カメラとビデオを棒にくっつけて

堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜真田丸:第46回放送『砲弾』では、家康のあの手この手の策略の後に砲弾が〜
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『NHK大河ドラマ 真田丸』第46回放送『砲弾』では、家康が真田丸の戦いでの大敗に懲りて、無暗に大坂城を攻めることを止め、別の方法を1手2手3手とうちます。
かねてより手配していた新型大筒の到着を待つ間のまず1手として、大坂城を包囲している総勢30万人にのぼる徳川の兵に、代わる代わるに鬨(とき)の声を上げさせ、城内の豊臣方の者どもに精神的圧力を加えるという作戦でした。

2手目は、幸村(信繁)の叔父である信尹を使って幸村(信繁)を調略するという作戦でした。
信尹は家康の命を一旦は断りますが、幸村(信繁)が徳川に寝返ったなら、幸村(信繁)を10万石の大大名とするという旨すぎる条件を提示します。
信尹は家康の強い押しにより結局大阪城に潜入して幸村(信繁)との久々の対面を果たし、会談をしますが、家康による10万石の寝返り条件が記された書状を幸村(信繁)の手渡し、「さて、帰るか。大御所からの書状だ。寝返った時の褒美(ほうび)が書いてある。・・・・読まんでいい。」とサラリと言ってのけます。
一言:クーッ、しびれる捨てゼリフですね。今回のストーリーの中で最も痛快なシーンでした。)
この言葉に幸村(信繁)は、無言でその書状を受け取り、その場で破り棄てます。
二人の語らいの中には、信尹による信政への懸念も語られましたが、語らいの時を早々と切り上げ、暗黙の見つめ合いの後に信尹は城内を去ります。
信尹が去った後、幸村(信繁)は笑みを浮かべます。
「叔父上は相変わらず豪快なお方だ。」と、言わんばかりに。
家康の元へ戻ると、「調略、不首尾に終りました。」とだけ報告を述べ、家康の前から立ち去ります。

更に3手目として、徳川に内通している有楽斎に対して豊臣と徳川の和睦に持ち込むよう豊臣家の者を先導する命を下します。
この有楽斎の先導を知った幸村(信繁)・毛利勝永・後藤又兵衛・明石全登・木村重成らはいら立ちます。
一方有楽斎の先導により和睦への思いを強くした大蔵卿局は、有楽斎と共に秀頼に和睦の決断を迫り、秀頼はその言葉に押し切られます。
このことを憂慮した大野治長と幸村(信繁)は、淀殿に対して、秀頼に和睦の決断を改めるよう働きかけてほしいと願い出ます。
幸村(信繁)に密かな思いを抱く淀殿は、幸村(信繁)の願いを聞きいれ、秀頼の和睦を受け入れるという決断を挫きます。
これに先立って幸村(信繁)より淀野の意向に左右されることなく、自身の言葉の重さを自覚するよう教わっていた秀頼は、幸村(信繁)の要請により秀頼を説得しようとする淀殿に対して、幸村(信繁)の教えどおりに「断を下すのは、大坂城の主たるこの私です。」と言い切り、幸村(信繁)に同意をもとめますが、秀頼の説得を淀殿に求めたのが自身である以上、秀頼の思いに寄り添う事は出来ません。同意を求めるべく幸村(信繁)を見つめ続ける秀頼に対して無言を貫きます。
一言:信頼していた幸村にシカトされた秀頼の悲しみはどれ程のものでしょう。)

その後自らの居場所に戻ろうとする幸村(信繁)の後を追い、秀頼は思いのたけをぶつけます。
「己の言葉の重みを知れと言うたのはそなたではないか。いったい何が誠なのじゃ!」と。
幸村(信繁)はこれに答え、
「断を下すべきは、もちろん殿でございます。しかし、その断が間違いであれば、私はいかなる手を使っても食い止めまする。私は、戦に勝つためにここに参ったのでござる。ごめん。」
そう言い残して秀頼の前から去ります。

