2015年洋画部門

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天皇と軍隊


映画『天皇と軍隊』予告編

2015年12月18日 神戸アートビレッジセンター にて鑑賞

身悶えしながら考える天皇制

ご承知の通り、日本国憲法には表現の自由が謳われております。だからこそ、右翼も左翼も自由に好き勝手なことが言えるわけでして。そのお互いが放つ、言葉の持つ重みは「等価」つまりは、天秤秤にかけると釣り合うことが必要だと僕は考えます。
例えば左の天秤の皿に天皇についての「言論」をのせる。右に「エログロ、ナンセンスな言論」を乗っけてみる。これが釣り合う。それが表現の自由であろうと思います。「天皇」と「うんこ・おしっこ」「SEX」は同列に論じて構わないのであります。

本作はフランス制作と銘打っているわけです。
先の太平洋戦争で、直接、戦った国同士ではないので、そのあたり、第三国から客観的に天皇という存在をクローズアップできるのかな、と期待したのですが、監督は日本人でした。
やはりこれはフランス人など、外国人監督の視点で鋭く切り込んで欲しかった気がしています。
本作は、太平洋戦争の終結。GHQによる占領、戦犯の逮捕、東京裁判、新憲法の成立。安保条約締結。高度経済成長へひた走る日本の姿、その中で天皇とは一体どんな存在であったのか?を描いたドキュメンタリーです。
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90分の中にこれらの歴史上の重大事件を描くわけですから、それこそ教科書的にならざるをえないわけですね。一つ一つの出来事自体が、それこそ2時間あっても描き足りないぐらいの「歴史の重み」をもっております。

その歴史の真っ只中を生きた元特攻隊員でもある、田英夫氏の言葉。また、新憲法の草案を七日間で作れと厳命された、元GHQ職員の女性の証言。様々な立場にいた人たちにとって、自分が放つ証言は、自分がかつて属していた組織の考え方や、逆にそれに対する猛烈な反発、それらが今も亡霊のようにそばに寄り添っているわけですね。かっこいい言葉で言うと「バイアス」がかかった証言になりかねない。
本作では右翼の論客である鈴木邦男氏にもインタビューを行っております。
はっきりと自身を「右である」と前提して、国のあり方や、日本特有の「天皇制」を論じることができる、数少ない論客でしょう。
その最たる人、ある意味「右のアイドル」的存在が「三島由紀夫」という存在だったと思います。本作では海外でも評価の高い三島文学、その作者が、なぜ市ヶ谷駐屯地で「花と散る」行為を行ってしまったのか? をサラリと描いております。
かつて日本はアメリカと、無謀な戦争をやりました。ノーベル賞を受賞した日本のある科学者は言いました。
「それこそ”げんこつ一個”でやられちゃった」
それほどの惨敗でした。国力の違いを見せつけられてしまったわけです。
敗戦後の日本は、どの方向へ舵を進めるべきか? 日本を占領したアメリカGHQ、そしてマッカーサーが着目したのが「天皇制」でした。
日本人の心の拠り所。その天皇を絞首台に吊るすのは簡単でした。
しかし、あえて天皇の首を刎ねることなく、日本の人心をまとめる「シンボル」として「活用」「利用」する価値が大いにある、と占領側は判断します。
