カメラとビデオを棒にくっつけて

堀野 満夫(ポール写真家)My name is Mitsuo Horino. I 'm pole-photographer.

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〜丹生都比売神社は木漏れ日に照らされて
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丹生都比売神社の霜の降りた社殿がの木漏れ日に照らされる冬の光景です。

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反橋の架かる弁天池の畔には龍のような冬枯れの木が

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〜直虎:今川義元は領地支配の天才、蹴鞠で他国と交友し、検地で財を得た〜
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以前ご紹介した〜直虎:今川義元は、公家のような外見からはかけ離れた経緯で家督を得てでは、これまでの戦国時代を描いたドラマなどで当たり前のように描かれていた今川義元像は、その実像からは程遠い名将だったという点について記しました。
つまり『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』に限らず、ドラマなどに登場する今川義元は、公家のように顔に白粉を塗り、眉毛を剃り落として引眉を書いた公家のような面相をした武将として描かれますが、吉本自身の武勇についてはいざ知らず、今川家の三男だった立場を跳ね返し、兄との闘いを制して今川家当主となったことをご紹介しました。

なるほど史実ある桶狭間の戦いににおいて今川義元は、駿河・三河・遠江の三国を領有する大大名でありながら、当時は尾張の弱小大名でしかなかった織田信長に敗れたことで、公家のような不甲斐ない戦国大名だったというレッテルを張られ、以後今日に至るまで、その実像は歪められて言い伝えられてきました。
ですが上記したように、義元は今川家内部における家督争いに打ち勝って投手となったというたくましい半生をすごしたのです。
およそ義元が不甲斐ない武将として伝わる一因は、小国の大名だった信長に負けたという以外に、まるで公家のようないで立ちと、行いにもあります。
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上の画像にあるような服装と、公家のように顔に白粉を塗り、眉毛を剃り落として引眉を書いた公家のような面相で、和歌や蹴鞠に興じる姿からは、かつて三国を有した大大名だったことも、父から受け継いだ領地などに恵まれていたためであり、自身の実力で得た権力と領地ではなかったように思われがちです。

しかし義元がまるで公家のように振る舞い、蹴鞠や和歌をたしなんだことにこそ、義元が領地拡大をなし得た理由だったのです。

〜直虎:今川義元は、公家のような外見からはかけ離れた経緯で家督を得てで記したように、義元は幼い頃よりの教育係であり、後に軍師でもあった太原崇孚雪斎(たいげんそうふせっさい)に連れられて都で公家や有力大名との人脈を構築して行ったようです。
そして善本は今川家当主となってからも、公家や有力大名との交友を深めるための手段として、蹴鞠や和歌などの催しを行ったことが、『片岡愛之助の解明!歴史捜査 今川義元⁻信長に敗れた桶狭間の戦いの真実を追え!』という番組の中で紹介されました。

今川義元の大名としての有能さはそればかりではありません。
NHK大河ドラマ おんな城主直虎』第6回放送『検地がやってきた』では、『検地』という用語が登場しました。
私たちが『検地』という用語から思い出すのは、学校教育で習った豊臣秀吉による『太閤検地』です。
ですがそれを先駆けて行ったのは、なんと義元だった?いいえ、そうではないんですね。
検地 - Wikipediaには、
 律令制下、全ての農地の所有権は国家が持っていることになっていた。しかし、平安時代になると公地公民は崩れ、荘園と呼ばれる私有地の存在が認められるようになる。そのため、各地は国府が管理する国衙領と私有地である荘園にほぼ二分される。国衙領については国府が大田文と呼ばれる台帳を作成し、農地の面積や収量を把握し、徴税の基礎資料としていた。しかし、荘園に関しては、課税のための調査も課税もできない。この状態は鎌倉室町時代になっても変わらなかった。室町・戦国の混乱時代、農業生産高は爆発的に増加したが、各地にモザイクのように存在する割拠勢力はそれぞれ消長を繰り返し、また支配下にも多くの自立領主がいるため、自領の実質総農業生産高を把握するのも困難であった。
しかし、戦乱を経て地方に荘園や国衙領という枠を超えた一円に支配権を確立する戦国大名が成長する。彼らは、自分の支配地域における課税を行うための資料として土地の調査を行った。北条早雲によって初の検地が行われ、その後歴代当主がこれに続いた。しかし、その他殆どの戦国大名は全領地に検地を行うことができなかった。多くは新規に獲得した領地に対して行っている。それは家臣団や有力一族の抵抗が大きいからである。北条家などの一部大名が大規模な検地を行えたのは新興勢力であるがゆえに地縁に縛られにくかったという事情がある。
と記されています。

