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			<title>武将ブログ</title>
			<description>集え！ オンラインの戦場へ――
一騎当千 MMO アクション『真・三國無双BB』の武将が語る三國志の世界。
『真・三國無双BB』オフィシャルブログ。

『真・三國無双BB』公式サイト
http://www.musou-bb.jp/

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			<title>武将ブログ</title>
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			<description>集え！ オンラインの戦場へ――
一騎当千 MMO アクション『真・三國無双BB』の武将が語る三國志の世界。
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		<item>
			<title>最終回　左慈：陰陽と五行</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-94-dc/musoubb_mmo/folder/442794/05/24904005/img_0?1189137657&quot; width=&quot;196&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;font&gt;ようやく会えたか。小生の名は左慈。字は元放（げんほう）。方術をいささか心得ている。&lt;br /&gt;
乱世を治めるにふさわしき大徳を求め、諸国を巡る者だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さてそなたらは、小生の衣服の胸の部分にある黒と白の丸い印（&amp;#9775;）が、いったい何を表しているか存じているかな。&lt;br /&gt;
今日はこの印、「太極図」にまつわる話をするとしよう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
太極とは宇宙万物の根源。ここから陰（いん）と陽（よう）、2 つの気が生ずる。&lt;br /&gt;
太古の昔より、陰・陽の 2 大元素はこの世界を把握するための手がかりとして用いられてきた。&lt;br /&gt;
日と月、昼と夜、男と女、天と地、白と黒。&lt;br /&gt;
対となるすべてのものを陰と陽の二者に分け、世のあらゆる対立や融合、変化の関係を説明する……。&lt;br /&gt;
陰なるものと陽なるもの―――時に反発し、時には補完し合う関係―――をひとつの円にまとめて描いた意匠が「太極図」なのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陰と陽は、一方が優れ他方が劣るという性質のものではない。&lt;br /&gt;
陰から陽が生じ、また逆に陽が陰に変ずることもありうる。&lt;br /&gt;
こうした変化が「易（えき）」だ。&lt;br /&gt;
そなたらの中にも、陰を「--」で、陽を「―」で表した&lt;br /&gt;
爻（こう）という記号を見たことのある者がいるだろう。&lt;br /&gt;
爻を縦に 3 つ並べれば、2 × 2 × 2 で 8 種の組み合わせができる。&lt;br /&gt;
これを八卦（はっか、はっけ）と呼ぶ。&lt;br /&gt;
八卦を２つ組み合わせれば、8 × 8 で六十四卦。&lt;br /&gt;
こうした組み合わせのそれぞれに特徴や本質を見出し、世の現象を解き明かしたり、将来を占ったりするものを「易学」という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、同じくこの世界を説明する道理としては五行（ごぎょう）の説がある。&lt;br /&gt;
これは、すべての事象が「木・火・土・金・水」5 つの要素から成るとしたものだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
木が燃えれば火が起こり、火が燃えた後に残った灰は土に返る。&lt;br /&gt;
土中を堀れば金属が得られ、金を冷やせば結露して水が現れる。水があれば、木が育つ……。&lt;br /&gt;
こうして木・火・土・金・水の五行は、それぞれ別の要素を生み循環する。&lt;br /&gt;
この考え方を「五行の相生（そうしょう）」と呼ぶ。&lt;br /&gt;
一方で、土は木の根によって分断され、木は金属の斧で切り倒される。&lt;br /&gt;
金は火によって溶け、火は水によって消され、そして水は土によって濁り、吸収される。&lt;br /&gt;
それぞれの強弱関係もまた、循環しているのだ。&lt;br /&gt;
この関係を「五行の相克（そうこく）」という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
世のあらゆる事象は五行に割り当てられる。&lt;br /&gt;
たとえば色であれば、青が木、赤が火、黄が土、白が金、黒が水。&lt;br /&gt;
方角ならば東が木、南が火、中央が土、西が金、北が水。&lt;br /&gt;
季節ならば春が木、夏が火、土用が土、秋が金、冬が水。&lt;br /&gt;
聖獣ならば青龍が木、朱雀が火、黄龍が土、白虎が金、玄武が水となる。&lt;br /&gt;
「青春」という言葉を、そなたらも知っておろう。&lt;br /&gt;
これは「木」にあたる「青」と「春」を組み合わせ、人生の初めの時期を例えたもの。&lt;br /&gt;
ちなみに青春のあとには、朱夏（しゅか）、白秋（はくしゅう）、玄冬（げんとう）と続く。&lt;br /&gt;
このように五行説とは割り当てた五行を相生・相克その他の理で把握し、説明するものだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
陰陽説と五行説は、ともに古くからあるが、戦国時代の鄒衍（すうえん）という学者が両者を組み合わせ「陰陽五行説」にまとめたと聞く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところで、漢を建国した高祖・劉邦は「赤龍の子」と呼ばれていた。&lt;br /&gt;
そこで赤にあたる五行・火から、漢は「火の徳」の王朝とされた。&lt;br /&gt;
やがて世は乱れて漢の力が衰え、崩壊の危機がささやかれるようになったわけだが、王朝の交代、すなわち「革命」もまた五行によって説明できる。&lt;br /&gt;
漢王朝を倒し次代の覇者を目指す者は、五行相生によって火徳の次の要素、土に相当する「黄」をもって目印とした。黄色い布を頭に巻いた黄巾賊がそのよい例であろう。&lt;br /&gt;
また曹子桓は漢王朝を滅ぼし曹魏を建てた際、年号を「黄初」元年とし孫呉を建てた孫仲謀もまた「黄武」という年号を用いた。双方、土徳を意識しているのは明らかだ。&lt;br /&gt;
しかし大徳を秘めた劉玄徳が築きし蜀漢は、漢王朝を継いだもの。&lt;br /&gt;
あえて「黄」や「土」の字がつく年号は用いず、「章武」元年にしたとみえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように陰陽五行の説は、あらゆる場面に応用される。&lt;br /&gt;
この国の歴史を注意して見れば、意外な発見をすることがあるかもしれん。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、ここで大事な話をせねばならん。&lt;br /&gt;
約１年にわたり、お読みいただいたこの「武将ブログ」だが、すべての将星にひと通り順番が巡ったようだ。&lt;br /&gt;
そこでこの機に、しばらく羽根を休めることにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
されど当然のことだが、『真・三國無双BB』はこれからもまだまだ続く。&lt;br /&gt;
小生らに会いたければ、是非とも訪ねてきてくれたまえ。&lt;br /&gt;
では、またお目にかかろう。&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/musoubb_mmo/24904005.html</link>
			<pubDate>Fri, 07 Sep 2007 13:00:57 +0900</pubDate>
			<category>ネットサービス</category>
		</item>
		<item>
			<title>第 47 回　星彩：蜀漢の未来</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-94-dc/musoubb_mmo/folder/442794/33/24624233/img_0?1188540021&quot; width=&quot;196&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;私は星彩。蜀漢の歴戦の将軍、燕人（えんひと）・張飛の娘。&lt;br /&gt;
