感じること

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引越し

今日、引越し。
引越し業者が夕方来る予定。
荷造りは半分以上は終ってるものの、まだ全部じゃない
掃除は全然してない
しかも雨!
今住んでる部屋は狭いので荷造りしたものを外に出して掃除する予定が
外に出せない(><)
ってゆーかブログなんて更新してる場合じゃない・・・?

引っ越す部屋は近所。1キロほど南西へ。南西は今年は私にとってよくない方角だけど関係ないさ
だって結局地球は丸いから。西をたどれば東に出るし、北にずっと進めば南にたどりつくもん。

今度の部屋は超広い。86平米。2LDK。14畳のDKと14畳のリビング、そして8畳の寝室が2つ。
築30年の鉄筋。家賃は破格の10万円。(新宿・渋谷・銀座・新橋まで電車で30分、の位置)
敷金・礼金・紹介料・更新料などいろいろ含めて、住む年数で割ったら月々12万くらいになるのかな
(こんな計算する人いない?)
しかし2人で住んでるので払うのはもちろん半分だけ。
新しいところでは自分の部屋も持てるように交渉したし、自分の部屋ができたら、合気道の構えのチェックや基本動作が練習できるし、ライティング専用のラップトップも中古で買って置くつもり。書斎にもなる。そして坐布も置いて坐禅もしちゃう。(そんなに家にいる時間、あったっけ?)
なにより走り回れて一番喜ぶのは2匹の猫たちかもしれないけど。
(頼むから畳やふすまで詰めを研がないでね)

引越しシーズンに早くも突入したようで(?)友達1人と兄が同じく部屋を探してる。
2人とも、私の住む地域の割と近くで探してるみたい♪ 

今の部屋はたぶん30平米くらい。いちお、2K。4畳くらいのキッチンに、5畳のリビング、6畳の寝室。これでも前回の1K(寝室8畳+廊下にキッチン)に比べたらすんごい広いと思ったんだけど、
2年弱でなぜこんなに狭いと感じてしまうのか・・・なぜ?体は大きくなってないのに。

次に住むところ、リビングが14畳なのにテレビが14インチって・・・
テレビあまり見る時間もないからいいけどね
テレビが小さいと、DVDで映画を見るとき、良い映画、ダメな映画が一目瞭然。
良い映画は14インチでもぐぃぐぃ引き込まれて画面の小ささなんてまったく気にならない
ダメな映画は全然集中できなくて最後まで見てられない

新しい部屋に引っ越したら、動き回れるスペースがたくさんできるから
毎晩ちょっとした筋トレをできるようになる
腹筋・腕立て・背筋・首の筋肉・スクワットくらいかな。
腹筋、背筋、腿が一番合気道ではよく使う。全身をぶれなく支えるため。
どんな動きでも重心をずらさずに動くにはこの3つが一番重要。
技をかける上でもこの3つが一番重要。それに加えて大事なのが握力、だと感じてる。
私は150cm、44〜45kgと小学生並みの体型
道着も上着は一番小さい1号、ズボンは2号。
でも、館長の故塩田先生も155cm、45キロだったというのは有名な話。植芝先生も同じくらいの体型。
そして、塩田先生は70歳の時よりも73歳のときの方が強かったとあるフランス人の弟子が書いている。
だから小さいから業がかけられない、ということは絶対にない。
それよりも小さい方が合気道にはむいているのではないかと思う、本当は。
合気道には力も必要ないといわれている。ここで言う力とは腕力のこと。
要はバランス、どのように重心を移動するか、どうすれば体全体を使って腕力がなくても
大男のバランスを崩し、そのタイミングで技に入るか、ということ。

だけど、稽古をしているとやはりどうしても基本的な筋力・腕力は絶対必要だと思わざるを得ない。
館長先生だって植芝翁だって、筋力は並みじゃなかったはずだ。
腹筋と首の筋肉が鍛えられてなければ受身も取れない。受身がとれなければ稽古にならない。
マイクタイソンみたいなでかい筋肉は必要ないけど。マイクタイソンといえば、彼は本部道場に来たらしい。「本物」を求めて。レイプ事件の前にね。で、塩田先生が技をかけようとオファーしたところ、先に稽古を見ていたタイソンはそれを断ったらしい。

1か条、2か条、3か条、4か条と、相手の手を持って手首をひねり、手首、肘、肩をロックして相手の動きを止める技では、ロックするためのコツはさることながら、まずは掴むための握力、これが絶対必要。
稽古相手が180cmのときもある。手も(私からすると)グローブのようにデカイ
それをひねるためにはまず、掴まなきゃいけない。握手じゃだめ。相手の親指の付け根から小指の付け根までを手の甲から丸ごと包み込むようにして掴む。・・・・HOW!?
今から手を大きくするトレーニングなどないから、子供並みの手を持った私は握力を鍛えるしかないな、というところ

