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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜真田丸:幸村は政宗にどのような密約を交わし、妻子の命を託し得たのか
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前ページでは、大坂夏の陣を描いた『NHK大河ドラマ 真田丸』第49回放送『前夜』において、幸村(信繁)が正室:春(竹林院)と娘:うめ(阿梅)の身の安全を伊達政宗に託す決断をしたことを取り上げ、春とうめがその後どのような半生を歩んだかをご紹介しました。







ですが第49回放送『前夜』において、春と共に伊達政宗を頼って行ったのは、うめ(阿梅)だけだったでしょうか?ちがいますよね。
そうです、春の胸に抱かれていた赤子がいましたよね、その名は真田大八、幸村(信繁)の次男です。
大八が生まれたのは1612年、1615年の大坂夏の陣の時、大八はまだ3歳でした。
ドラマの中では春に抱かれた大八を見て伊達政宗が愛おしむように「大八、大八。」と呼んでいましたね。

ドラマで描かれたままに語るなら、幼くして父:幸村(信繁)を亡くし、訳もわからないまま母や姉と共に伊達政宗に連れられて東北の地に向かった大八。
一言:春とうめについては、前回のページで実際にはそれぞれ個別の経緯で落ち延びたことを記しました。)

果たして大八は、東北の地でどのような人生を生きたのでしょうか?

その事を記す前に、皆さんはドラマを見ていて、なぜ伊達政宗は幸村(信繁)の妻や子を引き受けたのでしょうか?と疑問を持った方はおられませんか?

そうした疑問を持って思いをはせる時、独眼竜と呼ばれた戦国武将が、単なるお人良しだったとは思えませんし、男気だけで幸村(信繁)の妻子を引き受けたとも思えません。
たぶん幸村(信繁)から政宗にとって何がしか利のある条件を提示され、妻子を引き受けたのではないのか?と下衆(げす)の勘繰りをしたくなります。

そして折よくこの疑問に答える番組がBS放送で見ることができたのです。
その番組名は古地図で謎解き!♯60 「大坂の陣『真田丸と伊達政宗』秘密の真相 なぜ伊達家は信繁の子孫を守りきったのか?です。

いったい幸村(信繁)は政宗にどのような条件を提示して、妻子を引き受けてもらったのでしょう?

その交換条件とは、幸村(信繁)の?いや父:昌幸にとっても、生涯を掛けた悲願であり、その事を叶える事は、伊達政宗にとっても夢を叶えるためには避けて通れないものでした。
ですが結果として、幸村(信繁)も昌幸も政宗も成しえなかったのです。

何だと思います?・・・・天下人?違いますよね、政宗は天下を望みましたが、幸村(信繁)や昌幸は一度として天下を望んだことはありません。
昌幸は、真田一族の繁栄とそのための領地としての小県を核とする信濃の地を真田の郷として安堵されることを終生願い、
幸村(信繁)は父:昌幸の無念を晴らすことと、豊臣家に対する恩義に報いることを生涯のものとして生きました。

以上のように天下を望んだ政宗と、幸村(信繁)や昌幸らの願った真田一族の思いは、一見すると相反する悲願であったといえますが、それでもそれぞれの思いを叶えるためには、共通する避けて通れないものがあったのです。

もうお分かりですよね、それぞれの思いを叶えるために障害となるもの、これを打破することこそ、彼らに共通するものだったのです。

もったいぶり過ぎましたが、お答えしまそう。答えは、『家康を討つ』ことです。

どうです?家康を討つことは、昌幸の願いも、幸村(信繁)の願いも、ひいては政宗の願いをも叶えることになりますよね。

ですが幸村(信繁)が妻子を政宗に託すにあたって提示した、『家康を討つ』という約定は果たせませんでした。
ですがそれでも政宗をはじめとする伊達藩は、後々までも真田幸村(信繁)の子孫を庇護し続けたのです。なぜでしょう?