父上は、万人に敵すると言われた猛将……。&lt;br /&gt;
少しがさつなところもあるけど、私にとっては尊敬できる父。&lt;br /&gt;
だから私も父上を見習って早くから矛を手に取り、武芸の訓練を重ねてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父上と関羽殿、そして劉備様の 3 人は、固い絆で結ばれた義兄弟。&lt;br /&gt;
乱世を治めようと立ち上がり、ついに蜀漢の国を打ち立てた。&lt;br /&gt;
そしてこの益州は、父上たちが長いあいだ各地を放浪し、あまたの群雄に翻弄された末に得た安住の地。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
けれど、新しい国を創るよりも、守り育てるほうが難しいもの。&lt;br /&gt;
民が新たな支配者に対して不安を抱くことなく、皆が安心して暮らせるよう、国を保っていかなければならない。&lt;br /&gt;
蜀漢の建国に携わった三兄弟を見習い……いえ、その背を越えて、関羽殿の子である関平が、そして、張飛の娘である私が、劉備様の子である劉禅（りゅうぜん）様と蜀を支えていかなければ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
劉禅様の幼名は、阿斗（あと）。&lt;br /&gt;
お母上が劉禅様をお産みになる前、北斗七星が口に入る夢をご覧になったことから名付けられたもの。&lt;br /&gt;
元服した後、名を禅と定め、字を公嗣（こうし）と名乗られた。&lt;br /&gt;
関平は、関羽殿の養子。&lt;br /&gt;
軍神と称されたお父上を尊敬し、つねにその背を追っていた。&lt;br /&gt;
私と関平は互いに切磋琢磨して、共に武技を高めてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
けれど、荊州北部をめぐる曹魏・孫呉連合軍との戦で、関羽殿と関平は志半ばで討たれてしまう……。&lt;br /&gt;
それだけじゃない。&lt;br /&gt;
関羽殿の仇を討つため出陣の準備をしていた父上までも、部下の兵に背かれて……。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でも私には悲しんでいる暇などなかった。&lt;br /&gt;
関平や父上の分まで、この蜀漢を守らなければならなくなったから。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、関羽殿や父上を失うと、劉備様は変わってしまわれた……。&lt;br /&gt;
趙雲殿や諸葛亮殿の諫めも聞かず、孫呉を討つべく兵を挙げられた。&lt;br /&gt;
復讐の戦、そこには劉備様が大切にしていた仁義も大義もないのに……。&lt;br /&gt;
そして……、趙雲殿らの不安は的中した。&lt;br /&gt;
夷陵の戦いで、呉の軍師・陸遜に敗れた劉備様は、撤退した先の白帝城で、失意のうちに亡くなられた……。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
関羽殿、父上、そして劉備様……。&lt;br /&gt;
建国の英雄たちが、相次いでこの世を去ってしまったために、新たに皇帝となった劉禅様の肩には、蜀漢の行く末が大きくのしかかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
劉備様は亡くなられる間際、諸葛亮殿を枕元に呼び、劉禅様に国を治める才能があるならば補佐し、その器量がないようであれば、代わりに蜀を治めるようおっしゃったとか……。&lt;br /&gt;
劉備様は最後まで、劉禅様と蜀漢の国の行く末が気がかりだったのね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
確かに劉禅様は、それまで戦場に出た経験もなかったし、家臣の言うことは、良くも悪くも素直に聞き入れるとても純粋なお方。&lt;br /&gt;
凡庸なお人だと陰で言う人もいるけれど、私はそうは思わない。&lt;br /&gt;
父君である劉備様が立派すぎたせいで、劉禅様は自信を持てないだけ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私だって、父上の残した実績や名声は重い。&lt;br /&gt;
けれど、そのことにめげて修行を投げ出したりはしない。&lt;br /&gt;
父上たちの思いを裏切ることになるから……。&lt;br /&gt;
劉禅様の秘められた才能も、鍛錬を積めば、いつか芽吹くと思う。&lt;br /&gt;
それにお父上が劉禅様に残されたのは、蜀漢という国だけじゃない。&lt;br /&gt;
趙雲殿、諸葛亮殿、魏延殿……すばらしい将星たちがいる。&lt;br /&gt;
劉禅様には、彼らの上に立つべき者としての徳を備えてもらわねば。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父上、劉備様、関羽殿、そして関平……。数々の武将が築き上げた蜀漢。&lt;br /&gt;
ここには、「人の和」という何にも代え難い財産がある。&lt;br /&gt;
私たちにはそれを受け継ぎ、守っていく義務があると思う。&lt;br /&gt;
そのために、これからも劉禅様をお守りしていかねば……。&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/musoubb_mmo/24624233.html</link>
			<pubDate>Fri, 31 Aug 2007 15:00:21 +0900</pubDate>
			<category>ネットサービス</category>
		</item>
		<item>
			<title>第 46 回　&amp;#40848;徳：決死の棺（ひつぎ）</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-94-dc/musoubb_mmo/folder/442794/18/24337918/img_0?1187950224&quot; width=&quot;196&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;それがしは&amp;#40848;徳。字を令明（れいめい）と申す。&lt;br /&gt;
西涼は南安（なんあん）郡の出身で、もとは馬騰（ばとう）殿の将だ。&lt;br /&gt;
馬騰殿が殺されると、復讐のために挙兵した馬騰殿の嫡子・馬超殿に助勢した。&lt;br /&gt;
力及ばず敗れた後は、馬超殿と共に漢中で五斗米道なる教えを広めていた張魯（ちょうろ）殿を頼った。&lt;br /&gt;
その後、馬超殿とは袂を分かつこととなる。&lt;br /&gt;
馬超殿は益州に入った劉備と戦った末、その軍門に降り、それがしは漢中に進攻した曹操殿の配下となったのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時は過ぎ……。&lt;br /&gt;
劉備の義弟で猛将と名高い関羽が、我が軍の押さえる樊城に攻め寄せてきた。&lt;br /&gt;
樊城を守る曹仁殿は、曹魏の重鎮。看過できぬ。&lt;br /&gt;
日頃の恩顧に応えるのは今と、それがしは勇んで救援を名乗り出た。&lt;br /&gt;
だが、新参者のそれがしは、救援部隊から外されようとしていた。&lt;br /&gt;
かつて行動を共にした馬超殿や、兄（従兄）・&amp;#40848;柔（ほうじゅう）が蜀に仕えていたため、諸将に疑いをもたれていたのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
心外千万とはまさにこのこと。&lt;br /&gt;
それがしは漢中の戦いで捕らえられた際、温情をもって救ってくださった曹操殿に己の武を捧げることを誓った。&lt;br /&gt;
兄や馬超殿との縁など、とうの昔に切れている。&lt;br /&gt;
今の主君たる曹操殿との結びつきとは、比ぶべくもなし。		&lt;br /&gt;
『春秋左氏伝（左伝）』にも「大義、親を滅す」という言葉がある。&lt;br /&gt;
義のためには、かつての盟友や肉親とも敵対せねばならぬ。&lt;br /&gt;
情に流され節を曲げるようであれば、武人にあらず。&lt;br /&gt;
聞けば、敵将・関羽も『左伝』を愛読しているという。皮肉な縁だ。&lt;br /&gt;
軍神と呼ばれ、恐れられる猛将・関羽。相手に不足はない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが、その前にそれがしは諸将の疑いを晴らし、関羽を討ち取らんとの不退転の決意を示さねばならなかった。&lt;br /&gt;
そこで、出陣にあたって、大きなひつぎ（※）を用意させた。&lt;br /&gt;
