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〜直虎:南渓和尚の語った趙国の王である道威にまつわる昔話は架空?
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『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』第6回放送『初恋の別れ道』では、「還俗など容易いのにのう、我が井伊家の娘でさえなければ。」と直親と夫婦になるかどうかを悩んでいる次郎法師の前に南渓和尚が現れ、酒徳利・饅頭・杯を取り出して中国の昔話を始めます。
ところがこの南渓和尚が語った中国の昔話が実際にあるのかと思いきや、どうやらドラマ上の作り話らしく、趙の王、道威どうい)と大臣、中と伯について - 歴史 ...には以下のような質問と解答が寄せられていました。
(質問)
NHK大河ドラマ、「女城主直虎」の本日(2017/2/12)の放送のことです。
南渓和尚は古代中国の趙の国の話を聞かせます。「道威(どうい)という王に、甲乙つけがたい2人の大臣、中と伯がいました。ある争いから、王はどちらか一人を追い出さなくてはならなくなりました。そこで道威は2人にそれぞれ2個づつ饅頭を渡します。中は一個は自分で食べ、もう一個は腹の空いた子供にやった。伯は1個は自分で食べ、もう一個は大事に持ち歩き、いつの間にかカビさせて食べられなくなりました』
これを聞いた次郎法師は、伯より中の方が大臣にふさわしいと思いますが、道威が大臣に選んだのは伯と聞いて悩み、ある結論を出します。

質問1. 甲乙つけがたい2人の大臣を、中と伯と漢字で書いていましたが、これは伯仲という言葉もあるように「中」ではなく「仲」ではないでしょうか?

質問2. この話の出典は何でしょう?”趙”、“道威”、”伯”で検索してもNHKの話しかヒットしません。

(アンサー1)
質問1. 甲乙つけがたい2人の大臣を、中と伯と漢字で書いていましたが、これは伯仲という言葉もあるように「中」ではなく「仲」ではないでしょうか?

 はい、そうだと思います。
 http://gogen-allguide.com/ha/hakutyuu.html

質問2. この話の出典は何でしょう?”趙”、“道威”、”伯”で検索してもNHKの話しかヒットしません。
 下記に道威、という王様も、主要家臣の中に、中と伯の名もありません。南渓和尚か日本放送協会にお聞きになるのがいいと  思います。
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%B5%E5%9B%BD

(アンサー2)
(1)すいません m(__)m 大河ドラマ;『女城主 直虎』を拝見しているものですが,私も,疑問に思い,Web上で,古代中国の国;趙(前趙,後趙)などについて,調べましたが,大河ドラマ上の,小林薫さん演じる和尚さんのセリフにあるような,趙の国の道威王や,大臣の,伯や仲(中)という方は,居ませんでした..多分,質問者様のおっしゃるように,実力伯仲のような,四字熟語の転用だと思われます..又,趙の時代の王様にまつわる逸話に,饅頭が,出て来るものは,無さそうですので,大河ドラマ上の創作だと思われます..和尚さんの謎かけのようですね・・・・

あっ、南渓和尚の語った肝心の昔話を紹介しておかなければなりませんね。その内容は以下の通りです。
「むかーし、趙(ちょう)という国に、道威(どうい)という王がおってな、道威のもとには、中と、泊という二人の大臣がおった。ある時争いごとが起こってな、どちらを追い出すかを決めるために、中と泊にそれぞれ二つの饅頭を差し出したのじゃ。二人ともその場で一つずつ食べ、中は残りの一つを腹の空かした子供にやった。泊は、それを後生大事に持ち続け、とうとうカビさせて食えぬようにしてしまった。さて、その後道威は、どちらに大臣を続けさせたかのう?」

さて、先に示したネット上のページから、この南渓和尚の昔話は、どうやら「実力伯仲」の「伯仲」という言葉から創作したお話だはないかということが読み取れます。
なので「実力伯仲」の語源を調べてみました。

伯仲はくちゅう) - 語源由来辞典によれば、
伯仲の「伯」は中国では兄弟の序列で最年長の人をさし、「仲」は兄弟の序列で中にある人、つまり次兄ををさすそうです。
従って「伯仲」は本来長兄(長男)と次兄(次男)を意味するものですが、この二人に大きな差がないことから、力が接近して優劣がつけられない状態を「伯仲」と言うようになったそうです。