その結果、日本国憲法には「主権は国民」にあるが、天皇はその主権を持つところの「国民の象徴」であるとされています。
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なお、本作では触れられていませんが、A級戦犯の処刑された日。これは12月23日の未明でした。この日は何の日かご存知ですか?
そう、現在の天皇誕生日です。昭和天皇は、自分の長男の誕生日が来るたびに恐れおののいたでしょう。昭和天皇の誕生日ではなく、あえて未来の世代である、皇太子の誕生日にA級戦犯を処刑したこと。
「いつでもお前を吊るせたのだぞ、未来永劫、この日を忘れるな」というGHQの無言の圧力であったとおもいます。ちなみにA級戦犯の起訴日は昭和天皇の誕生日でもあります。
これはあくまで私見ですが、GHQは天皇制を叩き潰す意図を持っていた、しかし、マッカーサーの強い意志で存続することになった。少なくとも後世に、天皇制はGHQの支配下にあった、という意思表示を示したかったのではないでしょうか?
これについて右寄りの人々は「けしからん」と腹をたてるでしょうし、だからこそ、アメリカに押し付けられた憲法を今こそ改正すべきだ! と気炎を上げるのでしょう。
では、改正をして何をなさりたいのでしょうか?
元の「大日本帝國憲法」のような「天皇大権」を復活させるべき、ということでしょうか?
ある人々の考えは、アメリカからのしがらみから、真の独立を果たしたい。
そのための必要条件として、いざとなれば、他国と戦争ができるように法整備しておきたい。
しかし、よく考えていただきたい。
日本は資源のない国です。
日本の自衛隊ご自慢のハイテク兵器も「油」がなければ、ただのオブジェです。
それこそ、戦前の軍部を指導した人たちが唱えた
「精神力こそ無限のエネルギーである」という子供騙しな空理空論を謳い上げたいのでしょうか?
今のままでは、どう考えてもアメリカとの主従関係は断ち切る事はできないでしょう。
だから、アメリカが日本も軍事協力してくれ、と言われれば断れない。
それがいやで、アメリカと縁を切るなら、戦前の軍部のように、再び東南アジアへ進出しますか?
エネルギーひとつの問題だけでも、もう身悶えして考えなくてはなりません。
戦後の日本と天皇制、アメリカとの関係などを考える時、この東洋の辺境にある島国は、実に際どいバランス感覚で、綱渡りを行ってきたと言えるでしょう。
戦後70年の節目、この島国は今まで順調に保ってきたバランス感覚、その際どい綱渡りを行ってきた、という認識自体を失っているように思います。
この日本特有の歴史とつじつま合わせをやってきた天皇制、ないアタマをひねくりまわして、考えて、考えて、考え抜く自分の姿。ある作家は「あいまいな日本」という言葉を使いました。訳が分からない「あいまいさ」「あいまいな国」のあり方を、身悶えししながら、考えることこそ、日本人に課せられた宿命なのかもしれません。
**************
天見谷行人の独断と偏見による評価(各項目☆5点満点です)
物語 ☆☆☆
配役 ☆☆☆☆
演出 ☆☆☆
美術 ☆☆☆☆
音楽 ☆☆☆
総合評価 ☆☆☆
**********
作品データ
監督   渡辺謙一
主演   田英夫、ジョン・ダワー、樋口陽一、小森陽一
製作   2009年 フランス
上映時間 90分