一方活躍の場が無いまま城内で悶々としていた後藤又兵衛らは塙 団右衛門が独断で敵方に討って出るとの噂を嗅ぎつけ、「俺たちも一緒に行っていいか。」と行動を共にする事に話は進みます。
こうした連中から離れた長宗我部盛親は、塙 団右衛門らのこの動きを幸村(信繁)の報告しますが、幸村(信繁)もまた秀頼に対する自らの私情を棄てた態度にムシャクシャしていたことから、塙 団右衛門らと共に本町口に陣取る蜂須賀勢に夜襲を掛けます。
ここで塙 団右衛門は名刺代わりの木札をばらまきながら、幸村(信繁)らと共に戦い、大暴れします。

そしてついに、新型の大筒が家康本陣に到着し、家康は片桐且元に対して「淀殿の居場所を避けるためだ。」と偽って、淀殿の居住する場所を聞き出し、大筒の砲弾をその場所めがけて打ち込み、侍女2人が崩れた建物の下敷きとなって亡くなります。
その光景を目の当たりにした淀殿は狼狽し、我を忘れてその侍女の骸(むくろ)に近づこうとするのを、きりが必死に引き留めるのでした。

あっそうそう、信之は妻の引き留めを押し切って平野長泰と共に大坂の幸村(信繁)のもとへと兵糧を届けるべく出立しようとしますが、久々の登場となったまだ傷の癒えぬ出浦昌相の忍術によって引き留められていましたね。

以上の経緯により、和睦への道筋は、家康の目論見どおりに進んでゆくのですが、今後の展開を、三谷さんはどのように描くのでしょうね。
楽しみなような、腹立たしいような、そんな気分です。「おのれ家康め!」という思いがゆえに。

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信尹と語らう幸村

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〜旧我家解体記:屋根材の撤去方法と下準備としての養生方法
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では、旧我家解体記に熊本大震災がどのような精神的な影響をもたらしたか?などについてご紹介しました。記述中に震度4の地震がリアルに起こるというハプニングもありましたしね。

今回は屋根の瓦や土をどのようにして降ろしたかについて記します。
今回ご紹介している画像は5月1日撮影のもので、この日は屋根材撤去のための下準備の日でした。

旧我家の場合、平屋の家が敷地いっぱいに建てられていなかったため、廃材を乗せる貨物自動車が玄関前の庭へと入り込むことが出来、しかも平家だったために、屋根の上から貨物自動車の荷台へと直接瓦を投げ入れることが可能でした。

屋根瓦をめくり貨物自動車へと投げ入れたり、屋根土を降ろすためには、先にやっておかなければならない下準備があります。
その下準備が何のために必要かと言えば、瓦や土の周辺への落下や土ぼこりが極力たたなないようにするための養生です。

解体業者が家の解体を行う場合は、解体作業の前段階で周囲を金属の足場で囲み、ご近所がある場合は足場材の間に養生シートを張り詰めることで廃材やほこりなどが周囲に飛び散らないようにします。

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解体される民家の周囲に金属足場が組まれた現場例

ですが解体業者ではない一個人としては、足場を組まずになんと解体できるに越したことはありません。
なぜなら一件分の足場をレンタルするには、150〜159㎡で例えば4ヶ月付設したままにしてもらうと、265,000円が必要なのです(業者ビケの例)。
個の㎡単価は、家の敷地面積ではなく、家を囲む足場面の合計面積です。
恐らく建坪が22坪しかない旧我家でも150〜159㎡の数倍の面積が必要でしょうから。

