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〜真田丸:真田昌幸・幸村・大助の幽閉地 真田庵をプチ空撮(山門外から)〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
今日は抜けるような青空のこの上ない上天気で、12月だというのにポッカポカでした。
今年は真田丸と旧我家解体記に明け暮れた一年でしたが、上天気に誘われて久々に出かけました。
真田昌幸・信繁の幽閉地であり真田大助・うめが生まれた地、九度山の真田庵こと善名称院(ぜんみょうしょういん)に久々に行ってきました。
善名称院(ぜんみょうしょういん)については以前にも〜九度山町ぶらり:真田庵と幸村(和歌山県:2014.5.1.)〜や〜九度山町ぶらり:真田家 家紋の意味〜などの九度山ぶらい編でしっかりご紹介しているので、ここではあえて説明いたしません。
なのでカメラを棒にくっつけて撮影した画像をご覧ください。
今回は山門の外から撮影した画像です。
真田庵を山門の外から撮影(人目線で)
真田庵を山門の外から撮影(高さ5メートルから)
真田庵を山門の外から撮影(高さ7メートルから)
真田庵を山門の外から撮影(高さ9メートルから)
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風景
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カメラを棒にくっつけて写した写真をご紹介。
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〜旧我家解体記:室内の片づけにはゴミや廃材がいっぱいで気が遠くなるほど〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!旧我家解体記編
外壁を剥がしていた2月14の〜旧我家解体記:自力解体を決意した理由と2月14日の段階での解体状況〜から剥がした土壁の土の排除作業にかかり始めていた〜旧我家解体記:外壁のモルタルと野地板を剥がし終わると次は土壁の除去〜の2月21日の状況の後、5月1日時点の〜旧我家解体記:旧我家解体記と熊本大地震には危うい関係が、そして震度4〜での屋根材の排除へと作業段階は約2ヶ月分とばしましたが、今回はこれまでにご紹介しなかった3月と4月中旬までの作業段階に戻ってご紹介します。
見て頂ければきっと、その道のりがいかに遠い道のりであったかがお分かり頂けるとおもいます。
まずは外壁を剥がす作業が最終日となった3月17日の画像です。
1枚目が朝の段階での状況で、2枚目が夕刻になっての状況です。正面(南面)の外壁を剥がし終えた時点で、外壁の撤去作業はようやく終了しました。
暇をみつけての作業とはいえ、外壁の撤去に1ヶ月が経過していました。
3月17日朝の段階での旧我家
3月17日夕刻の段階での旧我家
さて次は3月20日の状況です。外壁は全て、部屋を仕切る壁も殆ど剥がし終えていますので、室内の状況はスッキリかというと、とんでもなーい!分別しきれていないゴミなどがとんでもなく沢山残っています。
特に以下の3枚目の画像は、玄関(画面右)と台所(画面左)を写したものですが、ゴミまたゴミで床は埋め尽くされ、これから紙・段ボール・木・金属類・ビニールなどをしっかり分けて後、堺市のクリーンセンターで処分してもらうもの、幾らかの金額で買い上げてもらえるもの取りまとめてをしかるべき業者などに持ってゆくのです。
先は長く、気の遠くなるような状況でした。
3月20日の段階での旧我家(居間など)
3月20日の段階での旧我家(居間など)
画面右側に分別したゴミを詰めたポリ袋の山、左側には畳を上げたした床が写っています。
3月20日の玄関(画面右)と台所(画面左)そしてトイレの便器も左手前に
4月中旬になるとゴミ類はいくらか整理がつき、柱や垂木などの再利用可能な材木意外の、木の廃材をまとめてクリーンセンターに持ち込むために、選別して軽トラックに積み込んで行きます。
廃材の選別に数日を要し、釘抜きに更に数日、軽トラックにコンパネを立てて運転席の屋根の高さまで積み込むまでの途中の日には、木材を積んだまま帰宅します。
この一年、軽トラックにはとても頑張ってもらいました。
以下の一枚目の画像に写る乾燥スパゲティーのようなものが、何だかわかりますか?