つまり南渓和尚は、王様が優劣のつけがたい二人の大臣を試すために饅頭を二つずつ与え、その行動を推し量ったという例え話として語ったのですが、その結果王様は、、残りの饅頭を後生大事に持ち続け、とうとうカビさせて食えぬようにしてしまった泊を大臣として使ったのですが、その理由はこの後のドラマ展開の中で導き出されるのですが、、要するに結果として残った饅頭をカビさせてしまったものの万が一(有るかどうかは分からないが、もしもどうしても饅頭を必要とする事態)のためにそれを残しておいたことで、窮地を脱する事態を回避できる可能性を残すことは、生き残りの備えとして有効であり、無駄は無駄ではなかったということを和尚は次郎法師に謎かけをしたのです。

禅僧の説法とは言え、回りくどい話だとは思いますが、あえて直接的な答えを言わなかったことで、次郎法師に直親と夫婦になることについてよくよく考える時間を与えたということなのでしょうね。
井伊家の一女たるおとわに、当主となる者の幼名である「次郎」という名を冠した法名が与えられたことの意味の重たさを知らしめるために。
次郎法師に南渓和尚はそれほどの器量を見出し、以後の井伊家にとってその素養が必ず必要となる日が来ることを予期したからこそ。
つまり次郎法師は、井伊家にとってはその窮地に際する取って置きの饅頭だったのです。
にしても、可愛そうなおとわ。と、第三者は思いますが、彼女はそれで本望、幸せな生涯とおもったのでしょう。たぶん。

ちなみに、 (戦国) - Wikipediaによれば、
「趙という国に道威という王は見当たりませんが、周の穆王に仕えた名御者・造父が趙城に封ぜられたのが趙氏の始まりと言われている。」という記述があり、国の分封者として32代王威烈王の名があります。
威烈王春秋時代王朝第32代の王で、その頃周王朝が衰退し、王朝として存続できなくなったために、有力な家臣である大夫韓虔趙籍魏斯をそれぞれ韓侯、趙侯、魏侯に封じ、三家分晋と称される冊封を行った。これにより王朝の時代は終りの時代になりますが、それは中国における戦国時代の始まりだったのです。
もしも威烈王南渓和尚の言う道威ならば、三家分晋を行った際に、その傍らには、有能な大臣として伯に相当する人物がいたのかもしれません。知らんけど。

ですが、(イ)とは - コトバンクによれば、
威の文字には、
自然に人を従わせるような厳かさ。威厳。
人を恐れさせる強大な勢力。武威。「虎の 威 を借る狐」
という意味があります。
ということは、和尚は次郎法師に自然に人を従わせるような厳かさ、威厳、を示す道を説いたという作り話なのかも?
今回の脚本家は、どうやら漢字の意味に拘る方のようですね。

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小林薫さん演じる南渓和尚

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〜直虎:今川義元は、公家のような外見からはかけ離れた経緯で家督を得て
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『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』に限らず、ドラマなどに登場する今川義元は、公家のように顔に白粉を塗り、眉毛を剃り落として引眉を書いた公家のような面相をした武将として描かれます。
群雄割拠の戦国時代において、なぜ今川家の当主だけが、そのような姿だったのでしょう?

BSで放送された『片岡愛之助の解明!歴史捜査 今川義元⁻信長に敗れた桶狭間の戦いの真実を追え!』や今川義元 - Wikipediaなどによれば、
御所(室町幕府将軍家)が耐えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐとまで言われた将軍家の代わりになれるほどの名家だったそうです。
更に義元の母は、公家の中御門家の出身、血筋自体も公家と深く係っていた家柄だったとか。
そもそも今川家は、清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利氏御一家吉良家の分家にあたる。吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有しており、斯波家畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。今川家はその分家として、駿河の守護に代々任命された。さらに遠江守護家も分流する。初期の分家である今川関口家は幕府の奉公衆であった。
足利宗家(室町将軍家系統)の血脈が断絶した場合には吉良家は足利宗家と征夷大将軍職の継承権が発生する特別な家柄であったとも伝わる。吉良家からは守護および管領侍所所司が1人も出ていないのはこのためである(これらの役職は「家臣の仕事」であり、足利宗家の継承権を持つ家の者は管領などに任じられる身分ではなかった)。
吉良家の分家である今川家は守護や侍所所司を務めた。軍功により副将軍の称号をゆるされた今川範政の子範忠永享の乱の戦功によって室町将軍家から彼とその子孫以外の今川姓の使用を禁じるとする「天下一苗字」の待遇を受けたため日本各地で栄えていた今川姓も駿河守護家のみとなったのです。
ちなみに、瀬名姫の関口家もこうした経緯で今川姓を名乗らなくなった家の一つだったのです。
義元の父:氏親は、それまで室町幕府の下で守護大名として生きて来た今川家を、戦国大名へと変えた人物でした。
しかし氏親は後年、いわゆる中風(現在では脳血管障害の後遺症(偏風)である半身不随、片まひ、言語障害、手足のしびれやまひなどを指す言葉として用いられている。)により政務に支障をきたすようになったと言われます。
そこで氏親は、長男の氏輝を早くから指名、更に氏輝に何かあった場合には、次男の彦五郎を跡継ぎとする道筋をつけます。
そのため正室:寿桂尼の子でありながら5男だった義元が今川家を継ぐ可能性は皆無に等しく、そのため三男の玄広恵探、四男の象耳泉奘、五男の義元らは、出家して仏門に入ります。
ちなみに義元が出家したのは、おとわが出家した歳よりずっと早く、4歳の頃だったと言います。

