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堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜直虎:『城主はつらいよ』では、次郎法師が女城主直虎となる時の試練を描き
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ここの所ブログ更新を怠ていたために、ドラマの各回のあらすじ紹介の順番が逆になってしましますが、今回は第13回放送『城主はつらいよ』の放送内容をご紹介します。

『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』第13回放送『城主はつらいよ』では、お家乗っ取りを図る小野政次の井伊家内でのこれ以上の台頭を許さないために、ついに次郎法師が言い直虎として城主の座に立ちますが、中野直之 奥山六左衛門はこれに反発したため、直虎が家中を治めるために孤軍奮闘する様子がえがかれました。
 
とりわけ中野直之は、女であり、出家の身であった直虎がにわかに城主となることに猛反発し、
「おなごになにが出来るというのです。おなごに井伊を任せるなど、和尚様、お気は確かか?お家におられたのならまだしも、この方は十歳(とう)の頃より寺暮らしのおなご、政(まつり)ごとが出来るとは思えませぬ。」とはやし立て、
穏健な 奥山六左衛門も、
「いっそのこと、南渓和尚が還俗なさってはいかがかと・・・・。」と中野直之に同調します。
こうした井伊家重臣の意見に対して南渓和尚は、
「駿府(今川家)からは、但馬を後見にとの話がきておるが、お主らは、その方が良いとお考えか?」
と切り返すと、小野政次のこれまの井伊家に対する配信行為を知る直之は、しばし和尚に返す言葉を失います。
すると今度は奥山六左衛門が、
「しかしながら次郎様・・・直虎様のご出家は、井伊の本領安堵と引き換えと伝え聞いておりますが?」と語り、
これに呼応して直之が、
「そうじゃ、還俗など出来ませぬ。」と責めます。
すると和尚は、
「還俗はせぬ。領主の名を直虎とし、虎松が元服するまでの間、それを後見するだけの話じゃ。そう目くじらを立てる事も有るまいと思うがのう。」
と、この度直虎が城主となるに至った井伊家の事情を説明し、二人の反感を鎮めようとます。
次に和尚は、政次に問いかけます。
「但馬殿は、どうお考えかのー?」と。
すると政次は、
「国を治めるのは、生半可な事ではございませぬ。次郎法師様にはどこまでの覚悟がお有りか?それがいささか・・・・。」と政次自身が後見となる事の方が井伊家のためになるのだということを暗に示します。
ここでようやく直虎(次郎法師)が口を開き、
「我は、我が父や、先代の意志を継ぎ、井伊を守って行きたいと思うておる。いたずらに(領内が他国より)侵害(おか)されることなく、皆が日々を安んじておくれる国にしたい。」と、直虎自身の決意を述べます。
すると政次は、
「なればそれがしごときに、何か申し上げる筋合いはございませぬ。小野但馬、家老として、誠心誠意、直虎様にお仕いいたしまする。」と直虎に対して深く頭そ下げます。
もちろんそれが上辺だけの言葉であるとは、直虎も百も承知です。直虎は頭を下げた政次を、心の内を見透かすかのように横目で鋭い視線で見やります。
これをもって直虎の城主としてのお披露目の場は終了し、その場に参席した井伊家の重臣たちはその場を立ち去って行きますが、誰一人とし直虎が城主となることに納得していないらしく、皆が苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべての解散でした。

とにもかくにもひとまず、家臣に対する城主としてのお披露目を終えた直虎でしたが、とりわけ中野直之の直虎に対する反発には、思わず母を前にして、
「おんなに、おなごのくせにと・、男のくせに女のようなネチッコさ・・・・」と愚痴がこぼれます。
そこへ南渓和尚が現れ、独り言のように愚痴をこぼす直虎に対し、
「直虎、直虎。」と二度声をかけますが、直虎はこの呼びかけが耳に入りません。
なぜなら直虎は、未だ自身が次郎法師から直虎となった事に馴れておらず、和尚の呼びかけが己に向けられていることを即座に理解出来なかったのです。
そして和尚がより大きな声で「直虎。」と三度目の呼びかけで直虎は自身に対しての呼びかけであることに漸く気づき、
それまでそれまで愚痴をこぼしてだらしのなく廊下に投げやっていた態勢を整えて正座し、
「あっ、失礼いたしました。まだなれず・・・・」と、和尚に向き合います。
すると和尚は、手にしていた巻物二巻を直虎の前へと差し出します。
その二つの巻物には、『仮名目録』という表題が書かれています。
和尚のこれを、
「その昔、今川の先々先代、氏親殿が、御身 代を譲る際、無用の争いが起きぬようにと、国を治めるためにつくった掟じゃ。寿桂尼様がおつくりになったとも言われているが・・・・、まぁ、読んでみるがいい。」と、云われを語って立ち去ります。
つまり『仮名目録』は、南渓和尚が意のままにならぬ家臣たちを服従させるたのヒントになればと、直虎に渡したものだったのです。
ところが、次期当主の母であり、先代当主:直親の妻であるしのは、小野政次もさることながら、直虎にも、我子:虎松の後見になることなど、絶対にいやじゃと言いはります。