これは土壁を壊して抜き取った竹材です。
これでも家全体の土壁に使われていた竹材の半分くらいなんですよ。
竹細工にでも再利用できればいいんですけどね。
4月14日の段階での旧我家から出た土壁の竹材や廃木材
4月14日の段階での旧我家から出た土壁の竹材から軽トラックへと積み込む
4月14日の段階での旧我家
モルタルの破片が入った土嚢や倉庫の壁材として使われていた波トタン、
その上には重しも兼ねて窓の金格子が
福屋不動産販売での当物件のページ↓
所在地大阪府堺市中区八田北町
交通泉北高速鉄道 深井駅 徒歩24分
阪和線 津久野駅 バス乗車10分 八田荘停歩3分 土地 107.33m²(32.46坪)公簿
建蔽率 60%
容積率 200%
物件No.20000904912
【セールスポイント】
南向き・間口が広い・車が通り抜けない
南紀、神戸、関空、奈良、京都へと繋がる高速道路のインターがすぐ近くにあるということです。
阪神高速湾岸線へと繋がる泉北有料道路(通称百金高速)や、近畿道、阪和道の入り口が歩いてでも行ける距離にある。
レジャーに出かけるには持って来いの立地条件ですよ!
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〜真田丸:なぜ秀忠は凡庸で実直な将軍になった?そこには兄や秀次の死が〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
前回、前々回と、徳川秀忠について記し、その人物像を凡庸、凡庸と連呼しました。
そしてそれ以前のページでも、おバカとも秀忠のことを記しました。
ですが改めて秀忠とその周辺での出来事を振り返り、秀忠に対するこれまでの見方から視点を変えてみると、秀忠にはそのような人格にならなければならない必然性があったようにも思えます。
もしかしたら彼は、その生涯をかけて、凡庸で実直一辺倒な自分を演じていたとも。
今回はなぜ秀忠は凡庸で実直な将軍になったのか?について記します。
前回のページでもご紹介しましたが、秀忠は家康の嫡男でもなければ正室の子でもなく、側室の子であり三男でした。そんな秀忠がなぜ徳川家の家督を継いだのか?
それにはまず二人の兄弟について触れる必要があるでしょう。
1559年)3月6日、松平元康(後の徳川家康)の長男(嫡男)として駿府で生まれる。今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしますが、桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長・氏次との人質交換により岡崎城に移ります。
特に1577年の遠江横須賀の戦いで退却時の殿軍を務め、武田軍に大井川を越させなかったと伝わる活躍を見せ、岡崎衆を率いて家康をよく補佐したといいます。
とことがそんな優秀な家康の嫡男:信康が、切腹というかたちでこの世を去ります。
その結果信康はヒステリックに母の悪口を口にする徳姫にあきれ返って全く取り合わなかったのでしょうか?徳姫は築山殿ばかりでなく信康とも不和になってしまいます。
その結果徳姫は、父・信長に対して12箇条の手紙を書き、使者として信長の元におもむく徳川家の重臣・酒井忠次に託します。
手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通した、と記されていたとされます。
信長は使者の忠次に事の真偽を問いますが、忠次は信康を全くかばわず、すべてを事実と認めてしまったのです。