今川家は、清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家吉良家の分家であり、足利宗家の継承権を有しており、御所(室町幕府将軍家)が耐えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐとまで言われた足利宗家(室町将軍家系統)の血筋だけで権力を拡大しえたのではなく、室町時代中期の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である北条 早雲(ほうじょう そううん)が初めて行った『検地』を更に洗練させた優れた政策として行い、財を領民から広く得て富を蓄積し、国力とした先進的な大名だったのです。
つまり検知により領地の収穫を査定して年貢を徴収したのです。
今で言うところの固定資産税ですよね。

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春風亭翔太さん演じる今川義元

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〜直虎:『検地がやってきた』では、直親・しの・次郎・政次の思いが交錯し〜
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『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』第7回放送『検地がやってきた』では直親が帰参し、
奥山朝利の娘:しのとの祝言を挙げたことにより、直親の帰参と井伊家の相続を今川義元に対し許しを請います。すると義元は、井伊の領地を検地することを通達します。
しかし井伊家には領地として他に知られていない豊かな収穫と、いざという時の避難地となる隠れ里があり、検地によって今川にこの隠れ里を知られることは、井伊の命運にかかわる重大事でした。
そこで直親は、検地に際しても隠れ里の存在を隠し通す決意をし、前もって次郎法師には瀬名姫を力を借りて検地奉行の趣味趣向を知らせてもらうように依頼します。

かかる検地にともなう井伊家での混乱から、直親・しの・次郎法師の男女の思いや、直親と小野政次との立場の違いによる次郎法師に対する思いが交錯する中、今川からの検地奉行が到着しますが、瀬名姫からの知らせは未だ届きません。
次郎法師は、今川の目付け役である小野政次の検地当日前の様子に、隠れ里の存在を暴露するのではないかと一抹の不安を覚え、直親を助けてもらうため、夜分に小野の屋敷に駆け付けます。
政次:「なんじゃこんな夜分に。」
次郎法師:「鶴、、この通りじゃ。この度の検地は、亀の見方をしてやってほしい。亀は、鶴のことを信じておる。その気持ちを裏切らないでほしいのじゃ。」
政次:「亀に言われて来たのか?」
次郎法師:「違う。我は、その・・・亀の役にたちたくて、勝手に来たのじゃ。」
政次:「では還俗して俺と一緒になるか?」
次郎法師:「えっ?」
政次:「次郎さまは、俺の立場ではものを考えぬお人であるらしいが、俺はあいつのせいで二度も好機を失っておるのだ。一度はあいつ故におとわ様が出家し、もう一度はあいつが戻って来たせいでよい話を失った。見方をするのはやぶさかではないが、もうとりっぱぐれは願い下げでな。」
次郎法師:「それは・・・」
政次:「何の覚悟もないのであれば、寺でお経でも読んでおれ。」
そう憎まれ口を言い放つと、政次は部屋を出て次郎法師の前から姿を消します。
このような政次の次郎法師に対する態度は、次郎法師に対する深い愛情があるが故の裏返しなのでしょう。

到着した検地奉行は、職務に妥協を許さず、厳密な測量を行う堅物でした。
次郎法師は政次が願いを聞き入れてくれるまではと、一晩中小野の屋敷に止まりますが、何の進展もないまま夜が明け、政次は直親や検地奉行らと共に隠れ里のある川名の検分へと出立してしまいます。
その事を知り慌てた次郎法師は井伊家の屋敷へと戻ると、南渓和尚が瀬名姫より託された文を持って現れ、急ぎその文に目を通し、直親らの後を追います。
「馬をお借りします。直親を助けに参ります。」と母に言い残し。
おり悪くそんな次郎法師の様子を目撃した直親の妻:しのは、突如として泣き出してしまいます。
しのは直親の妻となりながら、直親と次郎法師との間にある強いきづなに嫉妬し、未だ直親との絆を見いだせないことが悲しかったのです。

この後ドラマは、次郎法師が直親らの向かった川名へと馬を走らせる場面が映し出され、瀬名姫がよこした文には、「・・・その三河のぼんやりが申すことには、岩松殿(検地奉行)のこよなく愛するものは、数と算術、それと、亡くなられた奥方様。」と書かれていることが、ナレーションのように瀬名姫の言葉で読み上げられます。

