カメラとビデオを棒にくっつけて

堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

風景

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カメラを棒にくっつけて写した写真をご紹介。
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〜真田丸:真田庵の山門を潜った所で目の位置を9mまで上げれば街並みが
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今年12月3日に真田昌幸・幸村・大助らが幽閉されていた真田庵こと善名称院(ぜんみょうしょういん)に出かけて、棒の先にカメラをくっつけて撮影した画像を、これまで2ページでご紹介しました。
ですがそれらは魚眼レンズによる撮影でした。

真田庵の山門を潜り抜けて直ぐに見える光景としては、今回ご紹介するのは真田地主大権現越しに見る本堂の姿で、真田庵を訪れた方が素直に境内に足を踏み入れた時に見る光景でしょう。

ですが、その位置から9メートルの高さまで目の位置を上げて行けば、どんな光景がみえるでしょう?
それは、九度山町の民家の中にある真田庵です。
その光景の撮影には、やはり魚眼レンズから広角レンズへと交換しての撮影が適切です。

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柿の木と松と真田庵(人目線で撮影)

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真田地主大権現越しに見る真田庵(高さ4メートルから撮影)

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真田地主大権現越しに見る真田庵(高さ6メートルから撮影)

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真田庵真田地主大権現と九度山町の街並み(高さ9メートルから撮影)

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〜旧我家解体記:室内のゴミ・廃材・残土などの処理は来る日も来る日も続き
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〜旧我家解体記:室内の片づけにはゴミや廃材がいっぱいで気が遠くなるほど〜では旧我家の解体作業の作業工程の中で、ゴミや残材が想像以上の多く、その処理が大変だったことに触れました。

今回はゴミ・廃材がどれほど多く出たのかを見て頂くための先回の続きで、今年4月時点での解体の進行状況をご紹介します。

まずは先日ご紹介した台所と応接間の壁が写る1枚目の画像と、2枚目の4月22日時点で撮影した台所と元応接間の写る画像を比べて頂くと、1枚目の画像では台所には沢山のゴミやガラクタ・段ボール箱が山のように残っており、応接間には部屋を囲む壁や白い天井材がまだ残っているのが見えます。
更によく見ると、台所の奥にはまだ食器棚やキッチンのシンクが残っているのがお分かり頂けるでしょうか?実は1枚目の画像では、大型出窓や換気扇もまだ残っています。
また応接間の壁は、化粧ベニヤ板で覆われれていますが、それを剥がすとやはり土の荒壁が現れます。
これに対して2枚目の画像では、元台所だった部屋が、台所だったとわからないほどスッキリしており、応接間を囲っていた壁は見えず、白い天井材も取り払われています。
ですが元応接間には、1枚目の画像で台所に山積みになっていた段ボール箱は潰して板状にした上で束ねて積み上げ、ゴミなどはポリ袋に詰めて置かれているのが写っています。

作業は着実に進んでいるのがお分かり頂けると思いますが、それでもまだまだ処分すべき物が山のようにあることがお分かりいただけるでしょう。
段ボールの束は平積みにして軽トラックの荷台一面に及ぶ量でしたが、古紙を引きとる業者に持ち込んでも、2百数十円の値段にしかなりませんでした。

また6枚目の画像や下から2枚目の画像には、元私の部屋に外壁を剥がして出たモルタルや土の荒壁を壊して出た残土が山積みになっているのがお分かり頂けるでしょうか?
あの残土は全て壁土で、屋根土は含まれていません。
〜旧我家解体記:屋根瓦と屋根土を降ろせば、透け透けのスケルトンハウスでご紹介した画像で玄関に集積してあった屋根土は屋根の解体工程、つまりこの後の段階で玄関に集積されるのです。

軽トラックを正面から写している画像や、2トンダンプの荷台が写る画像をご覧頂ければ、まだ屋根の瓦が残っているのが分かります。
元私の部屋に山積みされた土壁の土は、一見するとダンプ一台で全て積め込める程度の量のように見えますが、実際にはその2割ほどが残ってしまいました。
土にしろ、モルタルやコンクリート片にしろ、2トンダンプ一車に積み上げて、処理業者に持ち込むだけで、まる一日かかってしまいます。それもマイペースな作業ではないですよ、必死にかき集めて乗せて、やっとこさで。


