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〜住宅ローン返済記:旧我家のローンは、29年前から今日までの長きに渡り〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!住宅ローン返済記編
皆さんのお住まいは賃貸ですか?それとも持家ですか?
親からの持家が無い場合の住まいを考える時、家族のライフスタイルを鑑みて、賃貸・持家のどちらにすべきか?どちらが徳か?については、皆さんが考える事だと思います。
そして持家を選択した時、よほどの資金が無い限り、大多数人は住宅ローンを長年に渡って背負うこととなりますね。
高額の我家購入を決断した時、果たして人はその長きに渡る返済の年月の重みをどれほど認識・覚悟して決断していのか?と改めて思うのです。
なぜなら私がその経験者であり、29歳で約1500万円の中古物件を買入した事からローン返済生活が始まり、3年後には中古物件を更にもう一軒購入したことで、1800万円のローン返済生活となり、これを58歳となった今年、漸く全額完済した経験があるからです。
ちなみに2件の中古物件購入の合計金額は、3800万円でした。もちろん住宅購入には、物件価格意外に、100万円以上となる多額の税金や諸費用が別途かかりますよね。
(一言:今にして思えば、とんでもない無茶をしたものです。)
さて、29歳〜58歳まで返済したということは、実に足掛け29年の年月をローン返済のために費やしたということです。
その間バブル時代・バブル崩壊・長い長い不況・阪神淡路大震災などの歴史を潜り抜けて、ある時は失業し、有る時は労災による両足骨折をしてまともに歩くことも出来なくなった5年間も有るなど、正に波乱に満ちた年月でした。
そして今思うのです。「よくもまあ無事に全額完済できたなぁ。」と。
そんな経験を数回に分けてご紹介する事で、今住宅ローンに苦しむ人、これから家を買おうと計画中の人の参考になればと思い、今回からのシリーズ、『住宅ローン返済記』を記して行きたい。
これまでの生涯を通して労働による平均年収が、200万円に満たなかった?この私が、ローンを無事に全額返済することが出来たノウハウをご紹介したいと思うわけです。
ところで、ここで言う私が29歳で購入した中古物件こそ、
〜旧我家自力解体記:やっと連休を利用して自力で旧我家の解体を開始です〜から始まる『旧我家自力解体記』でご紹介した家でした。
ちなみにこの堺市中区にある中古物件は、『旧我家自力解体記』でご紹介したように、自力で平屋を解体して更地とし、お陰様で現在売買契約成立過程にあり、売却価格は1000万円弱です。
それでは皆さん、以後の、『住宅ローン返済記』をお楽しみに、今回はここまで。
在りし日の旧我家
画面右に建つ二階建ての物置小屋は、入居時に建てたものです。
一番目の画像にある現実の物件画像に比べ、広告にある物件の見取り図から受ける印象とには、何と大きなギャップがあることか?と、思いませんか?