一方川名では、検地奉行が検地をする中で隠れ里の存在をも見つけ出してしまいます。
これにより今川を謀って偽りの報告帳を示したことが露見し、直親は窮地に立ちます。
奉行配下の侍:「直親殿、この棚田の里は差し出しには一切ござらぬがいかがなこと?」
検地奉行:「これはこの井伊の里ではないのか?」
奉行配下の侍:「まさか、我らを謀られようとしたのではああるまいな?」
と直親を問い詰めます。
事ここに至り、もはやこれまでと政次は所持していた隠れ里の差し出し(報告帳)を懐より取り出し、奉行らに差し出そうとしたその時、直親は「井伊のものではございません。故にこの里は、差し出しに入っておらぬと存じます。」
この直親の言葉に奉行は「ではここの里はどこの物じゃ。」と切り返しますが、
直親は、「なにぶん帰参したばかりでございまして、田島!この里は井伊の物ではないのであろう。差し出しを渡した時も、何も言うてはおらなかったが・・・・」と下駄を政次に預けます。
すると政次は、驚きと困惑を覚えながらも直親としばし目を合わした後「ここはかつて、南朝の巫女様が隠れてお住まいになっていた里にございます。故に、井伊の領地にありながら、井伊の領地にあらず。という扱いにございます。」と気転を利かし、事なきを得ます。
恐らく検地奉行は、直親の言葉に正次が口裏を合わせて言った言葉だということは百も承知だったのでしょうが、政次の見事な気転に免じて、しばらくの無言で呼吸を整え「心得もうした。」と答えたのでしょう。
まるで、白紙の勧進帳を読み上げて義経を打ちすえ、主従の絆に感銘した関所奉行が義経主従の通過を許した『勧進帳』のお話のように。
しかしその場には、直親の窮地を救うべく馬を走らせて駆け付けた次郎法師の姿もあり、奉行はなぜこのような場所に僧がいるのか?:「このお方は?」と疑問を抱きます。
すると傍らにいた直平が、よせばいいのに「そう言えば、何をしに来たのじゃ?」と訪ねます。
ここで瀬名姫から届いた文の内容が役立ちます。
次郎法師:「駿府の瀬名姫より、本月は、岩松さまの奥方さまの月命日であると伺いまして、この度は井伊までのお出向き、きっとご供養も御出来にならずではと思い、私でよければ、経などをあげさせていただこうかと・・・・」と申し出ます。

柴咲コウさん演じる次郎法師のお経は、度々ドラマの中で唱えられていますが、まるで流行歌のように耳に心地よい美しい調べのお経が棚田の里風景に向かって流れます。
そして愛妻家の奉行は「これは・・・妻も喜んでおりましょう。」と痛く感銘を受けます。

この後寺に戻った次郎法師は、南渓和尚し「意向が行くまいが、同じことでございました。」と事の顛末を報告しますが、和尚は、「いやーっ、わからんぞ、目に見えぬところで、何かの役にたっているかも知れんし・・・」と答えます。
それはあたかも、次郎法師のお教により、奉行の妻の供養ばかりか、窮地を脱したばかりの直親や政次らのそれぞれの双方の言うに言われる思いを浄化することに役だったことを暗示するかのような言葉でした。
ですが当の次郎法師は「だとよろしいですが・・・・。」と己のお教の功徳に気づいていない様子です。

また、政次と直親は井伊の井戸のある場所で二人きりで向き合い、政次は破り捨てたと言いながら隠し持っていた隠し里の報告帳を取り出し、直親に返し、言い訳もせずに立ち去ろうとしますが、直親が「これをどう使うつもりだった?・・・・起こっておるようだな。」と語ったために内に秘めていた本音を語ります。
政次:「それがしを信じておられるのならおられんでもかまいませぬ。されど、信じておられる振りをされるのは、気分の良いものではございませぬ。では。」
政次はそれでもこれ以上を語ることなく、立ち去ろうとします。しかし直親が背を向けた政次に追い打ちをかけるように言葉を投げかけます。
直親:「井伊を守るのは、おとわのためだとは思うてはもらえぬか?井伊のために全てを捨てたのは、おとわだ。おとわのために、共にこの国を守って行こうとは思わぬか。」
と、政次の触れてはならぬおとわへの思いに触れる言葉を口にしてしまします。直親が、次郎法師と全て分かり合えているかのようなこの発言が、同じく次郎法師を思う政次にはどうにも我慢ならないことだったのです。そして言います。
政次:「お前のそういう所が好かぬ。」と。
どうやらこのドラマでは、小野政次の井伊直親に対する反発心から、やがて政次は父と同じ道を歩むこととなるという設定があるようです。

一方、直親の妻:しのもまた、直親の次郎法師に対する愛情を悟り、思い悩み、ひとり屋敷で直親の帰りを待っていました。

結局直盛夫婦は、次郎の存在がしのには酷だとして、直親夫婦を山向こうの村に移すことで次郎法師の存在を遠ざけることとし、直親にそれを伝えます。
そして直盛は言います。「子じゃ、さっさと子を作れ直親。子が出来れば、しのとお前の間にも、別の絆が出来ることになる。」と諭すのでした。