おっと、もう9時だ。さて。荷造りと掃除始めます
雨が奇跡的に止まないかな〜

aikido(2)

週2回のビギナーズクラスに行き始めて1ヶ月半。
何が変わったかというと、
1、金曜朝のクラスが終ると、土・日・月・火と間が空いてしまう。それをもどかしく思うようになった
2、筋肉痛の治りが早くなった
3、主に腿、腹筋、首が鍛えられ、全身のバランス感覚が養われたため、
 通勤電車の中で、ヒールで吊革がなくてもそんなに困らなくなった(フラフラしなくなった)
 混んでる駅の改札口などで人にぶつからなくなった
4、咄嗟のストリートファイト、バーファイトのシーンに出くわしても、びびらなくなった

 (ある日、私・私の友達・彼・彼の友達Cでナイター観戦にいったかえり、
  彼の友達Cがひどくよっぱらい、彼とちょっとした口論をするなかで
  すいていた中央線の車内で、あろうことかCがいきなり彼の顔にパンチを入れたことがあった

  大声で話し続けるなら、私は自分の友達を連れて別々に帰る、Cを黙らせて、それか無視して
  応じるのやめなよ、と私が彼に言っていた矢先、だった

  2人が車内で大声で言いあってた時から、他人に迷惑かけてたし、ある意味注目されてたのに
  そんななかでイキナリ顔を殴るとは。しかも自分の友達の。しかも超くだらない言い合いで。

  彼とCの間にちょうど立ってた私は(私はチビでCは180くらいあるので、
  私が間に立ってても振り下ろす感じで彼にパンチを入れた。)振り返ってまずCの腹に
  パンチをし、そしてまだ喋り続けてたので今度はCが彼にやったようにCの顔を殴ってやった
  (まぁ、まったく痛くなかっただろうけど、私のパンチなんて)

  もちろん、Cは大男で
  すでに泥酔だったので力の加減も理性もなかったから、
  私のパンチで逆上してやり返されてたら
  もちろん私は大怪我したかもしれないけど、正直言ってそんなのその瞬間は考えてなかった

  いや、一瞬考えたけど、大勢の人が見てたし、まさか人前で女相手に本気で殴り返さないだろう
  という、我ながら甘いと思える算段と、前述のように人前というのと
  彼も私の友達もその場にいたから
  もしこれで私が大怪我しても死に至るほどやられるとも思えなかったし、
  目撃者がたくさんいるので、もしそんなことになったらやつを警察に引き渡してやろうとも
  思っていた。数日〜数週間、留置所にでも入れられて内省の時間を持てばいい

  何よりも私がそこでCを殴った理由は、まさか彼をノックアウトしようなどという考えとも
  自分の日ごろのトレーニングを試したいとかでも、まったくなく(あたりまえ・・・)
  公然となんの理由もなく、酔っ払ってたという理由だけでいきなり暴力に訴えたCという人間が
  信じられなかったし、とにかく汚い暴力だった。
  喋りながらいきなりブンッと顔面を殴るなんて。

  で、私が恐れたのは、それに彼が応戦して、電車の中でお互いに殴り合って、
  誰かが車掌に言い、電車が止まり、しまいには警察が来て・・・と大騒ぎになるのを一番に
  避けたかった。
  私がCを先に殴ったら、案の定、彼は私とCの間に止めにはいったし、幸運にもCも
  私に殴り返すことはなく、私たち3人はCを残して電車をおりた。
  
  電車を降りる時点で私はCに、絶交を言い渡していて、私たちの家にも二度と遊びに来るなと
  言ったけど、でも彼はそのあと、Cをかばうような言動。
  「だからって許されるわけじゃないけど、ヤツはウォッカを1瓶ひとりで空けてたし
  色々いまストレスがたまってて・・・こんなことになる気はしてたんだ」だって。
  
  申し訳ないけど、Cは酒乱の気が確実にある。飲んで大声になる、飲んで殴る、典型じゃんか。
  しかもナイター観戦に5回の裏から加わって、どうやってウォッカを一瓶ひとりで飲むんだよ
  そして、なぜ!なぜウォッカをほとんどストレートで子供もたくさん来てる球場で飲む必要が
  あるんだ?酒乱またはアル中の典型じゃんか。悪いけど。
  
