Fight Scenes from Ame Agaru
先日書きました、「最近涙を流した事」をエッセイ風にまとめてみました。その第一弾です。
***五十路で読む山本周五郎「雨あがる」***
五十歳を超えて、はじめて山本周五郎という作家に出会った。
「雨あがる」をよんだ。
涙が止まらなかった。
小説を読んで涙を流すなどといった事は何十年ぶりだろうか?
年齢と共に趣味趣向は違ってくるようだ。
少年の頃、父が「もろみ」を食していたのを見て、嫌悪した。
あんな物どこがうまいんだと思っていた。
ところがである。三十を超えた頃、その嫌悪していた「もろみ」がうまいと思えるようになってきたから、人間不思議な物である。
小説もどうやら同じらしい。
十代の頃は軽蔑すらしていたチャンバラ、剣豪小説の中に、ふとした人情味、人の心の綾を読み取る事が出来るようになってきた。
その折に出会ったのが山本周五郎の「雨あがる」という小品であった。
「人間はみな悲しいんですから」
主人公三沢伊兵衛は言う。
彼は武芸において比べる程のない腕を持っている。
というよりも、彼の不幸は、その武芸が桁外れに強すぎる事であった。
試合をすれば「まさか」と思う程、あっけなく勝負に勝ってしまう。彼の武芸の流儀はあまりに「無造作」であり、試合を見ている者達は、そのあまりのあっけなさに「白ける」ほどなのである。
そんな彼は自らの才能について威張る事はない。
あまりにも謙虚で、試合をした相手をいたわる、やさしい心根を持っている。
その「優しさ」や「思いやり」が、また彼の不幸の原因のひとつなのだ。
彼は試合に勝つ度に、相手に済まない様な気がするし、相手もいたわられる事が、かえって自尊心を傷つけられた様な気になる。
そんな訳で彼は藩という組織の中で、何となく浮き上がってしまった。藩に居づらい雰囲気になった彼は、妻の「たよ」と二人で旅に出る。別の藩で仕官の道を探そうというのである。
しかし、どの藩に行っても例のようにあっけなく試合に勝ち、場を「白け」させる。しかも相手に済まない様な気がする。気まずくなる。その繰り返しだ。
彼は自己主張をしない。だからなかなか仕官の道が開けない。
そんな事が続いて、もう旅も七年目に入った。
まだ仕官の道は遠い。
連れ添って旅を続ける妻「たよ」
彼女はもともと九百五十石取りの準老職の娘。いいところのお嬢様だったのである。
しかし、七年の旅は彼女を変えた。
痩せの目立つ頬、尖った肩付き、
「針仕事をする手指がやつれた老女のように痛々しい」と作者は表現する。
結婚して八年半、「たよ」が実家から持ってきたものは全て売ってしまっている
夫婦は、金も使い果たした。
やむなく伊兵衛は、旅費を稼ぐために何度か「賭け試合」をした。
それを知った「たよ」は泣いた。
生活のために金を賭けて試合をするなど、武士に取って恥ずべき行為であると。
もちろん伊兵衛の妻は知っている。夫が比べる者のない程の武芸者である事を。夫にとって賭け試合で勝って、金を稼ぐ事など、たやすい事である事を。
しかし「たよ」もまた「武家の妻である」という最後の矜持は譲れない。
「たよ」は夫に二度と賭け試合をしないと約束させるのである。
ある日、夫婦は安宿に泊まる。
当時の最下層の人達が泊まる様な宿である。
長雨に祟られ川が超せない。安宿に泊まった人達は皆、貧しい。貧しい上に長雨のため宿の費用がかかる。皆困窮している。やがてケンカが始まる。見かねた伊兵衛はこっそり宿を抜け出す。固く妻に禁止されていた賭け試合をするのである。そして賭けに勝った金で宿の者に料理を振る舞った。
宿の民は、思わぬ御馳走の振る舞いに狂喜乱舞する。その裏で三沢伊兵衛は土下座して妻に謝るのである。
「もう致しませぬから。このとおりです」
そんな伊兵衛の姿は、滑稽でもあるのだが、別の光線を当てれば、それは極めて残酷な光景でもある。
そんな気まずい事が合った翌日、伊兵衛はある事件に出くわす。
