|
〜住宅ローン返済記:旧我家のローンを早期に返済出来たのに、私は二軒目を〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!住宅ローン返済記編
しかし1991年に,バブル景気が崩壊し、1991年(平成3年)3月から1993年(平成5年)10月までの32か月間続いた第1次平成不況・、1997年(平成9年)6月から1999年(平成11年)1月までの20か月間続いた第2次平成不況、2000年(平成12年)12月から2002年(平成14年)1月までの14か月間続いた第3次平成不況へとどんどん経済状況が後退してゆき、天井知らずで高騰した地価・住宅も株価と同様に下がって行くこととなります。
言うまでもありませんが、衣食住の内、不況になると真っ先に冷え込むのは、高額の支出を必要とする住宅需要で、私の屋根工事業は年を追うごとに暇になり、当然本業での収入は減収となり、その収入だけでは、旧我家の住宅ローンの月々78,730円の支払いが厳しくなって行くのですが、その不況が、今日のほんの数年前まで続くとは、当時の私は思ってもいませんでした。
なぜならこと地価に関して言えば、株価のような急激な下落とはならず、上げ止まった地価が反転して値下しはじめてもなお、その値下げペースはかなり遅いペースでした。
なぜか?株価が暴落し、景気がドンドン冷え込んで行く中でも、土地神話(詳しくは土地神話 - Wikipediaをご覧ください。)は、依然として当時の人々の心の中で生きていたからです。
ですがバブル景気を知り、今日を知る私と同じ世代ならお分かりですよね、
今日の日本では国民の高齢化と少子化が進み、それに伴う空家問題もまた深刻になる中、私と同じ世代の者から見れば、現在の地価は信じられないほど安くなりました。
ただし、少なくともこれから数年は、地価は上昇するだろうと私は思っています。
もしそうなるとしたら、これからの地価上昇の理由はなんでしょう?
思うに、ここに来て景気が上昇傾向にある中、今日の地価には値頃感が出て来たのだと思います。
更に自論を述べるなら、需要を遥かに上回る空家の発生による需給バランスが崩れた結果だとは言え、今日の地価は下げ過ぎた感があるとすら思えます。
なぜなら、例えば今日のジャパンブームにより、海外から日本に移り住む外国人が極端に増える事があったなら、今後も日本人の高齢化、少子化が今後続いたとしても、住宅の需給バランスは早期に改善し、地価の上昇が続く事が無いとは言い切れないじゃないですか。
四季があり、他国に比べて平和な日本は、海外から見れば極めて魅力的な国なのですから。
いずれにせよ上記した事は今だから言える事で、当時の私は今日の地価など全く想像していませんでした。
それどころか、バブル期のような急激な上昇は無いにしても、依然として「長い目で見れば土地は必ず値上がりする。」という土地神話を、私も信じて疑わなかったのです。
で、そんな甘い考えの私は何をしたか?と言えば、
バブル期に急激に値上がりした地価がやや下落したのを見てとった私は、当時保有していた株式が、売れば旧我家を買う時に借り入れた住宅ローンの大半を返済出来るにもかかわらず、私は株式を全て売却してローン返済に充てるのではなく、
何ともう一軒家を買ったのです。それは、両親との別居を考えての新たな住宅購入でしたが、当時の私は、「ここは住宅の買い時」と判断したのです。
そうした事もあって、私はバブル崩壊後にあっても、株式では総決算では大損するどころか、大きく儲け越す事が出来ました。いわゆる勝ち逃げです。(ただし株においてはです。)
第三者的に見れば、この時の私の行動は、株式を見切って不動産へとシフトしたと言えるのかもせれません。
(一言:つまり今日にまで続いた私の住宅ローン地獄は、この二軒目を購入した住宅ローンに起因しているのです。)
私にとっての二軒目のマイホーム購入は、平成3年(1991年)6月の事でしたが、今だから言える現実から言えば、この時期はまだ第1次の平成不況(複合不況)に過ぎず、その後に第2次の平成不況(日本列島総不況)、第3次の平成不況」(デフレ不況)が続く事は、文頭に記した通りです。
その二軒目のマイホームは2300万円と、一軒目のマイホーム(中古物件)の1450万円より約1000万円も高い価格だったのですが、以下の不動産売買契約証書の画像にあるように、二階建ての家ではあるものの、宅地面積は49.24㎡の15坪に満たない狭床物件(きょうしょうぶっけん)だったのです。