なるほど確かに幸村(信繁)は、大坂夏の陣において家康を討つことは出来ませんでした。
ですが幸村(信繁)が二度に渡って家康を死地に追いやり、家康もまた死を覚悟したというのもまた事実です。
その事を知り、痛快に思った政宗は、「奴は俺には到底出来ない事をやってのけ、家康に死を覚悟させた。それで十分。」
政宗はそうした思いをもって、幸村(信繁)の子孫を最後まで庇護する事となるのです。
たぶんね。

話を長引かせてしまったので、真田大八についての話は次回にしたいと思います。

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〜真田丸:幸村の正室 春と娘 うめ(阿梅)は大坂夏の陣以後どうなったか
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大坂夏の陣を描いた『NHK大河ドラマ 真田丸』第49回放送『前夜』では、大坂夏の陣において豊臣方が前哨戦である樫井の戦い・伊達軍と戦った道明寺の戦い・徳川本隊と戦った若江・八尾の戦いにおいてことごとく敗北し、塙団右衛門・後藤又兵衛・木村重成らが討死するに至り、幸村(信繁)は正室:春(竹林院)と娘:うめ(阿梅)の身の安全を伊達政宗に託す決断をしました。



これは、春(竹林院)や娘:うめ(阿梅)の大坂夏の陣以後を伝える記述にある程度合致するものです。

ではその現時点で史実とされる、春(竹林院)や娘:うめ(阿梅)のその後とはどのようなものだったのでしょう?

第49回放送『前夜』では、春とうめは幸村(信繁)が存命だった伊達軍との交戦直後に、伊達政宗との密約により、政宗のもとに引き取られたように描かれましたが、ウィキペディアなどにおいて史実とされる記述では、幸村(信繁)の死後、つまり大坂夏の陣で炎上する大坂城から逃れた春とうめは、別々に徳川方の武将に引き取られています。
まずは春(竹林院)ですが、
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では夫と共に大坂城内に拝領した屋敷に入りますが、慶長20年(1615年5月7日大坂夏の陣で信繁が戦死すると、子女を連れて大坂城から落ちのびますが、徳川家康に命じられた紀伊藩主・浅野長晟の捜索により、5月19日に紀伊伊都郡で、幸村(信繁)の4女あぐりと共に3人の(豊臣方の)侍に警護されて隠れていたのを発見され、5月20日に京都の家康に引き渡されます。
幸村(信繁)が豊臣秀頼から拝領し、大坂入城直前に渡されていた来国俊の脇差と黄金57枚は没収となり、長晟に下賜されてしまいますが、赦免され剃髪します。
その後石川貞清に嫁いでいた幸村の7女おかね保護を受けたらしく、その後は京で暮らし、慶安2年(1649年)5月18日に京都で死去します。
あれっ、うめに関する記述がありませんよね、ご安心下さい。この後にご紹介しますので。

実はうめ阿梅おうめ真田幸村(信繁)三女です。
おかねによれば、阿梅は妹:おかね、阿菖蒲、兄・大八とともに片倉重綱の保護を受け、白石城に身を寄せていました。
うめ(阿梅)第49回放送『前夜』では春(竹林院)の娘として九度山で生まれたように描かれていますが、
阿梅 - Wikipediaによれば、
母は高梨内記の娘、または大谷吉継の娘・竹林院の説もあり、信濃で生まれたとされます。
通説では、享年78から逆算して慶長9年(1604年)生まれとされていますが、信繁の九度山時代の生まれとなってしまい、信濃で生まれたとする『左衛門佐君伝記稿』の記述と一致しないことを疑問視し、菩提寺の当信寺の位牌には享年83とあることから逆算すれば、慶長4年(1599年)生まとなって、信繁が信濃上田城にいた頃の誕生となり、この説を正しいとしています。
慶長19年(1614年)、父・信繁に従い大坂城に入城。
翌慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣で大坂城が落城すると、その後の混乱で仙台藩の家臣・片倉重長の兵に乱取り(戦場付近の村を襲い、農作物を根こそぎ奪い、女・子供をさらい売り払うか奴隷にするかした。)され、同家の侍女として召し抱えられます。
しかし、後に信繁の娘であることが判明し、元和6年(1620年)に重長の側室となります。更にその後重長の正室が死去すると継室に収まったのです。
一言:普通ならば売り飛ばされるか、奴隷にされるはずのうめが、真田幸村の娘だと知れたことで、伊達政宗の重臣の継室にまで出世するとは、なんという強運でしょう。)

大坂夏の陣において、片倉重長が阿梅を連れ帰った経緯については、落城の混乱に際して乱取り(生け捕り)したとするものと、幸村(信繁が片倉重長を見込んで託したという話があるそうです。
一言第49回放送『前夜』では、どちらかと言えば信繁が片倉重長を見込んで託したという話をもとに描かれたのでしょうね。)
重長はうめ(阿梅)を滝川某の養女にする手続を踏んでから正式な妻としたといい、信繁の妹婿・滝川一積の養女となり、滝川家から片倉家へ嫁いだという説や、
信繁の姉婿・小山田茂誠が養女に迎えて、小山田家から片倉家へ嫁いだという説もあるそうです。
この場合、重長が継室とするに際して、真田信繁の娘だと徳川幕府に察知されてば、うめ(阿梅)の身柄や片倉の家も、危ぶまれるため、これを隠すために小山田茂誠の養女とする工作を依頼したことは十分に考えられます。
その後、弟の大八(片倉守信)、妹の阿菖蒲(片倉定広室)も、姉の縁により片倉家に身を寄せますが、重長とうめ(阿梅)の間に子は生まれず、前妻の娘の子・景長を養子として家督を継がせたそうです。

