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〜真田丸:濠の埋め立てなどの和睦が無くとも豊臣の勝利は無い!ホントに?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第47回放送『反撃』において、徳川軍による砲撃により、大坂城に立てこもる豊臣方は、家康からの和睦の申し入れを受け入れ、濠や真田丸はことごとく破壊されるというストーリーが描かれました。
この大阪冬の陣においての和睦により、まんまと家康の術中に入った豊臣方に、もはや常識的には勝ち目はなくなったと言えるでしょう。
ただしその後の夏の陣では、幸村の捨て身の戦法により、家康を土壇場まで追いつ詰め、あわやという瞬間もあったことも確かなようです。
そして冬の陣においても、もしも豊臣方が和睦に応じず、濠や真田丸が無事であったなら、豊臣方にも十分な勝機があったと私達大阪方の者は考えます。
ですが世間一般には、例え和睦がなかったとしても、徳川方の勝利は揺るぎなかったというのが大方の見方です。
その理由の根拠は、
1. 仮に何らかの方法で徳川方の大将である家康を討ったとしても、既に将軍の座は秀忠に移行している。
2. 日本の(いや世界の)籠城戦において、籠城側が勝利したという実例が皆無に等しい。
というものです。
そもそも日本の戦国時代において、籠城戦で勝利した事例は、真田昌幸率いる、真田軍が、徳川軍に勝利した2度に渡る上田合戦のみ!と言っていいでしょう。
しかしその勝利にも、特定の理由があったからこその勝利だというのが、一般的な見方です。
以上の理由から、大坂城籠城による豊臣方の勝利は100%無い!というのが常識となっています。
果たしてそうでしょうか?
ということで、今回は、
大坂冬の陣で豊臣方が和議に応じなかったとしても、豊臣の勝利は無い!それってホント?
についてじっくりと考えてみたいと思います。
まず最初に籠城戦において勝ち目が無いとされる理由について触れておきます。
多くの場合、籠城を選択する軍は、なぜ打って出る選択をとらないのか?というと、それはもう戦力において明らかに敵方が優っているために、そうせざるを得ないというか、そうするより選択肢がなく、打って出ることは自殺行為だからです。
更に言えば、戦力に明らかな差が有る以上、長期戦になれば籠城側が戦力・戦闘意欲・食料などの消耗により、いずれは敗北となる。
これは私としても認めざるを得ない事実と言う他はありません。
ただし、両軍の間に新たな戦力(例えば援軍や旧豊臣家家臣の徳川方からの離反)・不可抗力(例えば第三勢力の発生、この場合では伊達政宗がこの期に乗じて天下取りに動く。無防備な家康や秀忠本陣を背後から浅野軍の一派が攻めるとか)などが発生した場合は、例外的に籠城方が勝利することがあるのです。
(一言:例えば冬の陣の最中に大地震が大坂を襲ったとしたら、それは大坂城に大打撃を与えるだけで、豊臣方に有利には働かないでしょうが、関東で大地震や大津波が襲ったなら、湿地帯を埋め立てた地域の多い江戸には大打撃となり、徳川軍はひとまず帰還し、休戦となるでしょう。そんな有り得ない設定が戯言と言い切れない程、当時の日本では大地震が多発した時期でした。)
真田昌幸が徳川軍に勝利した2度の上田合戦には、正にそうした因子があったからだと分析されています。
まず第一次上田合戦においては、徳川軍7,845の兵に対して上田軍は2,000でした。
家康はこの第一次上田合戦の前に秀吉軍と対峙した小牧長久手の戦いにおいて、後方の敵(北条)と和睦し、勝利に近い戦果をあげます。
その和睦条件として家康が提示したのが、真田の城であった上田城の北条への引き渡しを、真田に無断で約束し、それに激怒した昌幸との間に起きたのが第一次上田合戦でした。
戦力において3倍以上の徳川軍は、大名ですらなかった小国の国衆だった真田を虫けらほどにも思わず、力攻めで一気に大軍で攻めれば負けるはずがないと侮り、昌幸はその徳川軍の驕りと地の利を生かして自陣深くまで敵軍を誘い込み、一気に殲滅したのです。
もしも徳川軍が昌幸の軍略による誘いに乗らず、長期戦となっていれば、まず真田軍の勝利は無かったでしょう。
更に、関ケ原の戦いの前哨戦となった第二次上田合戦では、秀忠率いる徳川軍(秀忠軍)38,000に対し、真田軍はわずか2,500〜3,000でした。
一次上田合戦のおりの戦力差など比べることも出来ないほどの10倍以上の戦力差がありながら、それでもなお真田軍が勝利できたのは、敵方の大将である秀忠が初陣であったために、戦術や実戦における鉄則を全く理解できず、昌幸の恐ろしさを父の敗北から学び取ることなど考えもしなかったために、一次上田合戦での家康以上の過ちをおかし、多大な兵を失うはめになります。
この真田軍の勝利には、徳川軍にあった真田信之の存在も多きかったでしょうが、それでもやはり長期戦になっていれば、秀忠が大将であるにしても勝てたかもしれません。
ですが秀忠軍は家康からの関ケ原の本戦への参戦を催促する伝令に応じなければならないという時間的制約もあって、真田軍への反撃も出来ぬまま、上田を経ちました。事実上の敗北です。
以上のことから、大坂冬の陣においても、例え豊臣軍が徳川軍による砲撃に屈して和睦に応じず、濠の埋め立てや真田丸の破壊がなくとも、長期戦となれば、徳川軍の勝利は間違いないとされるのです。
果たしてそうでしょうか?