黄金のアデーレ 名画の帰還 予告編

2015年12月14日  OSシネマズミント神戸 にて鑑賞

素材はすべて超一級品なのだが

音楽の都、芸術の都といわれるオーストリア、ウィーン。モーツァルトやベートーヴェンが住んだ街であり、ここで開かれる音楽祭には世界各国から観客が押し寄せる、世界有数の観光都市。そこが故郷なんて、日本人からすると羨ましく思いますね。
だけど、その故郷に、二度と帰りたくない、と思う人物もいるのです。
華やかなウィーン。実は影の顔があります。ウィーンがあまり表に出したくない、忌まわしい過去。
かつてナチスドイツがウィーンを併合したとき。ウィーン市民たちは、あのヒトラーを大歓迎して出迎えました。
やがてウィーンでもユダヤ人の迫害が始まります。
迫害などという生易しいものではなかった実態が、本作でも描かれます。
それはナチスがユダヤ人を「狩りの獲物」のように執拗に追回し、狩っていたのです。

本作については、正直、やや期待しすぎました。
なにせ、主演はエリザベス女王を演じたキャリアを持つ、ヘレン・ミレンですよ!
僕はヘレン・ミレンが演じた「クィーン」を観ました。

そのとき僕は、精神状態が極めて敏感になっていた時期でした。
上映中、あまりにいたたまれず、途中退席した記憶があります。
それは作品が稚拙だったからではありません。その真逆です。
作品が素晴らしすぎたのです。
ヘレン・ミレン演じる、エリザベスのあまりの孤独、疎外感、その波長が、当時、僕が置かれていた境遇と、まさに振幅がぴったり合ってしまったのです。
小さな振動でも、ある周波数の波長が合うと「共振」という現象が起こります。それは巨大な橋梁でも破壊してしまう巨大な力となります。
僕の精神の中に、まさにその「共振」が起こったのでした。
ヘレン・ミレンの演技によって僕の心が破壊されそうになったのです。
それほどすごい作品であり、名演でした。
そして本作では、作品のモチーフとして、グスタフ・クリムトの傑作と名高い「黄金のアデーレ」という肖像画が登場します。
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ナチスによって強奪された、この名画の返還を求めて、主人公マリア・アルトマンがオーストリア政府を相手に訴訟を起こし、ついに名画を取り戻すという、奇跡のような本当の話がベースになっているのです。
セミドキュメンタリー仕立てなのですね。
「事実は小説より奇なり」はまさに真理です。
頭でこねくり回したストーリーより、ドキュメンタリーの方が数百倍も面白い。興味深い。
これだけの「美味しい」材料をギュッと映画作品に押し込んだのが本作。
面白くない訳がない!!
とあなたも、思うでしょう? 僕もそう思ったから観に行きました。
ところが、実際は、残念ながらイマイチでした。
告白すると、前半はうかつにも寝てしまいました。
最大の問題は、編集でしょうね。
映画の後半などは、安物の紙芝居のようにポンポンとストーリーが展開してゆきます。
ヘレン・ミレンの重厚な演技を期待したいところでしたが、これが監督の趣味の問題なのか、意外にあっさりとした味付け。
むしろ素晴らしかったのは、回想シーンにおける、若い頃の主人公。それを演じた、日本ではほとんど知られていない女優さん、タチアナ・マズラニー。
この人は良かったねぇ〜。ちょっと大竹しのぶさんに似ていますよ。
ナチスの追っ手が迫ってくる。夫と共に、オーストリアからアメリカへ脱出を目指します。隠れては逃げ、隠れては逃げ、あと少しで飛行場までたどり着く、その緊迫感。
ナチは、逃げるユダヤ人相手には平気でピストルを向ける、発砲する。もう、相手を人間と思っていないのです。そういうナチスの手から逃避行をする緊迫のシーン。これはよかったですよぉ〜。
当時、ユダヤ系の人たちがどのような形で、国外へ逃れたのか? 本当に命がけの逃避行であったことがわかります。
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それから、本作において、ヘレン・ミレンが、あえて「ドイツ語訛り」の英語を話していることに、皆さん気づかれましたか? その辺りはさすがですね。
それから、ウィーンの新聞記者役のダニエル・ブリュール。彼はもう、抜群でしたね。むしろ本作において真実味や、重厚さを与えたのは、彼の存在感が大きかった。彼のドイツ語でのセリフ回し、これが何より作品に緊迫感とリアルさを与えていて素晴らしかった。
彼の主演した「コッホ先生と僕らの革命」


「ラッシュ/プライドと友情」 どちらも僕は鑑賞しました。素晴らしい俳優さんに成長していますね。


本作では、訴訟を起こすキーマンとなる、若いアメリカ人弁護士、この人は作曲家のシェーンベルグの子孫なんですね。ウィーン政府相手に大胆な訴訟を起こし、一度は挫折を味わうわけですが、その後、アメリカでも訴訟を起こせる、と思いつき、再度アメリカにおいて訴訟を起こします。この辺りの彼の複雑な心境、自分の出自、そして、もう一度訴訟を起こそうと決意する、そのあたりの心の揺れ動き、一つの国を相手に一個人が訴訟を起こすという、極めてレアなケースの訴訟を、「どうしてもやり抜くんだ」という決意。それが、どうして彼の心の中で生じたのか? その動機をうまく表現できないもどかしさを感じてしまいました。このあたりがちょっと残念。さらには「黄金のアデーレ」という名画、とクリムトという絵画界の大スター、これをもう少し掘り下げて描いても良かったのでは? と美術ファンなら思うところなのです。その辺りに食い足りなさを感じてしまう作品でありました。
いやぁ〜、作品を構成する素材はすべて超一級品ばかりだったからこそ、それを生かしきれなかったのは、残念でなりませんでした。
**************
天見谷行人の独断と偏見による評価(各項目☆5点満点です)
物語 ☆☆☆
配役 ☆☆☆☆
演出 ☆☆☆
美術 ☆☆☆☆
音楽 ☆☆☆☆
総合評価 ☆☆☆
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作品データ
監督   サイモン・カーチス
主演   ヘレン・ミレン、ライアン・レイノルズ
製作   2015年 アメリカ、イギリス合作
上映時間 109分