そしてこの時、自己資金として当時保有していた株式を全て売った800万円を頭金として、一軒目のマイホーム(旧我家)と二軒目のマイホームを抵当として、今度は大手の旧三井銀行から住宅ローン1800円を借り入れ、今日まで返済を続ける結果となったのです。
つまり私は、経済の動きを見誤って、まだ高値にあった中古物件を、二軒目のマイホームとして購入したのですが、現時点で言える事は、これが人生の大失敗だったということです。
だからこそ尚更思うのです。
今日までの生涯を通して常に本業において低所得者だった私が、経済破綻することなく、分不相応の住宅ローンを、よくぞまあ完済できたものだと。
今回のお話は、ここまで。
今後の住宅ローン返済記は、その後の日本では何が起き、その中で低所得者の私が、
どうやってローン完済にこぎつけたかについてのお話が続きます。
二軒目に購入した中古物件の不動産売買契約証書
|
風景
[ リスト | 詳細 ]
カメラを棒にくっつけて写した写真をご紹介。
|
〜直虎:『あるいは裏切りという名の鶴』で政次は裏切、方久は忠義のふりをし〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!おんな城主直虎編
『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』第17回放送『或いは裏切りという名の鶴』では、直虎たちがて種子島(鉄砲)を井伊領内におい造ろうとしていることを嗅ぎつけた政次は、無断で鉄砲を造っていることを謀反の疑いありと報告されたくなければ、直虎が後見役を辞退するよう迫りますが、実はそれは直虎を危険なめに合わせたくないために、あえて憎まれ役を演じていたことが直虎に知られてしまします。
一方、方久は、他国より伝来した鉄砲の生産技術を解き明かし、井平ので鍛冶職人にこれを量産しようとしたものの、井伊家にはそれを実現できるまでの資金を出す事ができないため、いっそのこと今川に鉄砲生産の援助を願い出ては良いではないかと直虎に命じられたとして、まだ未完成の鉄砲を駿府の今川館に持ち込み、今川氏真にこの生産技術の確立と今川家での量産を願い出ます。
鉄砲を領内で量産出来れば、戦における強力な武器になるばかりか、出来た鉄砲を他国に売りさばけば多額の財を得ることが出来ます。
このような願っても無いもうけ話を、直虎が氏真に譲ると直虎よりの命を受けて方久が今川館に参上したことを聞かされた氏真は、直虎に対する謀反の疑いを解き、無罪放免とします。
井伊谷に戻った方久は、鉄砲の製造権を今川に譲る話を持ち込んだからこそ、直虎は謀反の罪に問われることもなく、無事に戻ることが出来たと、自身の手柄を何度も他の家臣に自慢します。
しかしこうした方久の行動は、井伊家への忠義心から出たものではなく、井伊家と今川家の両方に取り入る一石二鳥を狙った行動だったのです。
反面、政次はあえて嫌われ役を演じ続けてまでも直虎の身を守ろうとしたこれまでの行動が直虎の知るところとなるばかりか、直虎には自らの意志で直親の傀儡(かいらい)として後見を引き受けたのだから、決してそれを自らの意志で止めることなどないことを断言し、
「お前は我をうまく使え、我もお前をうまく使う。」と、
政次の行動は無用のことだと言い切ります。
そんな中、今川氏真の娘が嫁いだ武田信玄の嫡男:武田義信を幽閉されたとの知らせが今川家に届きます。
今川の姫と武田の嫡男との縁組を否定するこの動きは、即ち信玄が今川との同盟を破棄する行為であり、今川にとっては受けれがたい事態でした。
そこで氏真の母:寿桂尼は、想い病を押して信玄に対し、直ちに義信の幽閉を解くことを要求する書状を送ります。
この今川の危機は、それに従う井伊家にとっても、西の松平、北の武田、東の北条という大大名の脅威にさらされることとなり、一大事だったのです。
こうした井伊の領地の周辺諸国からの脅威が増す中、領内においても火種がありました。
徳政令騒ぎの際、直虎らが領内を駆け歩いていた時、直虎が水場で出会った男は、盗賊の頭(かしら)だったことが、今回のドラマのエンディングに描かれますが、まだその事を知らぬ直虎は、井伊を潤すたねに初めて試みた綿の栽培に成功し、綿の収穫を百姓衆らと共に喜び、皆で舞い喜ぶのでした。 つづく。
盗賊の頭である龍雲丸(りゅううんまる)を演じる柳楽優弥(やぎら ゆうや )さん |

- >
- エンターテインメント
- >
- テレビ
- >
- ドラマ番組
|
〜住宅ローン返済記:バブル景気初めにローン返済が始まり、やがて株大暴落〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!住宅ローン返済記編