これまでの旧我家の壁の解体作業においては、屋根の軒先や妻部から養生シートを垂らすことで、壁から離れた位置にシートを張り巡らし、壁を壊す工程を既に終了しています。

さて屋根材の撤去となるとまた違った養生方法を用いなければなりません。
家を解体する場合は屋根土や瓦を家の中に落とし込むために屋根の一部に穴を開け、そこから屋根土や瓦を落としてから重機によって取り壊すというのが解体専門業者のやり方ですが、その理由は家の上部に思い瓦を残したまま重機を用いると、誤って隣接する家などに勢いよく倒れて被害を与えてしまう事や、高い位置でホコリが舞い上がることを極力避ける意味があります。
ですが旧我家の解体では、あえて屋根の解体工程を後回しにしました。そして壁は既に解体しています。
そのため屋根に開けた穴から瓦や屋根土を投げ落とせばホコリが周辺に舞い上がります。
なので今度は外壁のあった柱の間に密着するように養生シートを張る必要があります。
また、屋根には普通屋根勾配という傾斜があるので、屋根の上に有る物は全て転がり落ちる危険性があります。
これには屋根の軒先などの端の部分に転がり落ちようとする瓦や土の塊が、乗り越えない程度の高さの策として、端々に細長く切ったコンパネをビス止めしました。
以下に紹介している瓦や屋根土が大部分残る屋根に空いている二つの四角の穴は。部屋への自然採光のためにガラス瓦があった部分です。
ガラス瓦が設置されていても、その下に光を遮る下地としての野地板や天井板があったのでは太陽光は室内へと届きません。
なのでガラス瓦をめくり、格子状に組まれたアルミを棒外せば、直接床下へと屋根材を落としこめる四角い穴が出現します。画像に写る四角い穴は、そうした穴なのです。
そしてもう一つ下準備として玄関上がり口の半畳ほどの面の四隅に立ち上がる柱に、床下から天井のあった位置まで届くほどの高さまでコンパネで四方を囲みました。

このコンパネで囲まれたスペースに屋根上から土を投げ入れれば、土ぼこりは投げ入れ口以外から立ち込めることは殆どなく、屋根土を集積することができるのです。

ということで、土ぼこりの元となる土はそうしたガラス瓦(トップライト用の瓦)を撤去した穴から床下へと落とし、荷台にコンパネを立てて座席部の屋根部近くまで廃材を積めるようにした貨物自動車(レンタルした2トンダンプ)を玄関前に止め、瓦はその荷台に直接投げ込むことで、屋根上の瓦や土を降ろしたのです。
瓦なら、投げ落とす場所が密閉された場所でなくても、大してほこりが舞い上がりませんからね。

屋根材の撤去作業は、ただ上から下へと投げ落とすだけなので(実際は投げ落とす場所まで瓦や土を運ばなければならないのですが)、一日でほぼこの工程は終わるものと思っていたのですが、たった一人でのこの作業には、この日の下準備作業の日を含めて3日を要しました。
積み込んだ瓦を引き受け業者へと運び込む時間も必要ですからね。
2トンダンプの屋根の位置まで大盛りに積み上げたのですが、棟瓦以外の瓦だけで、2台分を廃材として引き受け業者に運びました。
屋根材は市営のクリーンセンターでは引き取ってくれないのです。
瓦の廃材処理代は1台につき2万7千円(まけてもらっての値段)、2台で5万6千円+ダンプのレンタル代と燃料代が必要でした。
しめて8万円弱の出費です。

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屋根に空いた四角い穴は採光のためのガラス瓦を撤去した穴です。

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画面左の庭には軽トラックの頭がみえますが、
瓦撤去のおりは2トンダンプを借りて駐車しました。
瓦を直接荷台へと投げ落とすために。
つまりこの日は屋根材の撤去作業はガラス瓦と棟瓦の撤去のみに留め、屋根材の全体撤去の下準備のみを行っただけです。
軒先などには長細く切ったコンパネが、屋根材の落下防止のために立ちあげとして付設してあるのですが、わかりますか?

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屋根土を投げ込む穴からコンパネで囲まれた土の集積スペースを撮影
画面中央下部に四本の柱の立つ四方の面に打ち付けられたコンパネで囲まれた
屋根土の集積スペースがあることが見てとれますか?

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こちらは一枚目の画像で左側に空いた穴で、居間の真上です。
ここへは棟瓦(丸瓦やのし瓦)のみを投げ入れました。

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壁は全て撤去し、養生シートを西面・北面・東面に施した状態
画面の正面奥には外壁のあった面にブルーシート、画面右奥の外壁面には壁が残っているようにみえますが、白いテントシートをホコリ拡散防止のための養生シートとして張ってあります。
もちろん屋根材を投げ落とす折には、前面(南面)にも養生シートを張ります。

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この画像では画面奥が家の裏側で、白いテントシートが張ってあります。

福屋不動産販売での当物件のページ
所在地大阪府堺市中区八田北町
交通泉北高速鉄道 深井駅 徒歩24分
阪和線 津久野駅 バス乗車10分 八田荘停歩3分
 土地 107.33m²(32.46坪)公簿
建蔽率 60%
容積率 200%
物件No.20000904912
【セールスポイント】
南向き・間口が広い・車が通り抜けない
南紀、神戸、関空、奈良、京都へと繋がる高速道路のインターがすぐ近くにあるということです。
阪神高速湾岸線へと繋がる泉北有料道路(通称百金高速)や、近畿道、阪和道の入り口が歩いてでも行ける距離にある。
レジャーに出かけるには持って来いの立地条件ですよ!




