●ザ・ボルテイジ
1968年6月、テイチク/ユニオンから「エミー・マイ・エミー」でデビュー。 本格派R&Bバンドとして売り出される。シングル3枚、LP1枚を残し1969年秋に解散。 ●ザ・ファイターズ 1968年5月、東芝/エキスプレスから「愛の祈り」でデビューしたデュオ・グループ「ザ・ジェット・ブラザース」のバッキングを担当していたGS。高松出身の4人グループ。 ●ザ・バロネッツ 1968年9月、発足直後のCBSソニーから「サロマの秘密」でデビューしたGS。 TV番組のレギュラーも務める活躍もしたが、シングル3枚を残して1969年解散。 ●ザ・リヤーズ 詳細不明のGS。
昭和44年の秋にグループサウンズの不祥事が発覚したスキャンダル「ザ・ボルテイジ事件」。 遅くなりましたがリクエストにお答えすべく、当時報道された事件内容の一部を記事アップ致します。 尚、事件の性質上からも、お気に入り登録者様のみのファン限定記事とさせて頂きます。 この事件をリクエストいただきましたが、限定ご理解の上ご了承の程よろしくお願い申し上げます。
本日15日夜、詳しい内容の限定記事をアップする事を予めお知らせしておきます。 ボルテージ他GSファン及びGS女性ファンは、ご理解のうえ興味のある方のみご覧下さい。 http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/016/080/00/N000/000/000/127389992075416323509_00-voltage1.mp3(analog record upの為noiseご了承下さい。)
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芸能界スキャンダル
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1974年9月12日夜、人気アイドル歌手・風吹ジュンが番組収録後、テレビ局の前で数名の男たちに 車で連れ去られる事件が起きた。通報を受けた警視庁はパトカー20台を出動させ高輪Pホテルへ保護に向かう。 深夜、エレベーターを降りてきた風吹ジュンを保護。その場に一緒にいた暴力団関係者を連行した。 風吹ジュンの過去が暴き出され大スキャンダルとなる騒動の幕開けであった。 http://groupsound.cocolog-nifty.com/jpg/jun2.JPG
風吹 ジュン(ふぶき-、本名;堀川 麗子、1952年5月12日 - )は、日本の女優。 富山県富山市八尾町生まれ、高岡市と京都府で育つ。 所属事務所はパパドゥ。初代ユニチカマスコットガール。 血液型はB型。 1973年、広告ポスターのモデルとして芸能界にデビューした風吹ジュン。 その後に水着メーカーの広告で、世界的写真家デビッド・ハミルトンに日本人で初のモデルとして 撮影され、いっきにトップ・モデルの座へ登りつめ注目を浴び人気が急騰する。 74年5月、「愛がはじまる時」で歌手としてもデビュー、人気は最高潮に達した。 しかし、歌手デビューして僅か4ヶ月でこの騒動が勃発する。 当時の週刊誌によると、以前に所属していた事務所との移籍契約問題でのトラブル。 前事務所社員らとともにホテルに連行された風吹ジュンを待っていた者たちが暴力団関係者。 そこで移籍契約の無効を告げられた風吹ジュンはとりあえず口頭で話を了承する。 深夜に解放され、前事務所社長ら一団とともにホテルのロビーに降りると、そこに警官隊が待機していた。 警察は暴力団関係者を連行したが、彼女の否定もあり誘拐は成立せずすぐに釈放となった。 このような経過のもと、この夜の騒動はとりあえず落着する。 しかし、翌日の記者会見から事件の真相は少しずつ明らかにされていき、 騒動は思わぬ展開に発展していくのである。 8月まで所属していた事務所Aの給料などの待遇面で不満を持っていた風吹ジュンは、 作詞家Nの弟子を介し、事務所B社長を紹介され給料アップを条件に8月27日移籍に関する委任状を交わす。 翌28日、B社長が暴力団と関係するとリークした別の事務所Cの話に乗せられた風吹ジュンは Bと委任状を交わしたまま事務所Cとの契約を結んでしまう。 ●契約解除を認めていない事務所A ●本人の委任状を手にしている事務所B ●移籍契約を結んだとする事務所C 複雑なる三重契約という失態。風吹ジュンは記者会見の席上で 「夜から明け方までしつこく言われたんです。とにかくハンコを捺せといって、契約書みたいなものに 手を取られて拇印を捺されたんです」と、事務所側の狡猾な手口を強調した。 しかし、契約時に録音された会話のテープが後に公開され、風吹ジュンが全てを承知の上で契約していた事が判明する。 事務所間のタレント転がしと風吹ジュンの損得勘定から起きた騒動は、事務所Bに所属することで 一件落着し、芸能活動も続けていく事となるのだが、彼女の清純派というイメージは崩れ去っていった。 ちょうど第2弾シングル「涙に微笑みを」がリリースされた時期に起こった事件でもあり、 レコード・セールスを見ても彼女の人気が急落していることがよく判る。 「愛がはじまる時」(1974.5)オリコン21位10.5万枚。 「涙に微笑みを」(1974.8)オリコン52位2.9万枚。 「ふたりの舗道」(1974.11)オリコン73位0.7万枚。しかしこの後に、彼女のアイドルとしての人気を完全に打ち砕くこととなるスキャンダラスな記事が 各週刊誌に掲載され大騒動に発展するのである。 デビュー時に公表されていたプロフィール詐称に始まり、男性遍歴まで暴かれる始末。 仕舞いには風吹ジュンと同棲していたと名乗る男が登場、肉体関係まで赤裸々に語った。 清純派アイドルの正体が暴かれた瞬間、ファンは一気に落胆した。 しかし、風吹ジュンは中傷的なる暴露記事にも負けず告白手記を発表する。 「・・・・これが私の全部です。その時その時を純粋に生きてきた。 この騒動でも私を理解してくれない人に、私は弁明をしない」 自らスキャンダルな過去を積極的に肯定し、強い意思を持つ自立した女をアピールしたのである。 人気は完全に無くなった彼女であったが、翌75年に見事復活する。 人気ドラマ「寺内貫太郎一家2」など数本のTVドラマでレギュラーの座を獲得、 女優として再出発した彼女の人気も回復の兆しを見せていた。 しかし76年2月、再び彼女は騒動を起こした。バラエティー番組をスッポかしての失踪事件。 正確にいえば失踪ではなく風吹ジュンの独立問題から起こった騒動。 事務所Bとは75年9月で契約は法的にも切れており、再契約交渉中の76年1月には弁護士を通じ 2月以降、事務所Bの仕事はしないという内容証明を彼女は送っていた。 風吹ジュンは2月以降も元マネージャーとともに取った仕事を地方でこなしており、 彼女の弁護士は東京地裁に出演妨害禁止仮処分申請を提出していたのである。 事務所Bとの再契約を拒んだ理由として、 風吹ジュンは歌の才能に限界を感じドラマへ活路を見出そうとしていたが、事務所側はあくまで歌手のほうで 売り出したいと思っていた為、両者が対立したとされている。 地裁の調停は素早く、2月下旬に風吹側弁護人と事務所Bの和解が成立。 事務所Bが契約した仕事を5月まで消化、その後は風吹ジュンの芸能活動を一切妨害しないという条件で合意される。 3月、風吹ジュンは記者会見を開いた。 「自分を偽る人生はもうイヤです。私はタレント活動を人間活動としてやりたかった。 これからはやりたい仕事だけをやっていく。タレント失格と言われてもかまいません」 その後、干されたせいかどうか判らないが彼女は芸能界の表舞台、 メジャーな仕事から姿を消していくことに・・・ 彼女の凄いところはその2年後、1979年に男性誌でオールヌードを公開、 松田優作主演映画「蘇える金狼」に出演、激しいファック・シーンを演じて話題となり 見事、華々しいカムバックを遂げた。 その後も女優として順調に仕事をこなし、現在も名脇役として活躍中である。 スキャンダルにも負けず、それ自体をも踏み台にしてしたたかに自立・成長した女性のタレント像は 少なからず芸能界に大きな影響と強いインパクトを与えたタレントの一人であったであろうと思われる。 [参考文献・引用資料] 「微笑.週刊ポスト.週刊明星.週刊平凡.宝島.週刊女性.ウィキペディアetc」