(一言:忠次は信康や築山殿をかばうことは、徳姫を悪く言う事に等しいと思い、思案の末徳姫の言い分を認めざるを得なかったのでしょう。よかれと思って、しかしその結果は・・・・・。)
この結果、信長は家康に信康の切腹を要求した。徳川家中では、信康への処断に対して反対する声が強く、信長との同盟破棄を主張する家臣もあったといいます。
そんな中養育係りの平岩親吉は、責任を自分が被り、自らの首を信長に差し出すことを求めますが、家康は、徳川家の老臣が既に認めてしまった以上、そのような小細工では信長の怒りを反らすことは出来ないと判断し、信康の処断を決断。
まず築山殿が二俣城(守将は大久保忠世)への護送中に佐鳴湖の畔で、徳川家家臣の岡本時仲、野中重政により殺害された。さらに9月15日、事件以降の幽閉先であった二俣城(浜松市天竜区)にいた信康に切腹を命じたのです。
勇猛な武将として家康を補佐した優秀な嫡男でありながら、以上のような経緯で織田信長の怒りをかった松平信康が、切腹によってこの世を去った1579年に誕生したのが、徳川秀忠だったのです。
ちなみに秀忠の誕生は4月7日、信康の没年は10月5日とされます。
(一言:信康の死より先に生まれた秀忠でしたが、この時家康は、秀忠が信康の生まれ変わりのように思えたのかもしれません。だからこそ凡庸である秀忠を容認し、早々に将軍の座につけることでその身の安泰を図ったのでは?家康は事あるごとに秀忠を叱りながらも、実は秀忠をとても愛していたとも思えます。)
次に家康の次男:結城秀康についてですが、
更に「秀康は双子で誕生した」との説があり、当時双子での出生は「畜生腹」と言われ忌み嫌われる存在でした。
秀康は、父・家康とは満3歳になるまで対面を果たせなかった。その対面も、あまりの冷遇に異母弟を不憫に思った兄・信康による取りなしで実現したとも言われます。
冷遇の理由は、築山殿を憚ったためとも、双子で生まれてきたことにあるともされる。
このため、次男である秀康は本来ならば徳川氏の後継者となるはずであった。
しかし、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和解するときの条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は人質)として差し出され、家康の後継者は異母弟の長松(後の徳川秀忠)とされます。
このとき家康本隊は東海道から、そして別働隊を秀忠が率いて中山道(東山道)を進軍することが決められ、秀康には家康らが西に引き返す間、景勝を牽制するという留守居の役目が与えられ、その重要な任を見事に果たします。
この武功により、関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城10万1,000石から越前北庄67万石に加増移封されます。
1604年には松平氏に復することも許されたとも伝えられます。
1605年、権中納言に昇任し、1607年には伏見城番に任じられますが、病にかかり職務を全うできなくなったため3月1日に越前へ帰国し、閏4月8日に死去。享年34。死因は「当代記」により梅毒と伝えられます。
こうした経緯で秀忠の一番上の兄:信康が切腹した時に秀忠はまだ生まれたばかりでしたが、すぐ上の兄:秀康らの口から秀忠は、信康の顛末を聞き及んでいたと思えます。
また、側室の子であることから不遇であった秀康の様子を見るにつけ、秀忠は、天下人の不興を買えば例えその後継者であったとしても、切腹させられたり、他家へ養子に出されるなどの不遇な扱いを受けることを幼い頃より見て育ち、自身の立場の危うさをヒシヒシと感じていたのではないでしょうか?