慶安元年(1648)、うめ(阿梅)は白石城下に月心院を建立し、父の菩提を弔いました。
また、功徳山当信寺浄土宗)においても、父・信繁と竹林院の供養を行っています。
一言:うめは亡き父への慕情と共に、父:幸村の娘であったために、戦場で乱取りされた身でありながら、売り飛ばされることや、奴隷にされることもなかった事を、深く感謝して菩提を弔ったのでしょうね。
そしてうめ(阿梅)は延宝9年に没します。
法名は泰陽院殿松源寿清大姉。片倉氏2代の菩提寺である当信寺に墓所があり、如意輪観音像を墓標としたものだそうです。
しかしどうした加減か、後年になってこの墓石を削った粉を飲めば歯痛に効くという迷信が広まり、うめ(阿梅)の墓石は原型を留めていないそうです。
一言:御利益があるとは言え、石の粉ですよ、仮に御利益があったとしても、体には悪いですよね。と言うか、墓を削って口にするなんて、罰当たりもいいとこですよね。)

『片倉代々記』によると、阿梅は大坂城の落城に際して片倉重長が戦場で得た、つまり乱取りされたという。当初は出自が分からず、侍女として召し使っていたが、その後真田信繁の娘と分かり、後に継室に迎えたという。『白川家留書』にも乱取りされたとある。
託されたとする話は、俗伝であるが、広く知られている内容はおおよそ以下の通り。
慶長20年5月6日の誉田の戦いにおいて、伊達隊の先鋒であった片倉重長は、真田隊と激しく戦った。その時の武者ぶりが敵ながら天晴れであるというので、信繁が重長を見込んで、落城の前に阿梅らを送り届けてきたというものです。
これは片倉家の初代と2代についての話をまとめた『老翁聞書』にある話が元になっており、そこでは以下のように書かれている。

 一 大阪落城の砌、城中より年の程、十六七許の容貌美麗なる女性白綾の鉢巻し、白柄の長刀を杖つきて、重綱公の陣先へ出しけり、重綱公之をつれ帰りたまひて後室とす。誰人の息女たることを語らず、其所行凡ならず、されば太閤様の御息女にもあらんかと、とり々々の沙汰なり。後その家来のもの尋来りて、臣下となる、真田左衛門佐幸村の息女とす。寄手諸将の中に片倉兼ての英名、殊に此度目を驚す、武功の事なれば末繁昌ならん事を予め斗り、容色万人に勝たれる息女なれば、捨てたまうべきにあらずと、幸村申仕置重綱公の陣の前へ、物し出したるならんと、皆いへりけるとなり。 — 老翁聞書

『老翁聞書』の内容を要約すれば、 阿梅は身分を名乗らずに自主的に投降しただけだが、この偶然を人々は、片倉の武名が世に広く知られていたことから、同様に日の本一の兵(つわもの)と称されるほど武名の誉れ高い信繁は、「この武将ならば」と託したと都合の良いように解釈したということのようなのです。

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幸村(信繁)の3女うめを演じる大出 菜々子(おおで ななこ)さん
大出 菜々子(おおで ななこ、2000年2月23日 - )さんは日本の女優、子役京都府出身。サンミュージックブレーン所属。
サンミュージックアカデミー大阪校出身(第26期生)。
身長158cm。体重43kg。B77cm、W62cm、H82cm。靴22cm。
趣味は音楽鑑賞(洋楽、K-POP)、読書。
初主演を務めた映画『茜色の約束 サンバdo金魚』の塩崎祥平監督は「とびきり上品な子なんだ」と評している。

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〜真田丸:樫井の戦いについてのドラマと伝えられる一説との違い〜
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大坂夏の陣を描いた『NHK大河ドラマ 真田丸』第49回放送『前夜』では、