この後、政次の弟:玄葉に、しのの妹:なつが輿入れすることとなります。
これもまた戦国の世の習いで、今川の目付けである小野家を井伊の親族に取り入れることで、和をとりもとうとする直盛の策でした。
同じ様に、今川では、竹千代(後の家康)と瀬名姫の政略結婚が行われます。
これは、三河国の領主である松平家を、今川は完全に取り込むための祝言だったのです。
この祝言に際し、竹千代は、「身に余るお話にございます。」と言い、瀬名姫は、「ええ、私も身が余っておりまする。」と皮肉った言葉を口にします。
一言:おもろい。)
ドラマのエンディングでは、
「この、どこかぼんやりとした男が、やがて今川の、そして井伊の命運を握ることになろうとは、まだ誰も知る由も無かったのでござる。」
というナレーションで締めくくられます。
                             つづく      

ああ哀しやなーっ、戦国の世の女性は。

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隠れ里に立つ小野政次と井伊直親

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〜直虎:井伊直虎は、これまで定説とされていた女ではなく男だった?
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『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』では、その題名が示すように直虎は女性だったとしています。
ところが、
NHK大河「おんな城主」直虎は男だった? 新史料発見で「男 …では、
戦のたびに当主を殺され、ただひとり残された姫が「直虎」という勇ましい名を名乗り、戦国を生き抜いていくという『おんな城主 直虎』の物語です。
しかし12月14日、京都市東山区にある井伊美術館が、直虎は女性ではなく、今川家の家臣の男性であった可能性を示す文書を見つけたと発表。文書には今川家の家臣の息子が「
井伊次郎」という名を使っていたことが記されており、美術館は「もしかしたら男だったかもしれない」とコメントしている。と紹介されています。

今年年初に放映される直前である前年末というタイミングでこのような発表をすることは、いかにも信憑性が問われる気がします。
しかもそのコメントが「もしかしたら男だったかもしれない」とは、まるで昨今のテロ防止法を巡る国会議員の答弁のように、2転3転しかねないいい加減なコメントです。

ですがこの確信の持てない直虎男説は波紋を呼びました。
まだ研究者の中では直虎が女性だと考える人もいるようだが、“直虎が男”説は一気にネット上で拡散。「これマジで男性だった場合、井伊直虎の価値がかなり下がるね。女性だったから評価されてたのに」「男だと売り出し方的に色々大変そうなんだけど」「これは直虎の魅力がだいぶ失われてしまいますな」とがっかりする声が相次いだ。
一言:直虎が男か女かという論議の決着には興味がありますが、そのことがドラマの魅力に影響すると私は思いません。なんなら、男としての直虎を描いたドラマを作ればいい、面白いか?)

しかし中には「歴史なんてがばがばだから問題ない」「上杉謙信にすら女性説があるくらい歴史はあやふやなんだから、こういうのは雰囲気で見ればいいんだよ」と擁護派の声も多く、今後も研究が進んでいくということから「一喜一憂していたら歴史ドラマなんてつくれない」との意見も出ている。
一言:「歴史なんてがばがばだから問題ない」なんて意見は問題外です。第一、「がばがば」ってどういう意味よ?)

また、おんな城主直虎は男?問題、時代考証担当者も見解割れる ...では、
「『おんな城主 直虎』は『男』だった!?」──本誌昨年12月23日号が報じた記事が、1月8日から放送予定のNHK大河ドラマに激震を与えている。
 柴咲コウ演じる主人公・井伊直虎に関しては、これまで女性として知られてきたが、本誌で井伊家末裔で井伊美術館館長の井伊達夫氏が、「直虎が女ではなく男だったことを示す史料が発見された」と告白。その後、新聞各紙でも新史料の存在が報じられ、話題騒然となった。困惑が広がるのは、放送を直前に控えたNHKである。
「よりによってこんな時期に発表しなくても」(NHK職員)との声が上がっているが、そんななか、大河の時代考証を務める小和田哲男・静岡大学名誉教授は、新聞各紙で「直虎が女性であることを否定するものではない」(静岡新聞ほか)ときっぱり否定し、事態の沈静化に努めた。
 では、もう一人の時代考証担当者、戦国史研究者の大石泰史氏はどう考えているのか。本誌が直撃すると、
「直虎に関しては史料が少なかったので、時代考証する上で、新史料が出てきた意義は大きい」
 と意外にも肯定的なのだ。
「新史料は1ページしか公開されていないので、まだ結論を出すことはできませんが、全体を検証した結果、“直虎が女だった”という説も覆る可能性がある。そもそも戦国武将・井伊直盛の娘である『次郎法師』が成長して武将『次郎直虎』(井伊直虎のこと)になるという根拠は、極端に言えば同じ『次郎』という名前だったからというだけです。新史料に関する推論には疑問も残りますが、今後、さらなる史料が出てくれば男だったという結論もあり得ます」
 なんと、時代考証の担当者の間でも、「女説」と「男かも説」で見解が割れつつあるのだ。NHKは「ドラマはあくまでもフィクション」(広報局)と説明するが、いっそ男女両パターンで撮り直す?
なんて記事も紹介されています。
一言:ただ波紋を投げかけただけの小石に終わらず、直虎が男か女か?の決着は、ぜひともつけていただきたいと思います。)