でご紹介した台所と応接間前の画像

●4月22日撮影の画像3枚●
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画面左が元台所、画面中央は元応接間
元台所はかなり片づきましたが、元応接間には段ボールの束やゴミなどが山積みです。

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画面中央は元居間、旧我家で一番広い部屋でした。

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ポリ袋の中には布類やプラスチック類が、木箱には古釘が

●4月24日撮影の画像4枚●
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壁は全て無くなってもゴミや廃材の処理はまだまだ

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土壁を全て壊すとこんなに残土がでるんですよ。

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廃材や残土に囲まれ、休憩にはスナック菓子とドリンクで。

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●4月26日撮影の画像2枚●
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土やガラ、モルタル片を積む前の2トンダンプ荷台
画面左奥の元私の部屋には、モルタル片や土が山盛り。
もちろんダンプはレンタルです。ただし無償で。

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この日ダンプに積んだのは、この山のような土ですが、全ては積めなかった。

●4月29日撮影の画像1枚●
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台所だった部屋から正面を望む
画面左側の元応接間に積まれていた段ボールの束と、
元私の部屋に山積みされていた残土が無くなっているのがわかるでしょうか?
画面右の枠には大型出窓がはめ込まれていました。

福屋不動産販売での当物件のページ
所在地大阪府堺市中区八田北町
交通泉北高速鉄道 深井駅 徒歩24分
阪和線 津久野駅 バス乗車10分 八田荘停歩3分
 土地 107.33m²(32.46坪)公簿
建蔽率 60%
容積率 200%
物件No.20000904912
【セールスポイント】
南向き・間口が広い・車が通り抜けない
南紀、神戸、関空、奈良、京都へと繋がる高速道路のインターがすぐ近くにあるということです。
阪神高速湾岸線へと繋がる泉北有料道路(通称百金高速)や、近畿道、阪和道の入り口が歩いてでも行ける距離にある。
レジャーに出かけるには持って来いの立地条件ですよ!




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〜真田丸:第48回放送『引鉄』では、和睦後の豊臣・徳川の水面下の動きが〜
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『NHK大河ドラマ 真田丸』第48回放送『引鉄』では、大坂冬の陣が豊臣・徳川間の和睦による休戦状態となり、双方の水面下の動きが描かれました。

家康は濠と真田丸を排除したことで、後は豊臣が再軍備の動きを見せるのを手ぐすね引いて待ちかまえます。
対して豊臣方の大阪城内では幸村が、徳川は戦を止めたのではないことを百も承知で次の策に思いをめぐらせますが、他の浪人衆は大坂城を去ることも無く再びの決戦に向けた決起の思いを治めることが出来ずにいました。
ドラマの冒頭、幸村は夜陰に乗じた少数兵による家康本陣へのゲリラ戦を慣行させることで家康に身の危険を覚えさせることで本陣から家康が出るように仕向けます。
この期に幸村は佐助を使って家康暗殺を謀りますが、佐助が討ったのは影武者でした。
家康はこの幸村の策に激情して総攻めを慣行することもなく、豊臣方が明らかな再軍備の動きを見せるまで待つ構えを見せ、駿府へと戻ります。
これにより大阪城にはつかの間の平穏が訪れ、長曾我部元親は家臣と語らい、毛利勝永は妻や嫡子との団らんの時を持ちます。
幸村もまた徳川方の矢沢三十郎・小山田茂誠や信之の子息である真田信吉・信政との対面を果たします。その場には大助の姿もありました。
信吉は大助と親しく語らいますが、信政は「大助もその父も、(同じ真田)一族などと思ったことは無いは!」と言い放ち、大助をなぎ倒して襲い掛かります。
信吉はこれを止めようとしますが、手におえません。
信政と大助の争いがエスカレートしようとしたその時、幸村・三十郎・茂誠が現れ、茂誠は「何事だ!」とこの争いについて問いただします。
信吉は茂誠の問いに対して「相撲をとっておりました。」と答えますが、三十郎は「よし、俺が相手だ。」と三人の争いに割って入ることでその争いを納めます。

