天地の超常現象

アベ文化大革命により市民はいつ終わるとも知れない応仁の乱状態だ!もう一度、竜馬暗殺までさかのぼって歴史のやり直しがができればなあ

歴史

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全15ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

     諸説あり! TBS       ゲスト 伊東潤


    「千利休はなぜ切腹を命じられたのか」


 驚いたのは「お茶」がキリスト教の作法に影響を受けていたとの事でした。
イメージ 1

又もか〜
当時、堺はキリスト教宣教師もたくさんいて普及していった環境にあった。
しかし、日本の食事は一人ひとり善で区切られており、お茶をまわし飲む事はありえない。

ミサと茶の湯のどんなところが似ているのか


 茶の湯にも、いろいろな点前があるように、ミサにも状況に応じたいろいろな作法があります。また時代の趨勢により、幾分の変化が生じているということも双方ともに見られます。

 武者小路千家14代家元不徹斎宗匠は、かつてヨハネ・パウロ二世教皇あての書簡に「私は京都のカトリック系の学校に通っていたころを思い出します。すでに茶の湯の心得があったので、チャペルでのミサに出席するときも、茶道との共通点を少なからず発見しました。…司祭だけでなくキリシタンの武士や商人を相手に、千利休が語らう機会は多かったはずです。妻と家族も信者であり、ミサにあずかっていたと思われます。ただし自身は、キリスト教徒だとは公言していません。…茶道への新たなとりくみを模索していた千利休は、ミサという最後の晩餐の再現に深い感銘を受けたのだと、私は考えます。」と書いています。

 個々の所作において、双方がそっくり同じであるというわけではありません。千利休は、ミサにおける個々の所作を真似たというよりは、ミサの所作に触発されたものを、茶の湯の点前の流れに合うように取り入れていったと言うのが正確かもしれません。

 それでは、あくまでも印象としての相似と言うことにならざるをえないということを前提に、どのようなものがミサにおける所作と似ているのかローマ・カトリック典礼書をもとに見てみましょう。

 茶の湯では、まず亭主が食籠(じきろう:菓子器)を持ち出し、食籠を主客に預け、客は食籠に盛った菓子を取り回していく作法があるわけですが、ミサにおいてもパテナ(聖体皿)に置いた聖体(水と小麦粉だけで作られた「種なしパン(イースト菌の入っていないパン)」)を取り回しして頂く所作があります。 (注-13)  茶の手前では、茶碗の中に茶巾を入れ、茶筅を真ん中に入れ、その右に茶杓を伏せて置き、仕組んで、茶室に運び出しをするわけですが、ミサにおいてもカリスと呼ばれる杯を仕組んで運び出しをします。


 濃茶の作法で男子同士の場合、茶を頂いた後茶碗と出し袱紗を右手に乗せたまま、左手で懐紙で飲み口を拭き次客に手渡しますが、ミサにおいてもカリスの飲み口を拭いて順次手渡していく所作があります。(注-14)

 この濃茶の飲みまわしの事を「吸い茶」と言いましたが、この「吸い茶」は利休が始めたとされています。

 享保16年(1731)の序をもつ尾張藩士近松茂矩の編になる 『茶湯故事談』には、「むかしハ濃茶を一人一服づつにたてしを、其間余り久しく、主客共に退屈なりとて、利休が吸茶に仕そめしとなん」。また『草人木』にも、「むかしハ独ニ一服つつの故(茶入れより茶を入れる回数は)ミすくい也 (三掬い)。 利休よりはすい茶なる故に、猶定なし。」とあります。


 また、帰ってきた茶碗に湯を入れ回してすすぎ、湯を建水に捨ててから、茶巾で茶碗を拭きますが、ミサにおいても拝領が終わったあとパテナを拭き、カリスに水を注いですすぎ、プリフィカトリウム(清掃布)で拭く所作をします。 (注-15)

       るいネット

                        http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=327406

<FIFA汚職事件の背景…"国際金融資本"最後の抵抗、2>

     
今井勝行 ( 中年層 東京 会社員 )

<FIFA汚職事件の背景…"国際金融資本"最後の抵抗、2>

最近、ワールドカップ招致や国際大会の放映権取得権をめぐり、FIFA幹部らが14年間で約186億円の賄賂に関与した疑いで現職の副会長2名を含む幹部ら7人が「スイス」で逮捕されました。