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〜真田丸:福島正則と平野長泰はドラマそのままに豊臣家のために動いた?
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まずは先に言い訳をしておきますが、当ブログでは『NHK大河ドラマ 真田丸』が史実とは異なる設定があることを数多くご紹介していますが、これは『NHK大河ドラマ 真田丸』そのものを否定するものではありません。
歴史上の出来事とドラマ設定との違いを知って頂くことで、より歴史への興味を持って頂きたいとの思いで各ページに取り組んでいます。
真実を知ろうとすることはとても楽しく、自らを豊かにしてくれると思うからです。
くどいですか?ですよね、ハイ、それでは本題に入りましょう。
例によって「史実と違うやろ!」って言ってる感じの。すみません。ペコ(頭下げた擬音です)。

『NHK大河ドラマ 真田丸』第45回放送『完封』では、徳川方の真田信之のもとに、秀頼に兵粮を送っていたことが家康に知れ、江戸での留守居役を命じられていた福島正則と、平野長泰が訪ねて来て、信之に豊臣方に兵粮を届けるために、幸村へ働きかけてほしいと協力を求めます。
このようにドラマ上では福島正則、平野長泰の両名がかつて秀吉から受けた恩を強く思い、その恩を返すべく、自らの意志で豊臣家の秀頼らに兵糧を送ったというストーリーでした。
しかし実際はそうではありません。

福島正則は豊臣恩顧の武将でありながら、関ケ原の戦いでは石田三成に対する反感からいち早く徳川方となりますが、1601年)3月に芸備に入封した正則は、領内を治めるための諸事を万端整えると、慶長9年(1604年)からの江戸幕府による諸城修築の動員に参加して忠勤に励む一方、豊臣家を主筋に立てることも忘れず、慶長13年(1608年)に秀頼が病を患うと、正則は見舞に大坂城へ駆けつけています。
慶長16年(1611年)3月に家康が秀頼に対し二条城での会見を迫った時には、いまなお豊臣家が主筋と自負して強硬に反対した淀殿を加藤清正や浅野幸長とともに説得し、秀頼の上洛を実現させた一人でもあったのです。
なお正則自身は病と称して会見には同席せず、枚方から京の街道筋を1万の軍勢で固めて変事に備えたとされます。
一言:正則は秀頼が徳川政権下になっても身の立つようにとの思いで家康との会見を実現させる一方で、決起にはやる両家の家臣が暴挙に出て両者の身に危険が及ばないよう警備役に徹したのですね。家康・秀頼の身辺警護は加藤清正に任せて。)
この会見直後に清正や浅野長政・幸長父子、池田輝政といった朋友の豊臣恩顧大名が相次いで死去し、正則自身も慶長17年(1612年)に病を理由に隠居を願い出ます。
しかしそれも許されず、大坂の陣では秀頼に加勢を求められても正則は拒絶し、大坂の蔵屋敷にあった蔵米8万石の接収を黙認するに留まります。
また一族の福島正守福島正鎮は豊臣軍に加わった。幕府には従軍も許されず、冬の陣、夏の陣ともに江戸留守居役を命じられますが、嫡男の福島忠勝が兵を率いて幕府軍に加わっています。
しかし戦後、正則の弟の福島高晴は豊臣家に内通したとして、幕府より改易を命じられたのです。

恐らく大阪冬の陣において晩年にあった正則は、福島家の後継者たちの徳川政権における安泰を願って豊臣家への思いを自制し、大坂の蔵屋敷にあった蔵米8万石の接収を黙認するに留めたのでしょう。
にもかかわらず、戦後になって弟:高晴は豊臣家に内通したとして、幕府より改易を命じられたなんて、徳川家はどこまでも豊臣家を根絶やししたかったとしか思えません。