  私は昔、アル中の身近にいた時期が一時期あって、彼らは、少しだけ飲む、お酒を嗜むという
  ことが出来ない人種なんだ。かわいそうだけれど。そういう体の構造なんだ、多分。
  普通は、体がうけつけないのでそこまで飲めない。そうなる前に吐くかつぶれて寝てしまうか
  だけど、酒に強い彼らは結局、酒にまるごと飲み込まれるまで飲んでしまう
  で、どういう過程でアル中になるかはわからないが、アル中として出来上がってしまうまでの
  習慣的、継続的な飲酒および、こんなんじゃダメだと思ってもやめられない精神の弱さ、
  または、こんなんじゃダメだと思えない自己反省の欠如=やはり精神の弱さが伴っての
  今の彼らの姿なので、少しだけ飲んで満足する、仲間と楽しい時間を過ごすということが不可能
  に近い。だから「飲まない」しかない、という結論。
  で、Cには子供もいる。
  
  私は自分のいくばくかの経験から、そういう酒癖の悪い人種とは一切関わらない誓いを立てている
  ので、絶縁状をわざわざ書いた。絶縁状のなかに、酒をやめろと書いた。自分の経験とともに。
  それをどう受け止めるかはC次第。そんな、余計なお世話な手紙を書くことだけが私が他人である
  Cにできる唯一のこと。だってあの様子を見てたら、絶対、家で奥さんを殴ったことが一度も
  ないなんて、誰も断言できないと思う。
  加えて、Cが飲んでの暴挙を私は人伝えに何度となく聞いていたから。
 
  人を傷つけ、消耗させ、失望させるためだけに生まれてきた人間なんていないんだから、
  Cにも何かの目的があって、この世に生を受けたはずなんだ。それを探そうと努力すること、
  そして、周りにいる人間を少しでもより幸せにしようと努力すること、
  まして子供がいるんだから。  などを書いて、彼に持たせた。
  彼がCとの交友を持ち続けるかどうかは関係ない。それは彼らの選択だけど、少なくとも
  彼がCの友達だと言うなら、断酒を応援するくらいでないと、本当の友達とは言えないと思う
  と私は付け加えた。)

5、正しいと思う自分の意見を臆することなく口にできる、実行できるようになった
  また、どんなに正しいと思っても、どこでも誰にでも口にすることなしに、他の見方もあること
  も常に念頭におき、意見を述べるにしても適時適所を見極めることができるようになってきた。

以上がいまのところ、合気道を始めて変わったところ。または変わりつつあったものがより確実に
なりつつある事柄。 
心技体のうち、2・3は体、4・5は心というところだろう。技は・・・まだまだ。

前述の一件は、三連休の最初の土曜に起こり、
その3日間はなんかショックや失望から立ち直れずにどんよりした気分で過ごしてしまった
自分のイヤな過去の経験が蘇ったことと、
結局Cの行いに対して自分も暴力で反射的に応戦し、場を収めようとしてしまったことへの反省
(私がもし真に強かったら大怪我させてしまってたかもしれないし、結局暴力で応戦というのは
 後から考えてもやはりいただけない・・・)

それと、いまだに、あぁいう人がやはり世の中にはたくさんいて、
その影で、心を傷つけられ泣いたり、いわれのない暴力に、顔にアザをつくっている誰かがやはりいて、
あんなにも人は簡単に汚い暴力を行使できてしまって

それは世界中で、いろいろな社会のなかで、
いじめや、虐待や、大量虐殺や、内戦や・・・・とたくさんの人を傷つけて苦しめているんだろうな
というなんだか絶望に近い気持ちを、1週間くらいひきずってしまった

やはり、心の教育が大事なのであって
精神の養成が大切。
人は簡単に暴力的になれる。
暴力は簡単に人を殺せる。簡単に他人を恐怖にさらすことができる。
たとえば、プラットホームで誰かを押したり
満員電車で銃をうったり
人が連なったエスカレーターの上から誰かを押し倒したり

極端に言えば
心が、良識が、それを防いでいる
簡単に考えれば、普通の人は、理由もなく、メリットもなく、そんなことをしようと思わない

人をなぐったり、けったり、技をかけたりすることを練習して
(合気道では蹴ったり殴ったりしないけど)
相手を倒せる、相手を殺せる技を身につけて
それを「使わない」、刀(矛)を止めるのが「武」である、とか、
「闘わずして勝つ」という極意が合気道の精神だとか
そういったことを体で感じて、心で感じて学ぶのが
古来の武術とは程遠いかもしれないけど、現代のなかで学べる武道の心ではないかと思う