河内方面、大和方面および紀伊方面より大坂城に迫る徳川軍に対し、豊臣軍は紀伊の浅野長晟への攻撃決定により、先手を打った樫井の戦いが起こります。
この戦いでは大野治房が軍を率い、自らも前線で突撃の指揮をとり、戦いの火ぶたは切られます。
そして「わしは大名になるんだ。」と言い続け、自らの名を記した木札を戦場でも配り続けた塙団右衛門直之は、突撃と同時に鉄砲による一撃により戦死、します。

しかし樫井の戦いについては〜真田丸:塙 団右衛門は加藤嘉明のイケズに合いながらも大坂城へ入城し〜 で記したように、今に伝えられる経緯は少し異なります。

樫井の戦いは、大坂夏の陣の前哨戦となる戦いでした。
塙団右衛門直之は、かねて望みだった先鋒に任じられ、緒戦における紀州攻めにおいて大野治房の指揮下で出陣し、浅野長晟と対戦。
4月29日、樫井の戦いで、一番槍の功名を狙い、仲が悪かった先陣の岡部大学(則綱)と競い合って突出し、治房本隊や和泉国の一揆勢との連携が取れないまま、混戦に陥ってしまいます。
団右衛門浅野家臣の田子(多胡)助左衛門、亀田大隅、八木新左衛門、および横井平左衛門(上田重安の家人)らと交戦し、
一説には、子の弓矢を額に受けて落馬したところを、八木に組付かれて首を打ち取られたとされ、
異説では、亀田大隅あるいは横井平左衛門が打ち取ったとも言われるそうです
団右衛門の僚友の淡輪重政もまた、団右衛門の戦死を見て敵中に斬り込み、討死ししてしまいます。
この配下の団右衛門ら二人が討死した時、一軍の将である大野治房願泉寺で食事をとっており、敗報を聞いて、慌てて退却したと言われます。
団右衛門の死後大坂方では生還した岡部大学が、塙 団右衛門を見殺しにしたとの批判が上がり、岡部は戦闘時は奮戦したものの退いたことを恥、一時切腹を覚悟し、落城の後には名を変えて隠棲してしまいます。

以上のようにドラマでは
大野治房が軍を率い、自らも前線で突撃の指揮をとり、治房軍の一人だった塙 団右衛門は、鉄砲の玉を額に受けて即死しますが、
伝えられる一説によれば
を額に受けて落馬したところを襲われ、打ち取られたとされ、その一軍の将だった大野治房は、団右衛門らが討死した時、願泉寺で食事をとっており、敗報を聞いて、慌てて退却したと言われます。
 












この井の戦いについてのドラマ上と、伝えらる一説の違いから受ける印象は、塙 団右衛門の死については勇猛に戦った 団右衛門の最後を無かったかのように変え、大野治房の敵前逃亡を隠すかのようなストーリーへと変えた感があり、歴史ドラマを現代ドラマであるかのように見る視聴者には、塙 団右衛門に対しては実際よりマイナスのイメージで受け止められ、大野治房に対しては実際よりプラスのイメージとして受け止められたように思えます。
このシーンの時短を図った結果なのでしょうけどね。



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塙団右衛門とその妻を演じる今泉マヤさん
今泉マヤパーソナルオフィス
今泉マヤ personal management officeは、「株式会社マリアクレイス」のTOP sectionとして、2015年4月に設立。
福岡で8年あたため続けた逸材「今泉マヤ」の個人プロモートセクション。
15歳の時 九州全域で幅広い人材とを発掘力と育成力で育て上げ、人材の宝庫とされる福岡天神を本拠地として20年目の実績を持つ株式会社シー・シー・エスにスカウトされモデル活動を開始。
まれに見る素材の良さに目を向けるクライアントも多かったが、トレーナーの目に止まり、東京への進出に基づいたプロモーションとを学業と両立の元8年間行ってきた。
CM・スチールなど出演を中心に、大学在学中に報道番組の気象キャスターとリポーターとしても人気を集めた。
 
 そしていよいよ、2015年4月東京に上京し 株式会社 マリアクレイスの女優としての活動をスタートさせる為の1年間の専属トレーナーの元での完全指導プロジェクトの元の育成期間を経て、全面プロでユースの元の活動を開始。
NHK大河ドラマ「真田丸」にてデビューを果たし、その後そのオーデションをきっかけに、連続テレビ小説「とと姉ちゃん」の出演へと繋げた。
また、CMにおいても 演技力・表現力を必要とする作品への出演を中心として活動中。大塚製薬イオンウオーターの作品ではそのホラー動画での臨場感ある演技により「今泉マヤという女優は誰?」や「怖すぎる」「気になる」でのその演技力は数々のインターネットサイトに...。
今後はその存在感・素材・演技力を活かし 映画そして舞台での本格的な 「女優 今泉マヤ」としての活動を展開していく。