関羽の亡骸を収めんがため、それが叶わずば、戦場に倒れたそれがしを入れるためだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ひつぎ」とは「柩」あるいは「棺」とも書き、遺体を入れる木製の箱を指す。&lt;br /&gt;
入れ物そのものを「棺」といい、遺体の入った状態を「柩」という。&lt;br /&gt;
いずれも持ち運ぶには大きすぎるゆえ、下に車をつけて運びやすいようにしてある。&lt;br /&gt;
これを柩車（きゅうしゃ）もしくは霊柩車と呼ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
死者に対する葬礼において、我らと貴公らの風習は少々異なっているようだ。&lt;br /&gt;
さらに説明しておこう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
我らの国には、魂魄（こんぱく）という言葉がある。&lt;br /&gt;
人間の気は、精神の主たる「魂」と肉体を司る「魄」から成り、人が死ねば魂は天に昇り、魄は地中へ帰るという。&lt;br /&gt;
ゆえに我らは、位牌を作って魂を祭り、肉体を地中へ葬る。&lt;br /&gt;
死者より脱した霊魂が、再び戻るときの依代（よりしろ）となるよう、&lt;br /&gt;
遺体は柩に入れたまま、丁重に埋葬（土葬）するのだ。&lt;br /&gt;
だが、西域より伝わりし浮屠（ふと・仏陀）の教えを奉ずる者たちは、遺体を燃やし灰にしてから墓へ埋める「火葬」を行うと聞く。&lt;br /&gt;
変わった風習もあるものだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
はるか千年前に『儀礼（ぎらい）』という経典で定められて以来、我らは葬儀や服喪のときには、白色の衣服を着る。&lt;br /&gt;
これもまた、貴公らの習慣とは異なるのではないかな。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
葬礼に関してかように長々と話すと、不吉だと嫌がられるかもしれぬな。&lt;br /&gt;
諸将の中にも、戦場に棺を持ち込むなど縁起でもないと顔をしかめる者がいた。&lt;br /&gt;
されど士たる者、戦場に出れば常に死を意識し、生を全うせねばならぬ。&lt;br /&gt;
これは弱音や泣き言にあらず。覚悟の問題であろう。&lt;br /&gt;
それがしとて、そうやすやすと戦場に屍をさらすつもりはない。&lt;br /&gt;
必ずやそれがしではなく、関羽を柩車へ入れて帰る。&lt;br /&gt;
邪魔だてする者あらば、たとえ貴公らといえども手加減はせぬ。&lt;br /&gt;
この&amp;#40848;令明の双戟、受けていただく！&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/musoubb_mmo/24337918.html</link>
			<pubDate>Fri, 24 Aug 2007 19:10:24 +0900</pubDate>
			<category>ネットサービス</category>
		</item>
		<item>
			<title>第 45 回　周泰：孫家の藩屏（はんぺい）</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-94-dc/musoubb_mmo/folder/442794/86/23782186/img_0?1186740813&quot; width=&quot;196&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;……俺は周泰……　……字は幼平（ようへい）だ……。&lt;br /&gt;
……かつては水賊だった……。&lt;br /&gt;
……孫策様に仕え……　……のち孫権様に仕えた……。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
……今回は俺の主……　……孫家の一族について話そう……。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
……孫権様は大殿・孫堅様の次男……　……孫策様の弟君だ……。&lt;br /&gt;
……眼は青く……　……髭は紫色…………。&lt;br /&gt;
……「碧眼紫髭（へきがんしぜん）」と……　……称される風貌……。&lt;br /&gt;
……賢者任用の才ありと……　……兄君に評された御方だ……。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
……現に……　……孫権様の周りには……　……私心を捨て尽力を惜しまぬ……　……人士がいる……。&lt;br /&gt;
……周瑜殿・黄蓋殿・呂蒙殿……　……知っているだろう……。&lt;br /&gt;
……だが……　……彼らだけではない……。&lt;br /&gt;
……孫家の一族には……　……呉を守ると契った方々がいる……。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
……たとえば……　……孫翊（そんよく）殿……。&lt;br /&gt;
……孫翊殿もまた大殿の子……　……孫権様の弟君だ……。&lt;br /&gt;
……孫翊殿は孫策様に似て……　……勇猛果敢……。&lt;br /&gt;
……軍事の全権を孫翊殿に……　……との声さえあった……。&lt;br /&gt;
……だが孫策様は今わの際……　……弟たちに……　……孫権様を助けよと……　……命じられた……。&lt;br /&gt;
……孫翊殿は孫家繁栄のため……　……奮闘された……。&lt;br /&gt;
……ただ酒癖が悪く……　……若くして身を滅ぼした……。&lt;br /&gt;
……宴席で暴言を振るい……　……要らざる恨みを買っていたのだ……。&lt;br /&gt;
……奥方が止めるのも聞かず……　……宴に出席して殺された……。&lt;br /&gt;
……その後奥方の徐氏は……　……巧みに暗殺者を誘い込み……　……孫翊殿の仇を討った……。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
……酒の失敗は……　……孫権様にもしばしばあった……。&lt;br /&gt;
……宴席で外聞もなく……　……部下と口論したこともある……。&lt;br /&gt;
……乱世を鎮めんと……　……日夜戦っておられる殿だ……。&lt;br /&gt;
……時には酔いたくもなる……。&lt;br /&gt;
……酒中別人という言葉も……　……あるくらいだ……。&lt;br /&gt;
……そういえば孫権様は……　……宴席で俺の服を脱がせたこともあった……　……皆の前で傷を数えあげ……　……俺の働きをたたえてくださったのだ……。&lt;br /&gt;
……君恩に報いるは……　……当然のこと……。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
……話が逸れた……。&lt;br /&gt;
……一族の重鎮には……　……他に孫静（そんせい）殿もいる……。&lt;br /&gt;
……孫静殿は……　……大殿・孫堅様の弟君……。&lt;br /&gt;
……大殿が挙兵されて以来の……　……知勇兼備の将だ……。&lt;br /&gt;
……孫策様が会稽（かいけい）太守の……　……王朗を攻めると……　……油を張った甕（かめ）に火を放ち……　……敵襲に見せかけ……　……隙をつき……　……会稽の城を落とした……。&lt;br /&gt;
……孫策様は戦の後……　……孫静殿を昇進させようとしたが……。&lt;br /&gt;
……孫静殿は故郷に戻り……　……祖先の墓を守った……。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
……孫静殿の子らもまた……　……孫家に忠義を誓った……。&lt;br /&gt;
……孫静殿の次男……　……孫瑜（そんゆ）殿は人望高き方……。&lt;br /&gt;
……丹陽（たんよう）の……　……太守を任せられた……。&lt;br /&gt;
……自分を慕う者のため……　……高名な学者を招いて教えを請うた……。&lt;br /&gt;
……その才覚は……　……周瑜殿も評価しており……　……天下二分の計を進言した際……　………孫瑜殿を重要な役目に推したほどだ……。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
……孫韶（そんしょう）殿も……　……孫皎（そんこう）殿も……　……孫家の藩屏（はんぺい）たる……　……親族の将たちは……　……我ら家臣と共に……　……孫呉を支える存在だ……。&lt;br /&gt;
……なかには主君に対し……　……堂々と諫言する方もいる……。&lt;br /&gt;
……孫家と孫呉の繁栄を……　……願ってのこと……。&lt;br /&gt;
……親族ならではの……　……役割だ……。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
……時に主君は……　……賭けに出ねばならぬ……。&lt;br /&gt;