元々の領地だった駿河に加え、遠江・三河をも手に入れていました。
この出家の際に義元の教育係として三顧の礼で父によって迎えられたのが、『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』にも登場した雪斎禅師(太原崇孚雪斎:たいげんそうふせっさい)だったのです。
雪斎禅師が仏の道を義元に教育しただけでなく、京の寺や公家と関係が深かったことから、義元は雪斎禅師と共に若くして2度上洛し、京の五山の一つである建仁寺というお寺に入ります。
これにより義元は京において公家や有力な武家との人脈を広げて行くこととなります。
加えて当時のお寺は、当時の学問の最高学府ですから、義元は自ずから知識・教養を深めて行ったと考えられます。
そんな中、義元がわずか8歳の時、父:氏親はこの世を去ります。
そのため当初の予定通り、長男:氏輝が14歳で今川家の家督を継ぎますが、父の死からわずか10年後、24歳の若さで氏輝もこの世を去ります。
この嫡男の死には更なる驚きの事実があり、当時、今川氏と対立していた武田氏の家臣が記した『高白斉記』という日記には、「今川維持輝 同彦五郎、同時に死すとの記述があるのです。また、他の史書(「浅羽本系図」所収 今川系図)においては、「為氏輝入水 今川怨霊也(うじてるじゅすい いまがわおんりょうなり)」との記述があるそうです。
つまり今川の怨霊により、氏輝は入水自殺したというのです。しかも彦五郎も同時にこの世を去ったと言うのですから、尋常ではありません。
このような二人の死にまつわる奇怪な記述は、彼らが何者かによって暗殺されたと考えるのが普通です。しかし、それを裏付ける資料は、残念ながら残っていないのです。
二人の家督相続者が共に亡くなった事で、家督相続に名乗りを上げたのが、三男の玄広恵探と義元だったのです。
今川義元が駿河国の太守様となるには、雅な公家のいで立ちのイメージからはほど遠い、ドロドロの家督争いが家督争いがあり、それを制したのが、今川義元だったのです。

思うに、この家督争いに勝利した義元の陰には、雪斎禅師の出世欲が大きく働いたのではないかと私は思うのですが・・・・・・どう思われますか?皆さんは。

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雪斎禅師を演じている佐野史郎さん

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 〜我が家から見る光景:今朝(2017年2月11日)の雪景色は昨年の大寒波以上〜
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では、「今日(2016年1月24日)の天候については、数日前から40年来の大寒波が西日本を覆うと、耳にタコができるほど強く警報を発していました。
九州をはじめ、全国的には寒波が襲ったようですが、私の住む和歌山県橋本市には、メディアによって擦り込まれていたほどの雪は降りませんでした。・・・・・」とご紹介しました。

しかしこの冬(2017年)は、大阪府堺市より引っ越して足掛け三年間の中では最も風が強く寒い冬だと思えます。

和歌山県橋本市に一昨日より降り始めた雪は、積もっては解け、積もっては解けを幾度となく繰り返しましたが、今朝の光景としては以下のような状態となりました。
日本海側では大雪だと報道されている中で、橋本市の雪など大したことはないと言えますが、それでも中々の冬景色です。
我家の背後にある高野山では、さぞかし多くの雪が降り積もっていることでしょう。
実際昨日のニュースでは、南海高野線から高野線へと繋げるケーブルカーが雪のためにストップして、一時乗客が閉じ込められたとの報道も流れました。

この寒波は来週水曜日頃まで続くと予報されているようです。
いったいこれから我家から見える光景は、どこまで雪国のような光景になるのでしょうか?
怖いような、楽しみのような・・・・・。

10:20現在、我家の屋根に降り積もった雪は、随分解け始めていましたが、今また雪が降りはじめました。この先どうなる?