若く血気盛んな武士達が果たし合いをしていたのだ。
彼は割って入り、ケンカをやめさせたのである。
もちろん武士同士のケンカだ。お互い刀を抜いて、生きるか死ぬかの真剣勝負だ。しかし、伊兵衛は彼らから、いとも簡単に、ひょいひょいと刀を取り上げてしまう。
それはまるで大人が幼児をあしらうようだった。偶然その様子を見ていたのが、通りがかった藩の家老である。
伊兵衛のその手際の良さ、無類の強さを目撃した家老は、自邸に彼を招いた。
酒肴でもてなしを受けた後、伊兵衛は家老に勧められ、二人の武芸者と試合をする。もちろんこれもあっけなく伊兵衛が勝ってしまった。
この一件を宿に戻り、妻の「たよ」にうきうきと話しをする伊兵衛。
もしかすると仕官の道が開けるかもしれない、いや、今度こそはうまくいきそうだ、という表情。
しかし「たよ」は違った。
「用心深く諦めた顔つきで頷いただけだった」と作者、山本周五郎は淡々と物語る。
読者としては、もうここら辺で主人公、三沢伊兵衛に希望を持たせてやってもいいじゃないかと言う気分になる。だが、作者、山本周五郎の視線は、ここでは妻「たよ」の気持ちに寄り添っているのである。
彼女は自分に言い聞かせているに違いない。人を簡単に信用してはならない。希望など簡単に持ってはいけないのだと。
それは期待を何度も裏切られた者だけが体得した、自らを守る術なのである。彼女は長旅の間に自分たち夫婦のこころを傷つけない「悲しい技」を身につけてしまったのだ。
ところが、一転、希望の光が差し込んでくる。
伊兵衛に次の晴れ舞台が用意されていたのだ。
藩主の前で試合をし、その腕前を披露する事になったのだ。
藩主は特に武芸に熱心だった。
試合の結果は上々であった。
若い藩主から直々に
「ぜひ、当家に仕えるように」と言葉をかけられる伊兵衛。
彼は宿に戻り、妻に報告する。
「仕官の望みは九分どおり確実です」
ここで作者、山本周五郎はようやく、読者と伊兵衛をほっと安堵させるのだ。
しかし、妻「たよ」はそれでも全てを受けるいれることがない。
九分どおり確実と分っていても、それでも信じようとしない、安心しない妻。
「たよ」の性格を変えてしまう程、いかに七年という放浪の旅が過酷なものであったかが、読者にもうかがい知れるのである。
ここで作者、山本周五郎は
「伊兵衛としては、それが哀れであり、どうかして少しでも安心させてやりたいと願わずにはいられなかった」と伊兵衛の思いを語らせている。
そして、ついに待ちに待った城からの使者が馬に乗って宿にやってきた。
使者は挨拶を述べる。
「あなたは類い稀なる武芸者。当方としては既にお召し抱えと決定……しかかったのですが……」
なんと、ここで伊兵衛も読者も、最後の大どんでん返しを喰らう。まさに奈落の底に突き落とされてしまう。
あの賭け試合の一件が誰かによって密告されたのだ。
賭け試合をするというのは「武士に取って不面目の第一」であるという理由で
「残念ながらこの話しはなかったものとお思い下さるように」
使いの者は冷ややかに言い放つ。そして家老からの心付けとして、旅費の足しにと、いくらかの金を置く。
「いや、とんでもない」と泣く様な顔でその金を受け取らない伊兵衛。
この時、妻「たよ」の感情が、そして作者、山本周五郎の、溜めに溜めてきた感情が一気に爆発するのである。
「いいえ有難く頂戴いたします」
彼女はあえて金を受け取る。そこにはいつものあきらめ切った様な、やつれた「たよ」の姿はない。武家の妻としての凛とした姿がある。
「主人の賭け試合で大勢の人たちがどんなに喜んだか、どんなに救われた気持ちになったか」
とあふれる感情を抑えきれず、使者に訴えるのだ。
「たよ」は今度は伊兵衛に向かって言う。
「これからはいつでも賭け試合をなさって下さい、そしてまわりの者みんな、貧しい、頼りのない、気の毒な方たちを喜ばせてあげて下さい」
この物語のクライマックス、最高の見せ場である。
武士として、いや、人間として、何を為すべきか?