……守備に徹していては……　……先はない……。&lt;br /&gt;
……だが万一失敗し……　……主が窮地に陥ることがあれば……　……その時こそ……　……俺の出番だ……。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
……何者であろうと……　……孫権様には……　……指一本触れさせぬ……。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※藩屏（はんぺい）＝垣根のこと。転じて王室を守る者たちを指す。&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/musoubb_mmo/23782186.html</link>
			<pubDate>Fri, 10 Aug 2007 19:13:33 +0900</pubDate>
			<category>ネットサービス</category>
		</item>
		<item>
			<title>第 44 回　姜維：丞相の遺志</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-94-dc/musoubb_mmo/folder/442794/80/23477880/img_0?1186135307&quot; width=&quot;196&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;私は姜維。字を伯約（はくやく）と申す。&lt;br /&gt;
かつては魏の天水太守・馬遵（ばじゅん）殿に仕えていた。&lt;br /&gt;
蜀漢の丞相・諸葛亮殿が北伐の途中に天水を攻めた際、私は策略に掛かり、やむなく蜀へ降った。&lt;br /&gt;
だが、そのおかげで丞相の類まれなる才能と人物に触れることができた。&lt;br /&gt;
今はこの天運に感謝している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
丞相は、実に素晴らしいお方だった。&lt;br /&gt;
兵を指揮すること、手足のごとくして一分の隙もなく、軍中の細かい雑務までも率先して決裁する。&lt;br /&gt;
これまで、あれほどの器量を持った方を見たことがない。&lt;br /&gt;
丞相の人柄に感じ入ったのは、私が蜀軍へ転じてまもなくのことだ。&lt;br /&gt;
天水を攻略した後、蜀軍は魏の反攻に備え、西方の街亭（がいてい）の守りを固めた。&lt;br /&gt;
丞相は最も将来を期待していた馬謖（ばしょく）殿に、その要衝の守備を命じた。&lt;br /&gt;
この時、馬謖殿には丞相に重用されていたおごりがあったのかもしれない……。&lt;br /&gt;
副将が諫めるのも聞かず、死地である山上に陣を構えてしまったのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
敵将・司馬懿は神算鬼謀の軍師だ。すぐさま馬謖軍の弱点を見抜き、水の手を断った。&lt;br /&gt;
結局、馬謖殿は街亭で大敗を喫し、蜀の本軍も漢中への撤退を余儀なくされた。&lt;br /&gt;
戦後、丞相は敗戦の責任者として最愛の弟子・馬謖殿を涙ながらに処刑した。&lt;br /&gt;
そればかりではない。自らも官位の三等級降格を願い出たのだ。&lt;br /&gt;
情に流されることなく法を明らかにし、自らをも律する姿に、諸将は心を打たれ、敗戦の雪辱を誓った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが、蜀が受けた痛手はあまりにも大きかった……。&lt;br /&gt;
その後、丞相は幾度も魏を攻めるために出陣したが、司馬懿率いる魏軍の圧倒的な兵力と、対決を避け守備に徹する戦術に阻まれ続けた。&lt;br /&gt;
ついに、丞相は魏を討つ前に、五丈原の地で病没した。&lt;br /&gt;
馬謖殿亡き後、丞相は私に己の知識のすべてを託そうとしてくださった。&lt;br /&gt;
特に、丞相が発明した画期的な武器・連弩の使用法と自ら記した『兵法二十四篇』は、この私だけに授けられたもの。&lt;br /&gt;
私は志半ばで倒れた丞相に成り代わり、大敵・魏を滅ぼさねばならない！&lt;br /&gt;
丞相亡き後も、私は成都にはほとんど戻らず漢中の守りを固め、じっくり兵を養っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それから何年か過ぎ……私と同様、魏から蜀漢に降る将軍が現れた。&lt;br /&gt;
名は夏侯覇（かこうは）。魏の重鎮だった猛将・夏侯淵の子だ。&lt;br /&gt;
この頃、魏の国内では司馬懿の一族が専横を極め、皇族である曹氏や、縁戚の名門・夏侯氏の者ですら逆らえないという有様だった。&lt;br /&gt;
そこで身の危険を感じた夏侯覇は、蜀へ亡命してきたというわけだ。&lt;br /&gt;
魏の内情に詳しい将の投降は、私たちにとって何よりの朗報。&lt;br /&gt;
私はさっそく夏侯覇と共に帝に拝謁し、北伐の許可を得た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは丞相亡き後、私が指揮した最初の大きな戦いとなった。&lt;br /&gt;
立ちはだかる敵将は、郭淮（かくわい）。&lt;br /&gt;
丞相が健在の頃から、長年蜀漢の進軍を阻んできた侮れぬ将だ。&lt;br /&gt;
私は西方に住む羌（きょう）族の力を借り、魏軍に戦いを挑んだ。&lt;br /&gt;
だが、さすがに郭淮は百戦錬磨の将。&lt;br /&gt;
羌族の援軍到着が遅れ、我が軍と羌族との連携が乱れたところを衝いてきたのだ。&lt;br /&gt;
私たちは糧道と水の供給路を断たれ、進退窮まった。&lt;br /&gt;
こうなれば残念ながら、撤退するほかない。&lt;br /&gt;
決死の覚悟で前後の囲みを突破し、陽平関（ようへいかん）まで撤退すると、今度は司馬懿の長子・司馬師（しばし）の軍と鉢合わせた。&lt;br /&gt;
ここで丞相の発明・連弩が役に立った。&lt;br /&gt;
司馬師を捕らえることはできなかったものの、連弩の攻撃で魏軍を撃退したのだ。&lt;br /&gt;
だが際立った成果のないまま、初の大戦は終わってしまった……。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし私は丞相の遺志を継ぎ、この国を守ると決めたのだ。&lt;br /&gt;
これしきの失敗で、くじけるわけにはいかない！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
態勢を整えるため成都に戻った私は、東の呉から書状を受け取った。&lt;br /&gt;
孫呉では、丞相の甥にあたる諸葛恪（しょかつかく）が、名将・陸遜の死後、軍権を一手に握っていた。&lt;br /&gt;
その諸葛恪が、連携して魏を討とうと提案してきたのだ。&lt;br /&gt;
これは、またとない好機！&lt;br /&gt;
東西から一気に攻め上れば、魏とて容易には防げまい。&lt;br /&gt;
私と夏侯覇は再び北伐を奏上し、出陣の許可を得た。&lt;br /&gt;
今度こそ郭淮を倒し司馬師を滅ぼして、中原に蜀漢の旗を立ててみせる！&lt;br /&gt;
丞相！　見ていてくだされ！&lt;br /&gt;
丞相の遺志、必ずや成し遂げてみせます！&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/musoubb_mmo/23477880.html</link>
			<pubDate>Fri, 03 Aug 2007 19:01:47 +0900</pubDate>
			<category>ネットサービス</category>
		</item>
		<item>
			<title>第 43 回　曹丕：新しき曹魏の国</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-94-dc/musoubb_mmo/folder/442794/78/23165178/img_0?1185516012&quot; width=&quot;196&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;ふ……ようやく私の番が回ってきたか。&lt;br /&gt;
私は曹丕、字は子桓（しかん）。&lt;br /&gt;
父・曹操の覇業を継ぎ、新しき国家・魏を建てし者だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
魏とは本来、黄河の中流、冀州西部一帯を指す。&lt;br /&gt;
私の生きる時代から遡ること数百年、戦国時代にはすでにここに「魏」という国があった。&lt;br /&gt;
漢の時代になると、ここに魏郡が置かれ、中心地の&amp;#37172;（ぎょう）城が栄えた。&lt;br /&gt;
その後、董卓が乱を起こすと、袁紹がこの地を治めることとなる。&lt;br /&gt;
