一切皆苦 ( 日本は無条件降伏なんかしていない )

常任理事国入りなどと馬鹿なことをいってないで、とっとと敵国条項撤廃を

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管理人エムさまは
ブログ記事「ブッダのことばで、珠のお肌を手に入れよう!」において言う。
人を不安に陥れたり
人を恐怖で萎縮させたり

そういうことは、ブッダにおいては、決して!ないのです。
そうだとすれば、
長部経典第16経 大般涅槃経(ブッダ最後の旅)において、
ブッダが
それだから、アーナンダよ、これはお前の罪である。それはお前の過失である。
と言っていたのが、どうも納得いかない。
何故なら、

あなたのために私は○○しているの。

あなたの所為で私は△△になってしまったの。

は、相手の罪悪感に訴えて、自分の要求を通そうとする
典型的なマインド・コントロールの手口だからだ。
ブッダの場合、相手をコントロールしたいという意思はなかったであろうが、
これでは、確実にアーナンダさんに罪悪感を植え付ける行為
私には思えた。

ブッダともあろうものが、自分の生死の問題を、他人の言にゆだねるなどあってはならない。
これでは「私が自殺するのはいじめっ子にいじめられた所為だ。」と遺書に書く中学生と同じレベルだ。
 
これに対して、管理人エムさまは答える。
>アーナンダよ、これはお前の罪である。

これは、アーナンダが、ブッダに、だだをこねたというかっこうになっているんじゃないかと、つらつら思っています。

ものすごく数え切れないほど、「長生きしてほしくないの、どうなの」とヒントを出しながら、そのたびに、アーナンダは、気がつかず無視してきたので、とうとう、ブッダは、悪魔の言うことを聞いてしまいます。

そのあとで、アーナンダが気づいて、お願いしても、「もう遅い、ちゅーの」っと、言われてしまうのも無理ないかも。

いったん、「涅槃に入るだろう」と約束しちゃったら、取り消せないしね。

そんな風に読めますが、どうでっしゃろ?
 
これは、アーナンダが、ブッダに、だだをこねたというかっこうになっている
これはありかなと思うのだが、

 
ものすごく数え切れないほど、「長生きしてほしくないの、どうなの」とヒントを出しながら、そのたびに、アーナンダは、気がつかず無視してきたので、とうとう、ブッダは、悪魔の言うことを聞いてしまいます。
これは無いんじゃないかと思う。
 
ブッダはブッダの論理によって、
いつまで生き、
いつニルヴァーナに入るか
を決めたのだろう。
もし、アーナンダの懇願があれば、結果は変化したかもしれないが、
ブッダの決断の責任はすべてブッダのものである。
 
そして気づく。
ブッダはアーナンダを責めたわけではなく、アーナンダに対する説法だったのだ。
この世は無常である。
永遠は望むべくもないが、
少しでも現状をそのまま維持したいのであれば、
そのための努力を惜しんではならない。
何もせず、無為に過ごし、失った後で悔やむのは、道理に合わない。
そういいたかったのだろう。
 
しかし、そうだとすれば、
モッガラーナやサーリプッタは何故
ブッダに寿命のある限りこの世に留まるよう
に懇請しなかったのだろうか?

修行完成者は無願であるので、何も望まなかったから?

(追記 2010/05/02)
 しかるにこのとき尊者モッガラーナ、城内において外道のためにうたれ、彼まさに世を終らんとし、サーリプッタに別れをつげんがためにためにかろうじて精舎にかえれり。このとき、サーリプッタ、世尊にもうしていえり。
「われいま滅度(おわり)を取らんと欲す。ただ願わくは聴許(ゆる)したまえ」と、
かくもうすこと三度、世尊は黙然として答えたまわず。サーリプッタ、重ねていわく、
「われまさに般涅槃を取らんと欲す」
このとき、世尊はサーリプッタにつげたまわく、
「衆生の命、短きをもってのゆえに、如来の寿(いのち)もまた短し。われはすでに八十に垂(なんな)んとす。久しく世にあるべからず。いまわれも久しからずしてまさに涅槃を取るべし」と。
「われいま世尊の般涅槃を取りたまうを見るに堪えず」
かく思いてサーリプッタは三昧に入れり。
友松 圓諦著「仏教聖典」(講談社学術文庫) pp356-357
「第217節 サーリプッタの死」より
 

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閉じる コメント(15)

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サーリプッタは阿羅漢。
この岸をわたり終えた修行完成者には、ブッダという筏はもう必要ない・・・とか?

2010/5/1(土) 午後 2:00 [ コタツ猫 ] 返信する

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<コタツ猫 さん>
いらっしゃいませ。

そのはずなのですが、
モッガラーナはサーリプッタに
「われ世尊の般涅槃を取りたまうを見るにしのびず。」といい、
サーリプッタは、記事に追記しましたが、
「われいま世尊の般涅槃を取りたまうを見るに堪えず」と思ったと、
経典に残っているようです。

2010/5/2(日) 午前 7:14 無宗だ 返信する

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(ちなみに、この引用した本には、
ブッダがサーリプッタの死を明示的に悲しんだとの記述はありませんでした。
むしろ、アーナンダに
「愁憂(うれい)を懐(いだ)くことなかれ。」
と述べています。)

2010/5/2(日) 午前 7:18 無宗だ 返信する

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ん〜。友松氏の訳はあってるのでしょうか?

どうにもしっくりきませんね。

2010/5/2(日) 午後 11:34 [ コタツ猫 ] 返信する

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>ん〜。友松氏の訳はあってるのでしょうか?

hahaha.watashi ni kotaereru shitumon dato omou?


