。分断された後藤隊先鋒は隊を整えようとしますが、伊達軍の数千もの鉄砲隊の射撃で壊滅してしまいます。
基次自身も兵を収めようと先頭に立ったとき、伊達軍の鉄砲隊に胸を撃たれてしまいます。近くにいた金方某は彼を連れて去ろうとしますが重くて動きません。死を覚悟してこの戦いに挑んだ基次は逃げようという気はなく「首を刎ねろ」と命じます。金方は仕方なく基次の首を刎ねると陣羽織に包んで土に埋めました(吉村武右衛門という説もある)。
一言徳川方水野勝成は、小松山に陣取って孤立するのを恐れ、後藤基次の道明寺で合流し夜明け前に国分を越え狭い場所で徳川軍を迎え撃つというもくろみに反し、水野勝成を総大将とする徳川軍の大和路方面軍先発隊約3800は、午後4時には国分について宿営していたのす。そして、いずれ真田隊が援軍に来てくれると信じて小松山に陣取ったのでしょうが、待ち伏せはいるは、幸村らの援軍は無いはで、討死したのです。)

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正午になると徳川軍は、壊滅した後藤隊が道明寺方面に退却するとそれを追って川を越え追撃を開始します。
一言:この時点で豊臣方第一軍はほぼ全滅。その気は無くとも、結果的には幸村隊基次隊を見殺にしたことになります。基次真田隊を待たなかったことが敗因と思われるかもしれませんが、伊達軍の数千もの鉄砲隊に、遅かれ早かれせん滅させらたに違いありません。)
薄田兼相・井上時利・山川賢信らの豊臣軍の第二軍が道明寺に到着し、後藤隊の敗残兵を収容し、それと同時に追撃してきた徳川軍と激突。薄田兼相は誉田で水野勝成軍と戦い奮戦しますが、討死します。井上時利徳川軍秋山右近を倒したものの、討死。
その他の諸隊は不利を悟り、道明寺から誉田の森まで撤退しました。
一言:この時点で豊臣方第二軍はほぼ全滅。幸村隊も第二軍の一隊なのに。)
後藤基次隊が壊滅し、薄田兼相・井上時利が討死した午前10時頃、やっと豊臣軍の第三軍として毛利勝永隊が藤井寺村に到着します。単独での戦闘は撃破されるだけだと判断した勝永は、真田隊の到着を待ちます。
午前11時、真田隊がようやく到着します。真田隊渡辺糺隊と合流すると、毛利隊の右をすり抜け、苦戦している第二軍北川宣勝隊の救出に向います。幸村北川隊を救出すると徳川軍の追撃に備え隊を整え敵を待つことにします。
一言幸村はん、いくら霧が濃かったからと言って、遅刻するのにもほどがあるでしょう。戦略に長けた武将も、方向音痴ではシャレになりません。わざと遅れたと取られても弁解できませんよ。)
これを見た伊達隊の先鋒・片倉重綱が、どの隊に向かうべきかと家臣に聞くと、その中の一人・丹野某が「真田隊の中に伊達家から大坂に入城したものがいます。ので、そちらを討たせて下さい」と願い出ます。それを許可した重綱伊達家自慢の騎馬鉄砲隊真田隊にぶつけることを決めます。
一言伊達家から豊臣方へと寝返った裏切り者が真田隊にいたのですね。)重綱は騎馬と歩兵の混合部隊を二つに分け突撃させ(この中に騎馬鉄砲隊が含まれている)、鉄砲隊を左右に展開し射撃させます。そこで幸村は正面から突撃してくる部隊には、兵を折り敷かせ敵が接近してから一斉に攻撃させ、左右の鉄砲隊にはこちらも鉄砲隊で対抗します。
そのうち両軍入り乱れての戦いとなり、幸村の息子・真田幸昌(大助)渡辺糺が負傷するなど激戦となりますが、結局、重長が兵を退きます。
それを見た真田隊は追撃をかけますが他の伊達軍の部隊が援護に来たため、真田隊も西に兵を退きます。
一言幸村は長篠の戦いで織田信長武田信玄の騎馬隊をせん滅した戦法を使ったということでしょうか。)
これが午後2時ごろで、豊臣軍八尾・若江の戦いで味方が敗北したので、急ぎ城へ戻るようにという伝令があったため、諸将は話し合いのに末、撤退を決め、午後4時頃、大坂城への退却を開始します。
これを見た徳川軍は追撃するかどうかを話し合います。水野勝成・松平忠輝・一柳直盛・本多忠政などは追撃を主張したが、伊達政宗は「我が隊は朝からの戦闘で疲れている。追撃は不可能だ」と断固として追撃を拒否。そのため追撃には至りませんでした。
真田隊は諸隊を退却させた後に、悠々と引き上げていったといいます。
一言正宗真田隊との銃撃戦を見て、追えば幸村の術中に堕ちるとみたのでしょう。真田隊以外の有力武将はほぼせん滅したので、これ以上家康に忠義を尽くし兵の損失を大きくしても、意味が無いと思ったのでしょうか?ドラマ上では幸村と政宗との間にすでに密約を交わしていたために悠々と幸村は引き上げることができたかのように描かれていましたね。正宗にとっても、家康は好ましい存在ではなかったのですから。)