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1988年11月、70年代を代表するアイドル・グループ、フォーリーブスの元メンバーだった 北公次が衝撃の告白本を出版した。1978年の解散までに紅白連続7回出場、コンサート会場では 常に黄色い声援が飛び交うジャニーズ事務所のトップ・アイドルだった彼が、 現役時代に4年半にも及ぶ社長のジャニー喜多川との肉体関係を綴った「光GENJIへ」が 世に出て大騒動となる。 フォーリーブスはジャニーズ事務所所属・第2号タレントとして 1968年9月、CBSソニーより「オリビアの調べ」でレコード・デビュー。 10年後の1978年8月に解散。そのまた10年後の1988年に騒動は起きる。 事の発端は、AV監督として絶頂期にあった「村西とおる」とジャニーズ事務所との喧嘩から始まった。 1988年春、AV女優Kが田原俊彦と一夜を過ごした事を暴露、その後、話し合いの場が持たれ ジャニーズ事務所と田原本人、数名の田原の親衛隊から強硬な抗議を受け会談は決裂、 村西監督の逆鱗に触れ、復讐に燃える彼がジャニーズ事務所と所属アイドルのスキャンダルを 暴露するというタブーに挑戦したのである。 彼は専用の電話回線を引き、情報収集を募った中に、ジャニーズ事務所代表・ジャニー喜多川の 長年にわたる同性愛趣味を告発するものに注目。知り合いの芸能記者に元ジャニーズ事務所所属タレント からその噂を聞けないか逆取材をしたが、成果は上げられなかった。 そんな折、ある記者から元フォーリーブスの北公次ならひょっとすると話すかもしれない。 と持ちかけられた村西は、芸能界から姿を消して10年が経つ元アイドルの消息を捜索。 地元・和歌山でひっそりと暮らす北を探し出し、芸能界復帰計画を条件に話を聞き出す作戦に出た。 フォーリーブス解散後すぐ、覚醒剤取締法違反で逮捕されて以来、芸能界から抹殺され 不遇な生活状況だった北公次にとっても一つのチャンスでもあった。 本人の口から語り下ろして、それをまとめて本にする作業が始まったのである。 元アイドルの口から語られたものは想像以上のものであったのだ。 1966年、日劇ウエスタン・カーニバルを観に行った時にジャニー喜多川に 声をかけられた北公次は、以後4年半に及びジャニー喜多川と同棲関係を結んでいた。 フォーリーブスとして人気絶頂期になっても、二人の関係は続いていたことになる。 時々は他のメンバーや先輩グループ「ジャニーズ」のメンバー、後輩の「ジューク・ボックス」、 「ジャニーズ・ジュニア」、「郷ひろみ」もその行為に悩んでいたという。 給料は無給。必要な時におねだりをすれば金銭を与えられていた事も告白。 世間知らずで無知であったと自ら反省の弁を語っている。 芸名の北公次の北はジャニー喜多川の喜多川から取ったものだった。 これから売り出すアイドルと社長との養子縁組はさすがに出来なかったため、 せめて芸名だけでも二人の絆を残しておこうというものだった。 フォーリーブスの多くのヒット曲の作詞を北公次が書いているが、 実はジャニー喜多川が書いたものであったという事実。 フォーリーブス後期から覚醒剤に手を染め常習犯であったという告白・・などなど衝撃の告白が 綴られた暴露本「光GENJIへ」が1988年11月、世に出たのである。この自伝的告白本を出版した理由として、ジャニーズ・アイドルを目指す若い子供たちが ジャニー喜多川の毒牙に罹り、自分と同じ犠牲に遭わせないためという大義があった。 合宿所で未成年者を半ば強制的に同性愛行為に及んでいたのが事実であるならば、 それは性犯罪であり糾弾されて当然であるべき事であろう。 時は1988年、アイドル・グループ「光GENJI」が全盛を誇っていた時代である。 この告白本は全国の書店で売り切れが続出、かつてフォーリーブスのファンだった女性だけでなく まだ若い十代のジャニーズ・ファンたちにも衝撃を与えたことで部数を飛躍的に伸ばしていった。 それとともにマスコミも動き出す。新聞社系週刊誌などを中心に取材が北公次に殺到しだした。 