一方、平野長泰については、関ヶ原の戦いでは東軍に属した。徳川秀忠に従って中山道隊に加わりますが、これは関ヶ原の本戦には間に合いませんでした。
それでも以後も秀忠に仕え、慶長17年(1612年)、二条城の御殿の普請に加わり、その功を賞されます。
ところが、慶長20年(1615年)の大坂の陣では一転して旧恩に報いようと豊臣方に合流しようと奔走し、家康に直訴しますが、許されずに江戸留守居役を命じられるのです。

恐らく福島正則にしろ平野長泰にしろ、一旦は三成と袂を分かち、徳川方となるも、徳川の家臣団の中では旧豊臣家の家臣に対するべっ視が少なからずあったのでしょう。
そして大坂の陣においては、かつて秀吉が織田の息子たちを一大名として従えたのと同様に、家康も豊臣家を一大名とするための戦いだと楽観的に考えていたのですが、家康の本心はそうではなく、豊臣家の滅亡させることにあることを知り、豊臣家への旧恩に報いようと豊臣方に合流しようと奔走したのでしょう。

大坂の陣以後、平野長泰は波風を立てず、旗本として、秀忠の安西衆(家康が駿府に隠居してから、駿河安倍郡安西(静岡市葵区安西)に宅地をあたえられ、徳川秀忠の時、御伽衆の上席に加えられた。 それを安西衆といった。)の1人に取り立てられて、3代将軍家光の代まで長寿をまっとうします。享年70歳でした。
ちなみに御伽衆(おとぎしゅう)は、主君に召し出されて側近として仕え、政治や軍事の相談役となり、また武辺話や諸国の動静を伝えたり、世間話の相手も務めたましたが、政治の実権が重臣(例えば老中や奉行など)に移るにつれ、次第に勢力は衰えた。
戦国時代は参謀としての側面が強く、僧侶や隠居して第一線から退いた重臣、没落した大名、武将が僧形となり務めることが多かった。

なお、福島正則の改易と戦後の扱いについては、ウィキペディアの記述をそのままコピペしておきます。
家康死後まもなくの元和5年(1619年)、台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を無断修繕したことが武家諸法度違反に問われる。正則はその2ヶ月前から届けを出していたが、先年にも一国一城令発布後にもかかわらず新規に築城を行ったとして、毛利家から報告を受けた幕府より該当城の破却を命じられた後のことでもあり、幕府からは正式な許可が出ていなかった。福島側の言い分では、雨漏りする部分を止むを得ず修繕しただけという。江戸参勤中の正則が謝罪し、修繕した部分を破却するという条件で一旦は沙汰止みになったものの、求められた「本丸以外の修築分を破却」という条件に対し、正則は本丸の修築分のみ破却をおこない、二の丸・三の丸の修築分は据え置いた。これにより「破却が不十分である」と咎められる。また、人質として江戸に送るはずだった忠勝の出発を遅らせたこと、それに対して「万事親次第」と弁明を拒否するなどしたため、怒った将軍・徳川秀忠の命により、上使として牧野忠成花房正成が江戸芝愛宕下の正則の屋敷にやってきた。こうして安芸・備後50万石は没収、信濃国川中島四郡中の高井郡越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減封・転封の命令を受けることとなった。移封後、正則は嫡男・忠勝に家督を譲り、隠居した。出家して高斎と号した。
元和6年(1620年)に忠勝が早世したため、正則は2万5,000石を幕府に返上した。寛永元年(1624年)、高井野(長野県高山村)で死去した。享年64。高井野での生活はわずか5年間であったが領内の総検地、用水の設置と新田開発、治水工事などの功績を残した。
幕府の検死役の堀田正吉が到着する前に、家臣・津田四郎兵衛が正則の遺体を火葬したため残りの2万石も没収された。福島家は取り潰されたが、幕府は正則の子・福島正利に旧領から3,112石を与えて旗本とした。福島正利が嗣子なく没した後は一旦断絶したが、福島忠勝の孫・正勝が家を再興し、代々御書院番などを務めた。