初めに、今回以後の住宅ローン返済記に記す当時の時代背景は、どこか今の状況によく似ている気がします。当ブログの訪問者の皆さんには、そんな事も念頭に置いて読んでいただき、その共通点や是非を知識として吸収し、自ら考察することをお勧めします。
そうすることが、今から、もしくは今正に住宅ローン返済を無事完済する上で有益となるのでは?と思っています。
私にとっての住宅ローン返済は、1986年(昭和62年)8月7日から始まります。
バブル時代の始まったのが1986年(昭和61年)12月であることから、その始まりの半年以後から返済が始まりました。
上の画像でお分かりのように、当時住専と呼ばれた住宅金融専門会社から借入額1100万円、年利7.14%、返済年数25年、
(一言:現在の大手銀行での住宅ローン金利は2.475%ですから、とんでもない高金利ですよね。)
返済額は月々78,730円、ボーナス払い無しでした。
この月々の返済額は、一般的な?賃貸マンションの家賃程度で、当時の時代的雰囲気の中では、大騒ぎするほどの額ではないように思えましたが、今の私の感覚で言えば、とんでもない大金です。
時代とその時々の年齢、立場などによって、経済観念は大きく変わって来るのです。
このような自身の中での経済感覚の変化は、今正に住宅ローン返済が始まった方々にとっては、いずれ体験する事になるのかもしれませんね。
当時の私は、バブル景気による住宅需要の高まりや、高速道路の用地買収による土地成金が多く現れたことにより、建築に携わっていた私も比較的高い収入を得ていました。
旧我我家には独身の私と弟に両親の4人で暮らすこととなります。
父はまだ50歳代と若く、生活費は概ね父の収入で賄われ、弟も既に就労していたため、私は母に月々5万円を手渡していましたが、残りの稼ぎは自由に使う事ができました。
従って当時私はローンを返済した残りのお金の大半を株式投資に費やして運用していました。
ご存じのようにバブル時代の当時は株式を買えば、必ずと言っていいほど値上がりしました。
なので数字の上では蓄財は増えていたはずなのですが、現金として手元あったわけではなかったので、それによって色々と贅沢できたかと言うと、全くありませんでした。
常に株式相場が気になり、実際の損金は出ていないのに、値上がり前の銘柄が買えなかったり、直近の高値で売り抜けなかったりするだけで損をした気がする。
更に手持ちの株が急落すれば、それを取り戻そうと借金をしてでも株を買い増ししたくなる。
それが株式の怖いところです。
(一言:ちなみに私、お酒は好きですが、ギャンブル、女遊び、タバコ、ゲームなどには、長い人生の中で一度もはまった事がありませんが、株取引についてははまってしまい、面白いと思いました。時代の流れや動きを知り、投資すると言う事は、面白いと。)
ですが今にして思えば、現金にすれば何百万円もの蓄財があっても、相場が気になり、損をしていなくても損をした思いが常にあり、心がそのことに振り回されて休まらない。そんな日々でした。
しかし当時の人々は、バブル景気が経済実態に即したものではなく、泡のように空気で大きく膨らんでいるに過ぎないことに気付かず、誰もがこの好景気は多少の落ち着きを見せる局面はあるものの、恒久的に続くだろうと信じて疑わなかったのです。
ブラックマンデー - Wikipediaによれば、
この好景気が始まって2年後、1985年1月のアメリカがユネスコを脱退した翌月の2月、NY株価は過去最高の1300ドルを記録、日本株価は、1989年12月29日 - 算出開始以来の最高値(ザラ場 38957.44円、終値38915.87円)となります。
ところが同年12月に今度はイギリスがユネスコを脱退した翌月の1986年1月に一部の泡がはじけます。ブラックマンデーです。
この大暴落の発端は、アメリカ海軍の艦船がイラン・イラク戦争において、アーネスト・ウィル作戦としてクウェートの保有するアメリカ船籍の石油タンカーの護衛についていた際、イラン側から攻撃を受け、1987年10月19日に、そのことを理由としてイランの持つ2つの油田に対し報復をしたことでしたが、 本当の要因は、アメリカの貿易収支の赤字幅が予想以上に膨らんでいたことや、1985年のプラザ合意以後のドル安を打開するためにドルの金利が引き上げられる観測が広がっていたこと、そしてブラックマンデーの2ヶ月前、FRB議長職がポール・ボルカーからアラン・グリーンスパンへ引き継がれていたことなどは株価下落の要因として挙げられています。
