天地の超常現象

アベ文化大革命により市民はいつ終わるとも知れない応仁の乱状態だ!もう一度、竜馬暗殺までさかのぼって歴史のやり直しがができればなあ

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  (歴史と経営)

 ヨーロッパで船舶の材料に鉄が使われるようになったのは19世紀に入ってからだ。

しかし、これよりはるか以前、日本ではすでに鉄の船が造られていた。織田信長が毛利水軍と

戦うために建造した6隻の軍船がそれだ。

 鉄の船といっても、むろん全体が鉄で造られていたわけではなく、実態は木造の船体に

約3ミリ厚の鉄板で装甲を施したものにすぎない。しかしその発想は当時、

世界に類を見ないもので、同様の鉄甲船がヨーロッパで登場したのは、それから約300年後の

クリミア戦争の頃だった。

 詳しい記録が残っていないためその姿は想像するしかないが、2階建ての戦闘用矢倉の上に

3層の天守閣を構え、大砲3門にさらに多数の鉄砲を備えたその偉容は、造船技術で当時圧倒的な

先進国だったポルトガルの宣教師・オルガンティーノをも驚嘆させたという。

 重い鉄で装甲した巨船が実戦で役に立つはずもないとたかをくくっていた毛利水軍は、

木津川沖の海戦で徹底的に打ちのめされた。信長の鉄甲船に、毛利水軍得意の火攻めは通用せず、

1貫目玉の巨砲の威力にまったく太刀打ちできなかったのである。


   (ハンドパワ−ズス−パ−特集2004 戦国時代徹底研究)

 弱体といわれた一国の国主から一代で、天下獲り寸前までのし上がった超カリスマの

織田信長。織田信長の強さは強大国である甲斐・武田軍のような屈強な個人技ではなかった。

その鮮やかともいえる天才的戦術と天才的采配を徹底検証する。

 いよいよ謙信と信長の決戦

 反信長包囲網の武田軍に対し、大量の鉄砲部隊を投入することで完璧なまでに打ちのめした

信長軍であったが。一方、信長も天正4年1月から安土城の築城を開始し、謙信の動向を睨むことが

できるように準備を開始、遂に、謙信と対決する準備を開始したのである。謙信も空かさず、

西国の実力者である毛利と手を結び、新たな反織田包囲網を成立した。天正4年7月毛利から

送られた水軍が、織田水軍を撃破し、大量の兵糧を本願寺に運び込むことに成功した。

海戦において毛利軍に大敗した信長は考えていた。「何としても、毛利水軍を壊滅させ

ねばならない。しかし、焙烙の攻撃力は計り知れない。」そこで、信長は前代未聞のアイデアを

実行に移したのである。船の周囲を厚い鉄板で覆い、鉄砲の弾さえもはじき返す世界初の

鉄の戦艦である。信長は、次に毛利水軍が兵糧を運んできたときに間に合わせるよう造船を急いだ。

 本願寺が信長の水軍を一方的に破ったことも功を奏して、顕如の働きかけで本願寺側に寝返る

武将が現われはじめた。

 そして、再び毛利水軍が六百隻以上もの船団を率いて大阪湾に進攻してきたのである。

毛利軍は前回同様に火力兵器(火矢・鉄砲・焙烙)を主体に攻撃を仕掛けてきた。

ところが、信長はこれに対し新造した鉄の戦艦を用いたのである。信長の思惑通り、

この鉄船は火矢・鉄砲・焙烙という毛利水軍得意の戦法の全てを寄せ付けなかったのである。

更に、この戦艦には大砲が装備されていた。敵の火のような猛攻をすべてはじき返すと、

戦艦の砲台は毛利水軍目指して火を噴いた。文字通り鉄壁な装甲は破られることなく、

大砲によって毛利軍の船団はことごとく沈没したのである。毛利水軍は壊滅し、大阪湾の制海権は

一方的に信長の支配下となったのである。これによって本願寺への補給路は断たれたのであった。

これで、一揆の人々およそ四万人が本願寺で孤立することとなった。

 
 (プレジデント ロイター)

  織田信長:鉄砲、鉄甲船、諜報……なぜ常識を破れたか

  キリンビール社長 松沢幸一 

  戦国という変化の激しい難しい時代にあって、恐れることなく次々とイノベーションを

  実行したためです。つまり、今でいう「構造改革」をいつも断行していました。

それは鉄砲の大量導入、新弾丸の開発、鉄甲船の開発など、兵器の革新を図った軍事的な面ばかり

ではありません。兵農分離によって、専門軍隊を創設するなどの組織改革を行い、

実力ある人を大胆に登用する人事政策、楽市楽座などの経済政策にも、イノベーションは及びました。

信長が行った最大のイノベーションは、他の戦国大名と比べて、情報を重視したことでしょう。

乱波(らっぱ)、草などと呼ばれる忍び、つまり諜報部員を全国に配したのです。

この情報を重視する戦略が、最初に大きな成果を生んだのは、1560年夏の桶狭間の戦いでしょう。

京に向かって兵を進める今川義元の軍勢は、2万とも4万とも言われる大軍。対する信長軍は

3000程度の兵力です。

信長は、家臣である梁田広正の配下にいた乱波たちの情報から、今川義元の所在を知ります。

そのとき、一時的な嵐が来るであろう気象情報までも、地域の乱波から信長は掴んでいた。

その結果、今川軍を信長はその10分の1の兵力で撃破したのです。その論功行賞に大きな特徴が

ありました。義元の首をとった毛利新助と服部小平太ではなく、正確な情報をもたらした

梁田広正と彼の配下の乱波たちにMVPを与えたのです。

戦国最大の逆転勝利である桶狭間の戦いを機に、信長は勢力を拡大させていきます。

同時に人への評価基準は、旧来の武功よりも、重要な情報を早く正確に収集する情報収集へと

変わったのだと思います。戦国時代は、先が読めない乱世の時代でした。情報を的確に捉えて、

解析し、次に打つ手を決めていく自己革新が求められる。信長は勇ましい精神論とは違う

情報戦略を、時代に先駆けて取り入れていたのです。

     (織田信長が天下を取っていたら、その後の日本はどうなっていたでしょうか・・・?。
     又、こう云う有能な人の足を引っ張るクセがこの国には元々あるんでしょうか・・・?。)
   
                                          

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織田信長が天下を取っていたら、その後の日本はどうなっていたでしょうか・・・織田信長フアンとして ほんとうに そう思いますね^^ポチ★

2010/5/7(金) 午前 10:24 ryo

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こんにちは。
ちなみに秀吉の晩年は一様に評価が悪いですが、
検地と刀狩で為政者はダメになっていった様に思ってます。
信長と真逆な政策ではないかな〜。

2010/5/7(金) 午前 10:33 [ gann ]

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こんにちは〜!
関連記事より来ました。そうですよね!信長さんは、鉄鋼船まで作って、どんなに長くなっても弱音は、吐かずに、戦った方です、
私、大好きなので、ポチ押させて頂きます!お邪魔致しました〜。

2011/5/10(火) 午後 9:12 [ にゃお ]

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こんにちは。
有難うございます。
逆に見ると官僚は又、信長のような人物が出るとこまるので、
明治以降、自分達のガードを固めていったのかも知れません。

2011/5/11(水) 午前 7:09 [ gann ]


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