その後井伊の財政事情を知らない直虎は、領内の百姓衆の借金を棒引きにするための徳政令を出してほしいとの訴えに対し、いとも容易くその願いを受け入れてしまいます。

そんな時、まだ直虎がおとわと呼ばれていた幼き頃に家出したおり、瀬戸村の外れにある小屋で一夜を共にしたことのある、身は汚れ、頭髪と髭は伸び放題の上にボロをまとったホームレス風の男だった瀬戸方久という者が、立派な商人となって直虎の前に現れ、今後とも商いの便宜をはかってもらうべく、領主となった祝いの品を携えて現れます。
その際方久は、おとわ(直虎の幼き頃)と出会ったその日に、一夜の宿賃としてもらった櫛を売って得た銭を元手に、天性の商才を発揮して次々と利益を得て財をなした経緯を直虎に語り、直虎はそんな方久のサクセスストーリーにひどく関心し、
「早速一つ、頼み事があるのじゃが・・・・、井伊の家の分は支払うゆえ、村の分は何とか負けてやってはくれんかの?」と、瀬戸村の百姓衆らに貸した借財の棒引きを申し入れます。
すると方久は、
「よろしゅうございますよ。井伊の家に冒ししている分、今ここで耳を揃えて全てお返し頂ければ。」
と答えます。
しかし直虎は「さような事、出来るわけがあるまい。」と返しますが、
方久は、
「出来ますよ。井伊のお屋敷と、村の二つ三つ頂けますれば・・・・。」とやり手の商人らしい答えを口にします。
この言葉に困惑した直虎が、
「そっ、それでは、井伊家が無くなってしまうではないか。」とバカ正直な返答をすると、
方久は、
「さようでございますよ、徳政令を出せば、井伊家は潰れてしまうのでございます。」と何の遠慮もなく現実の厳しさを直虎に突き付けたのです。
あまりの事に驚き、その夜直虎達は借財・領内の年貢などを洗い直して見た所、30年かけても返せる負債があることが判明します。
つまり井伊家の財政は、もはや百姓衆に約束した徳政令を発する事など行える状況ではなかったのですが、さりとて百姓衆とは既にその約束を明言してしまっており、直虎は途方に暮れます。
更に、後日瀬戸村が直虎と徳政令の約束をしたことを聞きつけ、祝田村(ほうだむら)の百姓衆までもが、徳政令を願い出る始末。
そんな百姓衆を前にして直虎、「とにかく今は、徳政令は出せぬじゃ。」と、逃げるようにその場を去ります。
すると百姓衆を前にして難儀する直虎に対し小野政次は、
「これでも、まだご領主になられますか?」と直虎の心の動揺に付け入ろうとしますが、
直虎は政次に対し、
「我が降りたら、そなたが後見人になるではないか、たとえ井伊を潰したとて、それだけは御免じゃ!」と、キッパリと言い切ります。

この頃三河の家康は、領内の一向一揆に足をすくわれて勢力を伸ばせず、一方今川は、遠江の反対勢力を鎮めて、勢いを盛り返していました。
ただしこの頃の今川にとっては、井伊の直虎が思いもかけず領主となったことだけが、憂いの種だったのです。
駿府において今川の思い通りにならない井伊家について寿桂尼よりとがめられた小野政次は、「一計がございます。」と語り、井伊家乗っ取りのための次なる策があることをほのめかします。

一方井伊谷において直虎は、村に出て領民と触れ合い、領民をないがしろには出来ないことを再認識し、方久の元へと足を運び、
「・・・・例えばしばしの間返済を待ってもらう事はできぬか?」と頼み込みjますが、
方久は、
「こちらも商いですからねー。お待ちした暁には、その間の利ザヤを、きちんと、頂けるというのであれば・・・・。」と損得勘定を譲ろうとはしません。
直虎は、
「それでは百姓に徳はない。疲れ切り、逃げる者が出てしまう。それに耕しての無い土地など、そなたにとって何の旨みもないのではないか?」と食い下がりますが、
方久は、
「土地を欲しがる者は他にもおりましょう。例えば今川様や、小野様。」と、直虎にとって最も望まぬ未来をためらいなく言ってのけた後で、
「私とて、井伊のお家には恩を感じております。これまで通り私を使こうて下さり、徳政令さえ出さずに下されば、さような事はいたしませんよ。」と解きます。
それでも直虎が、
「それでは百諸達が困るのじゃ。」と食い下がると、
方久は、
「良いではないですか、百姓達など。」と返し、
これに対し直虎は、
「ならぬ、我らは、百姓達の年貢に支えられておる。百姓達が疲れ切り、力を無くしては、良い事など見込めぬと我は思う。井伊のためにこれは決して、棄て置いて良い物ではないと思うのじゃ。」と熱く語ります。
すると方久は、
「では、村の土地を利用して、商いでも初めてみてはいかがですか?米を多く作れる工夫をし、頃合いを見て売りさばくもよし、米以外の高く売れる作物を作るのもよろしゅうございましょうし・・・・・。」と、さしたる結論があってのことではなく、ただ商いの上での大まかな指針を述べてみたところ、
それを述べた方久にも意外な答えとして直虎は、
「それじゃぁ。それ、それじゃぁ、方久。」と、頭に何か妙案が思い当たったらしく、大きな声を張り上げます。
その後直虎は、南渓和尚に会い、領主となるということの重みと怖さを打ち明けます。
すると和尚は、
「己の信じたものを灯りとし、進んで行くしかないのお。」と語り、
直虎はこれを、
「自灯明にございますか?」と確認します。
そして和尚は、
「自灯明は、人の上に立つ者の喜びであり、また辛さでもあろうのう。」と問答を返します。