これに対し、ジャニーズのタレントを起用する媒体誌を持っている社は 一斉に沈黙を決め込むという珍現象が起こったのである。 これほど話題となり世間が大騒ぎしている本を、ワイド・ショーなどのテレビを初めマスコミは ジャニーズ事務所に媚を売り、一切報道をしなかった。 芸能スキャンダルを見つけると一斉に飛びつくワイド・ショーは北公次騒動の報道を放棄したのである。 事務所に影響を受けない関西ローカル番組「ノックは無用」に当時、一度だけ北公次が出演できた くらいのものであった。 「北公次」という言葉はテレビでは放送禁止用語にまでなってしまったのであります。 一方、ジャニーズ事務所はというと、本の出版に関しては一切無視を貫き通した。 そして、他の3名の元フォーリーブスのメンバーを本社に集め、箝口令を敷いた様子であった。 出版元のデータハウスは想像以上の売れ行きだったため、 北公次の告白本をシリーズとして売り出すことに決定。以後合計6冊が相次いで出されたが 最初の本以上の衝撃を超えるものは無く収束していく。 その間、北はソロライヴ活動やレコード、ライヴ・ビデオなどを発表し再デビューするも、 あくまでアングラ的活動を余儀なくされていた為、話題になる事も無く 沈黙を貫く巨大プロ、ジャニーズ事務所の前に成す術もないまま自然消滅していくのである。 人の噂も七十五日、この騒動と北公次という名は知らぬ間に忘れ去られていった。 当時ワタクシも、彼の復活ライヴを観に行ったことがあるが、バック転を披露したりしての 非常に精力的なるステージであった事が思い出される。 それから3年後、北公次はブティック店長の女性と再婚。 ワイド・ショーで幸せそうな姿を画面で披露していた。ジャニーズ事務所と北公次は和解でもしたのか 彼を避けていたテレビ局が報道していたことに奇妙な感じがしたものだ。 当時、ジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川を糾弾した北公次は、 憎みながらもどこか彼を追い求めているような心があの事件で感じられたものである。 芸能界最大のスキャンダルとして世間に衝撃を与えたあの一連の騒動は、 日本の芸能史のなかでも特異な現象であったことには間違いない。 現在は元メンバーの江木俊夫・おりも政夫・青山孝、そして北公次の 4人が集り再結成をした「フォーリーブス」。 ライヴ活動やCDを発売して往年のファンを楽しませてくれている。 [参考文献・引用資料] 「微笑.週刊ポスト.週刊明星.週刊平凡.宝島.週刊女性.ウィキペディアetc」 |

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1978年4月、「涙の太陽」のヒットで知られる歌手の安西マリアが元マネージャーと失踪。 そのまま引退状態となるも事件はそれだけでは終らず騒動の舞台は法廷闘争にまで発展する。 「恋の逃避行」が一転、元暴力団の芸能プロ社長によるタレント恐喝事件へと変わり 証人の口から次々と芸能界の暗部をえぐりだす生々しい証言が飛び出した。 1978年4月13日、安西マリアの所属事務所・竹野エージェンシー社長が記者会見を行なった。 「安西マリアは4月8日から行方が知れなくなっています。生身の人間ですから 事故がないと言い切れませんし、いたずらに世間を騒がせるのは本意ではありませんので なんとか穏便にしたかったのですが、いま現在になっても行方不明ですので、ご両親とも 相談して捜索願いを出す事にしました ー 」 失踪事件である。当時の週刊誌によると、 4月7日、新曲のリハーサルを終え、現マネージャーとともに深夜帰宅。 8日午前、神経症気味の母親を静養さすため元マネージャーKと3人でタクシーに乗り、 母を湯河原で降ろした後、マリアとKは日吉で消息を断つ。 9日、母のもとにマリアから電話があり、「死にたい・・・」とくり返す。 10日、Kから電話があり「すべては弁護士に任せてある」 12日、社長宛にマリアより直筆の手紙が届く。 「身も心も疲れました。仕事もレコードも手につきません。しばらく休みたいと思います。 後のことは弁護士さんに任せてあります」という内容が書かれていたという。 