大坂冬の陣における徳川軍の兵力は豊臣軍のおよそ2倍(10万対20万)ですから、上田合戦に比べれば大した兵力差ではありません。
豊臣方は浪人の寄せ集めかもしれませんが、勝利の暁に大望(お家再興やきりシタンの安堵など)を望む意気を持つ者の集まりであるのに対して、徳川方は実戦の経験がない兵が大半を占める素人集団です。
ですが籠城側にとっての問題は、兵粮や武器の枯渇と、城内に女・子供も多数存在するということでした。
特に真田丸によって手痛い目にあった徳川軍が戦法を変えて、砲撃を開始したことで、女・子供の心理は大きく揺れたのです。
もしも城内には男子の兵しかいなかったとしたら、例え敗北が決まっている戦いにおいても最後まで和睦には応じなかった可能性も大いにあります。
ですが籠城には女・子供は付き物です。
家康はそのことも当然わかっていたからこそ、大坂城に向けて激しい砲撃を加え、豊臣方の弱い存在に精神的ダメージを与えようとし、更に悪いことに淀殿の近くに砲弾が命中してしまったために、家康の目論む和議は成ったのです。
従ってその意味においては、残念ながら、大坂冬の陣における和睦は必然と言っていいのかもしれません。
しかしここで問題にしているのは、
大坂冬の陣で豊臣方が和議に応じなかったとしても、豊臣の勝利は無い!それってホント?
というものです。
もしも淀殿が砲弾の脅威など解せず、「わらわに家康がごとき者による砲弾など当たるはずもない。」と言い切るほどの女傑であったとしたなら、城内の動揺を抑え込み、濠や真田丸の消滅もなく、戦闘は続けられたと言えなくもありません。
ただしその場合でも、豊臣方が勝利を得るには、「一定以上の長期戦に縺れ込むことなく、敵の中枢を叩くことが出来たなら、あるいは・・・・」の限定条件が付くことは間違いありません。
ですが徳川方にも戦況を長引かせたくない理由がりました。
大坂冬の陣での徳川方は、豊臣方との戦いだけではなく、冬の寒さもまた大いなる敵であり、戦況が長引けば長引くほど、寒さは徳川軍の指揮を低下させて行く大きな要因になっていたのです。
そこで大きな意味を持って来るのが豊臣方の真田丸の戦いにおける大きな戦果です。
大坂冬の陣の開戦当初、幸村による「家康のいる伏見城へと打って出るべきだ。」という策を受け入れなかったのは、幸村の兄:信之が徳川方にいたがための幸村に対する不信感(徳川方の内通者ではないか?)からでした。
しかし、真田丸の戦いにおける大勝利は、その不信感を払拭するものになっていたはずです。
だとすれば、例え砲弾がその後も大坂城へと撃ち込まれ続けたとしても、早急に大坂方の武将が一丸となって策を講じ、夜襲なり、奇襲なりを図って家康本陣に至る可能性は十分有り得ると思えます。
で、仮に家康を討てたとして、その後徳川方は一時の混乱は生じるものの、秀忠を大将として態勢を整えることが出来るのかが最大の問題となります。
そこで次回は、
真田丸:幸村らの策に対して、家康亡き秀忠は徳川の大将たりえたか?を記したいと思います。
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風景
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カメラを棒にくっつけて写した写真をご紹介。
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〜旧我家解体記:屋根の部材をスッキリ片付けても、廃材処理はまだまだです〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!旧我家解体記編