しかし秀忠は、豊臣秀吉の政権下で人質として秀吉のもとで寧らの庇護を受けながら暮らす中、秀吉の後継者と目されていた豊臣秀次が、秀吉の実子として秀頼が誕生するや、謀反の疑いを掛けられて自刃するという事件に遭遇します。
秀忠はまたしても天下人の強大な力と、その後継者としての立場がいかに危うい存在であるかを改めて思い知ることとなったのです。
このような秀忠が家康の真の後継者となるまでに、数々の次期後継者の悲惨な末路を、ある時は兄から、ある時は母から、ある時は養育役や側近などから、決してそうした後継者の悲惨な末路に至る轍を踏まないように、生まれた年に起きた長兄の事件から言い聞かされて育ち、自らもそうなってはならないという思いを強くしていったのかもしれません。
その結果が、凡庸であきれ返るほど実直だったという秀忠の人格を形成していったのかもしれません。
家康に褒められようとすることよりも、逆鱗に触れないことだけを肝に命じた人生を生きたと。
そして家康がこの世を去り、己の天下となるや、将軍の座を脅かす存在や、意に沿わない存在を次々と断罪し、自らの安泰を図ります。そのことが、徳川家繁栄に繋がると信じて。
正室:江の存在を軽んじることなく、多くの側室を持つこともなく、ひたすら石橋を叩いて渡るかのように。
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〜真田丸:凡庸な将軍と言わる徳川秀忠の実像とは?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
前回の徳川家の〜真田丸:幸村らの策に対して、家康亡き秀忠は徳川の大将たりえたか?〜では、二代将軍 秀忠が多くのドラマで描かれるような凡庸な人物であったとすれば、家康抜きで豊臣家を滅ぼすことなど出来なったのではないかと記しました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられた。進軍途中、信濃国上田城攻めを行なっていたが、天候不順による進発命令の遅れと行軍の遅れから、9月15日(新暦10月21日)の関ヶ原本戦に間に合わなかった。
9月20日に大津に到着した秀忠は戦勝祝いと合戦遅参の弁明をすべく家康に面会を求めたが家康は「気分がすぐれない」として面会しなかった。翌日または3日後に面会したと言われている。 これには榊原康政ら家臣の仲介があったとされています。
慶長8年(1603年)2月12日に征夷大将軍に就いて幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、嫡男・秀忠を右近衛大将(次期将軍候補)にするよう朝廷に奏上し、慶長8年(1603年)4月16日に任命された(すでに大納言であり、父・家康が左近衛大将への任官歴があったので、すぐに認められた)。これにより、秀忠の徳川宗家相続が揺るぎないものとなり、また徳川家による将軍職世襲もほぼ内定します。
この時期の秀忠は江戸右大将と呼ばれ、以後代々の徳川将軍家においては、右大将といえば、将軍家世嗣をさすこととなるのです。
関ヶ原の戦いの論功行賞の名の下に、豊臣恩顧の大名を西国に移した徳川家は、東海・関東・南東北を完全に押さえ、名実ともに関東の政権を打ち立てた。
ここに頼朝(右大将家)を崇拝する家康の願いが現実します。
そしてわずか2年後の慶長10年(1605年)、家康は将軍職を秀忠に譲り、秀忠が第2代征夷大将軍となります。
1600年の関ケ原の戦いに大勝した家康は、慶長10年(1605年)正月、父:家康が江戸を発ち伏見城へ入ると、2月、秀忠も関東・東北・甲信などの東国の諸大名あわせて16万人の上洛軍を率い出達し、3月21日には秀忠も伏見城へ入ります。
4月7日、家康は将軍職辞任と後任に秀忠の推挙を朝廷に奏上し、4月16日、秀忠は第2代将軍に任じられます。これにより建前上家康は隠居となり大御所と呼ばれるようになり、秀忠が徳川家当主となりますが、将軍・秀忠は江戸城に居住し、駿府城に住む大御所・家康との間の二元政治体制となり、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。