袁紹は&amp;#37172;を本拠に強大な勢力を築き、周囲の群雄を撃破し河北に覇を唱えた。&lt;br /&gt;
一方、父は流浪していた漢の皇帝を擁立し、自らの拠点・許昌に迎え、袁紹に対抗した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
せめぎ合う 2 つの大勢力は、やがて官渡で激突することとなる。&lt;br /&gt;
この戦いの詳細は、以前、張&amp;#37059;が話した通りだ( &lt;a HREF=&quot;http://blogs.yahoo.co.jp/musoubb_mmo/18348868.html&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://blogs.yahoo.co.jp/musoubb_mmo/18348868.html&lt;/a&gt; )。&lt;br /&gt;
袁紹が官渡で敗れ、失意のうちに病没した後も、袁紹の息子どもは、我らに刃向かうことをやめようとはしなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
官渡の戦から 2 年後、幾度かの攻防を経て袁家の本拠・冀州城、すなわち&amp;#37172;を我らは落とした。&lt;br /&gt;
この城で私は、戦場に咲く徒花・甄姫と出会った。&lt;br /&gt;
甄は袁紹の次男・袁煕の妻だったが、袁煕は遠征に出たまま長年帰っていなかった。&lt;br /&gt;
先駆けとして城内に攻め込んだ私は、夫の帰りを待っていた甄を見つけ、……そして、甄は我が妻となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当主・袁紹を失ったうえ、本拠地まで落とされ、さしもの袁家も衰退した。&lt;br /&gt;
数年を経ずして、我らは袁家の残党をことごとく駆逐した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
強大な敵が支配していたこの地を、父はいたく気に入ったようだ。&lt;br /&gt;
戦いの後、城内から銅で出来た雀が発掘されたのだが、縁起を担ぐことの少ない父が、珍しくこれを喜んだのだ。&lt;br /&gt;
そのはしゃぎぶりは、この地に銅雀台（どうじゃくだい）なる宮殿の造成を宣言するほどだったな。&lt;br /&gt;
以来、父は&amp;#37172;で過ごすことが多くなっていく。&lt;br /&gt;
ふ……自ら天子を許都に移しておきながら、勝手なものだ。&lt;br /&gt;
まあ、父の前では皇帝など意のままに動く人形にすぎなかったがな。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
やがて、父の貢献に報いるという名目で、皇帝は父を魏公に任命し、後に魏王に封じた。&lt;br /&gt;
400 年に及ぶ漢の歴史上で、皇族以外の者が王になったのは異例のことらしい。&lt;br /&gt;
魏王の位は、&amp;#37172;城のある魏郡が曹家の領地として認められたことを意味する。&lt;br /&gt;
つまり漢帝国の中に、魏という小国家の創設が許可されたことにほかならぬ。&lt;br /&gt;
しかし位人臣を極めた父も、そのひとつ先……皇帝の座には就こうとしなかった。&lt;br /&gt;
不思議なものだな。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
魏王の位を継いだ私には、飾り物の帝を放逐することへのためらいなどない。&lt;br /&gt;
後は漢の伝統にしがみつく時代遅れどもをどう納得させるか、だった。&lt;br /&gt;
そこで私は、「禅譲（ぜんじょう）」なる儀式を行うことにした。&lt;br /&gt;
天子の位を有徳の者に譲るという、太古の昔から用いられた手法だ。&lt;br /&gt;
名ばかりとなっていた皇帝からの禅譲を受け、形式上再三断った後、私はようやく受諾した。&lt;br /&gt;
これだけのことで 400 年間続いた漢の時代は終わり、代わって大魏帝国が誕生したのだ。&lt;br /&gt;
解せぬ……なぜ父はこれほど簡単なことを躊躇したのか。&lt;br /&gt;
力ある者が天下を治める。皇帝とはそうあるべきではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
魏王から皇帝の座に上ったため、国号も「大魏」となった。&lt;br /&gt;
これは無能な前代の皇帝から授かった名だ。少々気に入らんが、まあよかろう。&lt;br /&gt;
正式な名は「大魏」だが、かつてあった戦国時代の魏国と区別するため、&lt;br /&gt;
我が姓を取って「曹魏」と呼んでもいいだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私が皇位に就いたと聞き、益州（蜀）を奪った劉備は憤激したらしい。&lt;br /&gt;
どうやら私が漢の帝を殺し、位を奪ったと誤解したようだ。ふ……くだらん。&lt;br /&gt;
漢帝は利用するための道具。用がなくなれば、命を奪う価値すらない屑だ。&lt;br /&gt;
そんな考えが劉備にわかるわけもなく、奴は私の禅譲を認めず自ら皇帝を称した。&lt;br /&gt;
たまたま漢の皇室の姓を持っただけの男が、漢王朝の後継者を宣言するとは笑わせる。&lt;br /&gt;
漢から魏への禅譲を認めず、蜀の地で勝手に「漢」を称した劉備らを蜀漢と呼ぶ。&lt;br /&gt;
あくまで古き漢の伝統にしがみつく愚かな奴らだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ともかく、この大陸は同時に 2 人の皇帝が存在する異常事態に陥った。&lt;br /&gt;
王とは違い、皇帝は天下にただひとり。偽者は放置するわけにはいかぬ。&lt;br /&gt;
聞けば呉王に任命してやった孫権も、皇位に就こうと画策しているという。&lt;br /&gt;
父よ、あなたが甘やかしたばかりに、小人たちは好き放題し始めている。&lt;br /&gt;
私は父ほど寛大ではない。もはや遊びはここまでだ。&lt;br /&gt;
南の片隅で勝手に皇帝を名乗る劉備と孫権を葬り去り、正統なる曹魏の名をもって、乱世を終わらせるとしよう……。&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/musoubb_mmo/23165178.html</link>
			<pubDate>Fri, 27 Jul 2007 15:00:12 +0900</pubDate>
			<category>ネットサービス</category>
		</item>
		<item>
			<title>第 42 回　凌統：呉の水軍</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-94-dc/musoubb_mmo/folder/442794/99/22862299/img_0?1184911264&quot; width=&quot;196&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;俺は凌統。字は公績（こうせき）ってんだ。&lt;br /&gt;
父親の凌操（りょうそう）の代から孫家に仕えてる、いわゆる譜代の臣ってやつだな。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、今回は俺たち孫呉が誇る水軍の話でもしますか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
知ってる人もいると思うけど、呉を含めた江東って地域は長江の支流や湿地だらけで、水路が縦横無尽に走ってるんだ。&lt;br /&gt;
だから船での移動が多くなるし、戦でも当然、船が大活躍するってわけ。&lt;br /&gt;
この一帯に育ったのなら、船を操れてようやく一人前の強者ってとこかな。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ひと言で「船」っつっても種類はたくさんあるんだぜ。&lt;br /&gt;
まずは走舸（そうか）。こいつは、わりと速度が出る軽い軍船だ。&lt;br /&gt;
小さい船なんだが、兵士より漕ぎ手の方を多くして機動力を高めてるみたいだな。&lt;br /&gt;
小回りが利くから、前線で敵船団の様子を探ったり、密かに懐に潜り込んだりするのにちょうどいい。&lt;br /&gt;
船の長さはだいたい 3 丈（約 7 ｍ）ってとこか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それより大きいのが蒙衝（もうしょう）って船さ。艨艟（もうどう）とも言うな。&lt;br /&gt;
造りは頑丈だし矢を防ぐために牛革を貼ってあるから、主力艦になってるぜ。&lt;br /&gt;
長さはざっと 6 ～ 7 丈くらい（15m 前後）の、細長い船だ。&lt;br /&gt;
大きい分、小回りは利かないけど、たくさんの兵士を乗せられる。&lt;br /&gt;