先日ご紹介した〜旧我家解体記:屋根部を取り外す工程では太鼓梁外しが超難関で危険〜では、建築部材の名称と、屋根部の解体で最も難航した太鼓桁を一人で外す方法をご紹介しました。
何のお役にも立たない情報だとはしりつつも。
今回もそんな旧我家自力解体記の続きです。
今回はパッと目には、前回の解体記の画像との違いは、私があえて説明しなければ気づいて頂けないと思えますが、まずはバッと見前回と変わっていないようだけど本当は変わっている画像を見ていただければと思います。
その上で、それらの画像のアップを見て頂きます。
5月16日時点の旧我家を人目線で撮影した画像
5月16日時点の旧我家を高さ4mから撮影した画像
5月16日時点の旧我家を高さ6mから撮影した画像
5月16日時点の旧我家を高さ9mから撮影した画像
いかがでしょうか?
前回の解体記の画像に比べて、スッキリした感があるとは思いませんか?
では前回の解体記でご紹介した画像をもう一度見て頂きましょう。
〜旧我家解体記:屋根部を取り外す工程では太鼓梁外しが超難関で危険〜
での旧我家を高さ9mから撮影した画像
どうでしょう?〜旧我家解体記:屋根部を取り外す工程では太鼓梁外しが超難関で危険〜でご紹介した画像は室内に部材が、ちらかったままだということがわかりますか?
さらにアップで比較します。
〜旧我家解体記:屋根部を取り外す工程では太鼓梁外しが超難関で危険〜
での旧我家を高さ4mから撮影した画像のアップ
5月16日時点の旧我家を高さ6mから撮影した画像のアップ
太鼓桁・柱・ガラ袋・浴槽などの置き場のアップ画像
以上のように、屋根部の部材は外し終わり、以前倉庫があった場所にそれらの部材やガラなどを移動させました。
ですがただ移動させただけではありません。
解体された部材には、野地板などを止めるために打ち付けられた釘や、柱と梁・梁と桁などの接合部が抜けないようにする大きな釘などがまだ幾本も残っています。そうした釘を全て抜かなければ、これらの部材を運搬する時などに、車に傷をつけたり、自身の体がケガをする原因になります。
部材を移動させる以前の釘を抜く作業の方が、遥かに時間がかかるのです。
そうした作業だけで、一人では一日では済まないのです。
釘を抜いて抜いて抜き続ける作業は、腰をかがめて力を入れる、腰痛持ちの人には最悪の作業です。ですが幸い私は50歳を過ぎた今でも、前屈で掌を地面にピタッとつけることが出来ます。
つまり他人よりは体が柔軟なので、前屈姿勢の負担は比較的軽くはあるのですが・・・・。
そんなこんなの作業を経て、これでいよいよ部屋部の解体に取り掛かることが出来、梁・柱・土台材などを外せば、木材の解体は完了しますが、5月16日時点の旧我家を高さ7mから撮影した画像のアップの中央部に写る居間だった床部には、土壁を崩した土や屋根土、コンクリートの破片(ガラ)などが、基礎コンクリートの上部の高さにまで集められています。
これらの土やガラは、画像では少ないように見えますが、2トンダンプにコンパネを立てて大盛りに積んでも、3車分にもなります。
いずれこの土も何らかの方法で処理しなければなりません。
また、〜旧我家解体記:屋根部を取り外す工程では太鼓梁外しが超難関で危険〜での旧我家を高さ4mから撮影した画像のアップには、便器が写っています。
一日中解体作業をするのには、やはりトイレは欠かせません。
業者による建築現場には簡易トイレが設置されていますが、そのレンタル代も決して安価なものではありません。できうる限り便器は残しておく必要があるのです。
福屋不動産販売での当物件のページ↓
所在地大阪府堺市中区八田北町
交通泉北高速鉄道 深井駅 徒歩24分
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レジャーに出かけるには持って来いの立地条件ですよ!