(一言:ようするに秀忠は自らの考えが政策に及ばない、お飾りの将軍でしかなかったということになります。)
結果、おもに秀忠は徳川家直轄領および譜代大名を統治し、家康は外様大名との接渉を担当しました。
これは「秀忠は人心の掌握力に劣る。」というのが家康の秀忠に対する評価だったと思えます。
秀忠は一般的に言われるような凡庸な将軍ではなく、『武勇ある実直な将軍〉』という表題をかかげていますが、このサイトでその武勇の実例に触れる記述はみあたりません。
やはり実戦における秀忠の実績は皆無に等しいと理解せざるを得ません。
秀忠は、家康から3万8千の兵を任されながら、関ケ原の戦いで上田城の真田昌幸に手こずり、本戦に遅刻して家康から大目玉をくらったことに懲りて、大坂冬の陣に際しては関ケ原の戦いでの時と同じ轍を踏むことを恐れて強行にすぎる進軍により、早々に家康のもとに至ります。
これで秀忠は家康に「よくぞ早々に来てくれた。」とほめられるかと思いきや、強硬な進軍が兵の疲労困憊を招いていたことから、またしても叱責されます。
二代将軍 徳川秀忠 - 歴史研究所によれば、秀忠の功績として、
●江戸幕府の基本システムの確立
●老中制度の元となる、老職を設定
●諸大名の大規模な改易と転封。
という政治的な功績として3つを掲げていますが、『諸大名の大規模な改易と転封』については関ケ原の戦い及び大坂の陣において徳川方となっていた旧豊臣方の大名に対して、その折の功績いかんにかかわらず、その後の小さな不業績を殊更にとがめて改易や転封という厳罰に処し、自らの意に沿わない人物も次々と排除して行きます。
これは秀忠がいかに小物で、懐の浅い人物であったかを如実に物語っていると私は思います。
ようするに秀忠は自身に自信が持てず、自らがいかに将軍もしくは武将としての器が小さいかを無意識の内に自覚していたということです。
二代将軍 徳川秀忠 - 歴史研究所では秀忠をとにかく律儀すぎる人物だったと記しています。
徳川家康曰く「律儀すぎる。人は律儀一点張りではいかぬものだ」 重臣の本多正信曰く「殿も時には法螺を吹きなされ」と、言われるほどであったが(これに対し秀忠は、「父のウソを買う者はいくらでもいても、私のウソを買う者はいないだろう」と答えている)、そのために関ヶ原の戦いへの遅参があっても、将軍の座をしっかりゲットすることが出来たのかもしれない。 およそ父に刃向かうような人物ではなかったのであり、また戦争は苦手であったが、政治系については抜群の能力を持ち、家康の路線を忠実に受け継げた。色々理由はあるが、ここが兄・徳川(結城)秀康を差し置いて将軍の座に就けた最大の理由では無かろうか。 そして期待通り、徳川秀忠は、父が死去すると、幕藩体制を揺るぎないものにし、江戸幕府長期政権を作りあげることになる。鎌倉幕府・室町幕府の2代目と徳川秀忠は雲泥の差であった。酒井忠世、土井利勝、安藤重信といった重臣に支えられ、他方、自分に従わない弟の松平忠輝、譜代で家康子飼いの本多正純を改易。 そして、外様有力大名の福島正則(広島50万石)、田中忠政(筑後柳川32万石)、最上義俊(山形57万石)、蒲生忠郷(会津若松60万石)を改易。最終的に、彼が大御所の時代も含めると、外様23家、親藩・譜代16家も改易されたのである。また、転封も秀忠の時がピーク。こうして、親藩だろうが譜代だろうが外様だろうが、遠慮無く改易するぞという姿勢を出し、大名統制を行い、幕府に刃向かいそうな芽はことごとく潰したのである。 なお、妻で織田信長の姪のお督に頭が上がらなかったのは有名な話。 側室を持たず、一度だけ女性に手をつけたところ、後の保科正之が生まれてしまい、会うこともせずに保科家に養子に出してしまっている。しかし、頭が上がらないと言っても、現代と違うのだし、信長も秀吉も家康も生きていないのである。お督と不仲になったところで秀忠の地位に影響は殆ど無く、側室を持つことは出来たはずである。恐妻家であったのは事実だが、やはりそこにも秀忠の律儀さが表れ、もちろん愛妻家だったのではないだろうか。 としいます。 前向きに秀忠を評価すれば、二代将軍 徳川秀忠 - 歴史研究所のような記述となるのでしょうね。
皆さんは秀忠をどう評価しますか?