結局、大切なのは、正しい心のあり方で、それを実行できる自信を身につけること。
自信とは、腕力、体力的な強さに支えられる部分が大きくある

現代の日本社会では、心技体といって、技に武術的な技は生き残りのためにそんなに必要では
ないだろう。のっぴきならない〔いざ〕という状況を除いては。
「技」はきっと、仕事でのスキルかもしれない。経済的なものを自分に供給するための
スキルということになるだろう
「技」を現代用にそれにおきかえたとしても、やはり変わらない
基本的な体力と健康、なによりも正しい心持ちが必須になる 
そこで技を鍛え、よりよく生きるための努力をするのだ

体を鍛えながら、瞬発力、柔軟性を養いながら
そんなふうに心の重要性を再認識しているのが、
私の1ヵ月半の合気道鍛錬の、いまのところの立ち位置。 (「の」が多いな・・・)

養神館という名は、館長「塩田剛三」の医者であった父が建てた柔道の稽古道場の名だった。
「精神を養う場」という意味。
剛三は植芝翁から道場開設を許されたとき、まさに合気道の精神としてこの父の建てた「養神館」
という名をそのまま引きつぐことを迷わず決めたという。

さて。

夏に撮影したショートムービーの編集を昨日終えた。
課題提出の条件としては、基本的に企画意図としてあった全体の流れを網羅した編集をすること。
けどそれを3分〜4分にまとめるとなると力のない私なんかはどうしてもダイジェストにならざるを得ない。
本当はワンシーンで十分だと思う。

ラストの意外なシーンをチラ見せ→夜の夫婦の口論→昼間のそれぞれの行動をフラッシュバック的にインサート→話のオチ(最初の映像に戻る)

というかなりオーソドックスな編集構成をとったつもりだったが
課題提出前に講師のチェックを受けたら
「アート作品にしようと走りすぎなんじゃない?」とのコメント。
んなぁこたぁ全然ないぜ、先生。

と思いつつもやり直し。トホホ。
省略しすぎずに、朝の夫婦仲むつまじいシーンから描くように、時系列に沿ったベースをまず作ること、それを提出し、そこから自分なりに崩したり解釈したうえでの編集作品は別で見てあげるとのこと。

で、2回目チェックの講師のコメント
「う〜ん、微妙」
び、びみょーって?

いらない動きのない画のカット、それから口論のシーンをワンカメラでずっと見せずに
双方のカットバックで表情を見せること、フェアな「騙し」方をすること
などの改善アドバイスをもらい、昨日やっとこさ完成。

完成したものも自分的にもまだまだイマイチ。
しかしね〜
編集してて、
家の外観のワンショットが欲しかったとか
もっとこっちのアングルが欲しいとか
あぁーん、良いのに別キャメが映り込んでるよッ とか
音が拾えてないとか、同じシーンの別アングルの2つのカメラの照度がバラバラとか

いやはや。
撮影の難しさを実感しました。

1日中、自分たちで撮った素材を見続け、自分の編集をしていて
完成した4分半の映像を十数回繰り返し見たあとで
中東のテロ事件を描いた米製作の映画を見たら
カメラワーク、カメラアングル、役者の演技、爆破やアクションシーン、そして編集のプロフェッショナルさに思わず大きな衝撃をうけた。
あれを創ったひとりひとりがポテンシャルは別としても今私のいるレベルから出発したはずなんだけど
やっぱり・・・・プロの仕事は違うよなぁ・・・・!!!と閉口。

翻訳も合気道も映画シナリオも映画撮影も編集も。なんでもそうだけど
プロの仕上がったものを見て批評するのと実際に自分でやってみるのとでは大違い。
その二つが謙虚さと見る目を同時に養う。

しかし、これも何にでも言えることだと思うけど
続けていれば必ず上達する
しかし、ただ続けてればいいってもんじゃない。
本物を求めて、本物を見極める正しい目と感性を養って
本物に近づく正しい方向性の努力を続けていくこと

だけどそれができたら、継続的な努力が才能を開花させてくれる。
継続的な努力を支えるのがパッションだ。本物のパッションは信念に支えられる。
信念は、自分が誰で世の中をどう捉え、それをどうひとに伝えたいか、
その結果何を変えたいか、それらが理想と呼ばれるものだ。
理想とはつまり、自分と世界を知ろうとするところから始まるきがする。