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〜真田丸:第47回放送『反撃』では、家康に代わって阿茶局が追々と豊臣を〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第47回放送『反撃』では、家康と阿茶局による徳川と豊臣の和睦に際しての思惑と、一枚岩ではない豊臣方上層部内の動きや、豊臣方浪人は冬の陣での恩賞やこの後の活躍の場を失った憤りの中で動揺を見せながらも、幸村(信繁)に一部の望みを託すに至る経緯が描かれました。
今回の放送で描かれた内容は、伝えられる記録やこれまで大坂冬の陣について描かれてきた数々のドラマなどから、濠の埋め立てや真田丸の取り壊しに対する家康の徹底的なやり口は分かり切ったものでしたが、見るに堪えないはらわたの煮えくり返る家康のやり口が、ドラマ前半で容赦なく描かれ、出来れば今回はドラマの大筋を語ることすら避けたいと思うほどに、家康に対する反感を覚えるものでした。
ということで、ドラマの流れを示すことは今日はご容赦いただきたいと思います。
が、ドラマ上での和睦交渉が家康側室の阿茶局と北政所の妹:常高院との間で行われたという設定については、和睦交渉の流れをうまく描き出したように思われます。
史実とされる大坂冬の陣の後の和睦は、徳川方の常高院の義理の息子:京極忠高の陣において、家康側近の本多正純(男)、阿茶局と、豊臣方の使者として派遣された淀殿の妹である常高院との間で行われたとされますが、ドラマでは女子だけによる合議として描かれました。
きりがその場に居なかったことは言うまでもありませんが、大蔵卿局の存在も無かったようです。
そしてこれは、徳川方と豊臣方の話し合いではなかったと思えます。
豊臣方に姉の淀殿、徳川方に妹の江を持つ常高院は、あたかも豊臣方の者として和睦交渉におもむくものの、その立場は、姉:淀殿と妹:初の嫁ぎ先である両家が、再び戦うという悲劇を避けようとする思いで和睦交渉にのぞんだ、いわば中立の立場です。
濠や真田丸を無効化するという、どう見ても豊臣方に不利な条件で和睦が成立したのは、ひとえに常高院が、幼い頃より仲が良かった姉妹の家が、雌雄を決する更なる戦いだけは避けたいという思いが先行した和睦だたからだと言えるでしょう。
阿茶局と常高院による和平交渉は以下の通りです。
阿茶局はまず緊張した雰囲気を和らげる言葉を語ることで、徳川に有利な交渉となるように相手(常高院ら)を油断させます。
阿茶局:「うーん、戦(いくさ)は、男の勝手で始まるもの。我ら女はいつも振り回されてばかり、このように、我ら女だけで戦(いくさ)の始末をつけるというのは、愉快なものでございますね。」
大蔵卿局:「さようでございますねー。」
阿茶局が切り出した意外な言葉に、常高院は返す言葉もなく戸惑います。
阿茶局:「始めましょうか?」
きりは初手からの阿茶局の裏がアリアリの言葉を聞いて警戒心を強くし、阿茶局の方に強い視線を送ります。
阿茶局:「まず、お上様について。人質とはしませんから、どうぞご安心下さいませ。」
大蔵卿局:「ありがとうございます。」
阿茶局:「右大臣秀頼公におかれましてはこれまでと同じ、今後とも御身に危害が加わることはないことをお約束します。大坂のお城を明け渡せとも申しません。」
大蔵卿局:「誠でございますか?」
阿茶局:「誠でございますよ。」
大蔵卿局:「よろしゅうございましたねー。」
(一言:何を大蔵卿局のこの言葉を額面通りに受け止める。大蔵卿局はおバカか?実際も。)
大蔵卿局の能天気に喜ぶこの言葉に、常高院は更に困惑を深めて一言返すのみです。
常高院:「ええっ。」
阿茶局:「今後、もし大阪を離れらる事あれば、お好きな国を望まれませ、どこなりと。」
大蔵卿局:「それから、そうそう、城にこもり、徳川にたてついた者たちには、一切処罰をいたしません。」
大蔵卿局:「良い事ずくめではありませぬかー。」
阿茶局:「当り前でございます。そちらは戦にお勝ちになったんですから。」