その後一人になり、机に向かって筆を走らせた直虎は、一通の書状を書き上げ、改めて方久を引き連れ、小野政次・中野直之 奥山六左衛門らを招集し、瀬戸村・祝田村が、井伊家に対して徳政令を願い出ざるを得なくなった事の経緯を改めて述べ、これを解決するために自らが打ち出した方策を明かしたのです。
「・・・・・彼らは度重なる戦(いくさ)にて男手を失い、ここにおる方久に銭を借りるハメになり、今はその支払いと年貢との二重の支払いで難儀しておる。一方井伊も戦のかかりなどで、同じく方久に世話になっておる。故に井伊としは、徳政を出す事は出来ぬ。よって、この二つの問題を落着させるために、方久を家臣の列に加え、瀬戸・祝田の両村を、この方久の所領とすることにする。これにより、方久には年貢が入ることとなる。これをもって現状の借銭を猶予。猶予が明けるまでの間百姓達は、年貢のみを治めればよいことになる。加えて、村に新しい商いを起こし、百姓達が自ずと返済できるように方久が面倒を見るということになる。」と言い渡します。
これには家臣一同目を丸くして驚き、とりわけ中野直之は、
「お気は確かにござりますか?・・・・井伊家に素性も知れぬ商人を加えるなど。」と猛反発しますが、
直虎は、
「そもそも、ご初代様は拾らわれ子ではないか。ただならぬ者は、その身分にかかわらず取り立てることこそ、家風に適うというものではないのか?」と反論します。
しかし中野直之の気は納まりません。
「乗っ取りではないか、さようであろう!借金の形に土地をやらざるおえぬようにする。乗っ取りと言わず何と言う。某(それがし)はかような家に仕えるのは御免こうむる!!」と激怒して立ち去り、奥山六左衛門も
「瀬戸村は新野の娘たちのご所領、祝田は我妹しのの所領となっております。方久にやってしまっては、妹や新野の娘子たちは、今後いかに?」
と異を唱えます。
直虎はこれに対し、
「新野には、何らかの当て代えはするつもりじゃ。虎松としのには、小野より返された所領がある。それで十分じゃと思う。」と自身の判断の正当性を論じますが、
六左衛門は、
「祝田は、妹と直親様との思い出が詰まった土地にございます。」と語り、
これに直虎は、
「新野の屋敷に移って以来、虎松もその地に一度も戻ってはおられぬ。思い出の地というのは、言い過ぎではないか?」と返します。
しかし六左衛門は、
「そのような情を欠くお言葉、とても伝えられません。」と言い残し、中野の後を追うように六左衛門もまたその場を去ります。
その後小野政次もその場を去り、方久と直虎のみが場に残り、
「・・・・銭は力じゃ、・・・・・瀬戸村から銭が湧き出るようになってごらんなされ、・・・・直虎様のお陰じゃ。・・・・あの石頭どもの鼻を明かしてやりましょうぞ。」と方久は語ります。

ところが、そんな二人のもとに、二つの村の百姓衆が井伊を飛び越えて今川に徳政令を出すよう願い出たとの知らせが届きます。
この知らせに直虎は、「何が起こっておる。何が起こっておるのじゃ。」と想定外の現状を理解できずに困惑するばかりです。
一方、小野政次は、直虎に反発して去り行く中野直之 奥山六左衛門らを
「奥山殿、中野殿、少し、よろしゅうございますか?」と呼び止め、二人に歩み寄ります。
何やら政次には井伊家を乗っ取るために、二人の思いを利用しようとする思惑があるようです。
果たしてこの後井伊家はどうなって行くのでしょうか?
女城主の前途は、まだまだ多難のようです。

つづく。

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〜直虎:徳政令の行方』では、直虎は真心ある奇策をもって政次に対抗し
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前回のページでも記したように『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』第14回放送『徳政令の行方』では、井伊家領内の百姓たちが、これまでの借金を棒引きにする法律(徳政令)を巡る直虎・小野政次・百姓衆らの動きが描かれました。

直虎は、相次ぐ戦乱の中で作物の収穫がままならなかったがためにやむなく商人から借りた借財や、田租(いわゆる年貢)を棒引きにする徳政令発布の、瀬戸村・祝田(ほうだ)村の百姓衆による要求に対し、瀬戸・祝田(ほうだ)の両村を方久の所領とする奇策を打ち出します。
つまり直虎が、瀬戸・祝田(ほうだ)の両村を商才に長けた方久を領主としたのには、むやみに田租を徴収して自身の領地の百姓衆を疲弊させるような真似は決してぜず、百姓衆の暮らしを安定させることこそが、損得勘定においてより長く・多くの田租を得ることとなると知恵を絞り、善政をしくとの確信があったからでした。
ですが瀬戸村は、新野左馬之助の娘たちの所領であり、祝田(ほうだ)村は井伊直親の妻:しのとその嫡男:虎松の所領であり、二つの村が方久の所領となることは、すなわち彼女らにとってはこれまでの所領を失う事になり、当然彼女らが直虎の考えに異議を唱えることは火を見るよりも明らかです。
今川家の威を借りて井伊家乗っ取りを目論む小野政次は、直虎が瀬戸・祝田(ほうだ)の両村を方久の所領とする考えを彼女らに伝えます。
そして直虎が方久に二つの村を与えた理由について政次は、百姓衆のためだという直虎の考えを捻じ曲げて伝え、「井伊家はその方久という商人に借金があり、強くは出られんのです。要するに借金の返済を迫られぬよう方久の機嫌をとったということでございます。」と彼女らに述べた上で、「私に(虎松様の)後見人を任せていただければ、必ず村はお返しいたしますが。」と切り出し、彼女らを自身の野望を果たすために利用しようとします。
結果、かねてより直虎に対して反感を持つ中野直之 奥山六左衛門と、新野の娘たちや井伊家の前
当主だった直親の妻:しのらは、井伊家の身内でありながら直親とっての強力な反対勢力となり、中野直之は直虎に対し「瀬戸村と祝田(ほうだ)村を返し、方久を家臣の列から除く事、それが無されんのならば、直虎様をご領主とは認めぬ。これは、中野・奥山・新野の総意でござる!」と高らかに宣言したのです。
これに対し直虎は「認めぬと言うても、ならば誰が後見をするというのじゃ?」と問うと、
中野直之は「但馬殿(たじまどの)にやってもらう。」と返します。
直虎はこの言葉に「そなたら、気は確かか?」と驚きの声をあげますが、直之は「確かじゃ!但馬は領地は元通りに、百姓たちの不満も納めて見せると言う。新野殿や虎松様らの土地を取り上げてでしか領地を治められぬお方とでは、どちらが頼りになるかは明らかじゃろう。」と即答します。
そんな言葉に返す言葉もない直虎でしたが、そこへ彼らと申し合わせたかのように小野政次が現れ、
瀬戸村と祝田(ほうだ)村の百姓衆が今川に徳政令を願い出たことで、今川が井伊家に対する下知を書き示した書状を直虎に差し出します。
その書状には、直ちに井伊より二つの村に対して徳政令を発布せよとの命が記されていたのです。
政次にとってはこの今川よりの書状は、井伊家乗っ取りを現実のものとする決め手だったのですが、直虎と方久には政次がそのような行動に出ることは既に予見しており、その対抗手段として新たなる奇策を隠し持っていたのです。
直虎が「(徳政令を)発布したいのは山々じゃが、実は、方久は・・・・」と語ると、
直虎の言葉を受けて方久は「はい、やはり、私がいきなり所有するのは風当りが強いかと、瀬戸・祝田(ほうだ)の土地を、龍潭寺(りょうたんじ)に寄進してしまったのでございます。」
これには政次・中野直之 奥山六左衛門らが揃って仰天し、直之は「はぁっ?」と声をあげます。
すると直虎は「今川のかな目録によると、確か寺領に関しては守護不入とあったはず。」と巻物であるかな目録をいかにも業とらしく霧箱を取り出し見開くと、「ここじゃここじゃ。」と該当する記述の部分を政次に指示します。
これに対し政次は「今川の御沙汰を撥ねつけるおつもりですか?」と迫りますが、
直虎は、「撥ねつけるのではない、奇しくも発布が出来かねぬ様子となってしまっておる。と言うだけの事じゃ。」と詭弁を弄します。
すると政次は「なるほど、では、駿府へはその事情を申し上げ、そのご返事といたしましょう。では。」と言い残し、その場を立ち去ります。
しかしこの結末に中野直之の腹は収まりません。
「意味がわかりませぬ。なぜ御沙汰を撥ねつけるのでございます?」と直虎に疑問を投げつけますが、
直虎は「あれを呑めば、結局瀬戸も祝田(ほうだ)も、但馬の土地になるのじゃ。」と撥ねつけます。
しかし中野直之は尚も食い下がり「但馬は返すと言っておったではんかいかーっ!」と声を荒げます。
すると直虎もまた「政次がこれまでどのような事をして来たか知らぬか!それともこの己に言うた事だけは誠じゃとしんじるか?だとすれば男というものは、随分お目出度い生き物じゃのう!」と声を荒げて応戦したのです。
これに対して直之は「同じことではないか!そこの商人に乗っ取られるか、但馬に乗っ取られるか、それだけの違いでござろう!!」と敵意を露わにします。
すると直虎は、この決断に至った訳を語り始めます。
「土地を預けるのは、これからの井伊のためじゃ。」と。
この言葉にも直之は意を解さず「はぁっ?」と声を発しますが、それまで直之の傍らでひたすら沈黙を守って事の成り行きを見ていた奥山六左衛門は、「これからの・・・井伊?」と、何やら直虎の考えにいささか心に響くものがあったようです。
直虎は続けます。「今の井伊には、金も無ければ人もおらぬ。このままでは先細るばかりじゃ!何とかするためには、裸一貫から成りあがった方久のような者の才覚が、新しいやり方がいるのじゃ!」
すると直之は、「男女の仲でもお有りなのか?」と、直虎を愚弄し、直虎がこれに声を荒げようとした時、その言葉を遮るように「とにかく!瀬戸と祝田(ほうだ)を返していただかぬ限り、我らは但馬を後見人に臨む。とくとお考え下さいませ。」と、直虎に睨みを利かせた後に立ち去り、奥山六左衛門は直虎に静かに頭を下げて直之の後を追って去ったのです。