ですが私は素朴に思うのですが、井伊本家の嫡子たる者が仮に男子なら、なぜ直盛の後継者が分家の嫡男だった直親になったのかが理解できません。

加えて、後の江戸幕府において絶大な権力を得た井伊家に直虎が男として生まれたのなら、当然その幼少期からの記録があってしかるべきだと思えますし、その記録が無いのに、女子としてのおとわ(次郎法師)の記録の方が残っていること事態が不自然だと思えます。
戦国時代には、いかなる有名大名の血縁であっても、男子の記録は多く残るものの、女子の記録は殆ど残らないというのが常なのですから。

他にも井伊直虎は男だったという新説を検証する – アゴラでは、
来年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公である井伊直虎の新たな史料が見つかったと井伊美術館(京都市)が発表した。館長の井伊達夫館長(74)は、井伊家分家である越後与板藩主家の婿養子で当主である。
最近、著書も多いが、『史眼  津本 陽×井伊達夫 -縦横無尽対談集-』(官帯社)を見ると、「石橋湛山とか、あのへんまでね。なんかやっぱり一国の宰相ちゅう、ああいうのあったですけど。今はもう、なんか事務局員の集まりのトップという感じね。まあ安倍さん筆頭にね。失礼ながら安倍さんはPTAの会長くらいならいいかもしれない。世襲のあれですね。なんか江戸時代とあんまり変わらない」とかユニークな分析も披露されている。

私も『井伊直虎と謎の超名門「井伊家」』 (講談社+α文庫)を書いた責任からも、 この新説を検証してみよう。
新資料は「守安公書記・雑秘説写記」と題する三冊の冊子で、1640(寛永17)年に家老の木俣守安がおばたちから聞き書きした内容を、1735年に子孫の木俣守貞が書き写したものという。
約50年前に滋賀県彦根市内の古道具店で買い、今年8月末に記述を見つけたという。この中で、井伊谷が複数の武士による勝手な支配で鎮まらないため、今川氏真が、家臣の新野左馬助親矩(女性の次郎法師直虎の叔父)のおいである関口越後守氏経の子(つまり次郎法師直虎の従兄弟)を井伊谷の領主の「井伊次郎」とし、治めさせた−との記述があったのを発見したのだという。
井伊谷はそれぞれ力を持った武士たちが勝手に所領を取り合い鎮まらないので、関口越後守の子を井伊次郎とし、井伊谷を与えたが、井伊次郎は若かったので、戦では本陣で井伊谷の衆を新野左馬助が統率し補佐したという。史料に「直虎」との記載はなかった。
地元の神社に伝わる古文書には、関口との連名で「次郎直虎」の名前と花押があることなどから、「関口の息子である井伊次郎が直虎」と考えられるとしている。
通説では、井伊家菩提寺の龍潭寺(浜松市北区)に「次郎法師」の名前が書かれた寄進状があることや、住職が江戸時代にまとめた「井伊家伝記」などから、「次郎法師」という女領主が直虎で、初代彦根藩主の直政の養母とされてきた。
1560年の桶狭間の戦いで戦死した井伊直盛の娘が次郎法師を名乗っていたのは、間違いなさそうで証拠もある。そして、この時期に、井伊家惣領である井伊次郎を他に名乗った人物がこれまで見つからなかったので、浜松市にある蜂前神社に残されている文書に次郎直虎という記述があることから、次郎法師イコール直虎と解釈されてきた。
そのあたりを総合すると、直虎が次郎法師であるという以外の可能性もでてきたが、決定的ということではない。
そもそも女性の次郎法師を女地頭だったとした「井伊家伝記」は、1730年にこの木俣守貞が井伊家の由来を調べるために龍潭寺の和尚に依頼してまとめさせたものである。そしてこの新資料(直虎は男とする新説の資料)は同じ守貞が、先祖の木俣守安が1640(寛永17)年に、新野親矩の娘らから聞き書きし、1735(享保20)年に子孫の木俣守貞がまとめたという「雑秘説写記」に書いてあったという。つまり同じ守貞が関与した資料なのである。そして。それを受けて、守貞がどういう判断をしていたのかは不明だ。
新野親矩の娘から聞いたというのだが、直虎の従姉妹だから、1640年となると相当な高齢であり、80年も前のことを語っているので、どこまで正確かはなんともいえない。
しかも、この新しい次郎のその後などについて何の証言もなのだが、早く死んだと言うことだろうか。あるいは、次郎法師を還俗させて結婚させる計画などなかったのだろうかなどと想像はいろいろできる。
いずれにしても、たとえ、井伊家の家督を継承した時代があったとしても、直政が井伊家にもどって惣領として認められた頃には、死んでいたということなのだろう。
なお、中日新聞電子版やほかの報道では、このニュースを聞いた関係者の反応を紹介しているが、そのなかには以下のようなものもある。
龍潭寺の武藤宗甫住職・・・次郎法師を女性と示す戒名の存在に触れ「寺では代々、次郎法師と直虎は同一人物で女性と解釈していた。男という仮説は聞いたことがない」
浜松市の山下文彦観光・ブランド振興担当部長・・・「検証は専門家に委ねる。地域活性化や観光振興にしっかり取り組む」
NHK広報局・・・「直虎に関しては諸説あると考えており、ドラマはあくまでもフィクションで、影響はないと考えている」
引佐町史の井伊家関係の執筆者で、大河ドラマの時代考証も担当する静岡大の小和田哲男名誉教授・・・「井伊家家臣の記録に、関口の子が井伊次郎を名乗ったと出てきたのは興味深いが、直虎とは断定できず、次郎法師と井伊次郎の二人が同時に存在したことも疑問」「現段階では、直虎が女性という通説の方が蓋然性が高い」
一橋大の夏目琢史助教・・・「井伊家伝記も今回の記録も二次史料。細部まで調べる必要がある」
国際日本文化研究センターの磯田道史准教授・・・「井伊家伝記は江戸時代中期の成立だが、新史料は聞き書きされた時期が古く、井伊の筆頭家老家の記録であり貴重。武田軍に占領された井伊谷の様子など記述が詳しく興味深い」
新史料のほとんどが木俣守貞の字だと鑑定した母利美和・京都女子大教授・・・「傍証と照らし合わせても、直虎を男と示す決定的な史料。最近の研究で、井伊家伝記には史実と違う部分があることも分かってきており、史実を再整理すべきだ」
と、この井伊直虎は男だったという新説を検証する – アゴラでは直虎男説には否定的です。