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今朝(2017年2月11日)の雪景色 1

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今朝(2017年2月11日)の雪景色 2

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今朝(2017年2月11日)の雪景色 3

  昨年2016年1月24日)の雪景色



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〜直虎:龍王丸こと北条氏真はなぜ蹴鞠比べで瀬名姫に妻にと約束した?
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『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』第5回放送『亀之丞帰る』では、瀬名姫が次郎法師に送った手紙の内容を映像化したシーンが描かれ、今川義元の嫡男:今川氏真には相模の北条家との同盟を結ぶために北条氏康の娘を迎えたことを伝えました。
その中で瀬名姫は、幼い頃に氏真が蹴鞠比べで姫に負けたおり、手渡した約束事を記した紙切れを取り出し、その約束事を違えたことへの恨み言(皮肉)を、夜叉の面を被って能を踊りながら述べました。

瀬名姫が胸元から取り出したその紙切れには、どのような約束事が記されていたか、視聴者の皆さんはしかと読み取られたでしょうか?
そこには平仮名でこう書かれていました。
ほうひ(び)
せなひめをわか(が)つまに
      たつおう
つまりおとわ・瀬名姫・龍王丸(たつおうまる:後の氏真)らがまだ幼かった頃を描いた第3回放送『おとわ危機一髪』の中で、瀬名姫が次郎法師に宛てた手紙の中で、
おとわあねさまのてた(だ)てにならひ かち候
今川のつまのさ(ざ)は われのものになり候
                 かしく
と伝えた出来事で、龍王丸(今川氏真の幼名)から蹴鞠に勝ったほうびを記した覚書(証文)として瀬名姫が得た紙切れです。
ちなみに:かしく とは、手紙を差し出した相手をほめ、恐れつつしむの意で、女性の手紙の終わりに添える語で、今日では かしこ と言います。)
瀬名姫はその覚書を10年の年月を経てなお、大事に持っていたのです。
もちろんこれはドラマ上の架空のエピソードですが、瀬名姫の母は今川義元の側室であったこともあり、この頃には母は今川本家に繋がる瀬名家(駿河守護今川氏の一族である堀越氏の分流)の当主関口親永(瀬名親永)に嫁ぎ、瀬名姫はその姫でした。
ちなみに:瀬名氏は遠江今川家である堀越氏の分流で、堀越貞延の長男・一秀が瀬名郷を与えられたのが始まりです。つまり、瀬名の名前は、領地として与えられた瀬名郷の瀬名という地名から取った名なのです。
今川本家から分かれた一族の姫ならば、女性としての一番の出世は、関東での勢力を拡大していた今川本家の嫁になる事です。
瀬名姫が龍王丸(今川氏真)に恋していたかどうかは別として、戦国の世にあって少なくともお家にとってはその存続と栄達が第一に優先されるべきことです。
その事を示すように、第3回放送『おとわ危機一髪』の中で、瀬名姫は、「瀬名は龍王様の妻となって今川を我がものとします。」とおとわに語りました。
従って蹴鞠比べでの勝敗によるものではないにしろ、瀬名姫が龍王丸の妻になるための試みを行うことは極々自然な行動であり、両親は娘に対してそうすることを望む言葉を常に語っていたことでしょう。
このように瀬名姫が氏真の妻になるために蹴鞠比べに挑んだというドラマ上のエピソードは、史実として有り得ない話ではありません。

ではなぜその手段が蹴鞠比べなのでしょうか?