>どうにもしっくりきませんね。

そうですか。
「修行完成者」に対して、
過大評価も過小評価もしなければ、
「そんなもんかな」
と納得のいく話じゃないかと、私などは考えます。

2010/5/3(月) 午前 0:38 無宗だ 返信する

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>ん〜。友松氏の訳はあってるのでしょうか?

引用のページ数が、pp356-357 でした。
また、句読点に関して、多少間違いがありました。
それ以外の写し間違いは、ないと思います。

2010/5/3(月) 午前 0:47 無宗だ 返信する

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>hahaha.watashi ni kotaereru shitumon dato omou?
う〜ん。これはとんだ愚問でしたね。

私も同じことを聞かれたら、無宗ださんと同じように答えるかも。

>「そんなもんかな」と納得のいく話じゃないかと、私などは考えます。

こちらは合点がゆきません。
生れたものが死ぬのは当たり前のこと。
阿羅漢たる物が、そんな当たり前の現象が起こったくらいで、動揺してもらっては困ります。

2010/5/3(月) 午前 1:02 [ コタツ猫 ] 返信する

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> 阿羅漢たる物が、そんな当たり前の現象が起こったくらいで、動揺してもらっては困ります。

いえ、いえ。
動揺しているわけではありません。

阿羅漢たる者にとっては、自分の生き死にすらどうでもいいこと。
どうでもいい理由で死んだとしても何の不思議もありません。
(たとえば、飢えた虎の親子がいたので、自分の身を捧げる、とか)
ならば、凡夫にもわかる理由で死ぬというのは、当たり前すぎることなのではないかと。

「単に生きるのに厭きただけ」と考えたら、納得いきませんか?

2010/5/3(月) 午前 1:21 無宗だ 返信する

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う〜ん。なるほど。
「単に生きるのに厭きただけ」ですか。
それならありそうです。

2010/5/3(月) 午前 1:26 [ コタツ猫 ] 返信する

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でしょ?

阿羅漢て、すべきことをし終わった人だから、いわば、生ける屍。
彼らの感情描写を深刻に受け取る必要は、全くないのではないかと。

と、これは言いすぎかw

2010/5/3(月) 午前 1:28 無宗だ 返信する

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ずいぶん前の記事ですが………

>それだから、アーナンダよ、これはお前の罪である。それはお前の過失である。<

ここは誰でもヘンだと感じるのですね。
私も納得いかないものを感じた覚えがあります。

2010/9/3(金) 午後 0:43 金田一ばぁば 返信する

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<金田一ママさん>

> ここは誰でもヘンだと感じるのですね。
> 私も納得いかないものを感じた覚えがあります。

ですよね。

ただ、今は、
・チャンスはたくさんあったこと
・罪悪感を抱かせることが目的ではなく、一種の対機説法であること
がわかって、納得はしましたけど。

2010/9/4(土) 午前 3:19 無宗だ 返信する

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「それだから、アーナンダよ、これはお前の罪である。それはお前の過失である。」

経典に書かれている釈迦の言葉は、例え、それがパーリ語で書かれている初期経典でさえも、それらは、釈迦の口から出た言葉を、一字一句間違いなく記録したものではなく、それらは、弟子から弟子に伝承されていったものであり、要するに、釈迦の弟子、あるいは、釈迦の弟子の弟子の主観(あるいは、後代による付加)が加わっているものであると思っています。

そうであるから、経典において、釈迦らしからぬ言葉があっても、何ら不思議ではないと思っています。

そういう訳で、個人的には、釈迦が、私を信じない者は、頭が八つに裂けるとか、地獄に落ちるとか、あるいは、悪いことを釈迦弟子になすりつけたりするような記述は、後代の付加である可能性が高いと、私は捉えています。

2010/9/6(月) 午前 10:03 [ dyh ] 返信する

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<dyh*r48*さん>

>「それだから、アーナンダよ、これはお前の罪である。それはお前の過失である。」

>経典に書かれている釈迦の言葉は、例え、それがパーリ語で書かれている初期経典でさえも、それらは、釈迦の口から出た言葉を、一字一句間違いなく記録したものではなく、それらは、弟子から弟子に伝承されていったものであり、要するに、釈迦の弟子、あるいは、釈迦の弟子の弟子の主観(あるいは、後代による付加)が加わっているものであると思っています。

いろいろな可能性があることは確かです。


>そうであるから、経典において、釈迦らしからぬ言葉があっても、何ら不思議ではないと思っています。

重要なのはその解釈です。



>そういう訳で、個人的には、釈迦が、私を信じない者は、頭が八つに裂けるとか、地獄に落ちるとか、あるいは、悪いことを釈迦弟子になすりつけたりするような記述は、後代の付加である可能性が高いと、私は捉えています。

このような機械的な分類は間違う可能性が高いと考えます。

2010/9/6(月) 午後 0:17 無宗だ 返信する

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ブッダは天に生まれる方法を次第説法として、
世俗諦において説いたと私は考えていますので、
地獄に落ちるとかも、実際にブッダが説いたと私は考えます。

たとえば「死人を生き返らせる」という話は、
後代の付加である可能性が高いと考えることになるのではないかと
思いますが、
子供をなくしたキサゴータミの話を、あなたは後代の付加とは考えていませんよね?


とすれば、
>「それだから、アーナンダよ、これはお前の罪である。それはお前の過失である。」
この言葉も、これからブッダを始めとして、幾多の死別に直面するであろう
アーナンダの苦を減するための説法であるとみなすことができます。

あなたはこれを後代の付加である可能性が高いと考えるのですか?

2010/9/6(月) 午後 0:18 無宗だ 返信する

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