かくして政次は直虎らの対抗策に屈したかのように直虎の前から立ち去りましたが、決して野望を諦めたのではありませんでした。
政次は次なる策として、直虎の考えをすぐさま蜂前神社(はちさき神社)の禰宜(ねぎ)に伝え、蜂前神社(はちさき神社)の禰宜(ねぎ)は百姓衆に対し「今川様は徳政令を出すように井伊に命じて下さったが、強欲な領主と商人のせいで、この徳政令は骨抜きにされてしまったとのことじゃ。・・・・・そなたらは、方久にに売られたのじゃ。」と直虎らに対して反感を抱かせるように先導したのです。
そして直虎の思いを知らぬ百姓衆は、禰宜(ねぎ)の言葉にまんまと乗せられ、直虎に徳政令を出すように仕向けるために方久を拉致する暴挙に走り、直虎のもとに「今川の徳政令を受け入れると記したものを蜂前神社に届けよ。さもなくば、方久の命はない。」という脅迫状を届けます。
直虎は瀬戸村・祝田(ほうだ)村の百姓衆と話し合いを持つため、その代表者である甚兵衛の姿を探し求めて二つの村を訪ね廻りますが、村には誰一人として知と陰はなく、万策尽きた直虎は、徳政令発布の要求を受け入れる決意をし、手回しよく蜂前神社にあった紙と硯(すずり)をもって徳政令を受け入れる書状を書きつ刷りますが、その書きかけの書面の上に何処からともなく歩み現れたカメが居座り、書状の完成を阻止します。
このカメは、亀之丞(井伊直親)の魂が乗り移ったカメだったのでしょうか?
少なくとも直虎はそう考え、折れた心を踏み留めます。
そして百姓にとって何よりも大事な田植えの次期でありながら、この騒動の間放置されていた水田に早苗を禅僧たちの力を借りて共に田植えを行おうとします。
そこへ、やはり水田を放置していたことを気がかりに思っていた村の百姓衆が現れ、直虎と百姓衆、互いの思いのたけをぶつけあいます。
直虎:「お主らの稲が育たねば、我らも困るからな、勝手ながら入らせてもらった。」
甚兵衛:「かような事で絆されねえ!直虎様は借金のかたに里を方久に売ったんずら。かような狂言で、わしら一同衆が絆されるとお思いけーっ?」
直虎:「確かに我は、瀬戸村と祝田村は、方久の所領とした。じゃがそれは、井伊家の借金を無くすためではなく、お主らの返済のためでもあるのじゃ。方久の所領となれば、方久には年貢が入るようになる。それをもって返済を猶予してもらうようにしたのじゃ。」
百姓1:「だども、借金は無くなりはせんにーっ。」
百姓2:「そうだ、そうだ。やっぱり徳政令の方がええでぇ。」
直虎:「目先の話ばかりするな!確かに徳政令が出れば、今ある借金は消えてのうなる。じゃがその後はどうじゃ?人はおらぬし、何時凶作になるとも限らぬ。方久は欲深じゃ、借金を棒引きにはしてくれなんだ。なれど村を任せば、そなたらが潤い、自ずと借金が返せる仕組みを作ると言うてくれた。ならば、その方が良くはないか?」
百姓1:「そうだって・・・そうだって禰宜様は・・・・」
直虎:「我とと禰宜のどっちを信じる?どちらを?方久は誠の所、誠は何を考えておるのか計り知れぬところはある。じゃが方久は、己は銭の犬じゃと言うた。銭のためなら何でもする。己の所領となれば、己の意地にかけて村を潤すと思う。そして、そのために欠かせぬそなたらを、無下に扱うようなことはせぬ。我は、そのように信じておる。」
そう語る直虎の足元には、今植えられたばかりの稲の苗に風が吹き、苗が風になびいている映像が画面に映し出されます。
そして直虎は、「清風明月を払い、明月は清風を払う。風と月は諍(いさ)うのではなく、一体であるという。我も、皆とそうありたいと思うておる。我は皆と井伊をそんな風に作って行きたいと思うておる。皆も、我とはそんな風にやって行きたいと思うてはくれぬだろうか?」
百姓衆はそんな直虎の心からの思いを聞き、涙を浮かべて納得し、甚兵衛は土下座して直虎にこれまでの行いを詫びます。
そしてその場には、奥山六左衛門の姿もあり、直虎の言葉に感銘を受け、直虎に付き従うことを誓います。
さらにその場に居合わせたのは六左衛門のみではなく、遠目から今回の騒動の首謀者である政次と禰宜の姿もあったのです。
禰宜は「捕らえたのが、村の心にございましたか、やっかいでございますぞ、ああゆう手合は・・・」
と語り、
直次は「知っておる、昔から。」と語ります。
直虎らと百姓衆らが、共に夜を撤して田植えを済ませた時、辺りはいつの間にか白み、夜明けを迎えていました。
和解した直虎と百姓衆は事件の中で百姓衆が直虎によこした脅迫状のつたないかな文字に言及し、その不出来を皆して笑い合う中、未だ方久が拉致されたまま縄で縛られて放置されていることに気づくのでした。