(一言:そもそも城に砲弾を撃ち込まれて死傷者も出たのに、それでも豊臣方が勝ったとすること自体がおかしいでしょ。)
この後阿茶局は肝心の和睦条件については口を濁して語ります。
阿茶局:「後は、えーっ、何かございましたっけ?えーっ、うん、まぁ、追々。」
大蔵卿局:「追々?」
阿茶局:「追々。」
大蔵卿局:「追々。」 そう言いあった後、大蔵卿局と阿茶局は無警戒に笑いあい、このままウヤムヤに和睦の話し合いは決まってしまいそうな状況を見て取ったきりは、足がシビレたと両家の代表らの間で転げまわり、大蔵卿局に不審な点を質問するように、無言のままでいる常高院に目で合図を送ります。
常高院:「一つよろしいですか?浪人の処遇はまだ決まっておりませんが?」
大蔵卿局:「ですからおとがめなしと。」
常高院:「あの者達のために、ご領地を増やして頂けるという話は?」それを決めませぬと、浪人たちが困ってしまいます。」
阿茶局:「浪人たちは今後どうされるのですか?」
大蔵卿局:「それについては、頭を痛めておるのです。」
阿茶局:「あはっ、おさっしいたしますー。あんな得体のしれない浪人たちがうろうろしていては、オチオチゆっくりと寝る事も出来ませぬものね。」
大蔵卿局:「そうなのでございますよー。」
常高院:「このまま仕官するつもりのものも大勢います。ご領地を増やして頂けないと。」
さあここからが徳川方の本音を吐露して豊臣方に要求をつきつける文言です。しかしあくまでもソフトな言い回しで阿茶局は語ります。
阿茶局:「あの出城、何と言いましたか?・・・・真田丸、そう、あれを壊してしまってはいかがですか?あんな物があるから浪人たちがいつまでも居座るのです。」
(一言:違うでしょ、あんな物があるから、徳川は痛い目に合うのです。でしょ。)
大蔵卿局:「そーれは、良いお考え。」
阿茶局:「真田丸は取り壊し、ついでに・・・お濠も埋めてしまいましょう。」
大蔵卿局:「濠も?」
阿茶局:「お城が裸になれば、いくら面の皮の厚い浪人たちも、出て行かざるおえなくなる。そうお考えになりませんか?」
大蔵卿局:「さすがわ阿茶様。」
阿茶局:「浪人たちがいなくなれば、大御所様も一安心。良い事ずくめではございませんか。ねっ、そういたしましょ。」
大蔵卿局:「そういたしましょ。」
阿茶局:「そういたしましょ。」
大蔵卿局:「そういたしましょ。」
(一言:いくら大蔵卿局が実際におバカだったとしても、こんな論法が通るほどだったとは思えませんよね。ドラマだからいいけど。)
事の展開に豊臣の窮地を感じたきりは、再び足がシビレたと床を転がり廻り、常高院に阿茶局に対して反論するよう促します。
大蔵卿局:「だから何をしているのです。」
きり:「申し訳ございません。」
きりが合図を常高院に送ります。その事を気取った阿茶局は、二人を交互に探るように眼球を左右に行き来させます。
常高院:「その件については一旦持ち帰り、右大臣様とよく相談した上で・・・・」
この言葉に対し阿茶局は言葉の途中でこれを遮り、強く釘を刺します。
阿茶局:「男たちに返せば、また血が流れます。せっかくこうして女たちだけで集まっているのです。私達だけで決めてしまいましょ。ねぇ。」
阿茶局は大蔵卿局に視線を向け、同意を求めます。
大蔵卿局:「はぁい。」
阿茶局:「どうせもう戦(いくさ)は終っているのですから。」
大蔵卿局:「埋めてしまいましょ。」
阿茶局:「埋めてしまいましょー。」
大蔵卿局:「埋めてしまいましょー。は、は、は、は、は、は、は、は。」
常高院ときりは成すすべもなくただ放心状態で二人の意見の合意に只々言葉なく佇みます。
(一言:これはもう茶番劇意外の何物でもありません。)
ですが史実においても、家康はこうした豊臣方を煙に巻くような何らかの言い回しで、和睦の申し入れを繰り返し、大筒の威力も借りて豊臣方の勇み足を誘ったという経緯を、分かり易く説明する筋書きとしては、良い描写方法だったと言えるでしょう。
家康という武将?が、この後東照神君などという神格化するにたる人物だったとは、口が裂けても・・・・・。
それにしても、今回のドラマの中での幸村と淀殿の、道ならぬ○○シーンは何に?
