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それがしは龐徳。字を令明(れいめい)と申す。
西涼は南安(なんあん)郡の出身で、もとは馬騰(ばとう)殿の将だ。
馬騰殿が殺されると、復讐のために挙兵した馬騰殿の嫡子・馬超殿に助勢した。
力及ばず敗れた後は、馬超殿と共に漢中で五斗米道なる教えを広めていた張魯(ちょうろ)殿を頼った。
その後、馬超殿とは袂を分かつこととなる。
馬超殿は益州に入った劉備と戦った末、その軍門に降り、それがしは漢中に進攻した曹操殿の配下となったのだ。
時は過ぎ……。
劉備の義弟で猛将と名高い関羽が、我が軍の押さえる樊城に攻め寄せてきた。
樊城を守る曹仁殿は、曹魏の重鎮。看過できぬ。
日頃の恩顧に応えるのは今と、それがしは勇んで救援を名乗り出た。
だが、新参者のそれがしは、救援部隊から外されようとしていた。
かつて行動を共にした馬超殿や、兄(従兄)・龐柔(ほうじゅう)が蜀に仕えていたため、諸将に疑いをもたれていたのだ。
心外千万とはまさにこのこと。
それがしは漢中の戦いで捕らえられた際、温情をもって救ってくださった曹操殿に己の武を捧げることを誓った。
兄や馬超殿との縁など、とうの昔に切れている。
今の主君たる曹操殿との結びつきとは、比ぶべくもなし。
『春秋左氏伝(左伝)』にも「大義、親を滅す」という言葉がある。
義のためには、かつての盟友や肉親とも敵対せねばならぬ。
情に流され節を曲げるようであれば、武人にあらず。
聞けば、敵将・関羽も『左伝』を愛読しているという。皮肉な縁だ。
軍神と呼ばれ、恐れられる猛将・関羽。相手に不足はない。
だが、その前にそれがしは諸将の疑いを晴らし、関羽を討ち取らんとの不退転の決意を示さねばならなかった。
そこで、出陣にあたって、大きなひつぎ(※)を用意させた。
関羽の亡骸を収めんがため、それが叶わずば、戦場に倒れたそれがしを入れるためだ。
「ひつぎ」とは「柩」あるいは「棺」とも書き、遺体を入れる木製の箱を指す。
入れ物そのものを「棺」といい、遺体の入った状態を「柩」という。
いずれも持ち運ぶには大きすぎるゆえ、下に車をつけて運びやすいようにしてある。
これを柩車(きゅうしゃ)もしくは霊柩車と呼ぶ。
死者に対する葬礼において、我らと貴公らの風習は少々異なっているようだ。
さらに説明しておこう。
我らの国には、魂魄(こんぱく)という言葉がある。
人間の気は、精神の主たる「魂」と肉体を司る「魄」から成り、人が死ねば魂は天に昇り、魄は地中へ帰るという。
ゆえに我らは、位牌を作って魂を祭り、肉体を地中へ葬る。
死者より脱した霊魂が、再び戻るときの依代(よりしろ)となるよう、
遺体は柩に入れたまま、丁重に埋葬(土葬)するのだ。
だが、西域より伝わりし浮屠(ふと・仏陀)の教えを奉ずる者たちは、遺体を燃やし灰にしてから墓へ埋める「火葬」を行うと聞く。
変わった風習もあるものだ。
はるか千年前に『儀礼(ぎらい)』という経典で定められて以来、我らは葬儀や服喪のときには、白色の衣服を着る。
これもまた、貴公らの習慣とは異なるのではないかな。
葬礼に関してかように長々と話すと、不吉だと嫌がられるかもしれぬな。
諸将の中にも、戦場に棺を持ち込むなど縁起でもないと顔をしかめる者がいた。
されど士たる者、戦場に出れば常に死を意識し、生を全うせねばならぬ。
これは弱音や泣き言にあらず。覚悟の問題であろう。
それがしとて、そうやすやすと戦場に屍をさらすつもりはない。
必ずやそれがしではなく、関羽を柩車へ入れて帰る。
邪魔だてする者あらば、たとえ貴公らといえども手加減はせぬ。
この龐令明の双戟、受けていただく!
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