その後幸村は茂誠に対して野戦での戦い方を尋ね、茂誠は野戦で大将を狙うには鉄砲が良いのではないかとアドバイスします。
信之側の真田の者との会見を終えて幸村が大坂城に戻ってみると、春・きり・堀田作兵衛らがかつて利休の茶室のあった場所で畑仕事をしています。
これを見た幸村は、自身も大助共々畑仕事を手伝おうとしたその時、作兵衛が畑の下から箱を掘り当てます。
その箱には利休のマークが入っていました。そうです、以前当ブログでも触れた利休の生家である堺の豪商の屋号:とと屋から三谷さんが思いついたと思われる魚の象形文字のようなマーク。それが箱に刻まれていたのです。中には短筒が二丁入っていました。
『NHK大河ドラマ 真田丸』では、利休は武器商人として敵方であった北条家に鉄砲玉の原料となる鉛を売っていた罪が露見し、斬首されるという設定が描かれました。
そして今回単筒が二丁利休の茶室跡地から掘り起こされたのです。この後の大坂夏の陣において、敵方の大将:家康を討つことだけが戦に勝つただ一つの方法だと考える幸村にとっては、都合良すぎる設定ですが、ドラマとしては面白い設定です。
毛利勝永にこの短筒を見せたところ、勝永は「これは馬上筒というものだ。イスパニヤ人から聞いたkとがある・・・・。」と語ります。
これで家康を討つ算段は出来ました。
しかし大坂方には更なる問題がありました。決起にはやる浪人衆の早まった行動を押さえなくては幸村の策も徒労に終わってしまいます。
しかしそんな幸村の悪い予感は早々に現実化し、大野治房は城内の藏を破って金を強奪したため、他の浪人たちへの不公平感を招かないために皆にも金を分け与えますが、その金で浪人衆は武器を買い集め、あげくの果てに濠を掘り返す行動を起こします。
これにより家康の思惑は貫徹し、家康は諸大名に戦支度を命じます。

幸村が小山田茂誠に託した手紙が信之に届き、信之は幸村が家康と刺し違えて死ぬ気であることを気取ります。
そして今回のドラマは、幸村が馬上筒を構えて、標的を討つシーンでエンディングを迎えます。

いよいよ次回のドラマでは、最終決戦、大坂夏の陣へと突入します。予告編では徳川の忠犬になり下がった伊達政宗との対決シーンがあることを予感させました。
『NHK大河ドラマ 真田丸』では、これまで独眼竜らしからぬキャラクターとして描かれている
政宗ですが、果たして次回では独眼竜政宗らしい姿が描かれるのでしょうか?
そしてきりと幸村は結ばれるのでしょうか?
三谷さん、お願いしますよ、政宗のイメージを壊さないでくださいね。

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〜真田丸:家康は大御所として関ケ原の戦い以後、ありとあらゆる手を使い
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『NHK大河ドラマ 真田丸』第47回放送『反撃』では、大坂冬の陣の後に結ばれた和睦交渉により、家康は大坂城の防御の要だった濠や真田丸を排除します。
放送の中で家康と秀忠は、以下のような会話を交わします。
家康:「見よ、瞬く間に濠は埋められて行く。」
秀忠:「真田丸も、見るも無残な姿に。」
家康:「これで、裸の城じゃ。後は、向こうが和睦を破るよう仕向けるだけ。」
秀忠:「そこで総攻めを掛けるのですね。」
家康:「秀忠、これぞ、城攻めよ。ハッハッハッハッハッハッ、ウハッハッハッハッハッハッハッ。」
と勝利を確信した高笑いを見せます。

考えてみれば秀吉は百姓から成りあがった天下人で、武将らしく正々堂々の戦いに固執せずに、奇想天外な策によって勝ち続けたことに違和感はありません。
ですが家康は違います。生まれながらの武将であり、自らを源氏の流れをくむ血筋と公言していました。
にもかかわらず、天下取りを目前にした戦いにおいても、決して横綱相撲はとらず、例え卑怯・姑息な手段であろうと、勝つためには何でも行う、言わば百姓以下の卑劣な手段も辞さなかったのです。
一言:言っておきますがこれはお百姓さんを悪く言っているのではないですよ。武芸や兵法に通じていない者が、それ以外の熟慮を持って戦うのは無理からぬ事と言っているのです。)
和睦後の家康のやり口は、相手が握手を求めて来たところを逆手に取って後ろ手にした上で、なぶり殺しにするような手口です。
果たしてこれが源氏の血を引く?天下人の成す行いでしょうか?
ドラマの中で、かつて三成亡き後の豊臣家の命運を一身に背負っていた片桐且元の豊臣家に対する忠誠心を利用して淀殿の居場所を聞き出して大坂城を砲撃し、その事に抗議する且元に対して、ただ無言で軽蔑の目を向けるのみでした。恐らく史実においても同様だったでしょう。
「勝てば官軍」という言葉の根源は、この家康のやり口から始まったとすら思えるくらいです。