その幹部の中のウェブ副会長はタックスヘイブンで有名な「ケイマン諸島出身の元銀行マン」。一方、彼らを逮捕したのは「アメリカ司法省」。逮捕の根拠とした法律は「RICO法」。

RICO法とは、特定の違法行為によって不正な利益を得る組織の活動を規制し、非合法な経済活動とアングラマネーを取り締まるアメリカ合衆国の法律です。つまり、今回、FIFA幹部はアングラマネー取り締まりのターゲットになったわけです。

ところで、「サブプライムローンを買っていた資金」と「世界で引き起こされるテロ資金」のほとんどがアングラマネーであり、その出元はタックスヘイブンです。

その一方で、2014年7月1日、アメリカの国内法、FATCA(外国口座税務規律順守法)が施行され、国際社会はタックスヘイブンの取り締まり体制を強化し始めました。

タックスヘイブンを取り締まるということは、アングラマネーが世界のウラ経済から減っていくことを意味します。ところが、実はこの状態、各々の国家にとっては必ずしも素直に歓迎できることではありません。

なぜなら、国家生存を懸けた水面下の諜報活動の資金はアングラマネーから出ているからです。つまり、アメリカ主導で始めたFATCA体制は、自国の有力な武器である情報機関の活動資金の減額を招くからです。

ただ、アングラマネーの流通が減ると、CIAを抱えるアメリカ自身も困るのは同じであるはず。それでもなぜ、アメリカは執拗にアングラマネーを取り締まるのか?それは、アングラマネーの流通を抑制することが、今のアメリカの世界戦略となっているからです。

どういうことかというと、アメリカによる世界の一極支配構造は終焉を迎えつつあります。ただ、世界に流通するアングラマネーの量が変わらなければ、CIAが使わなくなった資金を他国の諜報機関が使うことになってしまいますが、それはアメリカにとってばかりか、世界にとっても好ましくないことです。

さらに、今、日本で議論している「安全保障関連法案」についても、アメリカが近い将来、東アジアを管理できなくなってしまうことを想定して、東アジアの安全保障体制を日本に委託するのが目的です。

また、ドル基軸通貨体制が維持されている限りは、どれだけアングラマネーが資金洗浄されて表の世界に現れても、アメリカの鶴の一声でその流れを止めることは造作もないことでした。

それで基軸通貨体制をこれから握りたくて仕方がない中国や、タックスヘイブンという格好の餌場から締め出されはじめた国際金融資本たちは、今、アメリカ政府がやっていることが腹立たしくて仕方がありません。そこで世界のあちこちで紛争を起こし、アメリカの新世界戦略に揺さぶりをかけているのです

ところで、ここで一つ注意点があります。もし国際金融資本とアメリカ政府がイコールであると考えている人がいたらその考えを改めてください。これまで世界の戦争を画策してきた国際金融資本はあくまで金儲けが目的であって、"国家としての"アメリカがどうなろうと知ったことではありません。

一方、アメリカ政府の中にも、自国の国益とともに、世界秩序の安定を重視する政治家が存在することも確かです。

日本のメディアの報道だけを見ている限り、往々にしてアメリカの政府や大統領が国際金融資本の操り人形になってしまっているように思えてきますが、むやみに国際情勢を単純化しようとすると情報の分析と判断を誤ることになりますし、実はそれ自体が中国の情報戦略の一つでもあるのです。

1939年8月、当時の平沼首相は、「欧州情勢は複雑怪奇」との言葉を残して内閣総辞職しました。そりゃそうです。共産主義が大嫌いなヒトラーがスターリンと不可侵条約を結んだのですから。

このとき、共産主義の打倒でドイツと価値観を共有していた日本政府に大きな衝撃が走りました。国益重視の騙し合い合戦を勝ち抜くためには彼らは何でもするんだということを、当然の前提として戦略を立てなければなりません。

もし、独ソ不可侵条約が結ばれた時点で外交判断の軌道修正がなされていたならば、日本はアメリカとの戦争に引き込まれなかったかもしれませんし、日ソ不可侵条約締結やその一方的破棄などという悲劇は避けられていたかも知れません。

「国際金融資本」と「アメリカ政府」、または「イギリス政府」を、いつでもイコールで結んで考えると訳が分からなくなりますので注意が必要です。(国際ジャーナリスト・鳥内浩一氏のメルマガから引用、加筆)
①「現代のルール」は歴史から学べ! 苫米地英人
 
     SMAP問題、明治維新の真実を語る

     SMAPはただの奴隷だった、長州藩と言う言葉は明治以降、
     室町時代から現代まで生き続ける日本芸能の闇 

         https://www.youtube.com/watch?v=gkrrNp90RSw

②「現代のルール」は歴史から学べ! 