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豊臣軍は追撃に備え毛利隊の一部を残し、付近の民家を放火して撤退します。この時、八尾・若江の戦いで大坂城近くまで豊臣軍が出張ってきていたため、本道が使えず支道を使って大坂城に戻ったといわれます。この戦いでの徳川軍の死者は180名・負傷者は230名でした。一方の豊臣軍は死者210名でしたが、勇将を多数失った豊臣軍は、徳川軍とは比べ物にならないほどの大打撃でした。
一言遅刻はいかんよ、幸村はん後藤基次との合同戦線が出来ていたなら、道明寺の戦いだけでも豊臣方が勝利していたかもしれないのに。こんな言い方をすると、幸村ファンに総攻撃をかけらるかもしれませんが、これで大将格が殆ど死んで、結果的には他の武将に邪魔されることなく幸村は、家康の首を狙うことに専念できるようになたのです。)

5月5日 (家康・秀忠の出陣)
徳川家康・秀忠父子が十二万余の軍を率いて京都を出陣し河内星田に着陣します。
その際、家康は自軍に対し「三日分の腰兵糧でよい」と命じたといいます。
豊臣方
の将:木村重成が入浴の際に髪を丹念に洗わせ、兜に香を焚き込めさせます。
一言:現代人の感覚で言えば、出陣する前に入浴し、その際に髪を丹念に洗わせ、兜に香を焚き込めさせるなど、「木村重成ってナルシスト?」なんて思う人も多いことでしょう。ですが、時代劇などでも、武士が切腹するおりは、部屋でお香を焚き、身を清めた上で白装束となり、白木の三方に乗った諸刃の短刀の柄部分を和紙で包み、あいた三方をお尻に敷いて、仰向けに倒れて醜態を晒さないようにしてから自害するというシーンがよく見られます。お香は血の匂いを消すものです。つまり重成の入浴して兜に香を焚き込めさせた上での出陣は、敵に首を討たれることをいとわぬ並々ならぬ覚悟で出陣した事を物語っています。ちなみに重成は幼少から豊臣秀頼の小姓として仕えたといわれ、秀頼の信頼が厚く、豊臣家の重臣でした。大坂冬の陣では後藤基次とともに今福砦攻防戦を展開し、数に勝る徳川軍と対等に戦い、その名は天下に知られるようになります真田丸の戦いにも参加し、和議にあたっては秀頼の正使として岡山で徳川秀忠の誓書を受け、その進退が礼にかなっているのを賞賛されます。夏の陣にて打たれた重成の首実検で、その首級が家康に届けられると、頭髪に香が焚きこめてあったことで、家康はその覚悟に感嘆したたという逸話が残っているそうです。)

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〜真田丸:最終回はあっけ無さすぎでした。悲惨な場面を避けるのが三谷流
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これでは面白くもなんともない。
やはり、期待通りの期待外れ最終回でした。
以下の画像の人、ダメですね。
清須会議もそうでしたが、時代劇作る資格なし。コメ―ディーも、大阪人の感想としては×ですね。