顔のないヒトラーたち


『顔のないヒトラーたち』予告

2015年12月3日 シネ・リーブル神戸 にて鑑賞

「悪」は常に平凡な者を狙う。

罪を犯した個人が、自分を客観的に見つめることは、それだけで勇気がいる。
ましてや、国家ぐるみの戦争犯罪を、国家が率直に認めることは、なおさら難しい。ドイツはそれをやってのけた。
うがった見方をすれば、ドイツにはヒトラーという「独裁者」圧倒的な「ワルモノ」がいたことで、反省を早期に促す、ある種の触媒になったのではないだろうか? 
ヒトラーという、人類史上類を見ない独裁者に罪を被せることで、ドイツは贖罪をしやすい土壌がすでにあったのかもしれない……と僕は、勝手にそう思い込んでいた。
ところが、本作を鑑賞してびっくりした。
本作で描かれる1950~1960年代。当時の西ドイツでは、けっして国全体で戦争犯罪を見つめようとする姿勢は、まだなかったことが伺い知れるのである。
というのも、その頃まだナチスに加担した人は存命であり、その数、なんと数千人。ごく普通の「善良な市民」として、ドイツ国内に紛れ込んでいたのである。
本作は、新米の裁判所検事ヨハンが、かつての「ナチス」党員の、アウシュヴィッツでの犯罪を徹底的に追及してゆく、というストーリーである。これは事実に基づいたセミ・ドキュメンタリーだ。
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主人公の若い検察官ヨハン。彼にまわってくる事件、案件は、せいぜい交通違反の罰金をいくらにするか? などという小さな案件ばかりだ。
なにせ彼はまだ検察官になりたて、ペーペーの新人なのだ。お役所の中にあって、最も低いヒエラルキー、ポジションしか与えられていない。
ある日、ヨハンは新聞記者グルニカから、一つの情報を知らされる。
「元ナチの親衛隊員が教員をやってるんだ、こんなこと許されていいのか?!  そいつは元、どこにいたと思う? あのアウシュヴィッツだぜ」
このとき1958年、戦後すでに13年が経ち、ドイツの人々は、あの忌まわしい戦争を忘れよう、としていたのが、本作からうかがえる。
なんと当時、ドイツの若者の多くは「アウシュヴィッツ」という象徴的な「単語」さえ知らない者が多かったらしい。
グルニカからの有力情報は、お役所の中では誰も相手にされなかった。
しかし、ヨハンは若さゆえの正義感からだろうか、この新聞記者の告発を調べてみようと思い立つ。
しかし、それはまさに決して開けてはならない「パンドラの箱」「迷宮」「地獄への入り口」に他ならなかった。
ヨハンはまったくそれに気がつかずに、そのドアを開けてしまったのである。