他にも直虎の性別に関する論戦は以下のようなものがあります。
「女城主」として知られ、来年のNHK大河ドラマの主人公にも決まっている戦国時代の遠江(とおとうみ、静岡県西部)井伊谷(いいのや)城主、井伊直虎(なおとら)。その「直虎」を名乗ったのは女性ではなく、いとこにあたる別の男性だった可能性を示す史料が新たに確認された。14日、井伊家の史料を収集する井伊美術館(京都市東山区)が発表した。
 井伊氏は徳川幕府下の彦根藩主として有名だが、戦国期には遠江の井伊谷の領主で、今川義元に代表される今川氏の配下にあった。
 これまでの通説では、直虎は、井伊谷城主、井伊直盛(なおもり)の娘の次郎法師(?〜1582)が名乗って家督を継ぎ、後に徳川家の重臣となる井伊直政の養母となったとされてきた。
 発見された史料「守安公書記(もりやすこうしょき)」(全12冊)には、今川氏真(うじざね、義元の子)の配下にあった井伊家について記されており、井伊谷の領地が直盛の義理の兄弟・新野左馬助親矩(にいのさまのすけちかのり)の甥(おい)にあたる井伊次郎に与えられたとの記述があった。

YAHOO知恵袋に井伊直虎が男だった説についてですが「雑秘説写... - 歴史 ...は以下のような質問もあります。
(質問)
井伊直虎が男だった説についてですが
「雑秘説写記」に今川氏真が新野左馬介の甥(関口氏経の子)井の次郎に
井伊谷を与えたという記述があった事が根拠らしいのですが
①今川氏真の命で井伊谷の領主となった井の次郎は
今川側の人間でありながら、なぜ2年間徳政令を
凍結していたのでしょうか?

②また、今川側の人間が井伊谷の領主であるのに
なぜ氏真は井伊谷に徳政令を出したのでしょうか?
直虎(次郎法師)が領主であるなら、徳政令を出す事で直虎の資金源を断ち
井伊谷を手中に収めるという事も考えられますが。

③徳政令を関口氏経と次郎直虎(井の次郎)の連署で発行しているのは何故でしょうか?
仮に井の次郎が次郎直虎だったとして、父親の関口氏経と連署にする意味は?

④徳政令が出た後に小野政次が井伊谷城を奪いますが
今川側の井の次郎が領主なのに、何故小野政次は
井伊谷城を奪ったのですか?