『NHK大河ドラマ 真田丸』第45回放送『完封』の中で、福島正則と平野長泰は真田信之の前で
「お互い長生きしような。」と語りますが、その没年からすれば確かに当時としてはそこそこ長生きだったのかもしれません。
ですがかつては勇猛な武将として名をはせた二人が、最後まで武将らしく生涯を全うしたか?と言えば、客観的には哀れな晩年だったとしか思えません。
家康の仕打ちもさることながら、秀忠や家光の旧豊臣家家臣に対する仕打ちは、決して公正なものだたとは言えないでしょう。

この福島正則と平野長泰の晩年の姿からも、真田信之の晩年が、いかに多難なものであったかを物語っているのではないでしょうか?

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深水元基さん演じる福島正則

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近藤芳正さん演じる平野長泰

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〜真田丸:真田丸の戦いでの『NHK大河ドラマ 真田丸』と史実との違いを比較
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前ページの〜真田丸:信吉は松の知らせで豊臣方の幸村を知った?でなければ何時?では、家康の命を受けて真田信吉が大坂へと出陣する際、どのタイミングで豊臣方に叔父である幸村(信繁)がいることを知ったか?について考えてみました。

今回は『NHK大河ドラマ 真田丸』において最も重要な戦いとなった真田丸の戦いが、第45回放送『完封』で描かれたストーリーと史実として伝えられる戦いの様子とを比較してみたいと思います。

まず『NHK大河ドラマ 真田丸』第45回放送『完封』では、まず豊臣方の真田幸村(信繁)が大坂城の出城である真田丸から南側に主力軍を配置して広がる徳川の大軍を挑発するために、嫡男:大助(幸昌)を初陣として出動させて高砂を敵前で踊って見せます。
この挑発にまんまと乗ったのが前田勢でした。
前田勢は大助の隊が意図的に背走する後を追って真田丸まで誘い込まれます。
更に後に続く井伊勢が手柄を上げんがために前田勢に負けじと突き進んできていたために、両軍勢は真田丸へと前進するしかなくなります。
一方真田丸内では、真田の忍者である佐助が幸村(信繁)の合図を受けて内紛が起きているかのように見せかけて爆弾を暴発させます。
この爆発を見てとった前田勢は、これを攻め手にとっての好機と見て、一気に真田丸へとなだれ込もうとしますが、迎え討つ真田軍は、これを二段構えの鉄砲隊や岩を落とす攻撃により完膚無きまでに討ち崩して行き、前田勢・井伊勢が敗走するのを見てとった幸村(信繁)の手勢は真田丸より打って出て残存兵を次々と討ち取って行きます。
かくして真田勢は、大勝利をおさめるというのがドラマ上のストーリーです。

では実際はどうだったのかと言うと、真田丸の戦い - Wikipediaによれば、
豊臣方が大坂城付近の砦を放棄して城内に撤収した後、幕府軍は大坂城を包囲。真田丸正面には前田利常率いる兵12,000の他、南部利直松倉重政榊原康勝など数千、八丁目口・谷町口には、井伊直孝の兵4,000、松平忠直の兵10,000、他数千が布陣。
真田丸には真田信繁(幸村)指揮の兵5,000、八丁目口・谷町口には木村重成後藤基次長宗我部盛親など、兵12,000以上が配置されます。
12月2日1615年1月1日)、徳川家康は本陣を住吉から茶臼山陣城(大塚城)に、徳川秀忠は平野から岡山に移します。

