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『真・三國無双BB』オフィシャルブログ

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ようやく会えたか。小生の名は左慈。字は元放(げんほう)。方術をいささか心得ている。
乱世を治めるにふさわしき大徳を求め、諸国を巡る者だ。

さてそなたらは、小生の衣服の胸の部分にある黒と白の丸い印(☯)が、いったい何を表しているか存じているかな。
今日はこの印、「太極図」にまつわる話をするとしよう。

太極とは宇宙万物の根源。ここから陰(いん)と陽(よう)、2 つの気が生ずる。
太古の昔より、陰・陽の 2 大元素はこの世界を把握するための手がかりとして用いられてきた。
日と月、昼と夜、男と女、天と地、白と黒。
対となるすべてのものを陰と陽の二者に分け、世のあらゆる対立や融合、変化の関係を説明する……。
陰なるものと陽なるもの―――時に反発し、時には補完し合う関係―――をひとつの円にまとめて描いた意匠が「太極図」なのだ。

陰と陽は、一方が優れ他方が劣るという性質のものではない。
陰から陽が生じ、また逆に陽が陰に変ずることもありうる。
こうした変化が「易(えき)」だ。
そなたらの中にも、陰を「--」で、陽を「―」で表した
爻(こう)という記号を見たことのある者がいるだろう。
爻を縦に 3 つ並べれば、2 × 2 × 2 で 8 種の組み合わせができる。
これを八卦(はっか、はっけ)と呼ぶ。
八卦を2つ組み合わせれば、8 × 8 で六十四卦。
こうした組み合わせのそれぞれに特徴や本質を見出し、世の現象を解き明かしたり、将来を占ったりするものを「易学」という。

また、同じくこの世界を説明する道理としては五行(ごぎょう)の説がある。
これは、すべての事象が「木・火・土・金・水」5 つの要素から成るとしたものだ。

木が燃えれば火が起こり、火が燃えた後に残った灰は土に返る。
土中を堀れば金属が得られ、金を冷やせば結露して水が現れる。水があれば、木が育つ……。
こうして木・火・土・金・水の五行は、それぞれ別の要素を生み循環する。
この考え方を「五行の相生(そうしょう)」と呼ぶ。
一方で、土は木の根によって分断され、木は金属の斧で切り倒される。
金は火によって溶け、火は水によって消され、そして水は土によって濁り、吸収される。
それぞれの強弱関係もまた、循環しているのだ。
この関係を「五行の相克(そうこく)」という。

世のあらゆる事象は五行に割り当てられる。
たとえば色であれば、青が木、赤が火、黄が土、白が金、黒が水。
方角ならば東が木、南が火、中央が土、西が金、北が水。
季節ならば春が木、夏が火、土用が土、秋が金、冬が水。
聖獣ならば青龍が木、朱雀が火、黄龍が土、白虎が金、玄武が水となる。
「青春」という言葉を、そなたらも知っておろう。
これは「木」にあたる「青」と「春」を組み合わせ、人生の初めの時期を例えたもの。
ちなみに青春のあとには、朱夏(しゅか)、白秋(はくしゅう)、玄冬(げんとう)と続く。
このように五行説とは割り当てた五行を相生・相克その他の理で把握し、説明するものだ。

陰陽説と五行説は、ともに古くからあるが、戦国時代の鄒衍(すうえん)という学者が両者を組み合わせ「陰陽五行説」にまとめたと聞く。

ところで、漢を建国した高祖・劉邦は「赤龍の子」と呼ばれていた。
そこで赤にあたる五行・火から、漢は「火の徳」の王朝とされた。
やがて世は乱れて漢の力が衰え、崩壊の危機がささやかれるようになったわけだが、王朝の交代、すなわち「革命」もまた五行によって説明できる。
漢王朝を倒し次代の覇者を目指す者は、五行相生によって火徳の次の要素、土に相当する「黄」をもって目印とした。黄色い布を頭に巻いた黄巾賊がそのよい例であろう。
また曹子桓は漢王朝を滅ぼし曹魏を建てた際、年号を「黄初」元年とし孫呉を建てた孫仲謀もまた「黄武」という年号を用いた。双方、土徳を意識しているのは明らかだ。
しかし大徳を秘めた劉玄徳が築きし蜀漢は、漢王朝を継いだもの。
あえて「黄」や「土」の字がつく年号は用いず、「章武」元年にしたとみえる。