人々が苦しんでいるのを見てそれを助けた夫、伊兵衛を、妻「たよ」は初めて認め、そして「許す」のである。
彼女には分ったのだ。人間には何が必要なのかを。何をしなければならないかを。
使者は帰った。
やがて夫婦は連れ添って安宿を出る。また、新たな旅の始まりだ。
二人で峠を越した。
その時、眼下に広がる城下町が見えた。素晴らしい眺めだ。十万五千石の城下町である。
伊兵衛はにこやかに妻に語りかける。
「元気を出してゆきましょう」
「わたくし元気ですわ」
微笑み返す「たよ」の姿。
物語はここで終わる。
正に名画のワンシーン。
ちなみに私は、あのチャップリンの映画のラストシーンを思い浮かべた。
「モダンタイムス」
どこまでも続く一歩の道。放浪紳士チャーリーは、仕事をなくして泣きじゃくる踊り子に
「笑って、スマイル!」
とほほえみかける。
そして一筋の道を二人手をつないでどこまでも歩いてゆく。
その後ろ姿を小さくなるまでじっくりと撮り続けるキャメラ。
「カーット、はい、OK!!」
私には、ここで黒澤明監督の声が聞こえるようだった。
そう、この山本周五郎の短編小説「雨あがる」は黒澤監督最後の映画になるはずだった。
脚本は黒澤監督自身が書いた。それが彼の遺稿となった。
実は黒澤監督は、この「雨あがる」のエンディングに一捻り加えた。
黒澤版の脚本には、伊兵衛をどうしても欲しい若殿が、部下を引き連れ、自ら馬に乗って伊兵衛の後を追いかける、という設定になっている。
更には、追いついた殿様が伊兵衛に藩に留まる様、自ら説得するという結末になっているそうだ。実際このラストシーンは後の映画化の際、撮影もされたのだが、映画では使われてはいない。
「雨あがる」は映画作品としても成功を収めた。かつての黒澤組のスタッフが結集してこの映画作品は生まれた。監督は黒澤組の助監督を長く務めた小泉 堯史氏である。彼らこそ黒澤監督に鍛えられた現代映画界のサムライ達だ。
黒澤明という映画監督の叶わなかった夢を、遺稿を、どうしても映像化したい。スタッフ達の執念が実った作品と言える。
邦画の世界において黒澤明監督は天皇とも神様とも呼ばれた。「世界のクロサワ」と名を轟かせた名監督は、近寄りがたい程の威厳に満ちていた。また実際近寄りがたい存在として、半ば恐れられていた存在でもあった。
ところが、そんな黒澤監督が描くのは、意外にも市井の人々であり、世の中の底辺で生きる人々であった。
代表作「七人の侍」で黒澤監督は主人公勘兵衛にこう言わせている。
「また、負け戦だった。勝ったのは農民達だ」
「七人の侍」では、黒澤監督の心のフォーカスは、むしろ、名もない「農民たち」に向けられていたのである。
黒澤監督は弱い人々の心に寄り添っていた。彼は山本周五郎の作品を愛読し、そのいくつかを映画化した。
「赤ひげ」「椿三十郎」「どですかでん」そして「雨あがる」
映画評論家の故淀川長治氏は言う。
「クロさんはね。シャイでね、とっても優しい人。威張ってなんかいませんよ。そんなの大ウソ」
その優しさが山本周五郎作品を多く取り上げる事となったのだろう。
そして「雨あがる」のラストシーンにおいて、三沢伊兵衛と妻たよに救いの手を差し伸べたのだろう。
「人間はみな悲しいんですから」
山本周五郎は、主人公三沢伊兵衛にそう語らせた。
人は歳を重ねるごとに、木と同じように、こころに年輪を重ねてゆくものらしい。
五十路という年輪を持つわたしに、伊兵衛の言葉が、山本周五郎の人を思う優しさが、その年輪に共振してくる様に思えてしかたがないのである。
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映画作品データ
第26回日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞
第56回ヴェネツィア国際映画祭 緑の獅子賞受賞
監督 小泉 堯史
脚本 黒澤明
主演 寺尾聰、宮崎美子、三船史郎
製作 1999年
上映時間 91分
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『ヘ?ニスに死す』予告編
***美に溺れ美に殉じてゆく男***
神戸元町のシネリーブルさんで新たにデジタルリマスターされた「ベニスに死す」を観てきました。僕はこう言ったアート系の映画は大好きです。そのアート系の極致ともいえる美しさを醸し出している、正にアート系映画の代名詞それが「ベニスに死す」です。
まあ、言ってみれば絵画を鑑賞すると思ってご覧頂ければ良いでしょうね。だから美術館で絵を観るのなんて退屈でしょうがない、という方には全然お勧めはしません。
それにストーリーなんて、あるのかないのかよく分からないぐらいです。
高名な作曲家が休養にベニスにやってくる。そこで出会ったある少年の完璧なまでの美しさにただただ感動するというお話なのですから。
セリフも極端に少ない。しかし、この映画が持っている雰囲気が僕はとても好きなのです。
作曲家はホテルに一人で休養に来ています。元より人嫌いなんですよね、この人。
ホテルで優雅に過ごすご夫人方。その衣装の美しさも鑑賞しましょう。それにヨーロッパのホテルの気品あるインテリアも雰囲気がいいです。
映画が淡々とそう言った絵画的な風景を映して行く中、作曲家の今までの出来事がフラッシュバックのようによみがえります。
彼は自分の才能にある限界を感じ始めている様です。新しい試みとして発表した曲も観客からは大ブーイング。
彼は打ちのめされ、精神的にずたずたになった状態でこのベニスにやってきたのでした。彼はこのホテルのラウンジで、ある富裕層の家族に眼を止めます。
その中の一人の少年に彼の眼は釘付けになります。
まるでミューズの神が舞い降りたかと思わせる神々しさ。そして美しさ、無邪気さ、儚さ。
あらゆる美を凝縮し、それを蒸留して人間の形に神が作り賜うた、それがその少年の姿でした。
それは一歩間違えばホモセクシャリティと思われるかもしれません。しかしこの作品には美の中のエロスに付いては描かれておりません。
むしろ丹念にそれを排除しているかの様です。美の象徴としての少年の美しさに作曲家は完全に打ちのめされたのでしょう。
自分の追い求めていた音楽的な美は、いったいなんであったのか、そんな風に彼は感じたのではないかと僕には思えました。美を追い求めるあまり、自分が美というものに溺れて行く姿。そして彼は美に殉じる男になってゆくのでした。
監督 ルキノ・ヴィスコンティ
主演 ダーク・ボガード、ビョルン・アンドレセン
製作 1971年 イタリア、フランス
上映時間 131分
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映画『幸福の黄色いハンカチ』予告編
***この作品を超えるロードムービーは今後出てくるのか?***
「幸福の黄色いハンカチ」はDVDで何回か鑑賞しましたが、その時もジーンと心にしみる良い映画だなぁと思っていました。僕は公開当時スクリーンでは観ていないのです。是非一度スクリーンで観てみたいものだと思っていました。
それが先日、新神戸オリエンタル劇場でこの作品の上映会があり、運良くスクリーンで鑑賞出来ました。
新神戸オリエンタル劇場は、新幹線新神戸駅を降りてすぐの所にあります。三階席まであって立派な劇場ですね。毎月のように過去の名画の上映会を催しております。
さて、この作品、やはり高倉健サンの演技が引き締まっていて、どなたもレビューしておられる通りやっぱりシブいですね。刑務所から出所したばかりの男、島勇作を演じております。
