アート
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そばにあった、紙ナプキンに、1階部分の天井が”草屋根”という、『ガーデンテラスのある家』をスケッチ。ボールペンと色鉛筆で、あ〜でもない、こうでもない、などとプランを書くのはとても楽しい作業です。そういえば、ぼくはかつて二級建築士とインテリアコーディネーターの資格を持っていました。まぁ、過去形ですけどね😁
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僕の精神状態を測るバロメーターは「食事」です。
僕の「うつ状態」の悪い時は、食べること自体がもう、面倒臭くってしょうがないのです。
とうぜん料理なんて、しようとも思わない。
もっと言うと「生きること」それ自体が面倒臭いわけです。
そんな風だからこう言う時は、当然「食」にも全く興味が湧きません。
「これが食べたい」
「あの旨いものをどうしても食べたい」
などという欲求がまるでなくなるのです。
以前、僕は友人にこんなことを言ったことがあります。
「僕、朝、昼、晩、三食、カロリーメイトでイケちゃうんですよね」
それを聞いた友人は呆れ顔で
「アンタ、それ死ぬよ!」
と忠告してくれました。
僕の場合、精神状態が悪いと、料理を作るという行為そのものに対して、腹が立ってくるほどなのです。
「食べる」という目的のために、なんでこんなにちまちまと手間をかけなければいけないのか?
その行為自体の意味が分からなくなるのです。
ところが、精神状態が少し回復してくると、
「ひさしぶりに包丁を持ってみようか……」
という気分になってきます。
こうなってくると、もう、しめたもんです。
まずは沢庵を買って来ます。
そのあと、おもむろに包丁を砥石で、丁寧に研ぎ始めるのですね。
研ぎ終わると包丁でたくあんを薄切りにしていきます。
この時の手に伝わってくる感触。
「たくあん」がスーッと切れる。
「ああ、たまらん! 快感!!」なんですね。
食材がいとも簡単に切れる、その感触が指先に伝わってくる。
今、まさに自分が「生きている」と感じます。
こう言う時、柄にもなく料理が楽しい、と感じられます。
「人間一匹」が生きていく上で欠かせない営み。
それが「食べる」と言う動物的な行為。
ところで……
画家の高山辰雄さんの作品に
子供が小さな食卓を前に、ご飯を食べている作品があります。
僕がこの絵を最初に見たのは、二十代でした。
大学を卒業した僕は、友人のツテで、ラッキーにも大阪の出版社に潜り込んでいました。
取材や雑誌の編集など、毎日、徹夜徹夜の連続でした。
そんな忙しさの中、ふと書店の店先で見つけた画集。
ページをめくります。
やがて「食べる」という、その絵を見つけた時、
僕はその場に立ちすくんでしまいました。
なぜが涙が溢れて仕方がありませんでした。
今思い返しても、やはり眼が潤むのです。
お茶碗には「おかゆ」がはいっているのでしょうか。
子供は正座しています。
ぎこちない手で、お箸を持ち、お茶碗からおかゆを掻き込んでいます。
そこには、ただ無心に
「食べる」
と言う行為が、淡々と描かれています。
背景には抽象的な”ぼやっ”とした絵の具の濃淡だけ。
床も壁も天井も描かれていません。
ただ「無心に食べる」と言う行為。
それを崇高な人間的行為の領域にまで到達させ、見事に描き切っています。
これほどの作品を僕は他に知りません。
食べることは悲しい?
食べることはつらい?
そして食べることは楽しいですか?
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マイケル・ジャクソン THIS IS IT 僕はなぜ、映画を映画館で観るのか?
〜映画関連WEBサイト「webDACE」への投稿したエッセイです〜
「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」を劇場で観たときのこと。
エンドロールが終わり、最後にもう一度マイケルが現れる。短く軽やかなステップを踏み、映画は終了。
そのときだった。
満席の会場のあちこちから拍手が起こった。
やがてその場に居合わせた僕を含め、全ての観客が拍手を送った。
目の前にマイケルはいない。
ただの白いスクリーンに向かって、僕たち観客は拍手を送ったのである。
それは鳥肌が立つような、感動の一瞬だった。
劇場出口に向かう僕の後ろ、中年夫婦の会話が聞こえた。
「こんなの観たら、日本のなんて子供だましやなぁ〜」
映画を映画館で見続けていると、こういう奇跡の一瞬に出会えることがある。
僕が本格的に映画館に通うきっかけになったのは、2004年公開の邦画「スウィングガールズ」との出会いだった。
それまで僕は20年以上、映画館に行ったことすらなかった。
しかし、そんな僕が「スウィングガールズ」という映画にハマってしまった。この作品は多くの中年おやじを虜にし、ちょっとした社会現象を巻き起こした。
結局、僕はこの作品を劇場で14回観る羽目に陥る。
14回目を観終わったとき、僕は「スウィングガールズ」という作品だけではなく「映画」そのもののファンになっていた。
そして、同じ映画を14回劇場で鑑賞して分かったことがある。
客席の反応は14回、それぞれ全く違っていた、ということである。
このことから僕は、一つ勉強させてもらった。
「映画を映画館で観る」という行為は、実は「ライブなのだ」ということである。
スクリーンでかかっている映画は毎回同じだ。
しかし、その場に居合わせた観客は、まさに一期一会の出会いなのである。
映画を一緒に鑑賞する人たちは、その場限りの「共同体」なのだ。
ただ、残念なことも同時にわかった。
それは「THIS IS IT」のときのような、奇跡の瞬間は、100回映画館に通って、ようやく一回程度しか体験できない、ということである。
僕は「スウィングガールズ」以降、今まで500本以上の作品を劇場鑑賞してきた。
しかし、奇跡と思える瞬間は、これまで5,6回に留まっている。
映画ファンの一人として、多くの人が映画館で映画を観るようになってほしい、と僕は願う。
しかし「ハズレ映画」にあたってしまったら、これもまた大きな落胆があるだろう。
映画を映画館で観るという行為は、まず、スケジュールを調べ、身支度をして家を出るところから、すでに始まっている。
バスに乗り、電車を乗り継ぎ、あるいは車を走らせ、ようやく劇場にたどり着く。どんな作品に出会えるのだろう、という期待で胸がときめく。すこしばかりワクワクする。
そういった面倒くさい行為を、100回程度繰り返さなければ、奇跡の体験に出会えない。
そこまでして映画を見る必然性がどこにあるのか?