しかも船の先端にある衝角、つまり舳先（へさき）が特に丈夫に作ってあって敵船の土手っ腹に体当たりして破壊したり、動きを止めたりできるんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらにでかい、闘艦（とうかん）ってのもある。これは船団の中心的存在になる大船だ。&lt;br /&gt;
大きいものだと 9 丈（20m）以上。漕ぎ手だけでも相当な数が必要だな。&lt;br /&gt;
もっとすごいのが楼船（ろうせん）。文字通り、甲板にやぐらを載せたような巨大艦さ。&lt;br /&gt;
矢を防ぐため船の縁に板を並べてあるし、体当たりされても壊れないよう船体が多層構造になってる。&lt;br /&gt;
つまり、防御力を抜群に高めた船ってわけだな。&lt;br /&gt;
これは前線に出すより、全軍を統べる都督なんかが、腰を据えて指揮する船ってとこか。&lt;br /&gt;
だけど孫呉水軍には、血の気の多いのがいっぱいいるからねえ……。&lt;br /&gt;
みんな闘艦や楼船でのお留守番を放り出して、敵陣に乗り込んじまうんだ、これが。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どの船も性能は抜群だが、何種類もの船を戦で操るには少しばかり経験が必要でね。&lt;br /&gt;
北国育ちの曹操軍が、ちょっとやそっと訓練をしたところで扱えるわけないっての。&lt;br /&gt;
よし、あんたらには凌公績直伝「大河での基本的な船の戦い方」を教えてやるよ。&lt;br /&gt;
魏の連中には内緒、だぜ？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず敵の船団と離れてるうちは、走舸で様子を見つつ、矢で攻撃するのさ。&lt;br /&gt;
船ってのは、漕ぎ手を失っちまうと動かせないからね。&lt;br /&gt;
そいつらを狙う戦いになる。だから船戦ってのは、大量の矢が必要なのさ。&lt;br /&gt;
……そういや、こないだ赤壁での戦の前、諸葛亮ってのが曹操軍からまんまと10万本の矢をかすめ取ったみたいだね。&lt;br /&gt;
来るべき大戦に備えて矢が大量に必要だったから、ま、みんなあれには助けられたんじゃない？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
で、船団同士の距離が縮まってからが、本当の勝負だ。&lt;br /&gt;
さっきも言ったけど、艨艟で敵さんの船の側面に突進してやるのさ。&lt;br /&gt;
敵船の動きが止まったら、一気に乗り込んで白兵戦だ。&lt;br /&gt;
そこからは陸戦と変わらないんだろうって？　ところがそうでもないんだな。&lt;br /&gt;
船ってのは水に浮いてるもんだ。それに波って厄介な存在がある。&lt;br /&gt;
船の上は縦に揺れ横に揺れ……、でかい暴れ牛の背中の上で戦ってるようなもんさ。&lt;br /&gt;
慣れないうちは、刀を振るどころか満足に立つことすらできないだろうね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だから水軍が扱う武器は、長槍のようにかさばるものはダメだ。&lt;br /&gt;
積み荷の重量が増えちまうし、揺れる船の上じゃまともに扱えないからな。&lt;br /&gt;
やっぱり軽くて扱いやすい武器が一番だ。&lt;br /&gt;
そういう意味じゃ普段俺が使ってる武器も、船戦にぴったりだね。&lt;br /&gt;
「両節棍（リョウセツコン）」。少し南の方言だと「ヌン チャッ クン」って読む。&lt;br /&gt;
あんたらには「ヌンチャク」といった方がわかりやすいかな？&lt;br /&gt;
『真・三國無双BB』じゃまだこの武器が使えないようだけど、いつか使えるようになるといいねえ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ま、そういうわけで、孫呉水軍が最強なのは江東で育った俺たちの経験のたまものってこと。&lt;br /&gt;
その孫呉に最近、西のほうから甘寧ってよそ者が降ってきた。&lt;br /&gt;
気に入らないねえ。なんせやつは前の戦いで俺の親父を討った仇だからね。&lt;br /&gt;
いくら乱世って言ったって、親の敵が同僚ってのは気分のいいもんじゃない。&lt;br /&gt;
だいたい水軍の将なんて十分足りてるだろ？&lt;br /&gt;
何が悲しくて水賊くずれを仲間にするんだっての。&lt;br /&gt;
だが、そんないけすかない野郎でも殿が受け入れちまったものは仕方ない。&lt;br /&gt;
ま、適当にやらせてもらうことにしますか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あんたらも激突や争奪ではそんなに力まないほうがいいぜ。&lt;br /&gt;
大丈夫、結果は後からついてくるって。&lt;br /&gt;
んじゃ！&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/musoubb_mmo/22862299.html</link>
			<pubDate>Fri, 20 Jul 2007 15:01:04 +0900</pubDate>
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		</item>
		<item>
			<title>第 41 回　祝融：火の神の裔（すえ）</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-94-dc/musoubb_mmo/folder/442794/63/22552463/img_0?1184307321&quot; width=&quot;196&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;暑くなってきたねえ！&lt;br /&gt;
あんたたちも、この燃える季節を満喫してるかい？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アタシは祝融。南の大王・孟獲の妻。火の神の末裔さ！&lt;br /&gt;
投弧刃（とうこじん）と飛刀（ひとう）を扱わせれば、百発百中の腕さね。&lt;br /&gt;
けがしたくなかったら、ハンパな腕でアタシの前に立つんじゃないよ！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
せっかくだから今日は、アタシの名の由来になってる大昔の火の神「祝融」の話でもしようかね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
祝融ってのは、もともと火を司り南方を支配していた神様さ。&lt;br /&gt;
アタシはその末裔だから、祝融氏を名乗らせてもらってるよ。&lt;br /&gt;
神様のほうの祝融は、頭部は人間なんだけど体は獣で、龍に乗ってたみたいだね。&lt;br /&gt;
まあ、大昔の神様なんて、実際に誰も見たことがないだろうし、見かけなんて好き放題、言えるけどさ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なんでも祝融は、「炎帝」（えんてい）って王と一緒に、南方世界を治めてたって話だよ。&lt;br /&gt;
炎帝は「神農」とも呼ばれてて、「三皇」の一人に数えられる人さね。&lt;br /&gt;
三皇ってのは大昔にいた半分神様みたいな 3 人でね。&lt;br /&gt;
人間の文明社会が始まった頃に現れて、人類にいろんなことを教えたって伝説が残ってるのさ。&lt;br /&gt;
人に薬草の使い方を教えた神農は、必ず三皇の一人に数えられるけど、他の顔ぶれに関しては、いろんな説があるみたいだよ。&lt;br /&gt;
ずいぶん昔のことだし、いくつもの伝承が入り交じっているから、仕方ない話さね。&lt;br /&gt;
なんにせよ、人類に火の使い方を教えたとされる祝融は、その候補の一人なのさ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
祝融が火の神様だからって、火事や火災のことまで「祝融」って呼ぶ人がいるんだってね。&lt;br /&gt;
火の神様を怒らせちまったから火事が起きたって考えたのかもしれないけど、火事と一緒の名前なんて、なんだか不吉で気に入らないねえ。&lt;br /&gt;
それから、宮廷で火を司る役職にも「祝融」の名が使われたことがあるっていうじゃないのさ！&lt;br /&gt;
ったく！　火事や役職なんぞに、人の名前を気安く使ってほしくないね！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちなみに、祝融の職ってのは、初めて国家を作った黄帝（こうてい）の頃にあったんだってね。&lt;br /&gt;
黄帝ってのは、別名・軒轅（けんえん）。さっきの三皇に続く「五帝」の筆頭さね。&lt;br /&gt;