振り返れば関ケ原の戦いにおいても、
家康は徳川家直属の大名ではなく、多くの豊臣家恩顧の大名を、嘘と脅しで寝返らせて勝ち取った勝利でした。
現在では関ケ原の戦いにおいて、石田三成率いる西軍が、家康率いる東軍に勝つ手立ては無かったという結論が大勢を占めています。

関ケ原の戦いにおいて会津(上杉)征伐に向かう家康の出陣を受けて、先に挙兵した三成軍は大垣城に入り、東軍を迎え討つ態勢を整えていました。
とことが、福島正則(旧豊臣方の東軍)らが率いる先発隊によって織田軍の守る岐阜城までを一気に占領して本隊と先発隊が大垣城に迫る中、三成にとっては頼らざるを得なかった毛利軍と小早川軍の内、小早川軍が西軍本隊へ向けて動こうとしなかったがために、小早川秀秋の動きを監視すると同時に本隊との連携をとるため、あえて夜陰に乗じて大垣城を出て笹尾山に陣取ったとされます。
この西軍本隊が大垣城を出たことが、西軍の大敗の結果を生んだ一番の原因だとされますが、
それでも西軍にとっては、小早川軍と毛利軍さえ西軍として機能していれば、あえて谷を遡って攻め上がる徳川軍を、必勝の構えである鶴翼の陣によって殲滅できる態勢でした。
一言:この時家康軍があえて鶴翼の陣をひく西軍の中に深く攻め入ったのは、毛利秀元軍や小早川秀秋軍を味方につけているという確信があったからでしょう。)
ところが関ケ原において開戦されるやいなや、小早川秀秋は家康軍からの銃撃の脅しに恐れを成し、かねてより家康からの寝返りの命に従う決断を下し、小早川軍は松尾山から北に向かって一気に駆け下り、大谷吉継軍・宇喜多秀家軍を討ち崩したために、西軍はパニックに陥り、更なる裏切り者も続出します。
それでも、南宮山に陣取る毛利秀元軍が家康の寝返り要請に呼応せず、家康本陣を南宮山より一気に駆け下り、背後から打ちかければ、西軍の大敗はなかったのですが、この毛利軍も態度を決めかね、東西両軍の戦いを静観していたため、わずか半日で徳川軍の勝利が確定し、石田三成は佐和山城へと敗走するも捕らえられ、後に斬首されたのです。

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そして家康のなり振りかまわぬ工作は、関ケ原の戦いのみに止まりません。

今日2016年12月4日の日曜 10:00 - 10:30においてテレビ東京制作の美術教養番組である『美の巨人たち』と言う番組(制作局では既に10月22日(土) 22時00分〜22時30分に放送)で、『関ヶ原合戦図屏風』が取り上げられました。

日本の歴史の大きな転換点となった「関ヶ原の戦い」(1600年)。徳川家康が天下を取ったこの戦いを描く『関ヶ原合戦図屏風』は、縦2メートル、横は2隻合わせて12メートルの絢爛豪華な屏風絵です。描いたのは誰なのか?誰が何のために描かせたのか?さらにこの作品、元々はもう一双あり、2双4隻だったと考えられているのです。現存しないもう一双には、一体何が描かれていたのか…?歴史ロマンの謎に迫りました。

大阪城公園のすぐ目の前にある大阪歴史博物館に展示されている重要文化財・関ヶ原合戦図屏風は、別名・津軽屏風と呼ばれ、樹木が生い茂る山には緑青がふんだんに使われています。

