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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜真田丸:徳川家康は豊臣秀頼に対するコンプレックスから豊臣を滅ぼした?
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大河ドラマ真田丸では、超イケメンで爽やかな中川 大志さんが豊臣秀頼を演じ、『NHK大河ドラマ 真田丸』第38回放送昌幸』では、
秀頼との会見の後の家康と本多正信との会話では、
家康:「あれは本当に太閤の子か?」
正信:「なかなかの若武者ぶりでしたな。」
家康:「いかんのう。」
正信:「いけませんな。」
家康:「しかたあるまい。」
正信:「豊臣家もつくづく運が無い、秀頼公が凡庸な二代目であれば、しぶとく生き延びられたものを・・・・。」
と秀頼の存在を家康は改めて危険視するという場面が描かれました。
その後は母:淀殿の存在に自身の考えを押し込められて思い悩む秀頼が、幸村の言葉に感化されて豊臣家の当主としての自覚を強く持ち、成長して行くというドラマ設定が描かれました。

歴史上の人物としては、大坂夏の陣の終局において、大野治長は千姫の身柄と引き換えに秀頼の助命を嘆願したというが家康の容れるところとならず、淀殿や大野治長らと共に自害した(享年23(満21歳没))と伝えられます。

もしも豊臣家が政権を維持出来ていれば、果たして豊臣秀頼は、どれほどの可能性を秘めていたのでしょうか?

豊臣秀頼は優秀だった?巨漢という記述・遺骨 ...- ニュース蔵によれば、秀頼について以下のように語っています。
秀頼というと豊臣家が滅ぼしてしまった暗愚な人物という印象ですが、実際にはだいぶ印象が違う人物だったようです。
江戸前期に書かれた秀頼の伝記「豊内記」では「礼を重んじて義を行う」「私欲を哀れんで民を哀れみ、国家が豊かになることを朝夕念じていた」という非常に清廉な人柄だったのだとか。
一言:ドラマの中で秀頼は、「父上が築いた安寧の世を・・・」と民への思いを感じさせる言葉を語っていましたね。安倍晋三とは大違いです。)
また、公家としての教育を受けていたようで、伝承される筆跡は非常に評価が高いのだそうです。
一言:達筆だったんですね、誠実な人柄だったことを連想させますね。)

あの徳川家康が秀頼と会見したのち、腹心の本多正純に「(秀頼は)賢き人なり」と漏らしたそうで、それが家康を豊臣家の滅亡に走らせたという見方もあります。
一言:誠実で賢き人ならば、徳川に仇名す人物ではないことぐらい家康は見抜けなかったのでしょうか?秀頼の人格に嫉妬し、いずれは秀頼を奉る諸将の動きを恐れたのでしょうか?)
あくまで推測でしかないですが、秀頼という人物は天下人・秀吉の元に生まれたただの無能なボンボンだったというわけではなさそうですね。

江戸中期に書かれた随筆「明良洪範」によると身長6尺5寸・体重43貫とあり、現在の単位にすると約197cm・約161kg。
一言:身長197cmで体重約161kgって少なくとも秀頼役の中川 大志さんのようなスラリとした体格ではないですよね。背も高いがガッチリとした体格なのかな?)
これ現代人にしても相当な巨漢ですね。相撲界でも横綱・白鵬が身長192cm・155kgですから、それよりもひと回り大きいことになりますね。
一言:そうですか、横綱・白鵬より一回り巨漢のねーっ・・・・。)
当時の日本人男性の平均が160cm未満だったことを考えると、化け物みたいに映ったかもしれませんね。
家康が秀頼と会見した際、その巨漢ぶりから来るカリスマ性に恐怖し、豊臣家を潰すことを決意したという記録もあるのだとか。
159cmと伝わる家康からすれば197cmの秀頼は恐怖するに十分ではあるでしょう。
一言:東照神君ったら小柄な私より小柄だったんだーっ、へーっ、心も体も小っちゃい奴やで。)
秀吉が57歳でもうけた子であり、それまでにもうけた子は夭折していることから、秀頼は生まれつき病弱で貧弱な人物だったのかと思いきや、すさまじい偉丈夫だったんですね。
一言:正室の千姫も巨漢の秀頼が夫だったのですから、夫婦としての○○生活は色々と大変だったでしょうねー。「えっ、何がって?」そりゃー色々と、ですよ。家康が当時の平均的な身長なら、女性の千姫はそれよりたぶん小柄なんだから、ねっ、わかるでしょ。)

以上のように、秀頼の生まれながらの不幸は、天下人目前の家康をコンプレックスの塊にしてしまった容姿と、人柄だったんですね。
可哀そうな秀頼、愚かなり家康。

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中川大志さん演じる豊臣秀頼 超イケメンです。

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〜真田丸:真田幸村が家康を窮地に追い込んだ馬上宿許筒の構造と性能
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『NHK大河ドラマ 真田丸』第48回放送『引鉄』では、秀頼が浪人たちに大阪城に残る蓄えを分け与えたことで武器を買い揃えるという予想外の行動に出る中で、幸村はそれまで大坂城の南側に更なる要害を造ることで徳川軍を迎え討とうとするも、大野治房の軽はずみな行動により、幸村は止む無く要害の設置を諦め、明日にでも徳川軍が再び攻めて来るであろう事態に対抗するため、かつて千利休の茶室があった畑から出て来た馬上筒の扱いに磨きをかけるというストーリーが展開されました。