ナチス容疑者の内偵を密かに進める、主人公ヨハン達検察チーム。
かつてのナチ党員は、ある者は学校教師として勤め、ある者は街のパン屋さんとして実直に働いている。
ニコニコしながら美味しいパンを焼く職人さん。この好人物が、まさか元ナチス党員とは誰も思わないだろう。
しかしアウシュヴィッツ強制収容所で、幼い子供を壁に何度もぶつけ、なぶり殺しにしたのは、今パンを運んでいる、まさにこの男なのだ。
また、大量のユダヤ人をガス室に送り込んでいた男が、いまや教師として平然と勤務していたりする。
やがて、この「アウシュヴィッツ」を巡る事件は、西ドイツに住む人々、ほぼすべての人が「ナチスに加担していた疑いがある」という問題に発展してゆく。ヨハンはやがて自分の父や母でさえ「ナチスの協力者」ではなかったか?
という壁にぶち当たる。
「しょうがないじゃない、そういう時代だったんだから!!」
誰もがそういう。ヨハンの恋人さえも。
だが、ヨハンには心強い味方がいた。
職場のトップ。首席検事バウアーである。
彼はユダヤ人だった。
「しっかりしろ、ヨハン。まず被害者と加害者を特定しろ。確実な証拠を掴むのだ。 明らかな犯罪行為を立証するんだ! 私がこの職にある間にな……」
この事件を引っ掻き回すことは、西ドイツ政府にとってもタブーであったのだ。首席検事バウアーは知っている。いつ自分が左遷されるかもしれないことを。
やがてヨハン達、検察チームは、十数人の容疑者の割り出しに成功。彼らを逮捕し、告訴に踏み切る。
こうして「アウシュヴィッツ裁判」が始まるのである。
しかし、ヨハン達が最も追及したかった男が捕まらない。
それは温厚な医師である。
彼は収容所で双子を選び出す。そして数多くの、おぞましい人体実験を行った。男の名前はヨーゼフ・メンゲレ。別名「死の天使」
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1963年12月に始まったこの「アウシュヴィッツ裁判」によって、国家的な犯罪行為が明らかとなる。
本作の公式サイトでは、ドイツのメルケル首相が述べた、追悼式典でのコメントが紹介されている。
「私たちドイツ人は恥の気持ちでいっぱいです。何百万人もの人々を殺害した犯罪を見て見ぬふりをしたのは、ドイツ人自身だったからです。私たちドイツ人は過去を記憶しておく『責任』があります」
時に権力の地位にあるものは、都合の悪い過去を顧みようとしない。更には、「歴史など書き換えてしまえばいい」という、信じられないほど傲慢な態度をとる者もいる。一例を挙げれば、旧日本軍の731部隊については未だに謎の部分が多い。
本作で描かれる、裁判で告訴された被告達。彼らはある種の「みせしめ」に過ぎなかったのかもしれない。
「もっと悪い奴はいる」
おそらく被告達はそう思っていただろう。事実ヨゼーフ・メンゲレは、まんまと逃げおおせ、一度も逮捕されることもなく天寿を全うした。死因は水泳中の心臓発作だった。
本作のタイトルは「顔のないヒトラー達」
実は、善良な一般市民、僕も含め人の心の中には当然、すくなからず「悪」が存在し、残虐性や、攻撃性もある。
そしてなにより、それらは「凡庸な」「普通の」人々の、こころのなかに、そして日常生活の中に、こっそりと潜んでいる、ということである。
ガス室へ送られたのは普通の市民だった。
そしてガス室へ送ったのも、また、「普通の市民」だったのである。
人々の心の中に巣食う「小さな悪魔」をうまくあやつる「扇動者」が出現した時、小さな悪魔はその本性を剥き出しにする。

「巨悪」を平然と行う、「暴力装置」へと変貌するのだ。
その本質は、意思を持たない怪物、別名「群衆」なのである。
以前僕は「ハンナ・アーレント」という作品を鑑賞した。

ナチスの戦争犯罪者アイヒマンの裁判を傍聴した、哲学者ハンナ・アーレント女史の伝記映画である。ハンナ・アーレントは裁判を傍聴しながら気づく。アイヒマンは中身が空っぽの男なのだ、自分の意思というものがまるでないのだ。
被告席に座る男は、単なるヒトラーの「イエスマン」だったのだ。
裁判を傍聴する過程で彼女はやがてひとつの「確信」を得る。
「平凡な市民」の中に巣食う「悪」こそ着目すべきだ、ということを。
それは扇動者に利用されれば、恐るべき「浸透力」「伝染力」を持って「大衆」を瞬く間に支配するのだ。
ハンナ・アーレントは、これを「悪の凡庸さ」と名付けた。

ヒトラーは平凡な男だった、という。
そのあまりの平凡さが「悪のブラックホール」へと大衆を飲み込んでいったのかもしれない。その危険は今も続いている。

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天見谷行人の独断と偏見による評価(各項目☆5点満点です)
物語 ☆☆☆☆
配役 ☆☆☆☆
演出 ☆☆☆☆
美術 ☆☆☆
音楽 ☆☆☆☆
総合評価 ☆☆☆☆
**********
作品データ
監督   ジュリオ・リッチャレッリ
主演   アレクサンダー・フェーリング、フリーデリケ・ベヒト
製作   2014年 ドイツ
上映時間 123分

私たちの質問に答えてほし〜の!映画『シャーリー&ヒンダ ウォール街を出禁になった2人』予告編

2015年11月27日 元町映画館 にて鑑賞

お金じゃないのよ、人生は!