だから一般ピープルである僕たちは、新作映画が発表されても、レンタルビデオ店のDVDで済ませてしまおう、というオチになる。
観客自身の費用対効果、それにネットを始めとするメディアの細分化、および観客の嗜好そのものの細分化、それらを総合して考えると、これからさき、劇場が観客で溢れることは、もうありえないのかもしれない。
そうなると、映画会社は売れ筋の映画しか作らないことになる。当然のように若手映画クリエイターたちの活動のチャンスは少なくなってゆく。
映画会社はリスクを取りたくないのだ。
結果、映画作品はどんどんありきたりになる。つまらなくなる。
まさに負のスパイラル。最悪のシナリオだ。
映画と映画好きに残された道は数少ない。
結局のところ、細分化されてもいいじゃないか。
この際、開き直って、映画の虜、映画の奴隷、映画の狂信的信者、を一人でも増やすことを考えたほうがいいのではないか?
裾野が狭くなってゆく、映画館で映画を見るコアなファンたち。
その狭い隙間が、何やら熱狂している、お祭り騒ぎをしている。そんな映画作品が生まれたら、僕のように何を血迷ったか、映画館にふらふらと迷い込む者がまた一人増えるかもしれない。
僕は両手を広げて歓迎するだろう。
「ようこそ映画の蟻地獄へ」と。
映画好きというのは、別にインテリでもなければ、高尚な趣味でもない。
そこらを誤解されてもらっては困るのだ。
立川談志師匠は落語を「人間の業の肯定である」と言い切った。
「人間としてこんなダメなやつがおりました」と愚かしい人間の行為を笑いに変換し、聴衆にただ提出する。それをどう面白がるのか? それは聴衆の自由裁量に任される。
同じように、ハズレ映画も数々あるけれど、それでも映画館へ通うのは
「わかっちゃいるけど、やめられない」からだ。
僕がなぜ映画を映画館で観るのか?
それは、映画ファンとしての「業の肯定」に他ならない。
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京都市美術館に行ってきました。お目当ては「バルテュス展」
以前から是非行きたいとは思ってきましたが、なかなか都合が付かず、ようやく会期終了間際になって、本物のバルテュスの絵に出会う事が出来ました。
絵画や音楽は、言葉を必要としません。いきなり自分の心の深ぁ〜いところに、届く力を持っている芸術なんですね。
いつも僕が思っている事ですが
「自分がいいと思えば、それがいい芸術」なんですね。
プロの評論家の評価については、僕はそれほど重きを置いていません。僕が今回の展覧会で特に気に入った絵が「おやつの時間」
美術館で画家の肉筆の絵を鑑賞出来るのは貴重な体験です。絵描きさんの筆使い、ひとつ、ひとつを自分の目で確かめる事が出来るのです。
バルテュスの場合、その初期は、やはり模写などで腕を磨いたようです。ピエロ・デラ・フランチェスカを模写していたとは知りませんでした。
ピエロ・デラ・フランチェスカは、僕の大好きな「有元利夫」さんも参考にしていた15世紀イタリア・ルネッサンスの画家です。
しかし、バルテュスの初期の絵を見ていて意外だったのは、キャンバスに塗る絵の具が薄い、と言う事でした。水彩画のような、あっさりした「塗り」なんですね。
これが後期、晩年になると、結構な厚塗りになってきます。画面に凹凸があります。キャンバスはまるで、壁画、フレスコ画のように何層も塗り固められているのがよく分かりました。
バルテュスで欠かせないのが、少女のエロス。そして猫。
これは発表当時、かなりひんしゅくを買ったようですが、バルテュスは自分の表現方法を信じて進んで行ったようです。
第二次大戦がはじまったあと、バルテュスはひとつの自画像を描いているのですね。
国や民族は戦争をやっている。そのさなか、自分は絵を描いている。その絵を描いている自分をスケッチしてみる。自己を確認しているのですね。後に彼は一時、徴兵されていたそうです。その後戦火を逃れて描かれたのが代表作のひとつ
「美しい日々」
なんともドラマチックな描写ではあります。
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