これで女性視聴者の指示が、果たして得られているのでしょうか?
おいちゃんにはわかりませんね。
三谷さんはそうしたことが分かって、こうしたシーンをシリアスに描いている?・・・のですかね。
淀殿と幸村の○○シーン
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〜真田丸:真田幸村(信繁)の息子の大助と大八には、なぜ「大」の字が?〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!真田丸編
『NHK大河ドラマ 真田丸』第46回放送『砲弾』では、大坂冬の陣において徳川家康が、真田信尹に対して「真田左衛門助を調略せよ!」と命じます。
当初は家康の命令に応じなかった信尹でしたが、結局家康の言葉に押し切られる格好となり、信尹は大坂城?(いや、真田丸かな?)に入り、幸村(信繁)と久々の対面を果たし、しばしの語らいの中で、信尹は「源三郎の息子たちに合うてきた。」と語り、信之の息子たちの話に及びます。
この時幸村は、「私の息子たちにも会っていただきとうございます。・・・・・大助と大八でございます。」と自身の息子の名を口にします。
ということで、今回のテーマは、真田幸村(信繁)の二人の息子、大助と大八の名前についてです。
皆さんはこの二人の名を聞いて、何か思うことはありませんでしたか?
それとも、何も思うことなく聞き流したでしょうか?
私はこう思ったのです。
「なぜ幸村(信繁)の二人の息子には、『大』の字が使われているのだろう?」と。
この戦国時代の武士には、親からの同じ一文字を受け継いだ兄弟たちの例がよく見受けられます。
例をいくつか挙げましょう。
といった具合に。
にもかかわらず真田信繁(幸村)の子は大助、大八なのです。
「信繁の子ならば『信』か『繁』の文字を使った名をつければいいのに。」と思ってしまいますよね。
ですが『信』の字は真田の嫡男:信之の子らに受け継がれています。
なので次男である信繁(幸村)が、その子に『信』の字を使うことははばかられたと想像がつきます。
であるならば『繁』の字を使えばいいと思いますが、『信』でも『繁』でもない『大』の文字を使っていることに疑問を持つのです。
そこで改めて考えてみると、上記した戦国時代の武士で、親からの同じ一文字を受け継いだ子らの例として挙げた親たちは、次男である信繁(幸村)とは違って、彼らは本家の嫡男だからではないかと思ったりもしますが、これがハズレで、織田信長・北条氏政・武田信玄・毛利元就らは嫡男ではなく、いずれも次男なのです。
信長の兄は側室の子だというので家督相続権がなく、北条氏政・武田信玄・毛利元就らの兄は幼くして、もしくは若くして亡くなっているために、次男らが次期当主として家督を相続したのです。(大阪の陣に参戦した長曾我部盛親は4男にもかかわらず、家臣らによりお家再興の希望を託された。)
ということで、真田信繁(幸村)がその子に自身の名の一文字を与えなかった理由を、別の観点で見つける必要があるようです。
そこで当初の考えを棄て、改めて信繁(幸村)の父:昌幸の例で考えてみると、昌幸は真田家の三男であり、その子である嫡男:信幸(後に信之)には『幸』の一文字を与えるものの、次男には『幸』の字
を与えず、二人の兄弟には共通の『信』の一文字を与えました。
この『信』の一文字を与えた理由を考えた時、以前にも私の考えを記したことがありますが、「昌幸の兄であり、真田家本来の嫡男であった信綱の『信』を我子に与えたと思われます。」という内容の記述をしたと思います。
じゃあ信繁(幸村)は自身の子に誰からの?それとも何からの?一文字をもらって『大』の一文字を我子らに与えたのでしょう?
大きく逞しく育ってほしいと思ったから?
それともいずれは大名となってほしいから?
それともそれとも、九度山に幽閉中にかつての大坂城での華やかな生活を思い焦がれたから?