父:家康が大きすぎる存在であったことに、同情すべき点は多々あるとは言え、私は・・・・・・。
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〜真田丸:幸村らの策に対して、家康亡き秀忠は徳川の大将たりえたか?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』で、徳川家の二代将軍 秀忠は、家康の後継者としては物足りない、少なくとも戦場においては凡庸な人物像として描かれおり、第47回放送『反撃』においては、「真田丸など大軍で攻めれば難なく落とせる。」とか、「豊臣家と和議を結ぶことなど必要ない。」などといった内容の言葉を家康に語り、その度に家康は「正信。」と声を上げ、本多正信に対して家康が行う事の説明を代弁させることで、秀忠の考えの浅さを指摘します。
こうした秀忠に対する家康の態度は、将軍として余りに思慮の足りなさに、自らが諭すには次元が低すぎるため「答える事すらj面倒くさい。」と言わんばかりです。
少し話は脱線しますが、そんな凡庸な秀忠を演じているのは、星野 源(ほしの げん)さんですが、私には星野 源さんは、秀忠役としては不適任だと思えます。
なぜなら星野 源さんは、俳優として大人計画に所属して活躍し、ミュージシャンとしてはインストゥルメンタルバンド「SAKEROCK」のリーダーとして、主にギターとマリンバを担当しながらシンガーソングライターとしても活躍しています。また、文筆家としてエッセイストやコラムニストの顔も持ち、複数の連載や刊行物を著しているなどマルチタレントとして多方面で大活躍されているだけあって、ドラマ上の秀頼役においても鋭すぎる眼差しが印象的で、凡庸な人物、つまり秀忠らしい秀忠にはどうしても見えないのです。
それはともかく、前ページの〜真田丸:濠の埋め立てなどの和睦が無くとも豊臣の勝利は無い!ホントに?〜では、もしも大坂冬の陣の後に豊臣方が家康の和睦の提案を受け入れていなくても、豊臣の勝利は無い。という一般的な見方に対して、異論の余地を考えてみました。
その結論としては、「もしも和睦がなかったなら、豊臣方が策略を用いて大坂冬の陣で家康を討ち、徳川に勝てる可能性はあった。」としました。
そこで今回はもしも豊臣方が家康を討ったなら、既に将軍となっていた秀忠は、家康に代わって引き続き諸国の大名を率いて豊臣討伐を成し得たか?について考えてみたいと思います。
そもそも大坂冬の陣に際し、既にそれ以前の天下分け目の関ケ原の戦いにおいて勝利していた徳川方でしたが、それを可能にしたのは家康の力によるものであり、言い換えれば家康の知力と権威に全国の諸大名は服従していたのです。
つまり家康なればこそ当時の態勢は徳川政権としての納まりを見せていたということで、
そんな家康の存在がもしもなくなったとしたら、果たして秀忠にその後を引き継ぐことができたのでしょうか?
歴史を振り返ってみれば、武田信玄亡き後の武田家、上杉謙信亡き後の上杉家、織田信長亡き後の織田家、豊臣秀吉亡き後の豊臣家、そのどれを見ても衰退の一途を辿っています。
徳川家は後に家光という大きな存在が3代将軍として現れ、徳川政権は万全のものとなって行きますが、それは家康存命中に豊臣家を滅ぼしていたからこその歴史です。
冬の陣での和睦がなければ、大坂城の外濠も、真田丸も健在です。
この難攻不落の大阪城を、秀忠を大将とする徳川軍は、陥落させることができたでしょうか?
数多くの大砲をもってすれば、たとえ秀忠でも豊臣家を滅ぼせた!と断言できるでしょうか?
政治力はともかく、少なくとも戦場においては、これまで数々の戦国ドラマに描かれて来た凡庸な秀忠像が正しいとするならば、大坂の陣における徳川方の中にも「家康亡き後の徳川など恐れるに足りず。」とばかりに豊臣方に離反するものが複数現れ、伊達政宗などは天下取りの動きを見せたと思えます。
果たして徳川秀忠の実像とは、どのような人物だったのでしょうか?
続きは明日。
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