今回はその馬上宿許筒(しゅくしゃづつ) を分析してみました。

大阪市東成区の真田幸村公資料館で展示されている火縄銃「 宿許筒(しゅくしゃづつ) 」(全長約60センチ)。1614年の大坂冬の陣と翌年の夏の陣で、徳川軍と果敢に戦った幸村の品だ。8連発を可能にした当時のハイテク銃で、幸村が堺の鉄砲鍛冶と協力して開発したとされる。
 夏の陣で、幸村はわずかな手勢を率いて徳川家康の本陣である天王寺茶臼山に攻め込んだ突撃の武勇伝は有名だ。しかし、押し寄せる徳川方15万人に対し、勝ち目がないと判断した豊臣方は、浪人たちが次々と大坂から離れ、多勢に無勢。ところが、幸村は馬上から家康を狙撃しようとしたが、誤って宿許筒を落とし、撃ち損じた。その後、宿許筒は戦利品として紀州徳川家が幕末まで保管していたが、戦後、米国人将校の手に渡った。
奇襲によって家康は2度も切腹を覚悟したらしい。
そのことを知った同区の鉄砲研究家・沢田平さん(79)が米オレゴン州に出向いて所有者と20年にわたって交渉。2009年に譲り受け、今年6月に開いた同館で公開に踏み切った。
 古式砲術再興のため、各地にある約50の鉄砲隊の指導にも取り組む沢田さんは、6万丁にも及ぶ火縄銃を見てきたが、宿許筒と同じ構造の銃は一度も出会ったことがない。
「紀州に残る『南紀徳川史』には馬上宿許筒について“早込めの銃”と記されています。大きさは全長59センチ。普通の火縄銃の半分以下しかないコンパクトな銃です。これは普通の火縄銃の半分以下の時間しかかかりません。
大阪の陣、天下取りを争った2丁の鉄砲 「鑑定団」澤田さん …では
「馬上宿許筒は半自動の速射連発銃で、省力化や自動化技術の結晶です。着火装置に改良を重ねて弾倉を付けることで、8発の弾丸を10秒おきに発射できた。手綱を握る手を軽く支えにすれば、馬上でも連射が十分可能だった。真田流砲術を受け継ぐ幸村公が九度山に幽閉中、各地に点在する協力者と連絡を取り合い、ひそかに開発したのではないか」(澤田館長)

以上のように、真田幸村の用いた宿許筒は、幸村オリジナルの銃(鉄砲)らしい。
ですが文章だけではその実力がよく理解出来ませんよね。

そこで改めて宿許筒を分析してみましょう。
まずは古式銃とも言われる火縄銃の構造から説明しなければなりませんね。
以下にその構造をご紹介します。

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火縄銃の構造

上図に示された各パーツの名称の内、説明がなければ分からないものとしては、
まず前目当・先目当があります。
これは、標的(ターゲット)を狙い定めるためのもので、今のライフルなどで言うところのターゲットスコープの役割を果たすものです。
銃を脇に構え標的(ターゲット)を狙う時、銃身の真後ろに片目を持って行き、前目当と先目当の重なる直線の延長上に標的(ターゲット)が見えるように狙いを定めるのです。

次に槊杖(かるか・さくじょう・こめや)ですが、一般的にはカタカナでカルカと呼ぶのが普通です。
日本の銃が火縄式であった時代は、玉込めを銃口から行う先込め式(前装式装塡法)だったために、弾薬。(火薬)の装塡のための用具がカルカです。
日本の火縄銃では、銃身の下部の銃床木部に、槊杖を収めるためのトンネル状の穴が設けられてそこに収まっていたが、そのままそれを装塡に使用するには耐久力に乏しいので、稽古等では太目の丈夫なものを別に携行した。銃の附属品として添えられたものは、あくまで緊急時の予備的なものだったそうです。

以上が火縄銃の構造ですが、次に幸村オリジナルと考えられる馬上宿許筒(しゅくしゃづつ) の画像をご覧ください。

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馬上宿許筒(しゅくしゃづつ)
どうでしょう?
火縄銃の構造示した従来の火縄銃の構造に比べて特徴的なものがあるとお分かりでしょうか?
そうです、銃床の下部に銃口よりも突き出た筒状のパーツが付随していますよね、何を隠そうこれが、沢田平さんの言う八発の連射を可能にするためのカートリッジ(銃倉)なのです。

西部劇などでガンマンが使う連発銃、いわゆゆるリボルバーと呼ばれる拳銃は、以下のような回転式の銃倉が銃身と撃鉄の間に備わっていて、機械式のセミオートで銃倉が回転し、連射できます。
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リボルバー