五帝は漢民族で最初の王朝を作った 5 人の王様のことで、黄帝はさっき言った南方を支配する炎帝の子孫を倒して、王位についたって伝説があるのさ。&lt;br /&gt;
そういや北の連中はみんな、「我らはすべて黄帝の子孫」とかなんとか言ってるから、アタシら南の人間と争うのは、神話の時代から続く宿命かもしれないねえ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まあ、北のやつらにも可愛いところはあるんだよ。&lt;br /&gt;
たとえば、連中は聖なる山「五岳」をあがめてる。&lt;br /&gt;
これは東岳泰山（とうがくたいざん）、南岳衡山（なんがくこうざん）、中岳嵩山（ちゅうがくすうざん）、西岳華山（せいがくかざん）、北岳恒山（ほくがくこうざん）って、全部で 5 つの山地からなるんだけど、このうち南にある「南岳衡山」って山脈の、一番高い山が「祝融峰（しゅくゆうほう）」って名前なのさ！&lt;br /&gt;
祝融神は「火」だけじゃなくて、「南」の神様でもあるからね。&lt;br /&gt;
なんのことはない、北のやつらだってアタシの名前をあがめてるのさ！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
けど、今の北の連中は、神も恐れないみたいだねえ……。&lt;br /&gt;
諸葛亮だかなんだか知らないけど、この大地を狙ってるやつがいるのさ。&lt;br /&gt;
うちの人は、さっそくひと癖もふた癖もある子分たちを束ねて、やつらを食らい尽くす準備をしてるよ！&lt;br /&gt;
アタシも火の神の裔として、南中を守る女神になってやるつもりさ！&lt;br /&gt;
この名前がはったりじゃないことを、証明してやるよ！&lt;br /&gt;
それに、実は祝融は「夏」の神様でもあるからね。&lt;br /&gt;
今はまさにアタシの季節！　負ける気がしないね！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ん？　なんだい？　あんたたち、暑い季節は苦手なのかい？&lt;br /&gt;
『真・三國無双BB』じゃ、今度から「火計」が使えるようになるそうじゃないか。&lt;br /&gt;
( &lt;a HREF=&quot;http://www.musou-bb.jp/announce/070711/01/&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://www.musou-bb.jp/announce/070711/01/&lt;/a&gt; )&lt;br /&gt;
新しく加わる武器「妖杖（ようじょう）」も炎を扱えるらしいよ。&lt;br /&gt;
まさに、燃える季節にふさわしい新要素ってことさね！&lt;br /&gt;
この程度の暑さでへばってるようじゃ、火なんか扱えやしないよ！&lt;br /&gt;
暑さに負けないよう、炎みたいに熱い心で乗り切んな！&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/musoubb_mmo/22552463.html</link>
			<pubDate>Fri, 13 Jul 2007 15:15:21 +0900</pubDate>
			<category>ネットサービス</category>
		</item>
		<item>
			<title>第 40 回　&amp;#40848;統：名士たちの人物評</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-94-dc/musoubb_mmo/folder/442794/26/22244726/img_0?1183701640&quot; width=&quot;196&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;あっしは&amp;#40848;統。字は士元（しげん）だよ。&lt;br /&gt;
あっしと同じく劉備殿に仕える諸葛亮が臥龍（がりょう）と呼ばれるのに対して、鳳雛（ほうすう）なんて呼んでくれる人もいるみたいだねえ。&lt;br /&gt;
臥せる龍と鳳凰のヒナ、どちらも時を得れば天に昇る。&lt;br /&gt;
だから、臥龍か鳳雛のいずれかを得れば天下が治まる……ってのは、ちょいと誉め過ぎだがね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さあて、せっかく順番が回ってきたんだ。あっしの師匠の話でもするかね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あっしの師匠は司馬徽（しばき）、字は徳操（とくそう）。人呼んで水鏡（すいきょう）先生だ。&lt;br /&gt;
たいそう風変わりなお人でねえ。&lt;br /&gt;
あれは、あっしが初めて先生に会いに行った時のことだ。&lt;br /&gt;
先生は真っ昼間から桑の樹に登って、葉を摘んでいたのさ。&lt;br /&gt;
偉い人がやることじゃないんだけど、そういうことに頓着しないんだよ。&lt;br /&gt;
しかたないから、樹の下から先生に話しかけて、そのまま学問や英雄について論じ合ったのさ。&lt;br /&gt;
結局、夜までずっと樹の上と下とで話し続けたよ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先生は見識もさることながら、人を見る目にかけちゃ、あっしなんか足元にも及ばない才があってね。&lt;br /&gt;
ま、そもそも、あっしの伯父貴・&amp;#40848;徳公が名付けた「水鏡」って呼び名も、「水や鏡のごとく人を映し、的確に評価を下す」って意味だから、当然だねえ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先生は荊州でも知られた名士だけど、隠居みたいな生活を送っていてね。&lt;br /&gt;
……おっと、その前に名士についてちょいと説明しとこうか。『真・三國無双BB』でも屋敷通りの前で名士をよく見るけど、本物の名士っていうのは家柄・学識・人格に優れ、各地で名声を得た人たちをいうのさ。&lt;br /&gt;
そんな名士は、たいてい郡の長官に推薦されて役人になるんだけど、前に袁紹の旦那も話した( &lt;a HREF=&quot;http://blogs.yahoo.co.jp/musoubb_mmo/3260634.html&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://blogs.yahoo.co.jp/musoubb_mmo/3260634.html&lt;/a&gt; )ように、朝廷で宦官が権力を握ってから、官僚はどうも影が薄くてねえ。&lt;br /&gt;
自分たちを「清流」と称し、宦官を「濁流」とさげすむのが精一杯だったのさ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある時、気骨ある役人たちが力を合わせて宦官を追放しようとしたんだが、陰謀に関しては濁流側が一枚上手でね。逆に清流側が弾圧されちまったんだよ。&lt;br /&gt;
この「党錮（とうこ）の禁」って事件で、役人として出世する道を断たれた名士は、地元で暇を持て余すようになったってわけさ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
黄巾の乱が起こってからは、戦続きでどこもかしこも騒々しかったが、あっしの故郷・荊州だけは、平和そのものでねえ。&lt;br /&gt;
荊州を治める劉表殿も「八俊（はっしゅん）」と呼ばれた名士の中の名士で、その評判を聞きつけた名士が、各地から集まってきたくらいだよ。&lt;br /&gt;
諸葛亮なんかも故郷の徐州から難を逃れてやって来たくちさ。&lt;br /&gt;
まっ、あの男も名士には縁があってねえ。&lt;br /&gt;
諸葛亮の妻・月英殿の母上は、劉表殿の妻の姉にあたる御方だし、父御の黄承彦（こうしょうげん）殿も、荊州の名士なのさ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして名士の交流が深まる中、どんな人物が優れているかを話し合う「人物評」が盛んになった。&lt;br /&gt;
だから水鏡先生のように人物評が得意な御方が、人望を集めたってわけさ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人物評では、許劭（きょしょう）も有名だねえ。字は子将（ししょう）だ。&lt;br /&gt;
従兄の許靖（きょせい）と２人で、毎月１日にいろんな人の評判を語ったことで知られてる。&lt;br /&gt;
この２人に高く評価された人は、出世間違いなし！って話さ。&lt;br /&gt;
もとは「月のはじめ」って意味だった「月旦（げったん）」って言葉が、人物評のことを指すようになったのは、これが由来と言われているねえ。&lt;br /&gt;