13日、社長はマリアの両親と相談し、玉川警察署へ捜索願いを提出。 会見の数日後、芸能週刊誌は一斉に、次のような見出しで事件を報じる。 「安西マリアが元マネージャーと恋の逃避行」 関係者の話によると、安西マリアは仕事をすっぽかす常習犯で、 ほとほと手を焼いていたところを現社長がマリアを引き取ったという事。 また元マネージャーのKは事件の2ヶ月前まで竹野エージェンシーで仕事をしていたが、 マリアとともにドラマの収録に遅刻するなど不審な行動が目立ち、追及したところ遂にマリアとの 関係を認め、経費の着服や「内職」をしていたことも後に明らかになった。 そのため社長はKを解雇、マリアに対しても「月給を百万円から五十万円に減給する」 措置をとったという。 こうした出来事を背景にしたマリアとKの身勝手な恋の逃避行、社長の会見を受けての 芸能マスコミの論調であった。 事件は茶番劇として終るのではないかという予測が、この時点では大勢を占めていたのである。 ところが事件は、急展開を見せる。 記者会見から1ヵ月後の5月6日に社長が突如逮捕される。 検挙理由は「歌手、安西マリアに対する強要・暴行容疑」 容疑内容は「2月3日、ドラマ収録に遅刻したマリアとKは、その夜社長宅へ呼び出され、交際の事実を 恫喝によって強制的に認めされたうえ、靴ベラでKの頭を連続して殴打、Kは流血する怪我を負う。 社長はマリアの母も呼び出し『オレは前科24犯だ!人を殺すくらいなんとも思ってない!』と脅し、 給料を減額する契約書にサインを強要した」 こうした隠された事件が背景にあったため、マリアは「殺されるかもしれない」と思い、失踪を装い 4月21日に被害届を提出し、5月6日の社長逮捕へ至る。 逮捕により社長が元暴力団幹部であった事が明るみになり、マスコミはこの事件を芸能界の暗部を 暴くものとして報道したが、社長に対し同情的な記事を掲載するものも少なくなかった。 安西マリアは依然消息を断ったまま、社長も拘置所へ送られ事件は司法当局に委ねられるかたちとなる。 8月7日、第二回公判が行なわれる日、4ヶ月ぶりに安西マリアが姿を現す。 東京地裁前には100人を超す報道陣が詰めかける。 マリアはマネージャーとタレントの肉体関係の存在、プロダクションと作詞家、レコード会社の 黒い癒着を暴露して閉廷した。 安西マリアは芸能界の裏側を暴露するというタブーを犯し、 この事件により二度と芸能界に復帰することは出来なくなったのであります。 1979年1月、社長に下った判決は「懲役十ヶ月、執行猶予三年」。 あれから30年、事件も風化し、現在は安西マリアも細々ではあるが音楽活動を行なっている。 [参考文献・引用資料] 「微笑.週刊ポスト.週刊明星.週刊平凡.宝島.週刊女性.ウィキペディアetc」 |

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書庫「邦楽シングル」の記事の一つ「異色の天才◆荒木一郎」の文中内容に誤りがあると 数人の方から御指摘を頂き、昭和44年の事件を再度調べた結果、 ワタクシの記憶の曖昧さから、寺山修司の覗き行為と荒木一郎の事件を混同して 記事文にしてしまい勘違いである事が判明いたしました。お詫び申し上げます。 よって、簡単にではありますが改めて別記事として記事投稿させていただきました。 1969年2月7日、 自作曲「空に星があるように」「今夜は踊ろう」「いとしのマックス」などの ヒットで知られる荒木一郎が町田署に逮捕される。 9日には八王子地検に身柄を送検された。 逮捕理由は女子高生・A子(17歳)への強制猥褻致傷罪。 荒木は「女優としての素質をテストする」と言い、A子を六本木の事務所に連れ込み、 左頚部や左肩などに5日間の打撲傷などを負わせたという。 その後、A子側は告訴を取り下げ、荒木は不起訴処分となる。 本当は何があったのか、真相は闇の中である。 [参考文献・引用資料] 「微笑.週刊ポスト.週刊明星.週刊平凡.宝島.週刊女性.ウィキペディアetc」 引用:三才ブックス実録放送禁止作品 |

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