つづく。

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山本學さん演じる村の長老:甚兵衛

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〜直虎:第14回放送『徳政令の行方』に描かれた事件発端の背景とは?
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余談ですが桜満開の春ですね、うらら過ぎてとにかく眠たくて、帰宅後にブログを更新出来ない日々が続き恐縮です。
昨日もそれは同様で、今ページは意を決して朝3時に起きて記しました。

『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』第14回放送『徳政令の行方』では、井伊家領内の百姓たちが、これまでの借金を棒引きにする法律(徳政令)を巡る直虎・小野政次・百姓衆らの動きが描かれました。

そして今回放送『徳政令の行方』の出だしでは、その徳政令を巡る事件発端が描かれました。
徳政令とは、平たく言えば、領民の領主に対する田租(いわゆる年貢)などの減免を許す法令のことです。
百姓たちの戦国(其の二 食糧を求めて戦へ): 原田伊織の ...には、戦国時代の状況を以下のように紹介しています。
戦国時代は農業技術が発達していなかった上に、やたら大飢饉に見舞われた。加えて、風水害に疫病の流行。飢えが日常的であった時代なのだ。特に、正長元年(1428)、文明五年(1473)、永正二年(1505)の大飢饉が、ほとんど日本列島全域に於いて甚大な人的被害をもたらしたことが判っている。それ以外の年も各地で飢饉が頻発し、餓死者が絶えなかったのである。十五世紀後半から十六世紀についての史料には、旱魃(かんばつ)、洪水、風害、疫病、そして飢饉を伝える情報が際限なく表われることを、戦国時代の村や百姓の研究では第一人者と目される藤木久志氏も指摘しており、同じく黒田基樹氏も、江戸期の人々が「飢饉」と呼んだ状況が戦国期に於いては「日常」そのものであったという。
何故この時代は飢饉が慢性化したのか。実は、この確たる理由が分からないのだ。この時代は気候が寒冷化していたと言われる。近年では、峰岸純夫氏をはじめとして多くの研究者がこのことを指摘しているが、この説は結構古くから存在する。大きなうねりでみれば、平安時代は温暖な気候であったようで、鎌倉後期から室町に至る時代は寒冷化の時代であったというのだ。このことは、かなり古い時代から指摘されてきたことである。しかし、データによって百年ぐらいのズレがあるとも言われ、寒冷化のみで説明できるまでには固まっていない。
一方で、日本列島の人口が一千万人台に乗るのは、この戦国を含む室町時代であるとされている。その背景要因として、司馬遼太郎氏をはじめとする多くの研究者が食糧が増産されたことを挙げている。確かに、全体として食糧が不足すれば人口は増えない。ところが、生産量が増えたとか、減ったとかを検証することはできないとする考え方も根強い。この問題は、まだ明確な答えをもっていないのである。
はっきりしていることは、飢饉というものが単純に生産量が不足して起きるものではないということだ。飢饉の直接的な原因は、生産や流通に関する「社会関係」にあるとすることについては学者や研究者の間でほぼコンセンサスが成立している。それまでの荘園を中心とする生産環境では気候変動による生産環境の変化に対応できず、人びとは新しい「社会関係」を構築しようとする。一言で言えば、その新しい関係構築の動きが「戦国」であると言えるのではないか。食糧を獲得できない人びとは、食糧が自分たちに行き渡るような社会的な仕組みを求めたのである。
慢性的な飢饉の中で、百姓はどうやって生存を図ったか。典型的な形が、「口減らしの出稼ぎ」、即ち合戦である。「家中」と呼ばれる所謂「武士」階層の者に「奉公」する、つまり、中間や小者となる契約を結ぶ。これが、前稿で述べた「騎馬」に付く「足軽」である。そして、食糧をはじめ「雑具」(ぞうぐ)=日用生活品、牛馬、人身(特に「足弱」=老人・女・子供)を掠奪する。この“戦果”によって、家族も在所も、果ては「領」も豊かになる。結果として、国内が平穏になる。生きるためには、合戦に出て、勝って食糧をはじめとするあらゆる物財から人身に至るまでを手に入れなければならない。豊かになれば、更なる“戦果”を求めて合戦に出る。百姓は、合戦に勝ち続けなければならない。そのため、敵地に侵攻した時は、敵の地力を衰退させるために必ず侵攻した地の作物を刈り取り(=「刈田狼藉」かりたろうぜき)、徹底した生産破壊を行う。刈田狼藉を受けた土地は、生産不能となるから飢饉となる。その地に生き残った百姓は、またどこかから掠奪してこない限り生きる糧は手に入らない。つまり、戦国の合戦が実は飢饉を発生させていたという側面があり、同時に合戦は生存の手段でもあったのだ。