いずれの『大』も自身の願望を子供に押し付けたような一文字ということになり、武将として褒められない命名動機だと思えます。
ここで一つ言っておかなければない事実があるのですが、大助・大八の両者とも彼らが幼かった頃の名、つまり幼名であり、大人としての二人の名については、大助は幸昌、大八は守信という名に改名されました。
なので信繁の二人の男の子の名は、幼名において『大』の字が共通するということになるのです。
そこで子供が幼い時に大きな存在となるのは、母です。つまりドラマ上の春こと竹林院の存在が『大』の一文字にかかわっていると思えなくもありません。
思い出して下さい、春の父は誰でしたか?そうです、大谷吉継です。
思うに私は、信繁(幸村)は自身が嫡男ではないことから、妻の血筋であり、関ケ原の戦いで子供たちを戦場の場から逃して散った大谷吉継の血筋の子供たちとして、自身の子らに大谷の『大』の一文字を引き継がせ、妻:春(竹林院)もそれを望んだのではないかと。
しかし、大坂の陣での活躍の後に日の本一の武士(もののふ)と称されたことで、信繁(幸村)の子らは、母の血筋(大谷吉継の血を引く子)とするのではく、父である真田信繁(幸村)の家(真田家)の子として、一族の中でも有能な武将だった昌幸の名の一字?だけではなく、『昌』と『幸』の二文字全部をもらった大助は、昌幸ではなく幸昌となり、大八は、叔父である信之や大叔父である信綱の名の『信』をもらって守信と改名したのではないかと。
結論です。
真田信繁(幸村)の子である二人の男子の幼名、真田大助と真田大八の『大』の文字は、大谷吉継の『大』の一文字を受け継いだ名、だった!!・・・・・・のではないか?と。
昨今は何だか紗理奈・真理亜・麗奈・譲二・拓斗などの、それって大和ナデシコや日本男子の名か?と思える名を我子につける親が多すぎる!
それってオシャレか?グローバル化か?・・・・実に嘆かわしい!と、思えます。
そこで提案です。
これからパパ?ではなく父となる男子諸君!!これから生まれ来る我子がもしも男子なら、「我家の長は俺だ!我子には俺の名の一字を与えるのだ!」という気概を持ってほしい。
ねっ、そうしてあげて、お母さん。お願いだから。
敵前で高砂を踊る真田大助(演者:浦上 晟周 (うらがみ せいしゅう) さん)
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〜旧我家解体記:大型の出窓サッシを壊さずに一人で外した方法をご紹介〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!旧我家解体記編
以前ご紹介した〜旧我家解体記:自力解体を決意した理由と2月14日の段階での解体状況〜では、以下のような旧我家の台所に大型の出窓があることをご紹介しました。
出窓に限ったことではないのですが、アルミサッシは建築部材の中でも思った以上に高価なものです。
普通の民家で一番高価なアルミサッシと言えば、普通は玄関サッシで、その次くらいに高価なのが、出窓サッシです。
旧我家の台所に設置されていた大型の出窓サッシで言えば、
価格は約15万円、寸法はおよそ巾190㎝×高さ100㎝×奥行50㎝の大型のものでした。
普通はこれを壊すことなく再利用しようと考える人は少ないと思いますが、なにせ高価なものですから、私はこれを壊さずに外したいと考えました。例によって一人で。
そうなると普通のガラス戸を外せば、軽いアルミ枠だけになる窓サッシとは異なり、出窓サッシは庇部や棚部などが一体となった立体的なものであることと、玄関サッシとは異なり、床面より約1m前後の高い位置に設置されているものです。
旧我家の出窓サッシは、巾190㎝と大型であったことと、本体の底部が床面から約140㎝ほどの高い位置に設置されていたために、これを一人で損なわずに取り外すには工夫が必要でした。
どうすればこれを一人ではずせるだろうか?と数日間考えた結果、脚立と幅広で厚みのある板をそれぞれ2つ用意すればなんとかなると思いたったのです。
旧我家台所の出窓サッシ
大型の出窓を一人で外す方法をご紹介する前に、先ず出窓サッシがどのように設置されているものなのかを説明しておきます。
以下の家の内側jから設置済みの出窓サッシを見た設置されている出窓サッシを室内から見た画像をご覧頂くと、出窓と言ってもその底面は、壁の厚みの内側にまで入り込んでいることがわかると思うのですが、いかがでしょう。