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〜真田丸:第49回放送『前夜』では、幸村一族それぞれの思いを中心に描き
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『NHK大河ドラマ 真田丸』第49回放送『前夜』では、大坂夏の陣で豊臣・徳川両軍の攻め手の進軍経路や配置をそれぞれが読み会いますが、更なる内通者の存在により、豊臣の動きは徳川に筒抜けになっていたため、家康は豊臣方の攻め手の裏の裏をかいて完勝します。













豊臣方の読みでは、家康本隊が東より大和路を進軍してくると読み、大坂城を攻めるには最も攻めやすい南部からの攻撃に備え、大坂方は天王寺まで軍を進めて敵を迎え討つことにしますが、もしも東側から攻めて来れば背後を突かれるとの懸念から、幸村はそこを流れる平野川の堤を幾つか切っておくことで、その一帯を沼地状態にして徳川が攻めにくくすることにします。
開戦を前にして家康は、今一度豊臣に対して「大和の郡山城に兵を引き、今すぐ浪人を追放すれば兵を引く」と通告するよう命じますが、将軍:秀忠は、「秀頼がいるかぎり徳川の安泰はありませぬ、父上は甘すぎる。」と家康の豊臣に対する譲歩する考えに対して激しく抗議します。

一方家康からの最後通告を受け取った秀頼は、その書状を破り捨て、徳川との手切れを決意します。
そして戦いは、河内方面、大和方面および紀伊方面より大坂城に迫る徳川軍に対し、豊臣軍は紀伊の浅野長晟への攻撃決定により、先手を打った樫井の戦いが起こります。
この戦いでは大野治房が軍を率い、自らも前線で突撃の指揮をとり、戦いの火ぶたは切られます。
塙団右衛門直之は突撃と同時に鉄砲による一撃により戦死、します。

その後幸村らは家康率いる徳川の本隊は奈良大和路より攻め込んで来ると考え、大坂の柏原にある道明寺で、後藤又兵衛と明石全登が先にこれを迎え討ち、その後を追って幸村と毛利勝永が進軍することとします。
この時又兵衛は幸村らに対し「なるべくゆっくり来てくれ、それまでに片付けておくからよ。」と頼もしい言葉を語り、軍議に参加している武将たちを笑わせます。
また、奈良・大阪の境界にある生駒山を挟んで奈良大和路と平行するようにある大坂側の東広野街道には、秀忠軍が進軍して来ると見て、長曾我部盛親と木村重成らがこれを迎え討つこととします。
しかし豊臣内で徳川に内通する者の書状により、後藤又兵衛らの動きはいち早く家康の知る事となり、本多正信は使者を又兵衛のもとへよこし、播磨35万石を与えるとして調略しようとしますが、又兵衛は「ふざけるな!」と、この話を笑い飛ばします。ところがこれは又兵衛を調略するのが目的ではなく、又兵衛が徳川の使者と会い、徳川の調略に乗ったとの噂を言いふらすことで、又兵衛の豊臣内での信頼をおとしめることで、又兵衛がこの濡れ衣を晴らすために功を焦り、軽はずみな行動に出るよう仕向けるものでした。
もちろん幸村や毛利勝永らは又兵衛が裏切るなどとは思っていませんでしたが、又兵衛本人への心理的な攻撃には有効に働きます。
ところで幸村が死を覚悟して家康を討つつもりであることを悟った信之は、家康の命により二度目の幸村に対する調略の命を受けた信尹と共に、幸村の陣に現れ、信濃40万石の領主となることを手見上げとして、徳川の軍門に下るよう説得します。
しかし九度山での幽閉生活の惨めさを嫌と言うほど思い知らされている幸村は、叔父と兄の説得を受け入れることはなく、武将としての誇りを棄ててまで生き恥を去らすよりも、勇猛なる死を選択するのでした。
この時信之は、兄としての偽らざる思いを幸村にぶつけます。
信之:「徳川に刃向かいたいなら歯向かうがよい。ひれ伏したくないならひれ伏すな、しかし死んでは
    成らぬ。」
幸村:「捕まれと申されますか?」
信之:「そうじゃ、今度もまた、俺はお前を必ず助けて見せる。死に物狂いで駿府と江戸を駆け回り、 
    赦免を勝ち取って見せる。」
幸村:「そしてまた14年。」
信之:「決してお前を死なせはせん。それがわしの指名だからだ。あの時(犬伏の別れ)わしはお前と
    父上と三人で誓った。また何時か、晴れて三人で酒を酌み交わそうと、・・・・父上はもうおられ
    ぬ、わしはまだ、その約束を果たすつもりでいる。それを言いに来た。」
幸村:「では、今ここで酒を。」
この幸村の返答に自らの思いが受け入れられなかったことを悟った信之は、「作兵衛帰る」と、信尹と共にその場を立ち去ろうとします。
その信之の後ろ姿に対し、幸村は魂の叫びとして大声を張り上げたのです。
「兄上と酒を酌み交わしとうございます。」そしてもう一歩信之が幸村から遠のこうとした時、幸村はこれが兄にたいする最後の願いとなるとの切ない思を顔に浮かべ、「兄上」と消え入るような声で信之を引きとめますが、信之は「これは今生の別れではない。」と幸村の視界から去ってゆきます。
これは今生の別れとなることを悟りながらも、今ここで酒を酌み交わす事は、幸村との永遠の別れを認めてしまい、あげくの果てには酒の力に負けて泣き叫んでしまうかもしれない。
信之はそう思ったのでしょう。
しかし武将としの幸村の思いが痛いほど分かる信尹は、別れ際に幸村の頬をやさしく叩き、「生きたいように生きれば良い。」と語り、優しくも悲しい笑みを浮かべ、立ち去ります。
そして一人その場に残された幸村の顔には、「これで叔父上と兄には、もう二度と会う事もないだろう。」との思いの中で、虚ろな眼差しで空を見つめていました。