次は早くも卒業制作。
こないだのはプロットを与えられてからのスタートだったので
かえってちぐはぐしちゃったシナリオづくりで結構いらない苦労をしたけど
今回は企画(脚本)コンペをして、勝者のシナリオをもとに撮影する。
企画のテーマは「携帯電話」 締め切りは12月1日。
映像祭にも出す作品になるので良いシナリオ書かなきゃ。
3分なので今回こそワンシーンドラマで見せたい。

試されるとき

1年に数ヶ月、あるいは数回、自分が試される時期、というのがある。
毎年必ずある。

今がそれだと感じる。

何を試されるのか?
自分の実力や能力・・・そういったものではなくて
自分がどういう人間なのか、何に重きを置き、どう生きるのか
自分の生きる姿勢が試されるのである

これがあるから私はきっと自分を知ることができる

こないだ図書館で借りた本。「矜りと恥」 矜りは、ほこり、と読む。
この本を借りるまで知らなかった漢字・・・恥ずかしながら。
あわれむ、つつしむ、が別の訓読みである。
柏樹社よりの出版で、野中日文氏の著。1988年10月初版。
氏がこれを書かれていたのは実に20年以上前のことだと推測する。

著書のプロフィールを紹介すると
1936年宮崎県生まれ。東洋大学中国哲学科中退。
臨済禅大森曹玄門下。中学時代より柔・剣道を学ぶ。
大学試合、合気道開祖に出会い、合気道に転向。
会い機会宮崎県支部、7段。禅、古代神道、原始仏教、中国古代思想の実践的研究に従事。
著書に「武道の礼儀作法」「生きる極意」、その他。

この「矜りと恥」もサブタイトルに「武道に学ぶ行動の美学」とついている。

氏がこの本のなかで言っている。
何を恥と思うかでその人間の価値が決まる
何を恥と思うか、それが矜りという概念も生むのだと思う。

禅は私は曹洞宗、合気道は私は養神館。
すこしずつの宗派は違えど、著者のものの見方、世界観、判断基準には
多いに共感するし、また開眼させられる部分もある。
文章が簡潔で潔く、心地よいリズムでわかりやすい。それこそ竹を切ったような清涼感がある。

仕事でミスをした。
同僚、先輩、他部所の上司などは「(言わなければ)(顧客には)わからないよ」という反応。
たしかに重大なミスではない。そのわりに、それを正そうと思うと対応には結構な時間と労力がかかる。
だから、結果、誰も私を助けようとする人はいなかったし、協力さえも惜しまれるという状態。

でも隠すことは正しくないと思ったし
隠そうとするなんて、そんな自分は恥だと感じた

ミスをしたことが問題なのではなくてその後の対処が問題なのだと当たり前のことを思った

関係部署の人や
自分のすぐ上の上司に相談をしたが
彼らが面倒を省こうとしたこと
結果的に彼らが、ミスを詫びて、正す対応の手伝いをしてくれないとわかったことなどは
正直、何か少し悲しい気持ちになった
(以前勤めていた会社の上司を思い出した 彼なら、彼らならこんなときは違った反応だったことを)

では、自分は、自分の尻拭いを誰かがしてくれることを期待していたのか?
少なくとも誰かが協力してくれるとアテにしていたのか?
そうだとしたら甘えだし、そんな自分の甘えにも気づいた。

だから今日は意義深い日だった
問題解決の対応はまだ続いているが自分が撒いた種
きちんと解決できるまで辛抱強くやろうと思う

なぜ今が試される時期なのかというと
そのほかにも複数の事情が絡み時間的な余裕がなくなってきてる
時間的な余裕が精神的な余裕にまた直結してしまう人間なのかどうか
度量が試される時期だと感じる
今回のミスも睡眠不足による集中力の欠如と
職場での慣れから生じる油断する気持ちから引き起こしたこと。

気を引き締めて、心には余裕をもって、いこう。

ときめきは結局一過性のものなのだろうか?
一過性のトキメキは、もしかして結構あって
一過性じゃないトキメキは情熱に変わって信念に変わるのかもね
人に対しても、何か物にたいしても

奥が深ければ深いほど
知りたくなり
知る過程が楽しくて
知れば知るほどもっともっとときめいたり、ワクワクしたり

そこに
何か自分で高めるべき技やスキルや知識や
鍛錬すべき精神やモチベーションや
高いレベルに行けばいくほど、得る心地よさや感動が大きいものほど
もっともっと先へ、先へと行きたくなるんだきっとね

人間関係も 物事も 同じではないかと思う

だけどまずは
自分自信が
一過性じゃないことが
一過性じゃないものや人に出会い、それを見極める第一のコンディションなのだろうな

本物を見極めるにはまず、自分自身が本物になれと
一番最初の職場での一番最初の上司が言った

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