ですが幸村の使った馬上宿許筒(しゅくしゃづつ)は、従来型の火縄銃と同様に、先込め式(前装式装塡法)だったために、球形の鉛玉を銃口から込める必要があります。
恐らく馬上宿許筒(しゅくしゃづつ)の画像から見る限り、真鍮製のカートリッジ(銃倉)のパイプ部分(カートリッジの引き金側)に8発の弾丸が入っていて、たぶんネジ式で本体にこのカートリッジが付いているのでしょう。
これをまず抜き取り、カートリッジ(銃倉)のパイプ部分を銃口に挿入し、その向かって右側にあるレバーを押し出せば、弾丸が装填されるのだと思うのですが、私がレバーと思っているには弾丸なのかもしれません。その場合は弾丸をカートリッジから取り出して銃身に装填することになるでしょうね。
とりあえず私の見方が正しいとしましょうか、
文章ではよく分からないと思いますので、以下の現代の連射砲のカートリッジ式門管(火管)の装填方法の図を例として見て頂ければわかると思います。
 
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連射砲のカートリッジ式門管(火管)の装填方法
門管(火管)とは:火薬の詰まった管に雷管が付いたもの(小銃の空砲に似てます)で、連射砲において雷管だけじゃ火力が足りない時、これを薬室に挿入して点火します。これにより雷管から火管内の火薬に引火させてさらに装薬へ火を付ける二段構造になります。

上図の連射砲では後ろから弾丸を装填していますが、もちろん馬上宿許筒(しゅくしゃづつ)では銃口からの装填です。
一言:このような弾丸の装填では、地上では敵に阻止されなければ比較的素早く弾丸を装填できるでしょうが、敵陣内での馬上では、ほぼほぼ無理ですよね。)

つぎに馬上宿許筒(しゅくしゃづつ)で重要なのは、従来型の火縄銃ではなく、火打石を用いたフロントロック式の銃だということです。
以下にのその画像を示します。

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  フリントロック式銃の構造

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フリントロック式銃底部の構造

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火縄銃底部の構造

上の画像の中の、Flintが火打ち石で、これが引き金を引くことでFrizzen(フリズン)に激突し、火花が発生して火皿の弾薬(火薬)に着火、それにより銃身内の弾薬(火薬)の爆発を誘発し、弾丸が発射されるのです。
そして以下は

フりントロック式の銃を討つ手順がよくわかる動画を以下に添付しておきます。
フリントロック式の銃の実演

ですがフリントロック式の銃には大きな欠点がり、広くは普及しなかったそうでうです。それは、この銃の最も重要な役目を担う火打石が、高純度のものを必要とするという点でした。

海外では「火縄→フリントロック→メタルカートリッジ」と発展しましたが、日本は幕府による鎖国と実質的な銃規制により、「火縄→タルカートリッジ」と発展した世界でも稀な歴史があります。鎖国中の日本人は新しい銃を生み出そうとはせず、その代わりに火縄の扱いを極めていたので、メタルカートリッジが流入したあとでは、(主要な武器として)フリントロックに興味を示すことは殆どなかったと思われます。
生憎、国内でのフリントロック事情を詳しく記した資料を私は持ち合わせていないのですが、「世界銃砲史/岩堂憲人」には以下の興味深い記述がありました。
 ”ところで「カロンの日記」には、別に、短いが注目すべき記述がある。それは10月31日の項で、カロンが平戸商館の取り壊しを命ぜられる数日前のことである。この日、カロンは長崎に上使井上筑後守政重が到着したことを知り、歓迎のために謁見したが、その席で筑後守は2年前に前任のクーケバッケルに注文した火縄銃とフリントロック・ピストル(火打石を発火に使用する拳銃)がどうなったかをたずねている。
ちなみに:築後は現在の福岡県南部で、江戸時代の鎖国政策の中にあって、唯一海外との交易が許された出島もこの地域に含まれ、井上政重が築後守に就任したのは1627年だそうですから、大坂の陣より随分後ですね。)
ヨーロッパにおいて、ヨーロッパでは火縄銃はすでに旧式化しており、井上築後守は銃が火縄式からフリント、つまり燧石(火打石)に発火機構が進歩していることを知って新型の銃を注文していたのであった。
和銃がこのような形態のままであったことには、たしかに鎖国や長期の和平が影響はしていよう。しかし、それらは決定的な要因ではなかったはずである。なぜなら、燧石式の銃がまだヨーロッパにおいても新式の銃として出現してそれほど時間のたっていないこの時期に、幕府の要人は、すでにそれをオランダ人に注文している(カロンによれば紀州候徳川頼宣も同式銃と手榴弾の注文をしているという)のであってみれば、幕府もこの種の銃に対してやはり強い関心を持っていたと考えるのが妥当である。したがって、筆者としては和銃が火縄式のままで幕末まで推移していったということの裏には、幕府の意図が感じられる。それはいうまでもなく、新しく威力の兵器の国内流布への拒否反応により、意図して火縄銃のままにおかれたのであろう、ということである。
そしてそのフリントロック式の新式銃の構造の隠ぺいは、大坂夏の陣において幸村が撃ち損じた後、は戦利品として紀州徳川家が馬上宿許筒を補完した時から始まっていたのです。
(一言:そりゃあ徳川家としてはこんな物騒なフリントロック式の銃の存在が、一般に知られることは、たった一人のスナイパーが存在するだけで、いつ何時将軍が狙われるかもしれませんからね。何しろ、家康はその恐ろしさを、身を持って体験したのですから。