六年間の刑務所暮らし。
出所して初めてのシャバでの食事。
彼は食堂に入ります。椅子に座り、まずはビールを注文する。
六年間飲めなかったビールです。目の前に置かれたコップに食堂のおばさんがビールを注ぐ。この目の前にあるビールを昼間から飲んでも、もう誰からもとがめられる事はありません。もう看守の眼を気にする事もない。自分は自由の身になったのです。
目の前のたった一杯のビールを前に彼はしばらくためらいます。
この一杯のビールをどんなに待ち望んだ事だろう。
彼は両手でがっしりとコップを持ち、おもむろにビールを飲み干します。
このときの高倉健サンの表情。無言の演技、真実味の素晴らしさ。
すごいです。これぞ演技です。
これが男のビールの飲み方ですね。いやぁ〜、このシーンを観るだけでもジ〜ンときてしまうなぁ。
この「幸福の黄色いハンカチ」はいわゆるロードムービー仕立てなんですね。クルマで北海道のあちこちを移動しながら物語は進んでゆく。その途中、時々挟み込まれる島勇作の過去のエピソード。これが実に自然で違和感がない事に改めて気づかされました。
普通、回想シーンを度々入れると、その都度時間軸は過去へ戻る訳です。下手をすると現在進行中のストーリーの流れを、ブツ切りにしてしまいかねません。作品がぎくしゃくすると思うのです。この作品はその辺り実に見事な編集と言えると思います。
キャストはこの作品の目玉といえるでしょうね。
この作品で一気に俳優というキャリアが開花した武田鉄矢。全然モテないけど、女が欲しくてたまらないと言う性欲持て余し気味の花田欽也という男を演じます。
失恋して、心の傷を癒しに来た内気な女性、朱美を演じる桃井かおりも良かった。若い二人のカップルのお互いの心のすれ違い、そして一緒に旅を続けるうちに徐々に欽也を好きになって行く朱美。
映画の終盤、勇作の奥さんが掲げているかもしれない黄色いハンカチ。そのハンカチを見に行く勇気のない勇作。もう自分の元から妻は離れていったはずだと思い悩みます。
「勇さん、見るのが怖いのなら私が代わりに見てあげる。それなら良いでしょ」と優しく語りかける朱美。
この三人の不器用で奇妙な旅の終わりに、朱美は人の心を思いやる人間の成長をみせています。人が人の心を思いやるという尊い行為。
「行こうや! 勇さん」と勇作の背中を押す欽也。
彼もまたこの旅で成長したのです。
ラストシーン、黄色いハンカチがたなびく下、勇作と奥さんは六年ぶりの再開を果たします。それをあえてアップにせず遠景のショットで一つの風景として絵を撮った山田監督の絵心。
ニクいですね。このシーン、セリフもありません。これがまた良いんです。
奥さんはただ顔を伏せて泣き、勇作は黙って奥さんの肩を抱いて家の中へ入る。
何度みても感動する名シーンです。
改めてスクリーンで鑑賞出来た事に満足感を覚えた作品でした。
監督 山田洋次
脚本 山田洋次、朝間義隆
出演 高倉健、倍賞千恵子、武田鉄矢、桃井かおり
製作 1977年 108分
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Buffy Sainte-Marie 映画「いちご白書」 The circle game
***僕はこの学生達を嫌いになれない***
今次の小説を書こうと思って色々と下調べをしている最中です。
その中でちょっと興味があるのが1960年代から70年代にかけての学生運動。
あの頃活動していた全共闘世代が今何を思ってどんな生活を送っているのか、興味があるのです。
その頃の時代の雰囲気を感じたくて映画を見ました。
「いちご白書」です。
あの有名な曲「いちご白書をもう一度」の元ネタになった映画ですね。
皆さんご覧になったことがありますか?