予告編を見たときから、このドキュメンタリー映画は、とっても楽しみにしていた。
電動車椅子に乗るおばあちゃん二人が「経済成長って必要なの?」と大学教授や、ウォール街のセレブたちに果敢に挑む、という内容である。
このおばあちゃん二人は、シャーリーが92歳、ヒンダが86歳。
いわゆる「アラナイ」アラウンド90歳という高齢だ。
アメリカ、シアトルの田舎町に住んでいる。
普段は歩くのも支障があるので、外出は電動車椅子。トコトコと踏切を渡り、スーパーマーケットに向かう。
その途中に、ホームレスの人たちが多くいる。
ニュースや新聞では、年金だけでは家賃も払えなくて、家を追い出された、とか、今は不景気だ、という。それを解決するのが「経済成長だ」と偉い人たちが言っている。
スーパで買い物をしながら、二人は
「もっと無駄使いしろってことなの? いらないモノをたくさん買って、それで世の中良くなるのかしら?」
と素朴な疑問を持つ。
売り場では、陳列された洋服ハンガーにぶつかったり、物を落っことしたりと、何事も若い人たちのようにスムースに動けない。
そんな二人が「アラナイ」にして、ついに経済問題に目覚めるのである。
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なお、本作では明らかに演出が入っていることは明らかである。
それを「ヤラセ」と見るかどうかは、観る人それぞれの主観に任せていいと僕は思う。
以前観た「世界の果ての通学路」というドキュメンタリー映画。