終り悪けりゃ、全て悪し。
びっじょーに残念です。残念無念のコンコンチキです。

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〜真田丸:わずか三歳で大阪落城を逃れた真田大八は、やがて仙台藩で
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これまでに〜真田丸:幸村の正室 春と娘 うめ(阿梅)は大坂夏の陣以後どうなったかでは、大坂夏の陣を描いた『NHK大河ドラマ 真田丸』第49回放送『前夜』において、幸村(信繁)が正室:春(竹林院)と娘:うめ(阿梅)の身の安全を伊達政宗に託す決断をしたストーリーが描かれたことを取り上げ、春とうめがその後どのような半生を歩んだかをご紹介しました。
そして〜真田丸:幸村は政宗にどのような密約を交わし、妻子の命を託し得たのかでは、幸村(信繁)と伊達政宗との間でどのような密約を交わしたことによって、幸村(信繁)が政宗に妻子を託すことが出来たのか?について記しました。









ですが幸村(信繁)の次男:大助が、どのような経緯で伊達家に託されるようになり、その後どのような人生を送ったのかについてはご紹介できませんでした。

なので今回は、真田大八について記したいと思います。

第49回放送『前夜』において、真田大八は、春の胸に抱かれてうめ(阿梅)と共に伊達政宗を頼って
最終決戦間近の大坂城から逃れる。というストーリーが描かれました。

果たして古書などにより今に伝えられる真田大助の生涯はどのようなものだたのでしょうか?

真田大八については、ある年の高野山蓮華定院の記録に「5月5日、京都に於て印地打ち成され、御死去候」とあるが、慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣で父信繁と兄大助(幸昌)の戦没の後に、実は、他の姉妹と共に陸奥白石に落ち延び、姉:阿梅の嫁ぎ先である片倉重長に引き取られたとされます。
一言:つまり大八は、ドラマで描かれたように姉や母と共に大坂夏の陣前に伊達政宗を頼って大坂城を出たのではなく、今に残る古書の中には、京都で行われた印地打ちという行事の中で亡くなったという記述が見られます。ところがその反面、大坂夏の陣の後に、他の姉妹と共に陸奥白石に落ち延び、姉阿梅の嫁ぎ先である片倉重長に引き取られたと伝る記述もあるのです。)

一方では京都で亡くなったとされ、またもう一方では陸奥の片倉家に引き取られたと伝わる。
いったいこれはどういう事なのでしょう?

どうやらこの二つの相反する記述がなぜ存在するのか?を知る時、大八が1612年に生まれ、1615年の大坂夏の陣の時はまだ3歳でした真田大助が、その後どのような人生を歩んだかを知ることになるようです。

そして上記のウィキペディアの記述に伴う疑問に対する答えは、BS放送の古地図で謎解き!♯60 「大坂の陣『真田丸と伊達政宗』秘密の真相 なぜ伊達家は信繁の子孫を守りきったのか?において語られました。
この番組で幸村(信繁)の子孫について語ったのは、真田家14代目子孫の真田徹氏です。
この放送などによれば大坂落城の際、大八は信繁の家臣である西村孫之進と我妻佐渡守に守られて京都へと落ち延びていていました。
もちろん徳川に最後まで歯向かった幸村(信繁)の子が生き残っていると知られれば無事には済みません。なので当然名を偽り、目立たぬように過ごしていたことでしょう。
やがて幾年かの時が流れて成長した大八は、同じく大阪落城から逃れていた姉:阿梅が、仙台藩:伊達氏の重臣で白石城主だった片倉重綱の側室となっていた縁故で、片倉茂長に保護され、片倉の姓を名乗ることとなったそうです。

改めて説明を加えると、幸村(信繁)の三女阿梅は、大坂落城の際、城中から白柄の長刀を杖にした16歳ほどの阿梅が、片倉重綱の陣の前へ出て来たので、阿梅は捕らえられますが、彼女が幸村(信繁)の娘であることが分かると、重綱の侍女として使えるようになり、やがて重綱の正室が亡くなると、継室となったとの説があります。
一言この文の前半部分は本当かどうかは怪しい面もありますが・・・・。)