ブラックマンデーで日本のバブルの一部ははじけ、株価は大幅安となりますが、私の持っていた銘柄の多くは極端な影響を受けず、手持ちの銘柄を合算するとおよそ1万株(仕手銘柄の船舶株も多く含む)、金額にして1000万円近くになっていました。
しかし1991年、ついにバブルが完全崩壊し、平成不況(第1次平成不況)へと経済状況は後退します。
バブル崩壊 - Wikipediaによれば、
バブル崩壊の原因は、
経済学者の田中秀臣は「日銀がバブル潰しのために金融引き締め政策を行い、その結果1991年にバブルが崩壊した」「日銀が金融引き締めを行ったため、市場から株・不動産を買うための資金が一気になくなり、株価・不動産価格が暴落したのがバブル崩壊の真実である」と指摘している。田中は「1989年の消費者物価指数上昇率は、総務省の統計によると2.3%とされているが、消費税の影響を除いた実質的な物価上昇率は、1%以下と見られている」と指摘している。
経済学者の高橋洋一は「当時のバブルは資産市場にだけ金が流れ込んだため、資金規正で潰すだけで金融政策の対応は必要なかった」と指摘している。
高橋は「インフレ率からは正当化できないにもかかわらず、金融引き締めを行いバブルを潰そうとしたのは、日銀の失敗である。結果的にバブルではなく、日本経済全体を潰してしまった」と指摘している。
と記されています。
つまりバブル景気は、これ以上のバブル増大を防ぐ目的で政府が言わば針で突くような政策を行いますが、結果的にはバブル部分以上の部分までも潰してしまい、長きにわたる平成不況へと突入することとなった。と、言うことでしょう。
かくして経済は一気に冷え込み、地価は暴落、住宅価格も下落して行きます。売れないからより安くするという悪循環で。
当然この影響は私の収入の減少にも直結してゆきますが、私はまだバブル景気後の不況のどん底が、どこにあるのかの判断を見誤っていたのです。きっと当時の人々の大多数がそうであったように。
皆さんは今回の話を読んでいただいて、何か思うことはありませんでしたか?
「株式で1000万円ほどの蓄財を得ていたなら、それを全て売れば1100万円借り入れた住宅ローンの殆どを返済できるじゃないか?」と。
ですがそうは思えなくなるのが、バブル景気だったのです。
つまり、「ローンを返済するよりも、マネーゲームを続けなければ損だ。本業で稼げなければ尚更・・・・・。」と思ってしまう。
そんな時代だったのです。
そして私もまた・・・・・・。
今回のお話は、ここまで。
|
|
〜住宅ローン返済記:住宅ローンは職業柄、金利の安い銀行からは借りれず〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!住宅ローン返済記編
マイホームを購入するための頭金となる資金を貯め始めた頃の収入は、高校卒業後に就職した印刷会社での月額約10万円前後(ボーナスも10万円の年2回)でした。
年収にすると、たった140万円です。
いくら食費を削って頭金を貯めていったとしても、果たしてこんな収入で住宅ローンを借りる事が出来るでしょうか?
答えはNOです。
じゃあ私はなぜ旧我家を購入することができたのかと言うと、印刷会社に7年務めた後、より多くの収入を得られる職業に転職したからです。
皆さんもご存じだと思いますが、住宅ローンを借り入れるには、そのローンを返済する能力があることを証明するために、3年間の年収(前々年度・前年度・東燃度)をローン申込書に前年度の年収を記載しなければならず、その年収を裏付けるため支払証明書を添付しなければなりません。
旧我家を購入した頃の私の職業は、瓦職人(屋根工事)で、これは蛙の子は蛙という諺通りに、父がそうであったことから、幼い頃よりその手伝いを折りつけしていたことから自然に身に付いていた仕事だったのです。
そこで旧我家購入当時の年収を証明する住宅ローン借り入申込書に添付した支払証明です。
ご覧の通り当時の年収は約387万円。時は、昭和61年(1986年)です。
これなら人並みの年収で、ローンの返済が可能な年収と金融会社に認めてもらえる。と、言えるでしょう。
バブル景気 - Wikipediaによれば、空前絶後の好景気に沸いたバブル時代は、1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までのまでの51か月間(2年と7か月)とされていますが、
そしてその拡大期の始まりは、おおむね、1986年12月からだそうです。