フリントロック式銃の射撃手順は、
1.弾薬嚢からカートリッジを取り出して薬包を噛み切り、弾丸を口にほおばる。
2. コックを一段階引き、当り金を開けて火皿に点火薬(装薬の一部)を入れ、また閉じる。
3.銃身を垂直に置き、銃口から発射薬(残りの火薬)を注ぎ、次に弾丸を挿入する。
4.込め矢を引き抜き、これで装薬と弾丸を銃身の奥まできっちり押し込む。
5.込め矢を元の位置に戻し、コックを最大限に引いて発射装置を整える。
6.射撃姿勢を取り、照門の窪みに照星が来るようにして照準を定め、引き金 を引いて発砲する。
一言:上に示した動画を見れば分かると思いますが、弾薬は火皿に着火薬としてその一部を入れ、更に銃口から銃身内に残りの火薬を銃口から発射薬として入れなければならず、都合2か所に火薬を入れなけらならないのです。現在の弾丸のような薬莢が無いために。)

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                      薬莢のある現代の弾丸

 発砲は、通常は毎分2〜3発です。
実際の戦闘では長時間の射撃戦となるのでこの程度の発射速度が普通なのです。
早く行う場合の毎分5発ぐらい。6発以上だと1発の争点に10秒以下となるので
現実的なスピードとはいえません。
実用というよりも、練習とか”賭け”でできるぐらの速度ですな。
また毎分5発といっても、人間には疲労というものがあるので、
せいぜい続けられるのは数分程度でしょう。
また間隔を空けずに連続発射すると銃身が加熱して持てないほどに熱くなるだけでなく、
12発以上撃つと、これによって暴発しやすくなるため、危険も増します。
だからスピードには自ずから限界があるというものです。

以上のように幸村が家康襲撃に使った馬上宿許筒(しゅくしゃづつ) は、せいぜい一分間に2〜3発程度で、それが馬に跨り、敵陣へと突入する場合では、1発を発射するのが精いっぱいでしょう。
また、その射程距離は、従来の銃身の長い一般的な火縄銃で50〜60mなのに対して、馬上宿許筒(しゅくしゃづつ) はせいぜい20〜30mだそうです。
ですがただでさえ銃身が短くて命中率の低い馬上宿許筒(しゅくしゃづつ) を不安定な馬上から撃つには、10m前後の距離から撃つ必要があったでしょう。
その射撃の間合いは、家康の身辺警護をする武将が数歩進み出れば、その槍先が幸村の馬に届く範囲内であったことは十分想像できます。
ネット上では幸村が家康を今正に討とうとする時に銃を落とすなんて「ドジ。」なんて書き込みも見受けられますが、最新式とは言え馬上宿許筒(しゅくしゃづつ)の射程距離 は、長槍のそれと大した差は無かったとも言えるのです。
ドラマ上では馬上宿許筒(しゅくしゃづつ) が利休の茶室跡の畑から、箱に入って2丁出てきたのですから、ツーハンド、つまり二丁拳銃にちょうけんじゅう二挺拳銃とも書かれる)で家康を襲撃していれば、あるいは家康を仕留めることができたかもしれません。
ですが敵陣に斬り込むためには、左手に銃を持ちながらも、右手には刀を持っていなければ、敵兵の切先をかわすことはできなかったとも考えられます。
一言:あっ、そうか、馬の手綱も引かなければならないのですね。)

果たして『NHK大河ドラマ 真田丸』における終局では、幸村の家康本陣への襲撃はどのように描かれるでしょうね?楽しみです。


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〜真田丸:馬上宿許筒が幸村オリジナルならば、その設計は九度山の地で?
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『NHK大河ドラマ 真田丸』第48回放送『引鉄』を見て皆さんが最も印象に残った事と言えば、やはり真田幸村が使った馬上筒という鉄砲でしょう。
赤備えを身に纏ってこの馬上筒を試し打ちする堺雅人さんの姿は、「カッチョイー。」と皆さん思われたはずです。

ドラマ上において、大坂冬の陣の後 徳川軍が陣を撤収して行く中、休戦状態にあった大阪城内では未だ浪人たちは城を離れようとしないどころか、戦前7万人だった数が、豊臣方が徳川方の大軍を追い払ったという民衆の噂を受けてむしろ増加し、10万人に膨れ上がります。

そんな折、秀頼のもとに家康から書状が届きます。
幸村:「家康は何と?
大野治長:「浪人たちに今すぐ暇を出せと言うて来た。これ以上引き延ばすと、徳川に刃向かうつもり
     とみなすと
大蔵卿:「言わぬことではない。
幸村:「とりあってはなりませぬ。」
大蔵卿:「浪人たちを一日も早く追い出すべきです。」
治長:「その話はもう決着がついております。」
木村重成:「浪人たちに渡した支度金が、そろそろ尽きはじめています。」
治長:「その心配もあったー。」
秀頼:「修理、城には今いか程の蓄えがある?」
治長:「浪人たちをしばらく養うだけの金はございますが・・・・。」
秀頼:「左衛門助、それをくれてやっては駄目か?」
幸村:「渡したところでその場しのぎ、いま少し待ちましょう。次の戦に勝てば、徳川から領地を奪い返
    すことができます。」
治長:「要害の完成を急がせよ。」
と話会い、幸村は大坂城の南側にあるかつて冬の陣で家康が布陣した茶臼山と秀忠が布陣した岡山を結ぶ間に空濠を掘ることで、徳川軍が再び攻め上がって来るのに備えようとします。
幸村は「戦はあくまで要害が出来てから、それまで辛抱してもらう。」として。