直虎が井の次郎だった場合、以上の点が気になります。
(ベストアンサー)
そもそもがやはり伝聞を書いたものである可能性が高く井伊次郎=井伊直虎の記述があるわけでもない上にそこに書かれた井伊次郎がいつの城主かが曖昧なんですよね。
なので確かに書かれている井伊次郎は井伊直虎ではないのでしょうが「いまいち何者か分からない」は同じです。
なので普通に考えればその井伊次郎が城主時代は短く今川家の力はそこまで働いていなかったと見るべきではないでしょうか。
それに男性説もかなり後の時代の『外向き』の資料を元にしており、寺で葬られた際の戒名が『妙雲院殿月船祐円大姉』という女性を示すものである事の説明もなされておらず(本人の墓という証明も必要ですが)跡継ぎ問題が拗れた理由もいまいち説明がつきませんので今の所は直虎=女性で考えていれば良いのではないか?と思いますね

NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」では、少女時代の直虎(おとわ)が、さっそく井伊家存続のために大活躍である。ところが、その直虎は「男」だったと発表したのが京都の美術館館長だ。井伊家ゆかりの人物ということもあって、朝日新聞を始めマスコミも飛びついたが、商売のための話題作りという声が――。
 ***
 京都市東山区の八坂神社からほど近い住宅街、その一角に古びた門が構えられている。「京都井伊美術館」という看板こそ出ているが、チケット売り場も見当たらない。
 ふと、塀を見ると大書したプレートが貼ってある。
〈平成29年度NHK大河ドラマ 当館先祖(井伊直虎)に決定しました!〉
 また、ホームページには、〈平成29年度大河ドラマ「おんな城主 井伊直虎」の主人公直虎とされる人物、徳川四天王の筆頭井伊直政の直系後裔が運営しています〉とも。

 美術館の館長は井伊達夫(74)という人物である。その井伊氏が、新説を発表したのは、昨年12月のこと。偶然発見した古文書に「直虎はNHKがモデルにした女性ではなく、その女性のいとこ」と読める記述があったのだとか。100年近く後の「聞き書き」がソースだが、井伊家の人物が発表したとなればマスコミも無視できないだろう。
 ところが、美術館を知る関係者によると、意外な素顔を教えてくれる。
「いや、井伊さんは後裔といっても血がつながっているわけじゃありません。昔は別の名前で、井伊家の分家の末裔と養子縁組して、“井伊”を名乗るようになった。美術館は12年前に始めたのですが、もともとの本職は甲冑をメインに扱う古美術商ですよ」
 しかも、商売のことになると、とたんに評判は怪しくなる。
 井伊氏の知人が言う。
「井伊さんは、どこからか甲冑を仕入れて来て随分高く売る。しかも、あそこのスタッフは、甲冑の手入れをやらされるのですが、それが修復のレベルじゃない。最初は鎧のほつれを直すところから始まって、だんだん井伊さんの“直し”のリクエストがエスカレートするのです」
■金箔を貼りつけた
 古びた木の箱に、もっともらしい書き付けを貼りつけて兜を入れていたという証言もある。なかでも怪しいと言われているのが“伝徳川家康”の兜。この兜は、昨年4月30日に放送された「嵐にしやがれ」(日テレ系)にも登場し、メンバーの二宮和也が被って喜んでいるシーンが放送された。宣伝効果は抜群である。
「あれはもともと地味な兜でした。それをスタッフに命じて金箔を全面に貼りつけ、家康の兜と称していたのです」(同)
 そこで当の井伊館長に聞いてみると、
「そんなん全部ウソですわ。うちがよう甲冑を売るもんやさかい、他の業者がやっかみで言うとるんに決まってます。そもそも私は甲冑の研究と商売は別にしてる。私は美術館の中では商売の話は一切しない。家康の兜だってベースになっている兜はしっかり本物です。金箔は剥がれてしまうから、修復としてうちが直しましたけど、それはどこでもやってることです。皆にニセモノに気を付けろと言うてんのは、むしろ私の方ですよ」
「直虎=男説」についても新たな史料があると井伊氏は言うのだが、「金箔」を貼りつけたような新説は、むしろ怪しさが増すのである。
ワイド特集「大寒のただ中にある身の廻り」より
「週刊新潮」2017年2月2日号 掲載

以上のように直虎が男か女か?についての確たる答えままだ出ていません。
ですが私的には、今回の騒動は井伊美術館(京都市東山区)の勇み足、もっと過激に言えば売名行為的なものだと思えます。
皆さんはどう思われますか?