ということは、私が旧我家を買うための所得証明の昭和61年(1986年)は、正にバブル景気の始まった年です。地価の高騰が、東京から既に始まりつつありました。
ですが少なくと1987年(昭和52年)の春までは、東京での地価高騰は、大阪圏に極端な影響が及んでいませんでした。
では堺市近辺では当時どのような事が起こっていたかと言えば、近畿自動車道 - Wikipediaによれば、1987年(昭和62年)3月3日 : 東大阪JCT - 八尾IC開通し、1988年(昭和63年)3月17日 : 八尾IC - 近畿自動車道の松原JCT開通し、全線開通。同時に西名阪自動車道と接続。
阪和自動車道 - Wikipediaによば、1989年(平成元年)3月29日 : 松原IC - 美原北IC間 開通(全線6車線)。
1990年(平成2年)3月29日 : 岸和田和泉IC - 阪南IC間 開通(全線4車線)。
1991年(平成3年)12月7日 : 美原北IC - 堺IC間 開通(全線6車線)。
1993年(平成5年)9月25日 : 堺IC - 岸和田和泉IC間 開通(全線4車線)。
1994年(平成6年)7月11日 : 一般国道42号湯浅御坊道路の吉備IC(現・有田IC) - 広川IC間 開通(当時は全線2車線)。
と、通勤のための高速道路というよりも、休日のレジャーに出かけるための高速道路が南紀方面へと延されそのための用地買収による土地成金が多数生まれました。
(一言:高速道路建設のための用地買収は、上記の区間開通の数年前から用地買収が行われますから、1987年(昭和52年)には既に用地買収を終えていたことが 想像できます。)
私の旧我家近辺での具体的なエピソードで言えば、旧我家へ引っ越した当初、町内会の寄合に行ってみると、近畿自動車道の用地買収に町が共有する農業用ため池が買収され、町内会に2億年が入ったことを知らされました。
堺市中区八田北町という小さな町内のストック金が2億円だなんて、凄すぎるとおもいませんか?
ほとほとさように、住宅用地であるにせよ、公共の用地であるにせよ、多くの地主や自治会にはその用地買収による多額のお金を手に入れた時代でした。
そしてそのようにして多額の買収金を手に入れた地主たちは、税金対策もあって、二階建ての入母屋=錣屋根(しころやね)の豪邸を数多く新築しました。
従ってこの頃の私の仕事(屋根工事業)は、年中多忙で、私の高収入を約束してくれていたのです。
ですが、銀行さんから見れば、やはり建築業の職人は、会社員に比べて極めて収入が不安定な職業としか見られず、銀行は住宅ローンを貸してはくれなかったのです。
そこでやむなく借りた先が、日本ハウジングローン(株)さんでした。
また、住宅金融専門会社 - Wikipediaによれば、
日本において一般個人(給与所得者世帯)向けの住宅ローンは、前出の通り1970年〜1980年代に住専が担っていたものは徐々に銀行ら預金取扱金融機関による住宅ローン(不動産担保付融資)へシフトして行った。預金取扱金融機関での貸付金利は市場金利(プライムレート、公定歩合、国債金利など)と連動していたが、借入に際しての職業・年収・頭金や他債務の比率など借入者個人に対する基準が厳しかった。そのため、融資の条件が適合しない者を中心に、借入者に対する基準が緩やかで、段階制金利制度や住宅政策などにより貸付金利が低廉であった住宅金融公庫による融資(住宅公庫融資)のシェアが2001年頃まで圧倒的に大きかった。しかし、公庫融資は民業を圧迫するという批判が燻りながらもあった。
2001年に小泉政権が発足すると行政改革の推進により、2007年に独立行政法人住宅金融支援機構が発足・承継され、公庫融資は実質廃止されることになった。代替策として2003年からフラット35の名称で知られる「証券化支援事業」が導入された。
「買取型」を例にすると、住宅金融支援機構と提携した銀行など預金取扱金融機関や新たに設立された(住専とは全く接点のない)モーゲージローン専業会社が住宅購入資金を直接融資し、その債権を支援機構が買い上げ、公取得債権を纏めさせたものを裏付けに不動産担保証券を発行(証券化)し、機関投資家に売却する。これにより支援機構が調達した資金を、モーゲージローン会社など融資実行者に買付相当額を売却(資金供給)し、債務者は毎月融資実行者に返済して行く仕組みとなっている。この資金調達は住宅支援機構の信用力がバックボーンにあり、銀行単独では超長期間固定での資金調達が難しいとされる中、最長35年間固定金利のフラット35を開発することになった。 |