このように陰陽五行の説は、あらゆる場面に応用される。
この国の歴史を注意して見れば、意外な発見をすることがあるかもしれん。


さて、ここで大事な話をせねばならん。
約1年にわたり、お読みいただいたこの「武将ブログ」だが、すべての将星にひと通り順番が巡ったようだ。
そこでこの機に、しばらく羽根を休めることにした。

されど当然のことだが、『真・三國無双BB』はこれからもまだまだ続く。
小生らに会いたければ、是非とも訪ねてきてくれたまえ。
では、またお目にかかろう。

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私は星彩。蜀漢の歴戦の将軍、燕人(えんひと)・張飛の娘。
父上は、万人に敵すると言われた猛将……。
少しがさつなところもあるけど、私にとっては尊敬できる父。
だから私も父上を見習って早くから矛を手に取り、武芸の訓練を重ねてきた。

父上と関羽殿、そして劉備様の 3 人は、固い絆で結ばれた義兄弟。
乱世を治めようと立ち上がり、ついに蜀漢の国を打ち立てた。
そしてこの益州は、父上たちが長いあいだ各地を放浪し、あまたの群雄に翻弄された末に得た安住の地。

けれど、新しい国を創るよりも、守り育てるほうが難しいもの。
民が新たな支配者に対して不安を抱くことなく、皆が安心して暮らせるよう、国を保っていかなければならない。
蜀漢の建国に携わった三兄弟を見習い……いえ、その背を越えて、関羽殿の子である関平が、そして、張飛の娘である私が、劉備様の子である劉禅(りゅうぜん)様と蜀を支えていかなければ。

劉禅様の幼名は、阿斗(あと)。
お母上が劉禅様をお産みになる前、北斗七星が口に入る夢をご覧になったことから名付けられたもの。
元服した後、名を禅と定め、字を公嗣(こうし)と名乗られた。
関平は、関羽殿の養子。
軍神と称されたお父上を尊敬し、つねにその背を追っていた。
私と関平は互いに切磋琢磨して、共に武技を高めてきた。

けれど、荊州北部をめぐる曹魏・孫呉連合軍との戦で、関羽殿と関平は志半ばで討たれてしまう……。
それだけじゃない。
関羽殿の仇を討つため出陣の準備をしていた父上までも、部下の兵に背かれて……。

でも私には悲しんでいる暇などなかった。
関平や父上の分まで、この蜀漢を守らなければならなくなったから。

ただ、関羽殿や父上を失うと、劉備様は変わってしまわれた……。
趙雲殿や諸葛亮殿の諫めも聞かず、孫呉を討つべく兵を挙げられた。
復讐の戦、そこには劉備様が大切にしていた仁義も大義もないのに……。
そして……、趙雲殿らの不安は的中した。
夷陵の戦いで、呉の軍師・陸遜に敗れた劉備様は、撤退した先の白帝城で、失意のうちに亡くなられた……。

関羽殿、父上、そして劉備様……。
建国の英雄たちが、相次いでこの世を去ってしまったために、新たに皇帝となった劉禅様の肩には、蜀漢の行く末が大きくのしかかった。

劉備様は亡くなられる間際、諸葛亮殿を枕元に呼び、劉禅様に国を治める才能があるならば補佐し、その器量がないようであれば、代わりに蜀を治めるようおっしゃったとか……。
劉備様は最後まで、劉禅様と蜀漢の国の行く末が気がかりだったのね。

確かに劉禅様は、それまで戦場に出た経験もなかったし、家臣の言うことは、良くも悪くも素直に聞き入れるとても純粋なお方。
凡庸なお人だと陰で言う人もいるけれど、私はそうは思わない。
父君である劉備様が立派すぎたせいで、劉禅様は自信を持てないだけ。

私だって、父上の残した実績や名声は重い。
けれど、そのことにめげて修行を投げ出したりはしない。
父上たちの思いを裏切ることになるから……。
劉禅様の秘められた才能も、鍛錬を積めば、いつか芽吹くと思う。
それにお父上が劉禅様に残されたのは、蜀漢という国だけじゃない。
趙雲殿、諸葛亮殿、魏延殿……すばらしい将星たちがいる。
劉禅様には、彼らの上に立つべき者としての徳を備えてもらわねば。

父上、劉備様、関羽殿、そして関平……。数々の武将が築き上げた蜀漢。
ここには、「人の和」という何にも代え難い財産がある。
私たちにはそれを受け継ぎ、守っていく義務があると思う。
そのために、これからも劉禅様をお守りしていかねば……。