ところが、大野治房は配下の家臣を先導して藏を開け、金・銀・米を持ちだすという事件を起こします。
これにより、「渡したところでその場しのぎ、いま少し待ちましょう。」と語っていた幸村の当初の考えは変更せざるおえなくなり、大坂城の蓄え全てを浪人たちに分け与えます。
これで浪人たちの不公平感は払拭されると思われたのですが、ところが浪人たちは分け与えられた資金で武器を買い集めるという幸村の想定にはなかった事態となり、家康による大阪城総攻めへの格好の口実をあたえる結果となります。
大野治長はこの時、「もっと目を光らせておくべきだったー。」と次の戦が、迎え討つ態勢の整わぬまま始まってしまう事への危機感をつのらせます。

以上のようにドラマ上では、秀頼が浪人たちに大阪城に残る蓄えを分け与えたことで武器を買い揃えるという予想外の行動に出る中で、幸村はそれまで大坂城の南側に更なる要害を造ることに専念していたかのように描かれました。
そこで幸村は止む無く要害の設置を諦め、明日にでも徳川軍が再び攻めて来るであろう事態に対抗するため、かつて千利休の茶室があった畑から出て来た馬上筒の扱いに磨きをかけるというストーリーが展開されました。

ですがそれってドラマ上では問題ないものの、伝えられる史実としては矛盾する展開ではないかと思えます。

皆さんの中で幸村が夏の陣で使ったとされる馬上筒に興味を持った方は既にご存じかもしれませんが、不屈の名将・幸村 今なおヒーロー : 地域 : 読売新聞 ...には
大阪市東成区の真田幸村公資料館で展示されている火縄銃「 宿許筒しゅくしゃづつ 」(全長約60センチ)。1614年の大坂冬の陣と翌年の夏の陣で、徳川軍と果敢に戦った幸村の品だ。8連発を可能にした当時のハイテク銃で、幸村が堺の鉄砲鍛冶と協力して開発したとされる。
 夏の陣で、幸村はわずかな手勢を率いて徳川家康の本陣を急襲。馬上から家康を狙撃しようとしたが、誤って宿許筒を落とし、撃ち損じた。その後、宿許筒は戦利品として紀州徳川家が幕末まで保管していたが、戦後、米国人将校の手に渡った。
 そのことを知った同区の鉄砲研究家・沢田平さん(79)が米オレゴン州に出向いて所有者と20年にわたって交渉。2009年に譲り受け、今年6月に開いた同館で公開に踏み切った。
 古式砲術再興のため、各地にある約50の鉄砲隊の指導にも取り組む沢田さんは、6万丁にも及ぶ火縄銃を見てきたが、宿許筒と同じ構造の銃は一度も出会ったことがない。
 「知勇の武将とのイメージが先行するが、発明家の一面があった。潔くまじめな人柄は現代に通用する優れた日本人像だ」。沢田さんは、幸村の生き方から学ぶことは多いと指摘する。
とあり、
大坂冬の陣に続く夏の陣で、幸村がわずかな手勢を率いて徳川家康の本陣である天王寺茶臼山に攻め込んだ突撃の武勇伝は有名だ。しかし、押し寄せる徳川方15万人に対し、勝ち目がないと判断した豊臣方は、浪人たちが次々と大坂から離れ、多勢に無勢。ところが、幸村の奇襲によって家康は2度も切腹を覚悟したらしい。どんな戦法を使ったのか。

「幸村が単身、家康の面前まで迫り、討ち取る寸前まで追い詰めたことは歴史的事実です。その瞬間、幸村は『馬上宿許筒』というマシンガンのルーツともいえる連発銃を手にしていました」
こう語るのは、人気テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」の鑑定士で鉄砲研究家の澤田平さん。戦国時代の砲術師範の子孫でもある。
「紀州に残る『南紀徳川史』には馬上宿許筒について“早込めの銃”と記されています。大きさは全長59センチ。普通の火縄銃の半分以下しかないコンパクトな銃です。馬上で扱う仕様でした。驚くのは連射機能です。私は米国に渡った実物の銃を入手して発射実験を行いましたが、8発の弾丸を10秒おきに発射できることが確認できました。これは普通の火縄銃の半分以下の時間しかかかりません。面前に馬上筒を突きつけられた家康が自害を覚悟したのも無理はありません」(澤田氏)
とあります。