一方徳川方では、家康と上杉景勝が差し向かいで酒を交わしながら語り合い、家康は「今日のわしがあるのは、太閤殿下のお陰じゃ、しかし、わしは豊臣を滅ぼす。秀頼公があそこにおっては、徳川のためにならんのじゃ。・・・・・」と己の行いは止むに止まれぬことであることを景勝に語ります。
すると勝頼は家康に対して「何故私にそれを・・・お心内に疚しさがあるからでは、・・・この戦に、大義が無い事が気になるからではこざらぬか?」と鋭い指摘を突き付けます。
家康は景勝の指摘が図星に思えたのでしょうか?
静かに「この話は止めよう。」とはぐらかします。
すると景勝は、幸村に対する己の思いを語り出します。
「・・・・・・・あの男は、わしがそうありたいと思っていた人生を生きておる。」
そして家康は答えます。
「親子二代でわしに盾突きおって、まだわしを苦しめおる。」
そんな家康の小言を、景勝は昌幸や幸村の生き様が天下人たる家康が認めているかのように思え、嬉しかったのでしょうか、無言の笑いを浮かべた後、家康に酒を注ぎ、家康もそれを素直に受けますが、「真田めが、」と苦々しい思いを口にした後で、注がれた酒を一気に飲み干します。

戦前夜、木村重成は後藤又兵衛のもとに現れ、「後藤様には色々と学ばせて頂きました。お会い出来て光栄でした。」と語ります。
しかし又兵衛は重成の言葉を快く思わず、重成の側に歩み寄り「二度とそういう事を言うな。・・・戦前にそういう事を言うとな、必ずどっちかが死ぬというのがお決まりなんだ。」とたしなめますが、そこである事に気づきます。
「ああん?クンクン、お前何かいい匂いがするな。」と語ると、
重成は、「万一首をとられた時に、恥ずかしくないように兜に香をきしめておりました。」
これを聞いた又兵衛は、「ハハハハハッ、つまらねえ真似をするんじゃねえよ、早く持ち場へ戻れ。」と笑い飛ばします。
この時又兵衛と重成は、既に死を覚悟していたのです。
かくして決戦の当日、奈良大和路を伊達政宗率いる3万5000が、又兵衛らの待ち受ける道明寺へ、家康・秀忠率いる本隊13万が木村重成・長曾我部盛親らが待ち受ける若江・八尾方面へ向けて進軍します。
結果、道明寺の戦いでは幸村らの到着を待たずに夜明けと共に又兵衛は先手を打って出、壮絶な死を遂げ、若江・八尾の戦いでは木村重成が討たれ長曾我部盛親はもはやこれまでと逃亡します。
事ここに至って織田有楽斎意外にも徳川に内通する者がいる事を知ります。
しかし時既に遅く、堀田作兵衛に付き従って与八が大角与左衛門の内通現場を目撃してしまったために、与左衛門の手によって火箸で刺殺されてしまいます。
道明寺で豊臣軍を討ち崩しした徳川勢は、勢いにのって後詰の幸村の軍に襲い掛かり、大助が弓矢で負傷するも、軍勢を大坂城へと反転させて逃げ延びます。
この時幸村は、背走する直前に「これで終いかーっ、徳川の軍勢に誠の武士はおらんのかーっ。」と高らかに声を上げます。
これを聞いた伊達軍は幸村らに対して鉄砲隊を前面に出して撃とうとしますが、政宗は「もうようい、玉は尽きた。」とその射撃を止めます。
どうやら幸村と政宗は事前に必要以上の消耗戦を避ける申し合わせが成されていたようです。
真田にしても、伊達にしても、徳川のために多くの犠牲を出す事は、アホらしいこととの考えで一致していたのでしょう。
それ故、幸村と政宗は互いに薄笑いを浮かべ、真田軍は伊達軍を前にして悠々と軍を引いて行きます。