僕は確か子供の頃に一度観た様な記憶があります。
レンタルビデオ店には置いていない。ところが、行きつけにしている近所の母校の大学のライブラリーにひっそりとあったのです。レーザーディスクと言う絶滅した記録媒体で……
主人公はボート部で毎日練習に明け暮れる、ノンポリ学生。
このノンポリという言葉自体、今では絶滅していますな。
一部の学生達が大学の民主化や黒人学生を受け入れろ、戦争反対を訴えて学長室に立てこもっていた。学内は騒然としている。全学ストライキのため授業はなし。
ただ、学内占拠やストライキに反対する学生達もいた。占拠している学生達を共産主義者、「アカ」呼ばわりした。
主人公のノンポリ学生はただ、気になっていた女の子がその学内占拠に関わっていたのでちょっと覗きにいく。そこから彼は学生運動にはまり込んで行くというストーリー。
僕はこの映画で描かれる、学内占拠をした学生達を嫌いになれない。
なぜなら彼らは自分達の意志で、自分たちの大学を良くしよう、という目的意識を持っていたから。
かつての日本の学生運動が、結局、政党の下請け組織として発足したこと、そう言う機能しかなかったことに僕は大きな幻滅を感じる。
もちろん当時の学生もそれに反発し幻滅した。だから多くの分派が生まれた。
やり場のないエネルギーは、やがてあさま山荘事件で膿みが吹き出し、そして潰れた。
惨めなもんだ。内ゲバ、総括と言う名の人殺し。
学生達のはしかに罹った様な熱気はその現実に嘘の様に冷めた。
僕が大学に入った頃は1980年。すでに学生運動は過去のものだった。
ある先輩はこう言った。
「大学はレジャーランドだ。」
確かに大学生活は最高だった。
興味のある授業に顔を出し、ちょっとアカデミックな雰囲気を味わい、有り余る時間をバイトに当てたり、女の子と遊んだり、夜ごとに酒を飲んで宴会をやっていたりした。
一年だけ学生自治会の委員長をやったことがある。誰も立候補するやつがいなくて、クラス委員をやっていた僕は、頼み込まれて選挙に出た。
立候補は僕だけ。
結局信任ということで委員長をやることになった。
まぁ、生徒会の延長の様な、のどかな自治会だった。自治会ボックスの天井には松田聖子のポスターを張っていたぐらいだから。
年間スケジュールはマンネリ化していて、シーズンになれば判で押した様な学費値上げ反対運動をやり、印刷機を廻し、ビラを配る。他愛もない子供の遊びの様な時間だった。団体交渉の席、学長室で秘書に出されたお茶を飲みながら、
「オレ、こんなことやってたら就職先ないよなぁ」等と思ったりした。
まぁ、でも頑張って一年間活動しているとちょっと目立って来た。とたんにキョーサン党からお声がかかる。僕は拉致され、とあるアジトに連れて行かれた。ミンセー同盟とやらに入ってくれというものだった。
政党の下請け組織なんてまっぴらご免だった。
しょせんこいつらも中央からの指示にヘコヘコ従っているだけの、組織の末端の人間なのだと思うとうんざりしたもんだ。
僕は5時間程粘られたが、結局断った。
今、僕の母校の大学には学生自治会はない。
新聞会の若い学生に「どうしてなくなったのか」と聞いたけど
「さあ?」という返事しか返ってこなかった。
彼らはマンガの「ワンピース」を読むのに忙しかった。
まあそんなもんだ。
さて、いちご白書である。誰が今どきこの映画を観るのだろうか。
映画作品としてあまりにも若く、ほとばしる様な若者の表現で作られた映画である。監督は製作当時28歳だったそうな。もう表現したくてうずうずしているのがよく分かる。カメラのピントはギャンギャン動かしまくるし、カメラ自体も手持ちで動かしまくる。監督自身が酔ったかの様に、熱にうかされて撮影しているのがこちらに伝わってくる。若いのだと言ってしまえば身もフタもない。