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それがしは龐徳。字を令明(れいめい)と申す。
西涼は南安(なんあん)郡の出身で、もとは馬騰(ばとう)殿の将だ。
馬騰殿が殺されると、復讐のために挙兵した馬騰殿の嫡子・馬超殿に助勢した。
力及ばず敗れた後は、馬超殿と共に漢中で五斗米道なる教えを広めていた張魯(ちょうろ)殿を頼った。
その後、馬超殿とは袂を分かつこととなる。
馬超殿は益州に入った劉備と戦った末、その軍門に降り、それがしは漢中に進攻した曹操殿の配下となったのだ。

時は過ぎ……。
劉備の義弟で猛将と名高い関羽が、我が軍の押さえる樊城に攻め寄せてきた。
樊城を守る曹仁殿は、曹魏の重鎮。看過できぬ。
日頃の恩顧に応えるのは今と、それがしは勇んで救援を名乗り出た。
だが、新参者のそれがしは、救援部隊から外されようとしていた。
かつて行動を共にした馬超殿や、兄(従兄)・龐柔(ほうじゅう)が蜀に仕えていたため、諸将に疑いをもたれていたのだ。

心外千万とはまさにこのこと。
それがしは漢中の戦いで捕らえられた際、温情をもって救ってくださった曹操殿に己の武を捧げることを誓った。
兄や馬超殿との縁など、とうの昔に切れている。
今の主君たる曹操殿との結びつきとは、比ぶべくもなし。
『春秋左氏伝(左伝)』にも「大義、親を滅す」という言葉がある。
義のためには、かつての盟友や肉親とも敵対せねばならぬ。
情に流され節を曲げるようであれば、武人にあらず。
聞けば、敵将・関羽も『左伝』を愛読しているという。皮肉な縁だ。
軍神と呼ばれ、恐れられる猛将・関羽。相手に不足はない。

だが、その前にそれがしは諸将の疑いを晴らし、関羽を討ち取らんとの不退転の決意を示さねばならなかった。
そこで、出陣にあたって、大きなひつぎ(※)を用意させた。
関羽の亡骸を収めんがため、それが叶わずば、戦場に倒れたそれがしを入れるためだ。

「ひつぎ」とは「柩」あるいは「棺」とも書き、遺体を入れる木製の箱を指す。
入れ物そのものを「棺」といい、遺体の入った状態を「柩」という。
いずれも持ち運ぶには大きすぎるゆえ、下に車をつけて運びやすいようにしてある。
これを柩車(きゅうしゃ)もしくは霊柩車と呼ぶ。

死者に対する葬礼において、我らと貴公らの風習は少々異なっているようだ。
さらに説明しておこう。

我らの国には、魂魄(こんぱく)という言葉がある。
人間の気は、精神の主たる「魂」と肉体を司る「魄」から成り、人が死ねば魂は天に昇り、魄は地中へ帰るという。
ゆえに我らは、位牌を作って魂を祭り、肉体を地中へ葬る。
死者より脱した霊魂が、再び戻るときの依代(よりしろ)となるよう、
遺体は柩に入れたまま、丁重に埋葬(土葬)するのだ。
だが、西域より伝わりし浮屠(ふと・仏陀)の教えを奉ずる者たちは、遺体を燃やし灰にしてから墓へ埋める「火葬」を行うと聞く。
変わった風習もあるものだ。

はるか千年前に『儀礼(ぎらい)』という経典で定められて以来、我らは葬儀や服喪のときには、白色の衣服を着る。
これもまた、貴公らの習慣とは異なるのではないかな。

葬礼に関してかように長々と話すと、不吉だと嫌がられるかもしれぬな。
諸将の中にも、戦場に棺を持ち込むなど縁起でもないと顔をしかめる者がいた。
されど士たる者、戦場に出れば常に死を意識し、生を全うせねばならぬ。
これは弱音や泣き言にあらず。覚悟の問題であろう。
それがしとて、そうやすやすと戦場に屍をさらすつもりはない。
必ずやそれがしではなく、関羽を柩車へ入れて帰る。
邪魔だてする者あらば、たとえ貴公らといえども手加減はせぬ。
この龐令明の双戟、受けていただく!