先の大坂冬の陣で幸村は、真田丸を造ることによって徳川軍と対峙しました。
しかし淀殿は徳川軍の砲撃に恐れを成して家康による和睦の申し入れを受け入れ、両軍は休戦状態になったのですよね。
ということは、恐らくこの時点で幸村は、大坂城を丸裸にされたことを踏まえて、苦肉の策で大将、つまり家康の首を獲るという特攻作戦に切り替えることでしか活路は無いと考え、馬上筒を堺の鉄砲鍛冶に発注し、夏の陣に至ったと考えるのが普通です。
ですがそうではないと思われているようです。

大阪の陣、天下取りを争った2丁の鉄砲 「鑑定団」澤田さん …にはこの銃が開発された経緯を推察する記述があります。
 「幸村は単身、家康の面前に迫り、馬上宿許筒を突き付けた。しかし、狙撃しようとした瞬間、敵兵に攻撃された騎馬が動揺したため、銃を落としてしまう。馬上宿許筒は家康を撃ち損じた銃です」(澤田館長)
馬上から狙撃するという西部劇まがいの離れ技が、はたして可能だったのか。
「馬上宿許筒は半自動の速射連発銃で、省力化や自動化技術の結晶です。着火装置に改良を重ねて弾倉を付けることで、8発の弾丸を10秒おきに発射できた。手綱を握る手を軽く支えにすれば、馬上でも連射が十分可能だった。真田流砲術を受け継ぐ幸村公が九度山に幽閉中、各地に点在する協力者と連絡を取り合い、ひそかに開発したのではないか」(澤田館長)
と。

澤田館長の推察が正しいとするなら幸村は、幽閉地であった九度山を抜け出て大阪城へと向かうその足で、先に堺に立ちより、自身の考案した馬上宿許筒を堺の鉄砲鍛冶と入念な懇談を持ち、この銃の発注を済ませた上で大坂城に入城したということになります。






なんとなれば、馬上宿許筒の設計図は、九度山の幽閉地で既に作成され、それを携えて堺に向かったとも考えられますし、ひよっとしたら九度山で作成した馬上宿許筒の設計図は、九度山の地を抜け出る以前に、佐助のような忍者的な者に堺の鉄砲鍛冶のもとへと届けさせ、大坂城へと向かう足で堺に立ち寄り、出来上がった馬上宿許筒をたづさえて大阪城へと入城したとすら考えられます。


生活にも困窮する幽閉生活の中で、「必ず家康との決戦の機会はある」との執念を持って。

馬上宿許筒が幸村のオリジナルだと言うなら、そう考えざるを得ないとは思いませんか?
独創的な新式銃を考案することも、その注文に答えて造ることも、一日二日で出来るはずなどないのですから。

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馬上宿許筒を構える澤田平さん
 
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〜真田庵の謎、善名称院には、なぜ天皇家の家紋?である菊花紋が瓦に?
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今年12月3日に真田昌幸・幸村・大助らが幽閉されていた真田庵こと善名称院(ぜんみょうしょういん)に出かけて、棒の先にカメラをくっつけて撮影した画像を、これまで3ページに渡って紹介しました。
恐らく『NHK大河ドラマ 真田丸』を見てこの地に訪れる観光の方は、真田庵は幸村親子が徳川家康に背いた罪により、幽閉されたことに思いをはせて訪れる方が殆どだと思います。

そんな真田ファンにしてみれば、幽閉地である九度山の真田庵にあしらわれいる紋章は、当然のように六文銭だと思っているでしょう。
事実、真田庵を囲む土塀の上にある軒先瓦(万十瓦)や山門の扉には、六文銭の家紋が誇らしげに施されています。

ですがそもそも反逆者を幽閉する屋敷に、家紋を施すことが許されるものでしょうか?

常識的に考えれば、それはノーと答えるほかないでしょう。
真田親子が幽閉されていた当時、真田庵に六文銭の家紋は無かった。
しかしその後幸村の大坂の陣における「日の本一の兵(つわもの)」と称せられるほどの活躍が、江時代の人々の間でも噂されるようになり、幸村の死後に六文銭の家紋が施されるようになった。
それはたぶん、幸村の兄:信之の命によってのものだった、でなければ、高野山の真田家ゆかりのお寺である蓮華上院の僧らによる配慮から、六文銭の家紋が施されたのではないでしょうか?
そのような経緯から、蓮華上院は通称 真田坊とも言われれ、合わせて真田坊蓮華上院とも言われます。

ところで、真田庵こと善名称院の本堂には、六文銭の家紋ではなく、天皇家の家紋:十六八重表菊花紋に似た菊花紋が施されていることをご存じでしょうか?

なぜ真田昌幸・幸村ゆかりのお寺に十六八重表菊に似た菊花紋が施されているのでしょう?