と言う事で、伊達藩片倉家に身を寄せた成長した大八は、寛永17年(1640年)、28歳の時に伊達家(仙台藩)に召し抱えられ、真田四郎兵衛守信を称します。
一言:これは大坂夏の陣から既に25年を経て徳川の世も盤石となった今なら、真田の姓を名乗っても、問題ないと片倉家は判断したのでしょう。)
ところが、幕府側はそうは受け止めませんでした。
伊達藩に真田四郎兵衛守信という者が存在することを知るや、逆賊の子を雇用したのではないかと幕府が咎(とが)めて、すぐに仙台藩に詰問状が届いたのです。
大坂夏の陣から随分時が流れていたとは言え、徳川の治世に未だ家康の命を寒からしめた幸村(信繁)の子が生きていると知られてしまえば、その子をかくまった片倉家、ひいては伊達家の存亡にも関わります。
加えて真田大八が京都にいたということは既に徳川幕府の耳に入っていたと言われます。
事ここに至っては、仮に片倉家がもはやこれまでと大八(真田四郎兵衛守信)を今更のように処刑にしたとしても、犯人隠匿罪を逃れることはできませんし、保身のために彼を討つことは、片倉家の継室となっていた阿梅の意に背く事で、更に幸村(信繁)を戦国時代の英雄と見る全国の諸侯や民衆からのそしりを受けることにもなります。
もはや伊達藩は、真田四郎兵衛守信を、「あの(信繁)真田の子ではない。」という偽装工作を成功させる意外に伊達藩存続の道は無かったのです。

そこで伊達藩が考え付いた奇策とは、
真田幸村(信繁)の子は既に京都で死んでおり、伊達藩にいる真田四郎兵衛守信は、徳川家旗本となっていた真田信尹の次男・政信の子だという偽の真田家家系図を作成し、幕府に説明したのです。

この苦しい言い訳を幕府に通すためには、とにもかくにも京都で暮らしていたという真田大八が、その地で死んだ理由を示さなければなりません。
そこで持ちだしたのが、当時の京都で行われていた本物の石を投げ合う印字打ち(いんじうち)という行事で、実際この行事で毎回死傷者が出たといいます。
伊達藩はこの事を利用して、大八は八歳の時にこれに参加し、流れ石を受けて死んだという報告をしたのです。
そして更に驚くことに、伊達藩が偽装工作に使った偽の真田家家系図に示された真田信尹の次男・政信という人物は、実は存在しない架空の人物であり、伊達藩は居もしない人物をでっち上げたのです。
そしてこの時真田信尹の次男・政信の子とした真田四郎兵衛守信は、姉である阿梅を慕って伊達家へと来たと弁明したのです。

当然幕府は信尹の真田家にもその是非を問いただしたと思われますが、86歳になるまで生き、1632年5月に亡くなった信尹は、生前に大八が生きていることを知り、嫡男信政に対して「伊達家にいる信繁の子:大八を何としても幕府の魔の手から守ってほしい。」との遺言があったのでしょうか?、とにもかくにもこの苦しい伊達家の言い訳が幕府に認められたのです。

ではなぜ徳川幕府はこのような如何わしい伊達家の言い訳を認めたのでしょうか?

それは古地図で謎解き!♯60 「大坂の陣『真田丸と伊達政宗』秘密の真相 なぜ伊達家は信繁の子孫を守りきったのか?に出演していた真田家14代目子孫の真田徹氏の弁によると、徳川幕府というのは文書主義で、文書が整っていれば、もうそれで目を瞑(つぶ)るざるを得ず、仮にあえて伊達家の言い分に異議を唱えてもめ事の種を生めば、伊達家は「当家を信じないのであれば戦もじさない。」と言いかねないからここは穏便に済ませたと言うのです。


こうして結局大八(真田四郎兵衛守信)は、お咎めなしとなりますが、伊達家としても事を穏便に済ませてくれた幕府の顔も立てる意味で、真田姓を憚(はばか)って片倉姓に戻し、片倉久米之介守信と改名して、仙台藩士として扶持300石を与えられ、寛文10年(1670年)10月30日、享年59歳でこの世を去ります。