そういや、許子将が曹操を「乱世の奸雄」と評したってのは有名な話だけど、「平時の姦賊、乱世の英雄」なんて逆の評価を下したって説もあるみたいだから、人物評なんて、たいしてあてにならないかもしれないねえ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ま、こんな感じで名士ってのは時間が有り余っているから、人物評ばかりじゃなく、とうとう訳の分からない問答までやりだしてねえ……。&lt;br /&gt;
無為自然がどうの、天地玄黄がどうの……ってさ。&lt;br /&gt;
清流たちの高尚な談義だから「清談」って言うらしいけど、あっしにゃチンプンカンプンだ。&lt;br /&gt;
近頃じゃ山奥にこもって、酒を飲んじゃ清談にふける連中が多いらしいよ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あっしは退屈な問答なんぞ興味はないし、隠居するほど人間も出来てない。&lt;br /&gt;
せっかく劉備殿に拾ってもらった恩もある。&lt;br /&gt;
もうちょっとだけ、あっしの知恵ってもんを生かしたいと思ってる。&lt;br /&gt;
だからこうして、これから益州の劉璋を攻める準備を整えているのさ。&lt;br /&gt;
諸葛亮は今回、荊州で留守番するっていうから、代わりにあっしが劉備殿に策を進言しないとね。&lt;br /&gt;
……そういや劉璋には、例の月旦で有名な許靖が仕えていたねえ。&lt;br /&gt;
何とか味方に引き込んで、あっしや諸葛亮の評価を聞いてみたいもんだね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それじゃ、あっしはこのあたりで失礼するよ。&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/musoubb_mmo/22244726.html</link>
			<pubDate>Fri, 06 Jul 2007 15:00:40 +0900</pubDate>
			<category>ネットサービス</category>
		</item>
		<item>
			<title>第 39 回　徐晃：同郷の士</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-94-dc/musoubb_mmo/folder/442794/13/21929713/img_0?1183100729&quot; width=&quot;196&quot;&gt;&lt;br /&gt;
&lt;font size=&quot;3&quot;&gt;拙者は徐晃。字は公明（こうめい）！&lt;br /&gt;
楊奉（ようほう）殿に仕えた後、生涯の主・曹操殿と出会い、殿の覇業を支えることで武人の道を究めんとする者なり。&lt;br /&gt;
愛用の大斧を振るって修練を重ね、己の内なる武を磨き上げる日々でござる！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
拙者の生まれは、河東（かとう）郡の楊（よう）県。&lt;br /&gt;
河東の「河」はもちろん悠久なる大河・黄河を指す。&lt;br /&gt;
この大河は、上流から下流に至るまで何度も大きくうねり、特に渭水（いすい）との合流地点では、南に向かっていた流れが、東へとほぼ直角に折れ曲がっている。&lt;br /&gt;
その合流点の東にあるのが、我が故郷・河東郡でござる。&lt;br /&gt;
河東は拙者を始め、多くの武将を輩出しているが、もっとも有名な人物は拙者も尊敬する武人・関羽殿でござろう！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところで出身地の話をする際には、気をつけねばならぬことがある。&lt;br /&gt;
かつて、夏侯惇将軍がこの場で述べられていたが( &lt;a HREF=&quot;http://blogs.yahoo.co.jp/musoubb_mmo/5054039.html&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://blogs.yahoo.co.jp/musoubb_mmo/5054039.html&lt;/a&gt; ) 貴公らよりも一族の結束が固い我が国では、出身地を本貫（ほんがん）と言い、個人の生まれた地ではなく、祖先を同じくする一族の出た地を指す。&lt;br /&gt;
ゆえに、戦続きで人の移動が盛んだったこの時代、往々にして出身地と出生地が異なる者もいたのでござる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
されど関羽殿と拙者は、本貫も出生地も同じ正真正銘の同郷人。&lt;br /&gt;
河東には解池（かいち）という名の大きな塩湖があり、古来より塩の産地として有名でござる。&lt;br /&gt;
この解池のほとり、解良（かいりょう）県が関羽殿の故郷。&lt;br /&gt;
拙者が生まれた楊県にもほど近い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時は乱世……河東もまた、例外ではござらぬ。&lt;br /&gt;
かつて拙者は、故郷の近くで戦わねばならぬ事態に直面した。&lt;br /&gt;
韓遂（かんすい）や馬超といった関中の諸将が反乱を起こし、渭水の上流にある要衝・長安を占拠したのでござる。&lt;br /&gt;
賊徒を鎮圧すべく、拙者は先鋒として出陣。続いて、主・曹操殿も自ら出陣なされた。&lt;br /&gt;
そして両軍は、黄河と渭水の合流点・潼関（どうかん）で相対した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
賊徒が押し寄せた潼関の周辺も、拙者にとっては勝手知りたる地。&lt;br /&gt;
拙者は、解池より少し西の蒲阪津（ほはんしん）から黄河を渡って、賊の背後を突く策を進言した。&lt;br /&gt;
殿も賛成してくださり、拙者に 4 千の精兵を与えてくだされた。&lt;br /&gt;
敵の背後に回った我らは、殿が仕掛けた離間の策により韓遂と馬超らが仲違いし、結束力を失ったところを見計らって進軍。賊を前後から攻め立て、壊滅させたのだ。&lt;br /&gt;
なお、この戦で韓遂らの反乱軍に参加していた程銀（ていぎん）・侯選（こうせん）・李堪（りかん）といった面々もまた、河東出身の者。&lt;br /&gt;
同郷の士が戦うのも乱世の理（ことわり）とはいえ、空しきことでござった……。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
悲しみの連鎖に、終わりはなし。&lt;br /&gt;
ついに敬愛する武人・関羽殿と刃を交える時が来てしまったのでござる。&lt;br /&gt;
関羽殿の義兄・劉備が蜀の地へ入り、我らより漢中を奪うと荊州を守備していた関羽殿は、曹仁殿が守る曹魏の要・樊城に攻め寄せた。&lt;br /&gt;
この報せを受けた殿は関羽殿の威勢を恐れ、一時は都を移すことまで考えられたようだ。&lt;br /&gt;
そこで拙者は曹仁殿の救援を志願し、5 万の兵を預かって出撃した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦場で久々にお会いした関羽殿は、さすがに寄る年波のせいか長いひげにもいささか白いものが混じっていた。&lt;br /&gt;
だが、武技・気迫・胆力、いずれも昔年以上に充実しているように見受けられた。&lt;br /&gt;
なにゆえ、このお方と刃を交えねばならぬのか……。&lt;br /&gt;
疑念が頭をよぎるが、私情をもって国事をおろそかにするわけには参らぬ。&lt;br /&gt;
拙者は心を鬼にして、配下の兵に関羽殿の首を取った者には千金を与える、と叫んだ。&lt;br /&gt;
敵が誰であろうと、戦場では持てる武のすべてを尽くして戦う。&lt;br /&gt;
それこそが武人としての礼儀なり！&lt;br /&gt;
拙者は城内にいた曹仁殿とも呼応し、苦戦の末に関羽殿の軍を撃破した。&lt;br /&gt;
敗れた関羽殿が麦城で孫権軍に捕らえられ、落命されたのは、それからまもなくのことでござった……。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
関羽殿！　これもまた乱世の常なれば……許されよ！&lt;br /&gt;
拙者の武は、いまだ関羽殿の域に達してはおらぬ。&lt;br /&gt;
幸いにして明君と出会い、乱世の統一という覇業に助力している今、拙者の残る望みは、はるか遠き武の頂に到達すること。&lt;br /&gt;
いつか関羽殿に劣らぬ武技を身につけ、河東人の魂を世に示してご覧に入れる！&lt;/font&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/musoubb_mmo/21929713.html</link>
			<pubDate>Fri, 29 Jun 2007 16:05:29 +0900</pubDate>
			<category>ネットサービス</category>
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