先にその謎に対する答えを述べれば、善名称院に天皇家の十六八重表菊が施されている理由は不明です。

鎌倉時代には、後鳥羽上皇がことのほか菊を好み、自らの印として愛用した。その後、後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋、ことに十六八重表菊が皇室の紋として定着した(「十六弁菊は南朝の紋で、三十二弁菊(十六弁八重菊)は北朝(および現皇室)の紋である」との説明も見かけるが根拠不明である)。
江戸時代には幕府により葵紋とは対照的に使用は自由とされ、一般庶民にも浸透し、この紋の図案を用いた和菓子や仏具などの飾り金具が作られるなど各地に広まった。
菊紋のうち、八重菊を図案化した菊紋である十六八重表菊は、日本の天皇及び皇室を表す紋章である。俗に菊の御紋とも呼ばれる。親王などの皇族はこの紋の使用が1869年(明治2年)の太政官布告をもって制限され、1926年(大正15年)の皇室儀制令(大正15年皇室令第7号)13条発布を経て「十四裏菊」や「十六裏菊」に独自の図案を加えたもの(有栖川宮家・伏見宮家など)や「十六八重表菊」を小さな図案によって用いたもの(秩父宮家・三笠宮家・久邇宮家など)を各宮家の紋としている。
との記述があります。

ということで、天皇家の家紋は「十六八重表菊」であり、実は善名称院に施されている十六弁菊は南朝の紋なのです。
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菊花紋章 天台宗の菊紋 天台宗正法院、東京都豊島区仏教の一宗派である日本天台宗は、十六菊の中央に3つの星をあしらった紋(三諦章)を宗章としている。
との記述もあります。
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以上のことから、善名称院に天皇家のそれに似た紋があしらわれている理由は定かではありませんが、私の思う推測はご紹介できます。

そもそも南朝とは、武士による幕府の始まりとなった足利尊氏の時代を南北朝時代と呼び、足利氏が押す朝廷は北朝となり、これに対抗する後醍醐天皇は、尊氏によって都を追われ吉野へと逃れて南朝となります。
ちなみに南北朝時代の英雄と言えば、楠公(なんこう)こと楠正成(くすのきまさしげ)ですよね。

以上のような歴史を踏まえれば、真田幸村らの幽閉地:真田庵のある九度山は、南朝に近く、高野山のお寺は南朝に所縁が深いと推察できます。
真言宗は、大同2年(807)平城(へいぜい)天皇から立宗が認められ始まった。 お祖師様は、弘法大師空海。 密教の教え全てを伝授されて唐から帰国した空海は、弘仁7年(816)嵯峨天皇から高野山こうやさん)を修行の山として ...
との記述があり、
後醍醐天皇と密教 内田啓一著 (シリーズ権力者と仏教, 2) 法藏館, 2010.7 タイトル読み ゴダイゴ テンノウ ト ミッキョウ ... 政治的な望みを祈祷に込め、密教の力を用いて王権の強化をはかった後醍醐天皇鎌倉幕府の滅亡、足利尊氏 ...
との記述があります。

ということで結論です。
真田庵の謎、善名称院には、なぜ天皇家の家紋?である菊花紋が瓦に?
それは真田昌幸・幸村らが幽閉される以前から、善名称院は南朝である後醍醐天皇との係わりが深く、南朝の紋である十六弁菊の菊花紋が施されていたのでしょう。




ちなみにお寺の瓦に菊花紋が施されていることは決して珍しいことではありませんが、善名称院の鬼瓦や棟瓦のように、大々的に十六弁菊の菊花紋が施されてる例は、やはり特例で、後醍醐天皇と高野山との係わりに由来すると考えることはごく自然だと思われます。

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夕日に照らされる真田庵の西面(人目線で撮影)

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夕日に照らされる真田庵の西面(高さ4メートルから撮影)

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夕日に照らされる真田庵の西面(高さ6メートルから撮影)

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夕日に照らされる真田庵の西面(高さ9メートルから撮影)

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真田庵の鬼瓦には南朝の十六弁菊の菊花紋

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真田庵の棟瓦にも大きな南朝の十六弁菊の菊花紋

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〜真田丸:千姫は大坂夏の陣前、「江戸へ帰りたいのじゃ。」と思っていた?〜
       サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編          
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『NHK大河ドラマ 真田丸』第48回放送『引鉄』では、大坂冬の陣の後、和睦によって一時休戦状態になると、大坂城内では決起にはやる浪人達の気を紛らわすために、それらの家族を城内に招きいれる事を、幸村は秀頼に嘆願して許されます。

家族や旧家臣たちとのつかの間の再会で浪人達は、家族や元家臣たちとの語らいにより、大坂城内は和やかな笑い声が響きます。

そんな中、幸村は甥(兄:信幸の子)らに会いに行くことを報告するため、秀頼・千姫・淀殿らに面会します。
淀殿:「何んだか、お城中が賑やかですね。」
幸村:「これより私は、甥たちに会うてまいります。」
淀殿:「甥?」
秀頼:「徳川についた真田の兄のこらか?」
幸村:「せっかくのおりなので、一度会おうと文を出しました。」
淀殿:「そのまま向こうについてはなりませんよ。」
幸村:「左衛門助は終生、豊臣家の家臣でございます。」
淀殿は幸村のこの言葉に満面の笑みを浮かべます。
秀頼:「肉親が敵味方に別れるということは、辛いものだ。」
幸村:「それを申せば、姫様の方がもっとお辛いめに。」
秀頼:「夫と実の父親が戦をしたのだ、さぞ苦しかっただろう。済まなかった。」
秀頼のこの言葉に、千姫は無言のまま微笑を浮かべ、首を左右に振ります。