      士農工商と言う言葉は明治に作られた 苫米地英人

         https://www.youtube.com/watch?v=8CU6qFOb3mM


           中央日報

                        http://japanese.joins.com/article/352/225352.html?servcode=400&sectcode=400

      韓国人のルーツは? 北方界でない混血南方系


 韓民族のルーツはどこだろうか。人類・考古学界の一部は、韓民族がアルタイ山脈から出発しモンゴルと満州原野を通って韓半島(朝鮮半島)に入ってきた北方民族だと推定している。これらの地域の人々の言語・風習・顔つきなどと共通点が多いというのがその根拠だった。

  だが、科学界の判断は違う。2日、蔚山(ウルサン)科学技術院(UNIST)ゲノム研究所によると、韓民族は3万〜4万年前に東南アジア〜中国東部海岸を経て極東地方に流入して北方人になった南方系狩猟採取人と、新石器時代が始まった1万年前に同じルートで入ってきた南方系農耕民族の血が混ざって形成された。2009年、UNISTは韓民族が東南アジアから北東に移動した南方系の巨大な流れに属しているとサイエンス誌に発表したことがあったが、今回これをより具体化した。

  その始まりはロシア・ウラジオストクからやや北の『悪魔の門(Devil’s Gate)』という名称の洞窟から見つかった7700年前の20代と40代女性の頭蓋骨だった。

  この地域は韓国の歴史において、旧高句麗・東夫餘・沃沮だった場所だ。ゲノム研究所はスーパーコンピュータを利用してこの頭蓋骨の遺伝子を解読・分析した。

  DNA分析の結果、「悪魔の門」の洞窟人は3万〜4万年前に現地に定着した南方系人で、韓国人のように褐色の瞳と凹型の前歯(shovel−shaped incisor)をつくる遺伝子を持っていたと発表された。また、彼らは現代の東アジア人の典型的な遺伝特性を有していた。牛乳が消化できない、高血圧に弱く体臭があまりない、乾いた耳あかが出るなどの遺伝子が代表的だ。この洞窟人は現在近くに住むウルチ(Ulchi)族の先祖と考えられている。周辺の原住民を除けば、現代人のうちでは韓国人が彼らに近い遺伝子を持っていることが判明した。彼らのミトコンドリアDNAの種類も、韓国人が主に持っているものと同じだった。

  同研究所のパク・ジョンファ所長は「ミトコンドリアDNAの種類が同じだということは母系が同じであることを意味する」とし「2つの人類間の時間的な開きを考慮しても、遺伝子が非常に似通っていると言え、悪魔の門の洞窟人は韓国人の先祖とほぼ同じだと言える」と述べた。

  だが、悪魔の門の洞窟人の遺伝子が韓民族のそれとすべて一致したわけではない。研究陣は正確な韓国人の民族ルーツと構成を計算するために、悪魔の門の洞窟人と現存する東アジア地域50カ所余りの人種に対する遺伝子比較を行った。その結果、悪魔の門の洞窟に住んでいた古代人と、現代ベトナムおよび台湾で孤立している原住民の遺伝子を融合したところ、韓国人の遺伝子を最もよく表していた。時代と生存方式が異なる二つの南方系列の融合だったことを発見した瞬間だった。

  だが、現代韓民族の遺伝的構成は1万年前の農耕時代の南方系アジア人にはるかに近い。狩猟採集や遊牧をしていた極東地方の狩猟採取人に比べて、稲作をしていた南方系民族が多くの子供を産みスピーディーに拡散したためだというのがその理由だ。実際、狩猟採集を中心に生活していた過去の極東地方部族たちの現在の人口は多くても数十万人以上にはならない。

  パク所長は「巨大な東アジア人の流れの中で、技術発達によって、小さな幹の民族が生じて混ざり合いながら韓民族が形成されたものと推定できる」と説明した。UNISTの研究は国際学術誌「Science Advances(サイエンス・アドバンシズ)」1日付(米国現地時間)に発表された。
  今、世界は1%支配、グローバリズムに対して反旗をひるがえすリーダーがあちこちで出ています〜
トランプ、メイ、ドゥテルテ、マリーヌ・ル・ペン(フランス野党)、韓国野党。
このような人たちと半年前に見た番組の任侠の人が何故かダブって見えました〜^^。