今川氏真 - Wikipediaには以下のような記述があります。
(氏真は)織田信長の前で蹴鞠を披露した逸話で知られる。『信長公記』の記載では、氏真が蹴鞠をすることを聞き及んでいた信長が所望したという。同時代の史料で確認できる氏真と蹴鞠との関わりは、この『信長公記』の記載と、青年期の氏真に山科言継が鞠を贈ったという『言継卿記』の記載程度しかない。
駿河に下向していた飛鳥井流宗家飛鳥井雅綱から手ほどきを受けたとされる。江戸時代初期に成立した笑話集『醒睡笑』には、氏真が賀茂神社神官の松下述久に師事したことが記されている。

以上の記述にもあるように、氏真は朝廷との太いパイプを持っていた父:義元の影響により、幼い頃から公家のたしなみである和歌や蹴鞠の上達に励んでいたことは間違いありません。
当然龍王丸にとって蹴鞠は得意科目であり、余人に負けるはずのないものでした。
だからこそ、おとわや瀬名姫らのいかなる望みをもその勝利に対するほうびとして約束ができたのです。
自身が負けてほうびを与える事態など有り得ない事だからこそ、退屈を紛らわすために対戦相手を望み、勝って優越感を得るために。

こうした事を踏まえて、第3回放送〜第5回放送に至る瀬名姫及び龍王丸(氏真)にかかわるエピソードが描かれたのでしょう。

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鞠を手にした瀬名姫とおとわ

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〜直虎:徳川家康の正室となった瀬名姫は、本当に悪女?それとも・・・・
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前ページでご紹介したように、瀬名姫の母である佐名姫は、

「築山殿の母(ドラマ上では佐名姫という架空の名で描かれた。)は今川義元の妹で、つまり築山殿(瀬名姫)は義元の姪にあたるとされるが、「井伊年譜」や『系図纂要』『井家粗覧』の系図によれば、実は井伊直平の娘で、今川義元の実の妹ではなく、養妹として親永に嫁したとされる。」という記述が築山殿 - Wikipediaにあります。

つまり佐名姫はドラマの中で描かれたように、井伊直平の娘であり、
その娘:瀬名姫は、直平の孫であると同時に、今川義元の娘であるという確信は得られてはいないのですが、『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』では、「井伊年譜」や『系図纂要』『井家粗覧』の系図に沿って、佐名姫は直平の娘であることを前提に描かれてます。
なるほど井伊家に繋がる姫(井伊直平の孫娘)が、後に徳川家康の正室となったことにすれば、更にその後に井伊直政が徳川譜代の大名の中でも徳川四天王と称され、徳川幕府において幕末に井伊大老(井伊直弼)の暗殺に至るまで権勢を得たことを理解しやすくなります。
そしてこのことのみを前提にすれば、井伊家の繁栄は瀬名姫(築山殿)が徳川家康の正室であったからと言えるのですが、それでも井伊直虎の功績により井伊家が周辺の今川・武田・北条・織田などに滅ぼされずに存続がなければ、その繁栄は有り得ないことは言うまでもありません。

つまり簡単に言ってしまえば、徳川幕府における井伊家の繁栄は、瀬名姫(築山殿)と井伊直虎のどちらかの存在が欠けても有り得なかった事なのです。

そこで『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』を見て思い当たることがありますよね。
第3回放送での瀬名姫とおとわの出会い以後、二人は文を交わし、連絡を密にしている場面が描かれています。
瀬名姫から届いた文を、おとわなり次郎法師なりが受け取ることで、二人の親密度が描かれ、その文により、周辺諸国の情勢を共有するというかたちで。

第5回放送『亀之丞帰る』では、今川氏真が北条家の姫を迎えたことで、成長した瀬名姫は氏真の正室となることが出来ず、純真な少女から夜叉のごとき嫉妬心?を内面に持つ女性へと変貌したという心象的な映像が描かれました。

果たして瀬名姫とはどのような女性だったのでしょう?

築山殿 - Wikipediaによれば、
徳川家康(松平元康)正室。本名は不明だが一般的には瀬名、鶴姫、築山御前(つきやまごぜん)、または駿河御前(するがごぜん)とも呼ばれる。築山殿・築山御前という呼称は、長く岡崎城郊外の築山に幽閉されていたことによる。
遠江今川家である堀越氏の分流瀬名家関口親永(または瀬名義広)の娘。よって、室町幕府の重鎮・今川貞世の血を引く。」
と記されています。
つまり、江戸幕府の始祖となった徳川家康の正室:瀬名姫(築山殿)は、本名すらも分からない女性ですが、室町幕府の重鎮の血を引く女性だったと言うのです。