要するに戦国時代は、食料の確保が極めて困難な時代であったため、領主にとっても百姓にとっても、生きるか死ぬかの選択を常に迫られる日々だったということでしょう。

ということで、
井伊谷の百姓衆は、領主に対するこれまでの借金(田租)を棒引きにしてもらわなければ、百姓としての生活が立ち行かないと直虎に迫ったのです。
この井伊領内の百姓衆の要求に対し直虎は、瀬戸方久(せとほうきゅう:遠江国で郷士として生まれながら商才に長けた商人として力を得た人物。)を井伊の家臣とし、瀬戸・祝田(ほうだ)の両村を方久の所領とする奇策を打ち出します。
しかしこの直虎の考えに対し、中野直之・ 奥山六左衛門らは、猛反発します。
そんな矢先、瀬戸村・祝田(ほうだ)村の百姓衆は、祝田(ほうだ)村にある蜂前神社(はちさき神社)の禰宜(ねぎ:神社の代表者である宮司の補佐役)徳政令の発布を井伊家ではなく、これを支配する今川家に直接願い出る直訴という行動に出ます。
この直訴が今川によって受け入れられてしまえば、井伊家は領内を治める権限を失い、今川は小野政次にその監督権を任せることになります。
このような百姓衆の有り得ない動きについて方久は、「要するにこれは、民の訴えをかくれみのとした小野様の(井伊家)乗っ取りなのでは?」と言及します。

上記の記述以後が、今回放送のメインドラマですが、続きは今晩記したい・・・・・・・と思いますが、また何も出来ずに寝ちゃわないかな?

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〜直虎:『さらば愛しき人よ』では、次郎は瀬名を助けるも、瀬名は次郎を助けず
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『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』第11回放送『さらば愛しき人よ』では、松平元康の裏切りに今川氏真が激怒し、元康の正室:瀬名姫とその子:亀千代らを処刑せんとした時、次郎法師がその助命を寿桂尼に申し出たことでその処断が遅れ、これを阻止せんと駆け付けた石川数正の救いの手が間に合い、瀬名姫らは窮地を逃れたにもかかわらず、その後今度は井伊直親が氏真によって処断される破目になり、次郎法師が元康や瀬名姫らに直親の窮地を助けてもらうよう懇願しますが、松平家の者はだれ一人として井伊家(次郎法師)の願いを聞き入れようとはしなかった経緯が描かれました。

松平元康が桶狭間の戦いの後に今川を見限り、混乱する今川勢の隙をついて、本来松平家の城であった岡崎城を奪還した後、すぐさま織田と同盟関係を結び、今川家に敵対する態度を明らかにします。
(一言:ドラマでは岡崎城は織田軍を恐れて今川の兵が城を捨ててもぬけの空になったところへ元康らが戻ったように描かれましたが、私の考えでは松平軍は岡崎城に残る相当数の今川兵を掃討した上で入城したと思います。戦国ドラマでは、家康を美化しすぎだと・・・・。)

いずれにしろ元康の裏切りに激怒した今川氏真は、今川方に残っていた元康の正室:瀬名姫やその子である亀千代をはじめ、「松平の人質は全て処刑せよ!」と命じます。
そして今正に瀬名姫親子らが処断される場所に引き立てられる時、瀬名姫を幼き頃よりの友と信じる次郎法師は、井伊谷より駿府に駆け付け、我が身をなげうって必死に彼女らの処断を阻止しようとしますが、今川方はその訴えを全く聞きれようとはせず、もはや打つ手なしとなった時、松平元康の家臣:石川数正が早馬を走らせて駆け付けます。
「松平元康が家臣、石川数正と申す。鵜殿 長照(うどの ながてる)殿の忘れ形見を人質として預かっておりまする。瀬名殿・竹千代君・亀姫様とお置き換え願います。」と馬上より大声で口上を述べ、瀬名姫らは処刑を免れます。
ナレーションでは、この事件について、
「これが、後に語り草となる、数正による瀬名の人質交換事件でござった。」と説明が加えられます。
永禄4年(1561)直親と、シノの間に待望の男子が「虎松」が生まれる、後の直政である。今川家は桶狭間の戦いで当主が討死し混乱し尾張、三河の諸将は今川方から離反が相次ぐ。大高、鳴海、沓掛、地鯉鮒城(知立)の各城は明渡し退却して行った。松平元康(家康)は空になっていた岡崎城に入る。暫く今川の様子を見届けるが人質から独立し松平家の勢力拡大の好機と今川家から離反し織田信長に協力する。牛久保城を攻め、さらに今川家親臣・鵜殿長照の上ノ郷城(蒲郡市)を攻めるが落ちない、忍びを使い城に火を付け落城させる、長照は自刃。子の氏長、氏次を捕虜にする。
 地元の伝承では鵜殿長照は乱戦に紛れて城を脱出し清田町の安楽寺横の坂で判資定に討たれたという、この坂を鵜殿坂と言い、坂で転倒し怪我をすると一生治らないという伝説があるという。
 松平元康が今川家に叛いたことから駿府の人質、元康の妻・瀬名と子供2人竹千代、亀姫は斬首になる事になった。
 松平家から人質交換の申し入れがあった。
 鵜殿氏長兄弟の祖父の妻は今川義元の妹であったことから親族であり三河の今川衆が離反する中、今川家に最後まで忠誠しての落城を評し人質交換に応じることになった。

と元康による人質交換劇について記しています。


ところで石川数正と言えば、前年の大河ドラマ『真田丸』について記した
〜真田丸:ドラマで描かれた石川数正の豊臣への離反は、真田信尹の調略?で触れたように、『真田丸』では真田信尹の調略により徳川家康の側近中の側近(家康の懐刀とまで言われた)であったにもかかわらず、突如として家康を裏切り、豊臣に寝返った人物として描かれた武将ですが、覚えていますか?