城に戻った幸村は、そこで多くの負傷兵や討死した者たちを目の当たりにしながらも、「よう戦った。よう戻った。」と激を飛ばしますが、死傷者の中には、幽閉地である九度山から抜け出る際に幸村に付き従った九度山の猟師:十兵衛があり、幸村は「十兵衛、十兵衛。」と抱きおこしますが・・・。
もはや豊臣方は大半の兵を失い、いよいよ大坂城での最終決戦を覚悟した幸村は、覚悟を胸に馬上宿許筒を手にしながらも、妻:春に対して城を出るよう言い渡します。
そして春と娘:うめは、佐助の使いにより政宗のもとに身を預けることとなります。
この時政宗は幸村との間に密約があったことを語り、家康にはこの事を報告する必要などないと家臣に告げます。
幸村は近親の者達を前にして語る中、「決して永遠のわかれではない。」と語り、春は「大助、父上をしっかりとお守りしなさい。」と語り、幸村のもとで残る事となったきりに対しては「旦那様のこと、何卒よしなに頼みます。」と頭を下げます。
しかし幸村の言葉とは裏腹に、これが幸村親子の最後となることは春にも分かっていました。
二人は、三日月の光が降り注ぐ夜に縁側で腰を下ろして並び、最後の語らいを持ちます。
幸村:「よう耐えてくれた。」
:「泣いても良いのなら、泣きますよ。」
そう言いながら春は、横に座る幸村の太ももを人差し指で何度も軽く突いた後で、フフフッと笑い、暫く間をあけて語ります。
:「私は、大谷刑部の娘でございます。
幸村:「そうであった。」
すると春は信繁の右拳を両手で包み、「ご武運を。」と別れを惜しむのでした。

その後春とうめは、堀田作兵衛に護衛されて政宗のもとに無事到着し、対面を果たします。
この時政宗は、「心配はいらん。そなたたちの身の上は、わしが一命を掛けて預かった。」と語り、ずんだ餅をうめに薦めます。ずんだ餅を進め、春の胸の中で抱かれている幼い大八に「大八、大八。」と声を掛ける政宗に、どうやらうめは安心したのでしょう、ずんだ餅をほう張りながら笑顔を浮かべ、隻眼の政宗を見つめます。
ナレーションでは、うめは後に政宗の重臣:片倉景綱の息子の元に嫁いだことが語られます。

一方城に残る幸村は、きりに対して今後の事を語ります。
幸村:「家康に決戦を挑むことにした。」
きり:「いよいよですね。」
幸村:「お前は、いざとなったら千姫様をお連れしてここを抜け出し、秀忠の陣へ行け。」
きり:「大仕事じゃないですか。」
幸村:「だからお前に頼むのだ。お上様にはお伝えしておく。」
きり:「千姫様をお送りしたらその後は?」
幸村:「沼田にでも帰るがよかろう。」
きり:「いいえ、ここに戻って来ます。こうなったら、お上様とご一緒しますよ。最後まで。・・・・・源三郎
   様のいない世にいても、つまらないから。」
そんな笑いを浮かべながらもどこか寂し気なきりの様子を見た幸村は、突如きりに寄り添い、強く抱きしめます。
きり:「ちょっと、何をするんですか?」
突然のことにきりはそう言いながらも、この時をずっと待っていたのです。
きり:「遅い。」
幸村:「すまぬ。」
そしてきりは抱きしめられた体を幸村から離し「責めて10年前に・・・」と言いかけた時、この言葉を遮るかのように幸村は、きりの鼻が潰れんばかりに濃厚な口づけをします。
それでもきりは幸村の唇を切り離せないまま言葉を続けます。
きり:「あの頃が私、が一番綺麗だったんですから。」
ようやく幸村の唇による束縛から離されたきりは、しばし幸村と見つめ合い、今度は自ら幸村の胸に抱かれます。
この時ナレーションでは、「高梨子内記の娘については、様々な言い伝えがある。真田信繁(幸村)の側室であったとも、彼の子を宿したとも、真偽はともかく、一つだけ確かなことがある。信繁に係った女性の中で、最も長く信繁のそばにいたのは、彼女だということである。」と説明が加えられます。
ナレーションが語られる間もきりは幸村の胸にいつまでも抱かれながら涙を浮かべ、やがて眼を閉じて信繁の胸にうづくまります。