この築山殿 - Wikipediaの記述から、瀬名姫の母である佐名姫が今川義元の側室であり、男女の関係があったとしても、瀬名姫は義元の子ではなく関口親永との間に生まれた娘だということがわかります。
一言:当初私は『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』での瀬名姫の母:佐名姫が今川義元の側室だったという描かれ方から、瀬名姫は義元との間に生まれた娘と勘違いしていましたが、関口親永との間に生まれた娘だったんですね。)

以上のことから瀬名姫の血筋を見て見ると、
父方である口親永(または瀬名義広)の血筋は、堀越氏 - Wikipediaによれば、
瀬名家清和源氏義国流、足利氏の一門今川氏の一派で、初代は今川貞世(了俊)である。遠江を本拠地とし当初は遠江守護職であったため、駿河今川氏に対して遠江今川氏とも呼ばれる堀越氏の分流だそうです。
一方母方の血筋は井伊家で、井伊家は井伊氏 - Wikipediaによれば、
藤原北家の後裔(系譜上では藤原良門の息子である藤原利世の子孫とされる)として、江戸時代の『寛永諸家系図伝』で、公式に称している。おなじく藤原南家為憲流工藤氏)の後裔とする説もあり、室町時代後期以来「藤原」を称している資料は現地に残っている。
その他に継体天皇の後裔と称した越前国坂井郡国造三国真人の系統である三国姓とする系図を記した説も存在するが、真偽の程は定かではない。
とされています。

つまり瀬名姫は、清和天皇・藤原氏(大和朝廷以来の豪族)・足利氏(室町幕府を開いた)などに繋がるとんでもない由緒正しい血筋の姫ということになります。
一言:徳川家康の正室となった女性とは言え、ここまで殊更に幾つもの正しい血筋を受け継ぐ姫とされると、あまりにも出来過ぎた話で、にわかに信じがたいと思いませんか?)

さて肝心の瀬名姫の性格はと言うと、この件については家康の正室となる以前の人柄を伝えるものは無いようです。
ですが家康の正室となって後の評判はいたって悪く、一般的には悪女とされています。
これは、嫡子:松平信康の正室となった織田信長の娘:徳姫が、信長に送った手紙「十二カ条の弾劾文」にあります。
・瀬名姫が自分と信康の仲を裂こうとしている
・瀬名姫が女子しか産んでいない自分に乱暴する
・瀬名姫は贅沢三昧をしている
・瀬名姫は甲州の唐人医師・減敬と密会している
・瀬名姫は武田勝頼と通じ、織田と徳川を滅ぼそうとしている

と言ういう性格が悪いと言われても仕方がない内容ばかり。
これが発端となり、1579年信長は、家康に瀬名姫・信康親子を殺すよう命じます。家康は信康に切腹を言い渡し、瀬名姫を部下の手で殺害されます。
瀬名姫は40歳手前だったと推測されます。徳姫は子供を残して実家に戻り、二人の女の子は家康の手で育てられます。
一言:徳川家康の正室となったにもかかわらず、瀬名姫は悲運の最後だったんですね。)
そして瀬名姫(築山殿)の生涯を年表で解説。子供やその性格とは ...の管理人さんは、
これだけ見ると、「性格が悪いのはむしろ徳姫じゃないの?」という気もしますよね。
と付け加えています。
そして実は、この話は江戸時代になって書かれた『三河物語』に載っているお話なのです。『三河物語』は戦国の世を生き抜いた家康の家臣、大久保彦左衛門が、徳川家と大久保家の歴史をつづったもので、瀬名姫の実像を伝えるものではない可能性も記しています。

結局瀬名姫の実像は分からないのですが、本来純粋な性格だった瀬名姫が、幼い頃に望んだ?今川氏真と結ばれることはなく、意に沿わない家康と結ばれたことや、今川家が滅んだことで世をすねる一面が現れ、今川を滅ぼした信長の姫が我が子の妻となり、そのお互いの立場から瀬名姫と徳姫の仲が良いはずもなく、結果として徳姫が信長に宛てた文の内容が、瀬名姫の実像として後世に伝えらることとなったのではないかと私は思うのです。
今後瀬名姫が『NHK大河ドラマ おんな城主直虎』の中で、どのような女性として描かれるかは不明ですが、ドラマの中で言描かれているような井伊直虎との文の交換の中で心の安らぎを得られていたなら、瀬名姫=悪女というイメージが、後世に伝わることはなかったと思えます。
結局直虎は、瀬名姫の竜宮小僧にはなれなかったんですね。

イメージ 1
瀬名姫を演じている菜奈緒さん

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