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昭和の出来事
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〜二度目の東京オリンピック開催決定に思う:追憶1960年代〜
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!歴史探訪・解釈シリーズ/東京オリンピック(2)
1964年の東京オリンピックが開催された頃の私の記憶は、舗装された道路はほとんどなく、小学3年生の頃でも、幹線道路の府道大阪泉泉南線の道路の端で陣地取りという小石を指ではじいてする遊びをしていましたが、車に跳ねられることもありませんでした。
トイレは当然、ポットン=くみとり式で、ご飯を食べながらハエたたきでハエを畳みやちゃぶ台の上で叩きつぶしていましたし、そのハエたたきが遊びだったりするほどに、ハエだらけでした。
商店街の魚屋さんなどの上にははえ採り紙が幾つも吊りさげられていて、そこにはビッシリとハエがくっついていましたが、気にすることもなく、その下の魚を買って帰りました。
寝るときは、夏は蚊屋(かや)を寝間(寝室)に張った中に布団を敷いて寝るのですが、少し前に蚊屋の中にも殺虫剤を噴霧してから寝ました。
大阪から和歌山県橋本市へと向かう道の紀見峠を超えるには、軽三輪自動車では登りかねるほどで、もちろん舗装されていませんでしたから、真夏でもクーラーが付いていないのに窓を閉め切ったままでないと、舞い上がったホコリで真っ白になってしまいました。
大阪市と堺市を分けて流れる大和川の下流では、時折牛が放牧され、河原のバッタを捕まえようと追っかけて、牛糞をふんづけてしまったりと、牧歌的な思い出も有ります。
流行った玩具はダッコちゃん人形・スーパーボール・プラフープなどで、私もこれらは買ってもらいました。
ジュースやかき氷を飲んだり食べたりすると、舌が、そのジュースやシロップの色に濃く染まってしまいます。
それは清涼飲料水というより、染料飲料水と言ったほうが当たっている代物で、発がん性の人口甘味料もバンバン入っていましたが、今なお私は元気に育っています。
小学校のプールにも固形の殺菌剤がバンバン投入されていて、そのプールで泳いで出ると眼は真っ赤です。
給食では鯨の竜田揚げや煮物などがヘビーローテーションで出てくる程、安い肉=鯨肉で、缶詰も鯨肉が最も安い商品でした。脱脂粉乳は小学2〜3年まで給食にでたでしょうか。
冬には、ダルマストーブの燃料を運ぶ当番もあって、コークス(石炭のようなもの)置き場でコークスをバケツに入れ込み、それを二人一組で教室まで運んだものです。
私の実家は商売をしていたので、電話もテレビももの心が付いた頃からあって、近所の人が電話をよく借りに来て、十円玉を置いて行ったものです。
冷蔵庫は木のボディーの内側と外側にブリキが張られた金庫のようなもので、2相に分かれた内部の内、上の相には氷屋さんで買った大きな氷の固まりを入れて、その冷気で痛みやすい食品を保冷するものでした。
洗濯は私の記憶の中にもタライと洗濯板で洗濯する母の姿がありますが、それが洗濯機に変わっても、洗濯機の脱水機は、2本平行に並んだローラーの間に洗濯して濡れた衣料を挟み込んでペッタンコにすることで脱水するもので、ローラーはハンドルで手動で回すのですが、子供にはかなりの力が必要なのですが、
ペッタンコになって出てくる洗濯物が面白くて必要以上に手伝ったものです。
夏のお風呂はもっぱら大きなタライに湯を張った中に入ってギョウズイです。実家には家の中に比較的広いコンクリート張りの土間があったので、他人に見られる事はありませんでした。
夏の冷蔵庫で麦茶を冷やすための入れ物は、我が家ではもっぱら瓶ビールの空き瓶で、かすかにほろ苦い味がする麦茶が、とても美味しかったと記憶しています。
洗濯後の干し物は、家の前の電柱と電柱の間に竿竹を掛けて、そこに干すもので、それは他の家々も同じようなものでした。
そう、そんな風景や生活が当たり前に見られた時代、それが1964年の東京オリンピックが開催された頃の大阪市内の光景でした。
世は正に高度経済成長のまっただ中、まだまだ世の中の大半は貧しい時代でしたが、社会や経済は、これより豊かになる一方の夢や希望に満ちた、ある意味とても幸せな時代だった。
そして、その象徴のビッグイベントがオリンピックで、ようやく普及しだした 商品の大きさに比べてとても小さなブラウン管の白黒画面を、ある時は家庭で、ある時は電気屋さんのウィンドウの中の視聴用テレビで、人々が群がり、食い入るように競技を見たのです。
ちゃぶ台の上に丼めしとおかずと醤油差し
母は和服ですが、これが普段着でした。醤油差しが特に時代を表わしています。正に昭和です。
トヨタ パブリカ700バンかな?左側に私と母。
三輪車にまたがる私。
生家は大阪市住吉区でしたが、道は舗装されていません。
次回につづく。 |
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