ともわれ、命を救われた瀬名姫は次郎法師に深く感謝し、今後は、今川に従う井伊家の次郎法師と、今川を裏切った松平家の瀬名姫は敵味方の立場になりますが、公にはそうであっても、個人的にはこれからも二人は友であるという思いを確認します。
がしかし、母である佐名姫が井伊家より人質として今川家へと身柄を預けられ、義元に見初められて一旦は側室となるものの、それは一時の手慰みのようなもので、佐名は今川家臣の妻とされます。
そんな母の身の上を、幼き心で察していた瀬名姫は、「今川を手に入れるのじゃ。」と語っていたことを、佐名姫は母として嬉しく思っていたことを瀬名姫に語ります。
それは瀬名姫が人質交換事件によって命拾いし、夫である松平元康のもとへ帰る直前のことでした。
今川方の母と、それに敵対する織田家と同盟関係を結んだ松平家の瀬名姫は、敵味方となり、後に佐名姫は今川の者として自害に追い込まれることから、この時の瀬名と佐名による母子の語らいは、今生の別れとなったのです。
そして瀬名姫は、母(佐名姫)との「今度こそ今川を手にいれるのです。」との約束を果たすには、次郎法師の願う通りに、今川氏真から井伊直親の命を救うため、井伊の人質となる策を講じたなら、今度こそ元康は瀬名姫やその子:松千代は共に元康に救われることなく棄て置かれると、直親を救うために次郎法師に協力することを聞き入れず、次郎法師が屋敷の門を出た途端に門を閉め、瀬名姫は屋敷内に閉じこもってしまいます。
次郎法師は瀬名姫の命を救うべく駿府へとはせ参じたにもかかわらず、瀬名姫はその恩に報いることなく、次郎法師の直親を助けて欲しいという願いを頑なに拒んだのです。

また、一時は奥山朝利殺害事件をきっかけに、直親・小野政次・次郎法師が幼きころのような良好な仲を取り戻したかに見えたのですがそんなある日、瀬名姫らを助けて頂いたお礼を伝える使者が直親のもとを訪ねて来ます。
使者が松平元康の礼状として手渡した書状は、直親に鷹狩への招待する内容でした。
それはつまり、この時点でまだ今川家に与する井伊家に対して、桶狭間の戦いの後に今川家から離反して敵国としての意思表示をした松平家に寝返ることを誘う意味合いの書状であり、これに応じる意志を固めた直親は、そのことを今川方に決して知られてはいけない事でした。
しかし直親は、あえてその書状を今川の目付け役である小野政次に見せたのです。
直親は政次を幼き頃のように再び信頼にたる友として信じればこそ
「恐らく今川はもう立ち直れまい。その道ずれになるのはまっぴらじゃ。となれば、どこかで、松平と接せねばならぬ。・・・・・前もって手を汲めばこそ出来ることもあろうと言うものであろう。」と今の思いを包み隠さず語って。
これに対し政次は、
「その前に今川に謀反の疑いを掛けられるやもしれんがのう。」と返します。
しかし直親は、
「だから、政次に決めてもらわねばならぬのだ。」と政次を全面的に信頼すればこそ、今川の目付けとしての立場を生かした動いてもらうよう協力を求めたのです。
すると政次は、
「選ぶ余地などないではないか、俺とて、今川と共倒れなど御免だ。」と言い切り、二人の意見は一致したのです。
「その代わり、二つお約束頂きたい。一つは、今川の間者はどこにおるかわかりませぬ。この件は、決して口外なさらぬこと。もう一つは、私に一切をお知らせくださること。でなければ、いざという時に守り切れませぬ。」との条件を付けて。
そして直親は、「ご承知いただけますか?」と念を押す政次に、「選ぶ余地などないではないか。」と硬い約束を交わします。

ところがです、直親が使者に伴われて元康のもとへ向かったその後に、又しても元康の使者と名乗る僧があらわれます。
これにより、先に訪れた使者は、偽物だったと気づいた次郎法師は、直親のもとに駆け込み、
「我らは、今川の罠にハメられたのやもしれぬ。」と知らせますが、時すでに遅く、
偽の使者が既に今川の寿桂尼のもとに、偽の元康との間に交わした直親の書状を手渡していたのです。
駿府で寿桂尼にその直親の今川への反逆(=松平への内通)を示す書状を突き付けられた政次は、今川の目付けとしての身体が極まり、直親との固い約束を反故にして、
寿桂尼の「答えをえらばれよ。」との問い正しに、
「選ぶ余地などございませぬ。父の代より恩顧を受けました私は、今川様の目付けにございます。」
と我が身の保身に走ったのです。

次郎法師はこの直親の窮地を前に松平家の岡崎城へと急ぎおもむきますが、元康は直親を救ってほしいとの願いを聞き入れず、会おうともしません。
そこで次郎法師は瀬名姫に願いを聞き入れてもらおうとしますが、協力して今川への人質となることを了承して次郎法師と今川へ同行する振りをして、次郎法師が先に門を出た所で門を閉ざし、瀬名姫は屋敷内に籠ります。

次郎法師は、万策尽きて井伊谷に戻りますが、そこには今川の呼び出しに応じて死出の旅路を覚悟した姿がりました。
次郎法師は、今川に瀬名姫の命乞いをしなければ、佐名伯母上との縁は途絶えたままで、今川を裏切った松平元康の正室:瀬名姫を助けたことで敵(元康)と直親が内通しているとの疑いの目をつけられることも無かった。
いや、そもそも我が男として生まれておれば、(我が当主であり、直親が井伊家の現当主として)今川に疑われることはならなかったのじゃ。
と直親に思いの丈をぶつけます。
するとそんな次郎法師に直親は、おとわのお経を最後にもう一度聞きたいと望みます。
しかし次郎法師はその求めをキッパリと断ります。
「断る。あれは死者を悼むものじゃ。明日太守様が死ぬかもしれぬ。今川館が焼け落ちるかも知れぬ。だから、断る。」と。
そんな次郎法師を直親は強く抱きしめ「では、無事に戻ったら一緒になってくれ。返事は?」と告白します。
次郎法師は「心得た。」と道ならぬ恋への同意を口にした後、
直親に「待っておるからな、待っておるからな、亀!何をしても、どんな卑怯な手を使っても、戻って来るのじゃ。」と、涙を流し、クシャクシャの顔で告げた後崩れ落ち、地面に這いつくばって泣き続けます。直親が生きて戻ることなどないと知ればこそ。