以下の旧我家から取り外した大型の出窓サッシの画像を見て頂くと分かるのですが、出窓サッシはサッシ枠の内、底面だけが出張っている構造で、この底面を柱(もしくは間柱)と柱(もしくは間柱)の間に水平にはめ込まれた平割材の上に乗せる格好で設置されます。
設置されている出窓サッシを室内から見た画像
旧我家から取り外した大型の出窓サッシ
以下の画像は出窓サッシの周囲にある木材がどうなっているかを説明するものです。
そしてその設置施工は、サッシの外枠の寸法に組まれた木材の開口部に外側からはめ込むかたちで設置されます。
ということは、これを外側に引き出すことで外すことが出来るということです。
もちろんそれ以前にこれを固定しているビスや釘を抜き取ることは当然必要ですよ。
ここまで理解して頂いて初めて、出窓サッシを一人で外す方法をご紹介することができます。
出窓サッシの周辺にある木材を説明する画像
さてやっと、大型の出窓サッシを一人で取り外す方法ですが、旧我家の場合、裏側にはブロック塀で北側にあるお隣さんと隔てられていました。
このブロック塀を利用することで、出窓サッシは一人でも取り外せます。
以下にのその方法を図解で示しているのですが、文章説明を加えます。
外壁を構成するもの(モルタル・土壁・間柱・筋交い)などを取り除くと、室内からブロック塀の天部に向かって木材などを掛け渡すことが出来るようになります。
そこで【大型出窓サッシを一人で外す手順】です。
手順1 出窓サッシのガラス窓を取り外します。
手順2 出窓の底面の巾寸法の内側になるように脚立を室内に二つ立てます。
手順3 室内の脚立と室外のブロック塀の上面の間に、出窓サッシの底面の下の位置に来るように
丈夫な平板を掛け渡します。
手順4 出窓サッシの外枠の、これを固定しているネジや釘を抜き取ります。
手順5 出窓サッシを、底面下に掛け渡された平板に乗るように外側へと真っ直ぐに外します。
手順6 ブロック塀は背丈ほどの高さがあるため、平板の上に乗った大型の出窓サッシを外で降ろす
ことは、高すぎ不可能なため、室内へと引き込むために邪魔な、出窓サッシが乗っていた
平割材を外します。(ブロック塀は背丈ほどの高さなので、そこに掛け渡された平板の上に乗
る出窓サッシを室外で地面へと降ろすことは不可能。室外の地面は室内より基礎コンクリー
ト分以上低いこともあり。)
手順7 出窓サッシを室内に引き込むには、これがはめ込まれていた両側の柱が邪魔なので、出窓
サッシの左右のどちらか片方だけを更に外へと押し出して左右斜めした上で平板の上を滑ら
すように引き込み、柱の間をすり抜けさせます。
手順8 平板は、出窓の底面下の位置に室内から掛け渡されているので、室内に引き込んだ時点で
設置されていた高さより低い位置、旧我家の場合は背丈ほどの高さのブロック塀から平板が
徐々に低くなるかたちで室内の脚立に掛け渡されていたので、室内に引き込んだ時点で
90㎝ほどの高さにまで降りてくるので、これを平板の上から降ろします。
手順9 後は車の荷台へと運ぶだけ。で、取り外し完了。
以上の説明と以下の図解でご理解いたけるでしょうか?
こんな情報、どなたか参考にされて自身で実行される方がおられるんでしょうか?と、我ながら思ってしまいます。
現在の我家には、解体した柱類やサッシ類などが持ち帰ってあり、現在それらの部材を使ってガレージ倉庫とその二階部に部屋を建築しています。
今回取り外した出窓サッシも、どこかで再利用する予定です。
ちなみに私の職業は、大工さんではありません。あしからず。
大型の出窓サッシを一人で取り外した方法の図解
福屋不動産販売での当物件のページ↓
所在地大阪府堺市中区八田北町
交通泉北高速鉄道 深井駅 徒歩24分
阪和線 津久野駅 バス乗車10分 八田荘停歩3分 土地 107.33m²(32.46坪)公簿
建蔽率 60%
容積率 200%
物件No.20000904912
【セールスポイント】
南向き・間口が広い・車が通り抜けない
南紀、神戸、関空、奈良、京都へと繋がる高速道路のインターがすぐ近くにあるということです。
阪神高速湾岸線へと繋がる泉北有料道路(通称百金高速)や、近畿道、阪和道の入り口が歩いてでも行ける距離にある。
レジャーに出かけるには持って来いの立地条件ですよ!
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