ずっと幸村に一人の女として受け入れらることを待ち望んでいたきりにとって、嬉しくも悲しい場面で、第49回「前夜」は終ります。
いよいよ次回は最終回、依然として合戦を描くスペクタクルとしては、いささか淡泊で物足りなさを感じる『NHK大河ドラマ 真田丸』ですが、最終回に期待しましょう。

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キングオブコメディの今野浩喜さん演じる与八

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〜真田丸:豊臣の台所 大角与左衛門はなぜ大坂城に火を放った?について
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ネット上においては、豊臣家への長きに渡る恩義があるにもかかわらず、大坂夏の陣の終局において、歴史上豊臣家に対する最も重い裏切り、つまり大坂城に火を放ったという大角与左衛門(大坂城の台所頭)に対して、「大坂人の血筋の中でも、最も消し去りたい血筋」などと記された記述までもが見受けられます。

もちろん大角与左衛門の恩義ある豊臣家に対する裏切りは、許されるものではありません。
ですがその裏切りを誘ったのは家康のさしがねです。
織田有楽斎しかり、片桐且元しかり、加藤清正・福島正則しかり、平野 長泰(ひらの ながやす)しかり、全ては徳川家康が仕組んだこと。
最も悪いのは裏切りの実行者ではなく、その者たちの弱み、もしくは心の闇に付け込み、寝返らせた家康です。

ではなぜ大角与左衛門は裏切ったのでしょう?

『NHK大河ドラマ 真田丸』第48回放送『引鉄』の中で大角与左衛門は、木村重成の「与左衛門には妻子はおらんのか?」との問いに対し、「妻も子も、遠の昔に死んだ!」と答えました。
何やらここに大角与左衛門が大坂城に火を放った原因があるに違いない。
「妻も子も、遠の昔に死んだ!」というセリフは、豊臣家に対する最大の裏切りをやってのけた、大角与左衛門のドラマ上の次の展開への前振りだと。

恐らく与左衛門の妻子は、豊臣秀吉もしくはその配下の者の手によって亡くなったのでしょう。
だからこそ、家康の呼びかけに応じ、豊臣家を滅亡へと導いた。
というのが、ドラマ上の設定ではないでしょうか?

ハズレるかもしれませんよ!真田丸のネタバレに関しては一切目を通していませんので、だって、そんなの知ったら面白くないでしょ。

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樋浦 勉さん演じる大角与左衛門
樋浦 勉(ひうら べん、1943年1月25日 - )は、日本俳優声優劇団青年座所属。東京府(現:東京都)出身。
本名は同じ字であるが、「ひうら つとむ」と読む。娘に声優の樋浦茜子がいる
2004年以前は、劇団俳優座、劇団自由劇場、黒テント、境事務所に所属していた。
1965年の岡本喜八監督、三船敏郎主演の東宝映画『血と砂』にて少年楽団兵の一人として出演。少年楽団兵のほとんどは同年、夏木陽介主演の『青春とはなんだ』の高校生役としてレギュラー出演することになり、ラグビー部のキャプテン・土井として出演した。土井の朴訥だが生真面目な役柄が定着し、青年期はそういった役柄が多かったが、しだいに主に主人公に楯突く役が多くなり、2時間ドラマ等では、被害者役を演じることがある。映画では『楢山節考』や『八甲田山』ではいずれも悲惨な死に方をする役柄を演じており、北野武監督、主演の『座頭市』では、気弱な飯屋のおやじの姿とは裏腹に真の黒幕であるヤクザの頭領役を演じた。

声優としても活動しており、正義派から悪役までこなす。特に洋画の吹替では、ジョン・マルコビッチブルース・ウィリスロバート・デ・ニーロリチャード・ドレイファスなどを専属で担当している。特にブルース・ウィリスは、代表作である『ダイ・ハード』シリーズのジョン・マクレーン役を数ある吹き替え声優の中で唯一全作品に渡って演じている人物である。


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