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真田丸の戦いにおける豊臣・徳川両軍の布陣

これにより大阪城への攻撃態勢は整いますが、家康は前田利常に、塹壕を掘り、土塁を築き、城を攻撃しないよう指示します。
 真田丸の前方には篠山(ささやま)と呼ばれる丘があり、真田は前もってそこに兵を配置しており、家康の命に従って前田勢が塹壕を掘り始めると、真田勢が火縄銃で篠山から狙撃し作業を妨害します。
12月3日1月2日)、大坂城内で南条元忠が幕府軍に内通していることが発覚します。
一言:豊臣方の大阪城内の内通者は、有楽斎と言うより南条元忠だったんですね。有楽斎が内通者ではないとも言いませんがね・・・・・。)
南条は城内で切腹させられたが、豊臣軍は南条が引き続き内応しているように見せかけ、逆に嘘の情報を流し、幕府軍を欺きます。
12月4日1月3日)、前田勢は、篠山からの妨害に悩まされていたため篠山の奪取をもくろみ、前田勢の先鋒本多政重山崎長徳らが夜陰に乗じて篠山に攻め上がったが、真田勢は城内に撤収しておりもぬけの殻でした。
そして夜が明けると、前田勢を真田勢が挑発します。
塹壕を掘ろうとしたのを篠山から真田勢が火縄銃で妨害され、怒った前田勢がもぬけの殻の篠山を夜の襲撃するというマヌケな行動を散々嘲笑い、さんざん愚弄したそうです。
一言:前田勢への挑発は大助による高砂の踊りではなく、真田の兵による直接的な嘲笑や愚弄によるものだったんですね。)
前田勢は挑発に乗り、真田丸に突撃。真田勢は前田勢が城壁に十分近づいた所に火縄銃で射撃を行います。
前田利常は、将達が命令なく攻撃して軍が損害を被ったと怒り、兵を撤収させようとしますが、前田勢の攻撃を知った井伊、松平勢もそれにつられる形で八丁目口・谷町口に攻撃を仕掛けていました。
従って真田丸への進撃は後から後からへと続き、先に攻めて大損害をこうむった、前田勢の敗走もままならなかったと思われます。
この時、大坂城内で火薬庫が誤って爆発する事故がおこったが、その音を聞いた幕府軍は南条の内応によるものと勘違いし、さらに激しく攻めかける結果となります。
一言:爆発は大阪城内での偶発的なもので、真田丸内で佐助が意図的に爆発を起こしたのではなかったのですね。しかも徳川方はこの爆発を前もって調略により徳川への内通者としていた南条元忠によるものだと勘違いしたのですから、これぞ策士策に溺れるですね。)
豊臣軍は、城壁に殺到する幕府軍に対しここでも損害を与えます。

これらの惨状を知った家康は真田丸に対峙する各大名勢に退却を命じます。
しかし、竹束や鉄楯を持たずに攻めてしまっていたため、敵の攻撃に身動きがとれず退却は難航、15時をすぎるまで完了しなかったとされます。
退却後、家康は各将を呼んで軽率な行動を叱責し、以後、竹束・鉄楯を必ず使用するよう厳命したのです。

この真田丸の戦いにおける徳川勢の大敗は、『NHK大河ドラマ 真田丸』の中で開戦前の幸村(信繁)が言ったように、徳川の兵のほとんどが、正に戦場を知らない烏合の衆であったことを如実に物語る戦いだったといえるでしょうね。
一言:このように、真田丸の戦いでは徳川勢は大きな代償を払うことになりましたが、これで徳川勢も一つ賢くなりました。一兵卒に至るまで、骨身に染みて。)

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真田丸より打って出た真田幸村(信繁)

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〜真田丸:信吉は松の知らせで豊臣方の幸村を知った?でなければ何時?
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『NHK大河ドラマ 真田丸』では、幸村(信繁)の姉:松が信之の願いを受けて大坂へと向かい、本能寺の変の直後に明智光秀軍に追われて谷底の川へ落ち、記憶喪失となった頃に加わっていた、出雲のお国の一座と再会し、再び一座に同行することで徳川軍の陣営への潜入に成功し、信之に代わって大坂城に出兵していた真田信吉に、幸村(信繁)が豊臣方として大阪城に入城していることを知らせる。というストーリーが描かれました。
ですがそれを史実だと信じた人は、さすがにいないと思います。

そこで大坂の陣に参戦していた真田信吉や信政らが、どの時点で敵方に叔父である幸村(信繁)が加わっていることを知ったのかを知ろうと、しつこくしつこく色んなワードを使って検索してみましたが、その記述が真実・不真実のいかんに係らず、その事を語るページは全く見当たりませんでした。

つまり真田信吉らが大坂冬の陣で敵方である信繁の存在を知ったタイミングは全く分からないのですが、それをどのタイミングで知ったかについて知りたいという思いには変わりがありません。

果たして信吉は、豊臣攻めのために参戦し、大坂城の南に築かれた真田丸を目の当たりして、初めて幸村(信繁)が豊臣方にいることを知ったのでしょうか?