世界各国の僻地の子供達が、学校に行くために、どのような困難を強いられているか、を描いた作品である。
この作品でもやはり、あきらかな「演出」があった。
しかし、それは観客に対して、意図的に事実の歪曲を狙ったものではなかったと僕は解釈している。
さて、シャーリーとヒンダは、「とりあえず、やってみることよ」と、大学に経済学の授業を聴講したい、と申し込んだ。
幸いにも聴講は許される。
教室の中。電動車椅子に乗った二人のおばあちゃん。若い学生たち。なんとも場違いで、ちょっと気まずい雰囲気の中、授業が始まる。
訊きたいことを質問するため手を挙げる、二人の年老いた聴講生。
しかし教授の対応は冷たかった。
「授業中の質問は、一切受け付けない、いやなら退室しなさい」とのこと。
電動車椅子でゆっくり教室を出て行く二人。
でも、いやな先生ばかりではない。
二人はツテを頼って、年老いた物理の教授から話を聞くことができた。
その老大家は言う。
「世の中の人たちは”指数関数”について、何も分かっちゃいませんね」
老大家は、アメーバのたとえ話を二人に披露した。 
瓶の中にアメーバを飼う。
アメーバは1分で二つに増えてゆく、とする。
さて、11時に瓶の中にアメーバをたった一つだけ入れてみる。
しかし12時、アメーバはみるみる増殖し、瓶の中から溢れて出してしまった……と仮定する。
ここで教授から質問。
「さて、瓶の中が半分になったのは何時何分でしょうか?」
シャーリーとヒンダは、ふぅ〜むと考え込む。
やがて、
「そうねぇ、たぶん11時59分でしょ」
ご名答!!
素晴らしい!!ファンタスティック!!
先生はにっこり。
「だって1分で倍になるんですもの。12時の1分前は、瓶の中は半分だったってことよ!」
続いて質問。
「じゃあ、アメーバが、このままだと瓶から溢れる!!と気がつくのは、何時何分でしょうね?」
 老教授はニヤリとする。
そう、瓶に半分の時でも、まだ、誰もが気づかないのだ。残された時間は、あと、たった1分しかないのに……
これがまさに今、地球と人類が抱える問題なのだ。
先生は優しく解説してくれる。
「経済を5% ”成長させ続ける”ということは、このアメーバの理屈と全く同じです。全世界の人達が、アメリカの一般市民と同じ暮らしを『維持する』には、地球があと4個か5個、必要なのですよ」
そして首をすくめる。
「もっとも最近宇宙では、地球のような”いい物件”はまだ出回ってませんがね」
環境経済学の先生の話も興味深い。
先生は優しくシャーリーとヒンダに説明する。
「資源を使ったら、その資源が自然によって再生されるまでは、次の資源を使わないことです」
このシーンは数分である。その中で観客である僕が理解するには、ちょっと解説が複雑だった。要するにこれを一言で言い表すのが「サスティナブル」という用語なのだろう。
ー持続可能ー
右肩上がりの成長が全てを解決するのだ、という偉い人たちがいる。勝ち組の論理は、富める者たちが、現状の富をさらに増やし続けるための、都合のいい論理だ。
この人たちはきっと、自分たちが地球をショートケーキのように切り分けて食べ続けていることを自覚していない。
こういう一握りの「特権階級」を自認している人たちが集まる、ディナーパーティーが開かれる。
このパーティーにシャーリーとヒンダ、二人のおばあちゃんが挑む。
「質問したいの!」
「成長は必要なの?」
「私たちに、分かるように教えて欲しいの!」
あまりにも素朴すぎる質問。会場に居合わせたセレブ達は失笑する。しかし、二人は真剣だ。
やがて屈強なボディーガードが現れ、二人はパーティー会場からつまみだされてしまう。
しかも脅迫めいた言葉と共にだ。
こうして二人はウォール街を「出禁」になってしまう……
というのは、実は日本語版スタッフが作ったキャッチコピーである。
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さて、二人にはよく分かっている。
もうじきお迎えがやってくる。
今の自分たちが欲しいのは、「お金」や「モノ」でもなく、憐みでもない。
彼女たちが最も欲しいのは、時間なのだ。
彼女たちは「経済成長は人を幸せにするのか?」という巨大なテーマに出会ってしまった。
それに気がついたのは残念ながら、シャーリーが92歳、ヒンダが86歳になってからのことだったのだ。
この大きな命題を解く鍵が欲しい。それにはもちろん勉強したり、人を訪ねて行ったり、何かと時間がかかる。
彼女たちはある意味、幸せな老人たちなのかもしれない。
自分達の残された時間で、取り組むべき課題を見つけている人だからだ。
その命題が解けるまで、とてもじゃないが「死んでたまるもんですか!」
と二人は奮闘する。
この二人の「怖いもの知らず」の行動に、観客は爽やかさを感じる。
なぜだろう。
おそらくそれは、彼女達が「無私」であるからだ。
彼女達は自分たちの残り時間が少ないことを知っている。
こういう人たちが、何か人のために、と覚悟を決めた時、もう、この世に怖いものなど存在しないのだ。
自分がこの世を去った時、子どもや孫達が、よりよい世界で暮らしてほしい。
よりよい世界を残したい。
そんな「無私の心」が僕たち観客の胸を打つのだ。
ちなみに本作の上映時間は90分にも満たない。82分だ。
しかし、このチャーミングな、おばあちゃん達のエネルギーと、生き続ける勇気に、十分すぎるほどの満足感をもらえる82分なのである。

**************
天見谷行人の独断と偏見による評価(各項目☆5点満点です)
物語 ☆☆☆
配役 ☆☆☆☆
演出 ☆☆☆☆
美術 ☆☆☆
音楽 ☆☆☆
総合評価 ☆☆☆
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作品データ
監督   ホバルト・ブストネス
主演   シャーリー・モリソン、ヒンダ・キプニス
製作   2013年 ノルウェー、デンマーク、イタリア
上映時間 82分

エール!


10/31(土)公開『エール!』予告篇♪
2015年11月16日 シネ・リーブル神戸 にて鑑賞

ポーラの家族にエール!