その後大八が継いだ片倉家はどうなったかと言うと、1712年 六代将軍 徳川家宣の治世に、大八の子、つまり幸村(信繁)の孫にあたる辰信が、真田姓を再び名乗ります。
この時仙台伊達藩は「もはやは幕府にはばかることは無い、だから真田の姓を名乗ってもよい。」と語ったと言われます。

かくして大坂落城の時、三歳の身柄で辛くも家臣に守られて脱出した真田大八は、ある時は京に潜み、ある時は仙台藩で真田四郎兵衛守信や片倉久米之介守信を名乗って生涯を全うし、後にその子:片倉辰宣がやがて真田辰信と名乗り、守信より8代後、幕末期の子孫:真田幸歓において名実共に真田姓に復し、仙台真田家として現在も続いているのです。

疑ればきりがない歴史ですが、こうした真田大八の生涯を否定する人は少ないでしょう。
なぜなら、大八の父:真田幸村(信繁)は、「日の本一の兵(つわもの)」と言われた戦国武将でありながら、家康を討つ事はは出来ず、壮絶な死を遂げます。
せめてその子孫は、連綿と続いている・・・・そうあって欲しいと誰しもが思うところでしょうから。

イメージ 1
片倉守信(真田大八)肖像

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〜旧我家解体記:5月17日には旧我家の柱・梁・桁などの抜き取り作業に
      サブタイトル:オヤジブログは自由だ!旧我家解体記編 
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旧我家解体記については、屋根部を全て取り除き、柱などの骨組みだけになった5月16日までの状況を、解体過程の様子を前後させながらご紹介してきました。

解体作業は5月16日に引き続き、5月17日にも行い、ここからは柱・桁・梁などを1本1本抜いて行くことになるのですが、ここで問題なのは、桁や梁を抜くことで残された柱などが倒れて来る危険性をはらんでいるということです。
そこでそうした事故を防止するために行うのが、梁や桁を抜く箇所の下部に、筋交いを仮に設置するという作業です。
柱が1本倒れるだけでも近所の家を破損したり、自らが大ケガをすることに直結します。
下手をすれば一列に並ぶ柱が一面となって倒れる可能性すらあります。
なので最悪でも敷地の内側に向かって柱が倒れるようにしなければなりません。
なのでこの筋交いと施すという一見面倒な作業を、慌てず騒がず、よくよく考えて、着実に行いながら、梁や桁を1本1本抜いて行かなければならないのです。
以下の画像のように。
そして以下の画像では、よく見るとすでにその奥にあった北西部の部屋の梁や桁、柱などが無くなっているのですが、わかるでそうか?
また、トイレの天井部には、コンパネを張って仮の屋根としています。
ちなみに:画面に写っている軽乗用車は、私の父の車で、この日はこの車を借りていました。)

イメージ 1
梁(はり)を抜いた箇所とそのために必要な筋交いを設置している状況

イメージ 2
5月17日時点の旧我家を人目線で撮影した画像

イメージ 3
5月17日時点の旧我家を高さ4mから撮影した画像

イメージ 4
5月17日時点の旧我家を高さ6mから撮影した画像

イメージ 5
5月17日時点の旧我家を高さ8mから撮影した画像

イメージ 6
5月17日時点の旧我家を高さ9mから撮影した画像

前日の旧我家を高さ9mから撮影した画像
画面左前には元私の部屋がまだ存在し、画面左奥の部屋もありました。

福屋不動産販売での当物件のページ
所在地大阪府堺市中区八田北町
交通泉北高速鉄道 深井駅 徒歩24分
阪和線 津久野駅 バス乗車10分 八田荘停歩3分
 土地 107.33m²(32.46坪)公簿
建蔽率 60%
容積率 200%
物件No.20000904912
【セールスポイント】
南向き・間口が広い・車が通り抜けない
南紀、神戸、関空、奈良、京都へと繋がる高速道路のインターがすぐ近くにあるということです。
阪神高速湾岸線へと繋がる泉北有料道路(通称百金高速)や、近畿道、阪和道の入り口が歩いてでも行ける距離にある。
レジャーに出かけるには持って来いの立地条件ですよ!




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