ここからの記述は、しょせん個人的な想像の域をでませんし、それを知ることに大きな意味があるとも思えない人が多いと思えます。
なので興味を持った人だけ読んで頂ければそれで結構です。
真田信吉が叔父である真田幸村(信繁)が敵であることを知ったのが何時か?なんてことは、コアな真田ファンでなければどうでもいいことでしょうからね。

そもそも徳川方に、幸村(信繁)が大坂城入城が知れた記録としては、1614年10月14日に家康が浜松で京都所司代・板倉勝重から受け取った書状には10月10日に九度山を脱出した真田左衛門佐が大坂城に入った。という報告が残っているそうです。
その際家康は、この報を聞いて血相を変え、真田というのは親(=昌幸)のほうか子(=幸村)のほうか?と使者に尋ね、幸村であることを知ると、安堵の表情を浮かべたという逸話は有名ですよね。

つまり徳川家康は1614年10月11日軍勢を率いて駿府を出発し、真田幸村(信繁)の大阪城入城を知ったのが1614年10月14日ですから、それ以後に真田信之らのもとにその情報が入り、信吉にも知れたと考えるのが普通です。

家康が諸大名に対して大坂攻めのために号令を発したのは以外に早く、方広寺鐘銘事件において片桐且元が豊臣家から不信をかって300程の雑兵を率き連れ、弟の貞隆や石川貞政らと共に大坂城を玉造門より退去して貞隆の茨木城へ入り、勝重に援兵を要請した10月1日徳川方からの大坂の陣の宣戦布告日で、家康が二条城に到着した10月23日には軍議に加わり、先鋒を命じられたそうで、同日秀忠が6万の軍勢を率い江戸を出発しています。
11月15日、家康は二条城を出発し、奈良経由で大坂に向かった。18日、家康は先着していた秀忠と茶臼山陣城にて軍議を行っているそうです。
大阪討伐を決意した家康は、諸大名に出陣を命じ、仙台の政宗にその触れが届いたのが、11月20日だそうです。



以上のことから考えると、信州上田の信之が真田幸村(信繁)の大阪城入城を知るタイミングとしては、家康が二条城に到着して、片桐且元が軍議に加わった10月23日から、大阪討伐を決意した家康は、諸大名に出陣を命じた触れが仙台の政宗に届いた11月20日の間と思われます。
その他にも、幸村(信繁)が九度山から脱出して豊臣方に加勢することを決意した時点で信之に密書を送ったというケースも考えないではないですが、幽閉地を脱走すること自体が徳川家にとっては大罪ですから、その行為が他に漏れる恐れのある行動を、懸命な幸村(信繁)があえて行うとは思えません。

信之が病を得ていたたに信吉が大坂へと出陣する際、戦いに向けての心得として、包み隠さず敵方に幸村(信繁)の存在を知らせたとすれば、恐らくこの時点で信吉が敵方といての幸村(信繁)の存在を知ったと思われます。
そしてその日時は、信州上田は仙台よりかなり大阪に近いですから、11月18日といったところでしょうか?
ちなみに大坂冬の陣の前哨戦として起こった木津川口の戦いが起こったのは、11月19日で、真田丸の戦いに至っては、翌年の1615年1月3日です。

いずれにせよ信吉は、大坂に到着してから幸村(信繁)の存在を知ったのではなく、上田を出る時点から幸村(信繁)の存在を知っていたのであって、ドラマで描かれたような、叔母である松から知らされたのでも、誰かの伝文によって開戦直前に知ったのでは決してないと思います。
一言:大した問題ではないかもしれませんが・・・・・。)

そして信吉は、幸村(信繁)が敵方にいることを知って何を思ったのでしょう?
「家康は意地悪だから、きっと我軍に対して、真田丸を落とせと命じるんだろうな。」なんて思ったのかもしれませんね。

イメージ 1
木村佳乃さん演じる松

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