    じゅにあのTV視聴録

              視聴した番組のメモ、雑感などを書いています〜
              http://ameblo.jp/skyblue-junior/
 

   【にっぽん!歴史鑑定】伝説の侠客はなぜ生まれたのか?
  
            http://ameblo.jp/skyblue-junior/entry-12166767530.html

    (BS−TBS・2016/5/30放送)
    ※公式サイト:http://www.bs-tbs.co.jp/smp/info_news/kantei/

<感想>

 幡随院長兵衛、国定忠治、清水次郎長、新門辰五郎と4人の侠客に焦点を当てた面白い番組だったと思います。強気をくじき弱きを助けるカッコいい“漢”たちです。

 もちろんこの時代の侠客、博打や殺人など物騒ではありましたが、私利私欲で庶民を苦しめたり、抗争で巻き添えにしたりは決してしなかったでしょう。その点では根本的に現在の893業の方々とは質を異にしているのでしょうね。

  <視聴メモ・番組内容(いわゆるネタバレ)が含まれています>

・天下泰平の江戸時代、庶民が頼りにした泣く子も黙る強面のならず者・侠客。強きを挫き弱きを助ける正義の味方。しかし一方で喧嘩っ早く時に人を殺めてしまう犯罪者、そんな侠客がなぜ庶民のヒーローになったのか。
・歌舞伎でお馴染みの幡随院長兵衛が侠客の元祖?そこには時代が生んだ武士と町民の対立があった?
・上州を根城とした伝説の侠客・国定忠治。罪を重ねながらも捕まらなかった意外な理由とは?
・新門辰五郎は15代将軍・徳川慶喜の最後のSPだった?なぜ侠客が将軍の信頼を得たのか?
・清水港は鬼より怖い。大親分・清水次郎長がつくった驚きの侠客ネットワークとは?

<「旗本奴」「町奴」とは>
・長い戦乱の世が終わり、徳川家康が築いた江戸幕府によって平和な日々が訪れた。しかし江戸開府から50年ほどが経った4代将軍・家綱の頃になると、徳川家の家臣で軍事面を担った旗本たちの間で困った風潮が広がるようになった。
・江戸の侠客に詳しい多摩大学客員教授の河合敦さんによると、合戦がなくなり学問が重視される天下泰平の世の中になるとエネルギーを持て余した旗本の若者たちは「旗本奴」と呼ばれる徒党を組むようになったという。彼らは奇抜な着物を纏い往来を我が物顔で闊歩し、時には乱暴を働くといった傾奇者たち。町の人たちは大きな迷惑を被っていた。
・そんな旗本奴たちから身を守るため、町人の間で剣術や柔術と習うのが流行。その中から腕に自信があり、旗本奴に対抗するように現れたのが「町奴」だった。
・無頼漢の旗本奴と違い、町奴が大切にしたのが男伊達。強きを挫き弱きを助ける、そのためには命を捨てることも惜しまないといった強い信念を持っていた。

<侠客の元祖と言われる幡随院長兵衛>

「 幡随院長兵衛 絵」の画像検索結果

・その町奴の一人、歌舞伎でもお馴染みの人物が町奴・幡随院長兵衛(本名・塚本伊太郎)。一説では1622年、唐津藩士・塚本伊織の子として生まれたと言われている。子どもの頃から立派な体格で武術にも秀でていた。
・しかし江戸で刃傷沙汰を起こし、牢に入れられてしまった。無宿人となってしまった長兵衛は浅草の寺・幡随院の住職に拾われ、その裏手に住むようになった。これが幡随院の名の由来だという。
・そんな幡随院長兵衛が事あるごとに対立していたのが水野十郎左衛門だった。あるとき芝居小屋で水野の手下が大暴れし芝居が中断。芝居を楽しんでいる客たちに迷惑だと立ち上がったのが長兵衛たち町奴。旗本奴たちを小屋から叩き出した。
・数日後、和解のために酒宴を催したいと長兵衛のもとへ水野の使いがやって来た。子分たちは「これは罠に違いない」と必死に止めたが、長兵衛は臆することなく一人で水野の屋敷に乗り込んだ。
・和解というのは真っ赤な嘘で、芝居小屋で面目を潰された水野は仕返しをしようと最初から計画していた。長兵衛は必死に抵抗したが殺されてしまった。正義のためなら命を捨てることも惜しまない、長兵衛は最期まで男伊達を貫いた。