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……俺は周泰…… ……字は幼平(ようへい)だ……。
……かつては水賊だった……。
……孫策様に仕え…… ……のち孫権様に仕えた……。

……今回は俺の主…… ……孫家の一族について話そう……。

……孫権様は大殿・孫堅様の次男…… ……孫策様の弟君だ……。
……眼は青く…… ……髭は紫色…………。
……「碧眼紫髭(へきがんしぜん)」と…… ……称される風貌……。
……賢者任用の才ありと…… ……兄君に評された御方だ……。

……現に…… ……孫権様の周りには…… ……私心を捨て尽力を惜しまぬ…… ……人士がいる……。
……周瑜殿・黄蓋殿・呂蒙殿…… ……知っているだろう……。
……だが…… ……彼らだけではない……。
……孫家の一族には…… ……呉を守ると契った方々がいる……。

……たとえば…… ……孫翊(そんよく)殿……。
……孫翊殿もまた大殿の子…… ……孫権様の弟君だ……。
……孫翊殿は孫策様に似て…… ……勇猛果敢……。
……軍事の全権を孫翊殿に…… ……との声さえあった……。
……だが孫策様は今わの際…… ……弟たちに…… ……孫権様を助けよと…… ……命じられた……。
……孫翊殿は孫家繁栄のため…… ……奮闘された……。
……ただ酒癖が悪く…… ……若くして身を滅ぼした……。
……宴席で暴言を振るい…… ……要らざる恨みを買っていたのだ……。
……奥方が止めるのも聞かず…… ……宴に出席して殺された……。
……その後奥方の徐氏は…… ……巧みに暗殺者を誘い込み…… ……孫翊殿の仇を討った……。

……酒の失敗は…… ……孫権様にもしばしばあった……。
……宴席で外聞もなく…… ……部下と口論したこともある……。
……乱世を鎮めんと…… ……日夜戦っておられる殿だ……。
……時には酔いたくもなる……。
……酒中別人という言葉も…… ……あるくらいだ……。
……そういえば孫権様は…… ……宴席で俺の服を脱がせたこともあった…… ……皆の前で傷を数えあげ…… ……俺の働きをたたえてくださったのだ……。
……君恩に報いるは…… ……当然のこと……。

……話が逸れた……。
……一族の重鎮には…… ……他に孫静(そんせい)殿もいる……。
……孫静殿は…… ……大殿・孫堅様の弟君……。
……大殿が挙兵されて以来の…… ……知勇兼備の将だ……。
……孫策様が会稽(かいけい)太守の…… ……王朗を攻めると…… ……油を張った甕(かめ)に火を放ち…… ……敵襲に見せかけ…… ……隙をつき…… ……会稽の城を落とした……。
……孫策様は戦の後…… ……孫静殿を昇進させようとしたが……。
……孫静殿は故郷に戻り…… ……祖先の墓を守った……。

……孫静殿の子らもまた…… ……孫家に忠義を誓った……。
……孫静殿の次男…… ……孫瑜(そんゆ)殿は人望高き方……。
……丹陽(たんよう)の…… ……太守を任せられた……。
……自分を慕う者のため…… ……高名な学者を招いて教えを請うた……。
……その才覚は…… ……周瑜殿も評価しており…… ……天下二分の計を進言した際…… ………孫瑜殿を重要な役目に推したほどだ……。

……孫韶(そんしょう)殿も…… ……孫皎(そんこう)殿も…… ……孫家の藩屏(はんぺい)たる…… ……親族の将たちは…… ……我ら家臣と共に…… ……孫呉を支える存在だ……。
……なかには主君に対し…… ……堂々と諫言する方もいる……。
……孫家と孫呉の繁栄を…… ……願ってのこと……。
……親族ならではの…… ……役割だ……。

……時に主君は…… ……賭けに出ねばならぬ……。
……守備に徹していては…… ……先はない……。
……だが万一失敗し…… ……主が窮地に陥ることがあれば…… ……その時こそ…… ……俺の出番だ……。

……何者であろうと…… ……孫権様には…… ……指一本触れさせぬ……。


※藩屏(はんぺい)=垣根のこと。転じて王室を守る者たちを指す。

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私は姜維。字を伯約(はくやく)と申す。
かつては魏の天水太守・馬遵(ばじゅん)殿に仕えていた。
蜀漢の丞相・諸葛亮殿が北伐の途中に天水を攻めた際、私は策略に掛かり、やむなく蜀へ降った。
だが、そのおかげで丞相の類まれなる才能と人物に触れることができた。
今はこの天運に感謝している。