この後秀頼は、前もって幸村の申し出によって、いずれは大坂を離れ、四国へ移る決意をしたことを淀殿と千姫に告げます。
その際秀頼は、妻である千姫にも四国へ移ることへの同意を求め、千姫もまた、二つ返事で「はい。」と即答します。

ところがこの後千姫は、廊下で幸村を見かけて呼び止めます。
千姫:「左衛門助!」
幸村:「姫様。」
千姫:「また戦になるのですか?」
幸村:「いずれは。」
千姫:「私が江戸へ戻るかわりに、戦をやめるよう、大御所様に掛け合ってはくれまいか?」
幸村:「姫様はいわば人質、戻す訳には行きません。」
千姫:「だめか?」
幸村:「お許しください。」
千姫:「江戸へ、帰りたいのじゃ。」
千姫は戸惑いの表情を見せながら、消え入るような声でそう訴えます。
幸村:「覗わなかったことにいたします。」
幸村の返答に返す言葉もなく千姫は、只々子羊のように戸惑いながら立ち尽くし、目は涙が浮かんでいるようです。
そしてその姫の様子をジッと見つめる幸村の表情には、千姫に対する同情の思いを持ちながらも、彼女に対して許しを請うような切ない思いを秘めながらも、ただ無言で控えていました。

大坂冬の陣の後に和睦となった時、
果たして千姫は、本当に江戸へ戻りたいと思ったのでしょうか?
私には必ずしもそうではなかったように思えます。

千姫は1597年4月11日、秀忠と江の長女として、山城国伏見城内の徳川屋敷で産まれます。
1603年に秀頼のもとへ乳母刑部卿局とともに輿入れします。
この時千姫は数え7歳。秀頼は数え11歳の幼い子供でした。
この二人の婚儀は、実は豊臣秀吉の遺言でした。
千姫が生まれた翌年に秀吉は他界していますが、秀吉は早々に自身の命が尽きるとは思っていませんでしたから、自身の後継者の嫁に、ナンバー2の実力を持つ家康の孫を迎えることで、豊臣の天下の安定を図るために千姫と秀頼の婚儀の約定を家康から取り付けたのです。
そして自らの思いに反して早くも死期を迎えた時にも、秀吉亡き後も秀頼が天下人を継ぎ、五大老が支えてくれるものと思っていた(いや、思いたかった。そう思わなければ死んでも死にきれなかった。)はずです。
ところが秀吉が亡くなると、家康は本音を露わにし、豊臣をほろぼそうと動きますが、
家康は、秀吉とのこの約定を破棄せず、幕府を開いた半年後に実現させます。
この秀頼と千姫の婚儀は、元々は秀吉の思惑によって交わされた約定でしたが、秀吉亡き後は、家康にとってもこの約定は都合の良いものとなったのです。豊臣家をつぶすためにも。

それはつまり、『NHK大河ドラマ 真田丸』でも描かれたように、かつて家康が秀頼に年賀の挨拶を求めて実現した二条城での会見は、孫を嫁がせた家康が、舅(しゅうと)としての立場から「妻の実家に挨拶しろ」と大義名分を変えて京都まで挨拶に来るよう秀頼に再三命じたということです。
淀殿はこれを断固拒否し、家康は説得し、なんとか実現させたのです。

以上のように幼かった秀頼と千姫の婚儀は、秀吉や家康の思惑による政略結婚でしたが、数え年7歳での豊臣家への輿入れは、当人にしてみればその意味もハッキリとは理解出来ず、さしたる覚悟もないものだったと思えます。

幼い少女が親や祖父に言われるままに他家へ来てみれば、そこにはさほど年の離れていない少年がいて、二人は幼馴染のように仲良く暮らすうちに、その成長と共にごくごく自然に夫婦のかたちになって行ったと思えます。
千姫が輿入れしてから12年が経過した1615年、大坂冬の陣の後の和睦の時、秀頼は23歳、千姫は19歳になっていました。

思うに幼い頃より大坂城で暮らし、12年間過ごした年月は、千姫にとって決して辛い日々ではなく、実家との戦が始まったからと言って、共に暮らした秀頼から離れて江戸へと帰りたいという思いに駆られる出来事ではなかった気がします。
もちろん実家と嫁ぎ先の家とが戦う事への悲しみはあったとは思いますが・・・・・。

ですが、ドラマにおいて千姫が「江戸へ帰りたいのじゃ。」と語ったとするのには、彼女が豊臣家滅亡後に徳川家へと戻り、更にその後他家へと嫁ぎ(姫路城へ)、70歳の天命を全うしたという生涯から逆算したセリフだったと思えます。
きっと千姫は、秀頼との別れなど決して望んでいなかったと。
皆さんはどう思われますか?

それにしても千姫役の永野芽郁(16)さんは可憐で可愛いですね。
私は永野さんという方を全く知らなかったのですが、このドラマ上の可憐さが、彼女の性格そのままではなく、全くの演技だとしたら、素晴らしい演技ですよね。
一言:褒めてるんだか?疑ってるんだか?)

イメージ 1
秀頼と千姫

イメージ 2
永野芽郁さん
この画像を見る限り、けっこうはっちゃけた女の子のように思えますが・・・・・。
 
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