映画を見終わった後、爽やかな余韻が残る作品です。
エンディングで披露される、主人公ポーラの歌声は圧巻。
彼女はフランスの田舎町の高校生です。
合唱の授業を受け持った音楽教師から、天性の歌声の素晴らしさを見出されたポーラ。
「君をパリの音楽学校へ推薦したい」
ど田舎の集落しか知らない高校生にとっては夢のような話です。
音楽学校入試のための特訓が始まります。
しかし、ポーラは今ひとつ練習に身が入りません。彼女には、一つの悩みがありました。
彼女の家族は、パパ、ママ、弟、みんな耳が聞こえず、話ができない、聾唖者なのです。健常者はポーラただ一人。
本作の冒頭、よく注目してください。一家の食卓の風景が映し出されます。
ママは料理をしている。テーブルにお皿の用意をする。
ここ、バックに音楽を入れてないんです。
そしてママは料理をする時に、鍋を必要以上にガチャガチャ言わせる。お皿とお皿がガチャガチャぶつかる。
これらの音がわざと強調されて観客に提示されます。
ポーラは「うるさいなぁ〜」とうんざりした顔をしているのですが、パパもママも全然気にしていない感じなのです。
だって、パパもママも、これらのうるさい「生活音」は、「聞こえていない」のですから。
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ポーラの家族は一家総出で酪農を営んでいます。自家製チーズを作り、市場で販売する。お客さんとのやりとりは、いままでポーラの担当でした。
でも、もしポーラがパリの音楽学校へ行ってしまったら、残された家族はどうするのか? 
聾唖者の家族が、健常者相手にまともに商売ができるのでしょうか? 
本作は、一人の才能あふれる女子高生と、彼女を愛情たっぷりに育て上げた聾唖の家族のお話です。
障害者というモチーフを作品に持ち込んでいますが、全然暗さや湿っぽさを感じさせない。
むしろ、終始コミカルなタッチで描かれています。
この辺りが監督の手腕ですね。
たくましさあふれるパパ、人一倍ポジティブで、楽天家なママ。
ちょっと根暗だけど、愛おしい弟。
みんな聾唖というハンディキャップはあるけれど、ポーラにとっては何物にも代えがたい家族です。
時にはちょっと厄介でめんどくさいけれど、何があっても家族全員で問題に立ち向かう。それがポーラの家族の特徴なんですね。
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折しも、村長選挙が間近に迫ってきました。立候補者は、この集落に大企業を誘致するんだ!と威勢のいいことをアピールして廻ります。
企業誘致?! そんなことされたら、ポーラ一家の農場だって買収されてしまうかもしれない。そこでポーラのパパはなんと村長選挙に立候補。
集落の農業、酪農を守るんだ!! とパパはやる気満々。
ちょっと暴走気味の姿は、まるでドン・キホーテのようでもあります。
そんなパパをポーラたちも家族ぐるみで応援。
これら一連のエピソードがうまく編集され、この家族の暮らしそのものが、いとおしいほどの「可笑しみ」の表現につながっているんですね。
また、パパ、ママ、ポーラたちは「手話」で話をします。その間、観客は字幕と俳優たちのマイムで会話の内容を知るわけですね。
この部分、要するに「無声映画」なのです。
かつてのチャップリンやキートンが活躍した時代は無声映画でした。
映画俳優は言葉を喋らなかったのです。
本作はその無声映画の時代へ、あえて先祖帰りした感じがあります。
そういえば同じくフランス映画で、第84回アカデミー賞作品賞を受賞した「アーティスト」(2011年製作)という素晴らしい無声映画がありました。

セリフが一切なくても、マイムだけで十分に映画芸術は成り立つのだ、ということを、21世紀の現代で証明した作品でありました。
本作もその流れを巧みに取り入れているのです。
なお、僕が本作で改めて確認させられたのは、フランスは農業大国なのだ、ということです。
日本であれば、家族単位の農業というと「零細」のイメージが当たり前です。
ところが、ポーラの家族農場、その規模の大きいこと。お父さんの乗るトラクターのタイヤは人の背丈より大きいのです。この大きなトラクターで広大な農場の干し草を刈り取り、牛の餌にしています。
そして、ポーラの住む家の雰囲気がまたいいですね。年代を経たであろうと思わせる石積みでつくられた、郷愁を感じさせる家なんですね。
たとえ、家族が聾啞という障害を抱えようとも、ポーラをど〜んと受け止めてくれる、暖かな家庭。その象徴のような石造りの家。
この家族だからこそ、ローラは未来へ向けて一歩を踏み出せたのでしょうね。
**************
天見谷行人の独断と偏見による評価(各項目☆5点満点です)
物語 ☆☆☆
配役 ☆☆☆☆
演出 ☆☆☆☆
美術 ☆☆☆☆
音楽 ☆☆☆
総合評価 ☆☆☆
**********
作品データ
監督   エリック・ラルティゴ
主演   ルアンンヌ・エメラ、カリン・ビアール、フランソワ・ダミアン
製作   2014年 フランス
上映時間 105分

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