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〜直虎:『初恋の別れ道』では直親が何とか次郎法師と夫婦になろうと試みるも〜
       サブタイトル:オヤジブログは自由だ!おんな城主直虎編          
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『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』第6回放送『初恋の別れ道』では、今川から命を狙われ姿をくらましてていた亀之丞こと井伊直親が井伊谷に戻り、幼くして別れ別れになった時にも夫婦になる約束(許婚)をしたことを直親はずっと心に誓い、再会を期に約束通りに夫婦になることを次郎法師に迫ります。
しかし次郎法師は、この直親の言葉を嬉しく思いながらも、素直に受け入れることができません。
それは次郎法師の井伊家への深い思いからでした。
つまり、女ながらも生まれながらに井伊家を継ぐのは我の務めと信じて育った彼女にとって、今生に一度の初恋と言えども、お家の重さとを天秤にかけることができなかったのです。
しかし直親は諦めきれません。無事の帰還を祝う井伊家の人々の前で、「次郎法師様の還俗は何時の事になりますか?」と直盛に問います。
この問いに対し、鶴丸こと小野政次が口を開き「・・・・先ずは太守様より直親の帰参の許しを得るのが先決。次郎法師様の事はその後で・・・・」と意見を述べます。
この後直親は次郎法師に会い、彼女の口から「実は我の出家は、今川による本領安堵と引き換えとなっておるのじゃ。勝手に還俗は出来ぬという事じゃ。」という重大な事実を聞かされます。
直親はこの知らされていなかった重大な事情を知らされて驚きますが、それでもこの事態を打開する手立てについて、「まあ、何かしら策を考えてみる。」と二人が夫婦になる事を諦めようとはしません。

一方、今川家の瀬名姫は、今川氏真のことを未だに思い切れずにいる中、その傍らでスズメを篭に入れて世話をする松平元康(後の徳川家康)の不甲斐ない姿に尚更の苛立たしさを覚えます。

さて、話は次郎法師に戻り、「還俗など容易いのにのう、我が井伊家の娘でさえなければ。」と直親と夫婦になるかどうかを悩んでいると、そこへ南渓和尚が現れ、酒徳利・饅頭・杯を取り出して中国の昔話を始めます。
南渓:「むかーし、趙(ちょう)という国に、道威(どうい)という王がおってな、道威のもとには、中と、泊という二人の大臣がおった。ある時争いごとが起こってな、どちらを追い出すかを決めるために、中と泊にそれぞれ二つの饅頭を差し出したのじゃ。二人ともその場で一つずつ食べ、中は残りの一つを腹の空かした子供にやった。泊は、それを後生大事に持ち続け、とうとうカビさせて食えぬようにしてしまった。さて、その後道威は、どちらに大臣を続けさせたかのう?」
この和尚の問いに対し、次郎法師は選ばれたのは中と答えますが、和尚の答えは伯が選ばれたと答え、「伯が選ばれたのは何ゆえじゃろう?」と問います。
しかし、次郎法師はその場で答えることは出来ませんでした。
一方直親は、直盛から次郎法師の還俗についてはあきらめるよう言い渡され、直親はその場で二度と次郎法師の名は口にしないと言います。
ところが実際には直親は次郎法師の還俗を諦めておらず、直平に協力を求めます。
その後直親は次郎法師に対して二人が夫婦になるには次郎法師が死ぬしかないと言い出します。
もちろんこれば本当に次郎法師が死ぬのではなく、、死んだと見せかけ、井伊谷から彼女が身を隠すという策だったのです。
しかし次郎法師はこの策を一旦は決意するものの、実行することは出来ませんでした。
そして、南渓和尚が語った中国の昔話について一晩を掛けて考えます。
翌朝次郎法師は、直親を呼び出し、二人が夫婦になることは出来ぬと言い出します。
最終的に次郎法師は直親に対し、「我がカビた饅頭になることこそ、井伊が安泰である証であろう、違うか?」と告げ、その場を立ち去ろうとしますが、直親は彼女を後ろから両手で抱き止め、詫びます。
「置き去りにして済まぬ、済まぬ。」と。
次郎法師は泣きそうな顔になりますが、気を取り直し、笑顔で去り、直親は「思いを改めなければならないのはこのワシじゃ。」と、その場に残り、彼女への思いを断ち切る決意を固めるのでした。
結局、直親は次郎法師を諦め、小野政次にも「お前もそろそろ実を固めてはどうか?いつまでたっても次郎はお前の嫁にはならんぞ。」と言い放ち、政次は、「考えたこともないわ。」ととぼけますが、「わしにはそうは見えんわ。」と捨てゼリフを残して去ります。
そして数日後、直親は奥山朝利の娘と祝言を挙げたのです。

この回の放送は最後に今川の瀬名姫の様子が映し出され、彼女は松平元康(後の徳川家康)がスズメを手なずけている様子を見て思わず声をあげます。
「うそ!」と。

とどのつまり、次郎法師は井伊家のために心に思う人とは結ばれることができず、瀬名姫は思いもよらなかった者との縁が、結ばれようとしていたのです。

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互いに思いを寄せながら、結ばれぬ定めに、直親は別れ際に次郎法師をハグします。

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