そのカメラをおもちゃの様に動かしまくり、いじくり回すその若さ、情熱こそがこの時代の若者そのものを雄弁に物語っている様な気がしてならなかった。
監督 スチュアート・ハグマン
主演 ブルース・デイヴィソン、キム・ダービー
製作 1970年 アメリカ
上映時間 103分
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このところ、全く映画館にも行かず、かなり引きこもりの生活が続いておりました。
ときどきこういう状態になります。久々の映画レビューはDVDから。
何とか僕も「まあだだよ」という具合に生きてますので。ひとまずご安心を。
およそ大衆受けしない内容
アクション無し。内田百間先生と教え子達の交流を描いた作品
先生と慕える人がいるのはうらやましい、と僕は思う。
僕が、先生と慕えるのは、子供の頃に読んだドリトル先生ぐらいだ。
印象的だったのは黒澤監督が見せてくれる、ハッとさせる様な映像。
戦争で自分の家が焼けてしまった百間先生。知人の紹介で掘建て小屋にすむことになった。奥さんと二人が暮らせる最小の空間。つぎはぎだらけのトタン屋根。
黒澤監督はこのみすぼらしい小屋を見せる。カメラは先生の掘ったて小屋を見せながら横に移動する。そのカメラの向こうに見える、焼け落ちてしまった巨大な建物。隣に建っていた、かつての男爵の邸宅である。吹けば飛ぶ様な、堀建て小屋はしぶとく焼け残った。奢れる者も久しからず、世の無常を一瞬で表現する。もののあわれ、そのものの映像。
そこに訪れる四季の美しさ。もみじが赤く染まり、落ち葉となって先生の小屋にハラハラと落ちる。それを静かに掃き清める奥さんの立ち居振る舞いの美しさ。
冬。雪景色。掘ったて小屋に真っ白な雪が積もる。寒い。ガラス障子をそっと開けて、降る雪景色をただ見つめている百間先生と奥さん。
人間って、か弱いもんだな、と思う。自然の中、ちっぽけでけなげに生きている。それを優しく見守る黒澤監督の視線が好きだ。そんなちっぽけな人間が生きている姿が、どことなく可笑しくおもしろい。
先生の教え子達が先生の誕生会を毎年開く。これが「摩阿陀会(まあだかい)」である。教え子達は先生の毎年の健康をうれしくおもいながら、そのくせ「まだ、ポックリ逝ってくれないのかい。」とこの会を開く。先生もそこは充分承知で、あっけらかんと「まぁだだよ。」と答える。
先生の唄う皮肉っぽい「オイッチニッ」の歌に合わせて皆行列を作って楽しそうに唄い、宴会場を行進する。よくまぁ、ここまで馬鹿げた光景を映画に撮ってみようと思いついたものだ、と半ば呆れ、半ば感心する。
黒澤監督は、数々の重厚な人間ドラマや、時代劇の大作も作って来た人である。その人が、なぜこのような小品ともいえる、じつにささやかな一人の先生と生徒達との交流の有様を描こうとしたのだろう。もっと他にスケールの大きな作品が撮れる。大作が撮れる。客が入る映画がつくれるだろうに、なぜこんな作品を作ろうとしたのか、その心境が知りたいと思う。
百間先生役に松村達雄さん。この人の声を聞いているだけで、心がほっこりと暖まる、そんな気がするから不思議な役者さんだ。教え子の一人に事もあろうか、所ジョージを選ぶ、黒澤監督のキャスティングの奇抜さ。
教え子が言うセリフに「先生は金無垢だ」というのがある。
まじりっけなし。子供のまんまの心、感受性を持っている、というのだ。
そんな、希少な人間が「まあだ生きてるよ」という世の中なのだろうか?そうであってほしいと願う黒澤監督のハートを感じる作品である
監督 黒澤 明
主演 松村達雄、香川京子、所ジョージ
製作 1993年 日本
上映時間 134分
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