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重要文化財・関ヶ原合戦図屏風
右隻(上の屏風)から詳しく見ていくと、
舞台は美濃国・大垣で関ケ原の合戦前日の9月14日の様子が描かれています。
西軍の本拠地の大垣城では武将たちが敵の様子をうかがい、対する東軍の赤坂の野営地です。
意外なのは東軍の陣地が西、西軍が東に置かれていることです。
絵図全体の見渡しても合戦で活躍した各武将が特定できない描写になっているのに対して、家康は街道を行く隊列の中に白馬にまたがるハチマキ姿の武将として描かれており、その存在は一目で分かります。関ヶ原合戦図屏風の右隻には、人物一人ひとりの着物や甲冑まで、柔らかな筆致と鮮やかな色彩で描かれ、戦の重要場面も随所に描かれています。
一本の川をはさみ繰り広げられているのは杭瀬川の戦いで西軍は勝利を収め、大いに士気が上がったといいます。
石田三成が陣取ったのは笹尾山。徳川家康が陣取ったのは南東へ3kmほど離れた桃配山でした。山頂には家康が腰掛けたと言われる腰掛石も残されている。
ここでどんな戦いが繰り広げられたのか?
午前8時、井伊直政が先陣を切り、先を越された福島正則がこれに続く。
戦が始まって約4時間で戦況が大きく動きます。
戦況が一進一退の硬直を見せる中、西軍本隊はかねてより用意していた大筒を用いて東軍に動揺を与え、戦況は西軍有利に動いたその時、当時まだ18歳の西軍・小早川秀秋は、東軍に着くよう家康から要請を受けていました。しかし東西軍のどちらに加担するかの態度を明らかに見せない秀秋に対し、家康は世にいう問鉄砲(といでっぽう)を小早川軍に向けて打ちます。
小早川秀秋は、家康が怒っていると感じ、西軍を攻撃し始めたのです。
「関ヶ原合戦図屏風」には、そんな敗走する西軍と追走する東軍の姿や、屏風図の左下には松尾山・小早川秀秋軍も描かれているのです。
小早川の寝返りで戦況は一変し、天下分け目の戦いはわずか半日足らずで勝負を決します。

それにしても、、関ヶ原の戦いを描いた屏風は他にもあるが「関ヶ原合戦図屏風」は、関ケ原の戦いを描いた他の作品に比べ、圧倒的に絢爛豪華なのは何か理由があるのでしょうか?

「関ヶ原合戦図屏風」は、合戦の前日と当日の2日間をなぜここまで絢爛豪華に描いたのか?

美術史家の狩野博幸さんによればこの「関ヶ原合戦図屏風」関ヶ原の戦いからそれほど時間が経っていない頃に描かれている」という。
さらに狩野が注目したのが「雲が孤立して書かれている」「この書き方は大和絵系・土佐派」でこの頃は土佐光吉と言う人がいると語る。彼が描いたとされる合戦図と今日の作品を比べてみると雲や人物の描き方が確かに似ている。
関ヶ原合戦図屏風で気になるのは縦約2m、横は2隻で12mという大きさ。なぜここまで巨大なのかについて、狩野博幸は「注文者は力を持った権力者であるということ」を示していると思う。と、語ります。
謎を解く鍵は青森にあった。
重要文化財 関ヶ原合戦図屏風せきがはらかっせんずびょうぶ八曲一双のうち、右隻1、2扇部分)
は、大阪歴史博物館蔵(前田善衛氏寄贈)で、江戸時代初期 慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦を描いた屏風。徳川家康の愛蔵品であり、家康養女の満天姫が陸奥の大名・津軽家へ輿入れする時の道具として持参したものだそうです。
 作者は明らかではないが、当時宮廷周辺で活躍していた土佐光吉が描いたとする説や豊臣秀吉や家康に仕えた狩野光信との説もある。この屏風は大垣城に籠もる西軍や関ヶ原へ向かう家康の姿、戦いが終わり伊吹山に逃げ込む西軍とそれを追う東軍など、関ヶ原での合戦そのもの以外も描かれているところが特徴。現存する関ヶ原合戦図屏風の中では最も古いとされ、右隻1、2扇部分の部分には、西軍の拠点となった大垣城とその付近の砦が描かれ、城の内外とも具足を身につけた兵があわただしく行きかう様子を描きだしています。