この後ナレーションは
「この日、直親は僅かな供を連れ、駿府へ向かった。誰もが、直親が生きて帰れるとは思ってはいなかった。」と語り、
映像は、直親一行が進む街道の松林に疾風が吹き、糸で張ったネットの罠で獲物を待つオニグモの姿が一瞬映し出されたそのすぐ後、直親を暗殺せんとする今川からの追手が直親一行を取り囲みます。
ネット(クモの糸で紡いだ網)で獲物を待つオニグモの姿は、直親が今川の罠に絡めとられ、今正に最後の時を迎えんとする状況を象徴的に指し示す映像で、取り囲む今川の間者を睨み付ける直親の表情のアップで今回のドラマは終了します。

                                                       つづく。  

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直親と政次がかつての仲を取り戻したかに見えたシーン

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〜直虎:清廉潔白な若者として描かれる井伊直親にいずれ隠し子の登場が〜
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『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』における亀之丞こと井伊直親は、主人公でる井伊直虎(おとわ 次郎法師)の許婚であり、二人が結ばれることはなかったものの、お互いがお互いを思い、生涯を通して深い心の絆で結ばれた間柄として描かれています。
ドラマを通して描かれている直親の人柄は、実直で爽やかな若者です。

い頃の思いそのままにおとわ(次郎法師)を思い続け、その思いがあるからこそ「井伊家を守りぬくことが、自身の幸せよりも優先される。それこそが全ての井伊一族の幸せにつながる。」という彼女の意志を尊重し、奥野の娘:しのとの婚儀を了承したという設定で、これまでのドラマの中では直親が描かれています。

つまり直親が愛した女性は、おとわ(次郎法師)と彼女が公認するしの意外には存在せず、直親の子は、しのの生んだ子:虎松(後の井伊直政)意外には存在しえないかのように描かれており、そのイメージは笑顔がステキな三浦春馬さんにピッタリです。

父:井伊直満が今川家に反逆したとの汚名を着せられて殺害され、直親も反逆者の子として今川に命を狙われる立場となって後、幼い頃から約10年の間、姿を隠しました。
この行方を隠した間、直親はひたすらおとわの事を思い、彼女と再会することを心の支えとして生きていたとされました。

ところが井伊直親 - Wikipediaを見ると、直親にとっての特別な女性はおとわとしののみではなく、子供は虎松のみではないということを知ることができます。

井伊直親 - Wikipediaを見ると、
妻の欄には婚約:井伊直虎井伊直盛娘)正室:奥山ひよ(ドラマの中ではしの)の二人の記述しかないものの、子の欄には、直政だけではなく、高瀬姫という姫の名が直政の前に記されています。
つまり直親には直政の姉である高瀬姫という娘がいたのです。
では高瀬姫の母はしの(奥山ひよ)なのかというと、そうではないのです。

高瀬姫 - Wikipediaには以下の記述があります。
高瀬姫(たかせひめ、生年不詳 - 寛永11年8月11日1634年10月2日))は、戦国時代安土桃山時代江戸時代の女性。遠江国引佐郡井伊谷の領主・井伊直親の娘。
井伊直政の異母妹。
一言:えっ、井伊直政の異母妹?井伊直政の異母姉の間違いでは?)
井伊谷で生まれたか、父・直親が松源寺で匿われている際に現地の人(塩澤氏の娘か)との間に生まれたという説がある。
徳川家康の命令で異母兄・直政の家臣になった川手良則と結婚。彦根の長純寺に高瀬姫の菩提所がある。春光院。

そんな訳で直親は、今川家に命を狙われて姿をくらまし、再び井伊家に帰参するまでの間、ひたすらおとわの事を思い、彼女と再会することを心の支えとして生きていたとは言い切れないのです。
仮におとわに対する思いが根底に抱き続けていたにしても、ある時その思いに反してチョコッとある女性と情を交わし、その女性との間に子を儲けていたのです。

世間では男性のアレは、本人とは別の人格を持っているなどと言われることがありますが、直親も例外ではなかったということなのでしょう。
今川の探索を逃れて隠遁生活していた直親にとって、井伊家への帰参は確たる保障のないものだったのですから、帰参が叶わなかった場合には、井伊家とは係わりの無い者として、松源寺で匿われている際に現地の人(塩澤氏の娘か)と、その娘との間に生まれた高瀬姫らとの、一家3人の慎ましい日々に障害を追えていた可能性もあったのでしょう。

では高瀬姫の存在は、『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』では描かれないままにされるのかと言うと、そうではないようです。
高瀬姫 - Wikipediaにある登場する作品の欄には、おんな城主 直虎2017年、NHK大河ドラマ、演:高橋ひかる)とハッキリと記述されています。
果たして高瀬姫は、ドラマのどの段階で登場し、その登場の時、直虎はどのような思いで高瀬姫を遇するのでしょうか?そしてその人柄はどのように描かれるのでしょうか?

高瀬姫のドラマでの登場は、個人的には下世話な興味が湧くシーンではありますが、直親のこれまで描かれた人格を、ある意味否定する存在だとも言えます。
高瀬姫登場のシーンにおいて、彼女はその母について言及するのでしょうか?直虎に向けて。
それがわたしの高瀬姫登場のおりの下世話な興味です。
皆さんにもそうした興味本位の思いが高瀬姫に対して沸いたとしたら、この姫の名を記憶の片隅に留め、彼女の今後の登場を待つことにしましょうね。

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いつの日にか直親の隠し子:高瀬姫として登場する高橋ひかるさん

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