丞相は、実に素晴らしいお方だった。
兵を指揮すること、手足のごとくして一分の隙もなく、軍中の細かい雑務までも率先して決裁する。
これまで、あれほどの器量を持った方を見たことがない。
丞相の人柄に感じ入ったのは、私が蜀軍へ転じてまもなくのことだ。
天水を攻略した後、蜀軍は魏の反攻に備え、西方の街亭(がいてい)の守りを固めた。
丞相は最も将来を期待していた馬謖(ばしょく)殿に、その要衝の守備を命じた。
この時、馬謖殿には丞相に重用されていたおごりがあったのかもしれない……。
副将が諫めるのも聞かず、死地である山上に陣を構えてしまったのだ。

敵将・司馬懿は神算鬼謀の軍師だ。すぐさま馬謖軍の弱点を見抜き、水の手を断った。
結局、馬謖殿は街亭で大敗を喫し、蜀の本軍も漢中への撤退を余儀なくされた。
戦後、丞相は敗戦の責任者として最愛の弟子・馬謖殿を涙ながらに処刑した。
そればかりではない。自らも官位の三等級降格を願い出たのだ。
情に流されることなく法を明らかにし、自らをも律する姿に、諸将は心を打たれ、敗戦の雪辱を誓った。

だが、蜀が受けた痛手はあまりにも大きかった……。
その後、丞相は幾度も魏を攻めるために出陣したが、司馬懿率いる魏軍の圧倒的な兵力と、対決を避け守備に徹する戦術に阻まれ続けた。
ついに、丞相は魏を討つ前に、五丈原の地で病没した。
馬謖殿亡き後、丞相は私に己の知識のすべてを託そうとしてくださった。
特に、丞相が発明した画期的な武器・連弩の使用法と自ら記した『兵法二十四篇』は、この私だけに授けられたもの。
私は志半ばで倒れた丞相に成り代わり、大敵・魏を滅ぼさねばならない!
丞相亡き後も、私は成都にはほとんど戻らず漢中の守りを固め、じっくり兵を養っていた。

それから何年か過ぎ……私と同様、魏から蜀漢に降る将軍が現れた。
名は夏侯覇(かこうは)。魏の重鎮だった猛将・夏侯淵の子だ。
この頃、魏の国内では司馬懿の一族が専横を極め、皇族である曹氏や、縁戚の名門・夏侯氏の者ですら逆らえないという有様だった。
そこで身の危険を感じた夏侯覇は、蜀へ亡命してきたというわけだ。
魏の内情に詳しい将の投降は、私たちにとって何よりの朗報。
私はさっそく夏侯覇と共に帝に拝謁し、北伐の許可を得た。

これは丞相亡き後、私が指揮した最初の大きな戦いとなった。
立ちはだかる敵将は、郭淮(かくわい)。
丞相が健在の頃から、長年蜀漢の進軍を阻んできた侮れぬ将だ。
私は西方に住む羌(きょう)族の力を借り、魏軍に戦いを挑んだ。
だが、さすがに郭淮は百戦錬磨の将。
羌族の援軍到着が遅れ、我が軍と羌族との連携が乱れたところを衝いてきたのだ。
私たちは糧道と水の供給路を断たれ、進退窮まった。
こうなれば残念ながら、撤退するほかない。
決死の覚悟で前後の囲みを突破し、陽平関(ようへいかん)まで撤退すると、今度は司馬懿の長子・司馬師(しばし)の軍と鉢合わせた。
ここで丞相の発明・連弩が役に立った。
司馬師を捕らえることはできなかったものの、連弩の攻撃で魏軍を撃退したのだ。
だが際立った成果のないまま、初の大戦は終わってしまった……。

しかし私は丞相の遺志を継ぎ、この国を守ると決めたのだ。
これしきの失敗で、くじけるわけにはいかない!

態勢を整えるため成都に戻った私は、東の呉から書状を受け取った。
孫呉では、丞相の甥にあたる諸葛恪(しょかつかく)が、名将・陸遜の死後、軍権を一手に握っていた。
その諸葛恪が、連携して魏を討とうと提案してきたのだ。
これは、またとない好機!
東西から一気に攻め上れば、魏とて容易には防げまい。
私と夏侯覇は再び北伐を奏上し、出陣の許可を得た。
今度こそ郭淮を倒し司馬師を滅ぼして、中原に蜀漢の旗を立ててみせる!
丞相! 見ていてくだされ!
丞相の遺志、必ずや成し遂げてみせます!

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