「関ヶ原合戦図屏風」は、家康が描かせ江戸城の大広間に飾らせていた可能性が高いというのです。
さらに現在は一双しか残っていないがもともとは二双だった可能性が高いとも。
「関ヶ原合戦図屏風」について茨城大学人文学教授の高橋修さんは、右隻は合戦前日の大垣周辺、左隻は合戦当日の午後で、両方の間には確実に欠落があるといいます。
さらに後の一隻について全体の左側に行く説でいいと思うと言い、佐和山城周辺が描かれていると推察。
大垣から佐和山まで距離で約40kmで合戦前日から翌日までの3日間を家康は二双の屏風に仕立て上げた。その為これほどの巨大さが必要だったと。
世紀の一戦は自らの力によって勝利したと印象づけるために、画面には家康以外には特定できる人物がないように描かれているのではないか?
「関ヶ原合戦図屏風」には、
徳川の時代はここから始まったという創世の神話が描かれているために、どこまでも壮麗で美しくなければならなかったのだと。
一言:まるで天皇家の権威を確固たるものにするために記された古事記・日本書紀の記紀神話のようですね。)

関ヶ原の戦いから3年、家康は江戸幕府を開き、2016年の今年は奇しくも家康の没後400年です。関ヶ原が歴史の分水嶺となって、信長でもなく秀吉でもない、家康こそが戦国時代に幕を引いたという神話が、この「関ヶ原合戦図屏風」には描かれているのです。
東照神君から東照権現へと神格化した徳川家康の神話が。
それだからこそ、関ケ原の戦いが、徳川家が本来従えていた譜代大名の活躍によってではなく、家康の調略によって寝返った旧豊臣家の大名(外様大名)によって西軍に勝利したという史実を隠ぺいするためにも「関ヶ原合戦図屏風」は、旧豊臣家の大名らの存在が特定出来る描写をあえて排除した手法で描かれているのではないかと、『美の巨人たち』「関ヶ原合戦図屏風」は結論づけました。

こうして、大坂の陣においても、家康は嘘と脅しを巧みに用いて、豊臣家を滅ぼし、自らは神格化してゆくのです。
そしてこの神格化もまた、人心を誤魔化し、ある時は脅しの根拠となる権威を得るためのものだったと言えるでしょう。
そのことがあったからこそ乱世は納まり、太平の世が300年続いたと言いますが、果たして江戸時代は、本当に泰平の世と言い切れるものだったのでしょうか?
それはあたかも今日の中国共産党支配下に置けるかの国の見せかけの平和だったのではないでしょうか?

更に言えば、豊臣秀頼による政権下では、決して実現出来なかった平和だったのでしょうか?
皆さんはどう思われますか?

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〜真田丸:初冬の真田庵には味のある枝ぶりの柿の木に朱色の柿が散在し
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前ページでご紹介したように12月3日は抜けるような青空のこの上ない上天気で、12月だというのにポッカポカでした。
今年は真田丸と旧我家解体記に明け暮れた一年でしたが、上天気に誘われて久々に出かけました。

真田昌幸・信繁の幽閉地であり真田大助・うめが生まれた地、九度山の真田庵こと善名称院(ぜんみょうしょういん)を山門の外から撮影したのが前回ご紹介した画像でした。

今回は境内に入って、カメラを棒の先にくっつけ撮影した画像です。

境内に入ると、本堂の前には、味のある枝ぶりの柿の木に、実がポツリポツリと散在していて、なんとも風情がある木でした。
この柿の木をワンポイントにして撮影したつもりです。
その意味で言えば、以下の画像の2枚目か3枚目がベストアングルでの撮影でしょうね。
柿の木の後ろにある松の木の緑がうまく重なって綺麗だと思えます。
ただ、それより高い位置から撮影した画像も、蒼く抜けるような空と青い山並みがまた美しく、これはこれでまたイイ感じです。

よく見ると、撮影者である私の影法師が写っていますよ。手には棒の先にカメラを付けて。

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柿の木と松と真田庵(人目線で撮影)

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柿の木と松と真田庵(高さ4メートルから撮影)

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柿の木と松と真田庵(高さ6メートルから撮影)

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真田庵真田地主大権現と青い山並み(高さ7メートルから撮影)

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真田庵真田地主大権現と青い山並み(高さ9メートルから撮影)

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