町奴の中には旗本奴のように傍若無人な振る舞いをする者もいた。長兵衛は浅草で口入れ屋をしていた。今でいえば人材派遣業のようなもので大名や商家に人足や奉公人を派遣する仕事。人足には荒くれ者が多いため統率するには腕力と人望、肝が据わっていることが重要だった(河合氏)

・また長兵衛のもう一つの生業が博打だった。人足には博打好きが多く賭場を開くというのは人足を集めるのに効果的だった。
・江戸で広く知られた幡随院長兵衛が男伊達を持ち、口入れ屋として郎党を組み、さらに博打を生業としていたことで侠客とはそういうものだというイメージができあがった。
・侠客・長兵衛の生き様は格好の題材として歌舞伎の演目となった。その中で長兵衛が言う「お若けぇの おまちなせぇやし」ときっぷのいい名台詞。こうして歌舞伎の演目が庶民の人気を得たことで、侠客は江戸の新たなヒーローになっていった。

<赤城の子守唄で知られる国定忠治>

イメージ 2

・さらに芝居などでお馴染みの侠客といえばこんな人物も。赤城の子守唄で知られる国定忠治(本名・長岡忠次郎)は1810年、上野国国定村の豪農の家に生まれた。子どもの頃は仲間を引き連れイタズラの限りを尽くすなど腕白を通り越した悪童だったという。
・そんな忠治の人生が17歳のときに大きく変わった。人を殺めて追われる身となってしまった。行く宛てのない忠治が頼ったのが上州の博徒の大親分・大前田英五郎だった。忠治は度量と腕っぷしを認められ、兄弟分の盃を交わした。その後、英五郎の紹介で百々村の縄張りを引き継ぎ、21歳の若さで親分となった。
・忠治は面倒見がよく、子分たちは父の如く慕ったという。しかし誰でも子分にするというわけではなく、しっかりと線引きをしていた。

忠治は堅気と問題を起こして戸籍から籍を抜かれた無宿人を区別して子分にしてくれと言われても堅気は受けつけなかった(前出の河合氏)

・忠治の名を侠客の世界に轟かせることになったのが、1834年に起きた血で血を洗う激しい抗争だった。25歳だった忠治は大親分である大前田英五郎と敵対していた島村伊三郎と争いを起こし殺害、その縄張りを奪い取った。
・殺人を犯した忠治はお尋ね者となり逃げることに。それを追うのは関東取締出役(通称・八州廻り)と呼ばれる幕府の役人たちだった。八州廻りは関東8か国の治安を取り締まる、今でいう広域警察のようなもので、8か国内であれば自由に移動でき犯人を捕まえることができた。そのため犯罪者から恐れられていたのだが、そんな八州廻りでも忠治を捕まえることができなかった。

<国定忠治が捕まらなかった理由とは>
・しかも逃げた先で忠治は大規模な賭場を開帳し、さらには50年に一度あるかないかと言われた関所破りをするなど罪を重ねていった。
・そして1842年、33歳の頃には遂に全国手配となってしまった。追われること8年、なぜ忠治は捕まらなかったのか。

忠治が縄張りにしていた村全体で彼が捕まらないように協力していた。八州廻りが見回りに来た際に岡っ引きなどが道案内をしていたが、事前に賄賂を渡しておいて来たときには知らせてもらっていた(同上)

年貢だけを取って自分たちを守ってくれないお上よりも、いるだけでこそ泥や空き巣の類が姿を消すような忠治の方を頼りにしていた(同上)

・治安を守るうえで村人にとって好都合だった忠治の存在。しかし人々が忠治を慕う一番の理由は他にあった。1833年、忠治が親分になってまだ間もない頃、全国的な大飢饉・天保の飢饉が発生。忠治の縄張りである国定村も飢餓に苦しめられた。
・そこで忠治は村人を助けるために、賭場で稼いだ金に自らの刀や家財道具まで売り払って100両の金を用意した。そしてそれを200俵もの米に換え援助したのだ。
・また沼の浚渫工事を行いその後の飢饉対策にも尽力、さらには子分たちに周辺の豪商の家を訪ねさせ支援金を集めさせたとも言われている。まさに弱きを助ける侠客の男伊達をみせた忠治、こうした奉仕活動が村人との信頼関係をつくったのだ。
・しかし41歳のとき脳卒中で倒れ、体が不自由になった。そして16年の逃亡の末、遂に八州廻りに捕まってしまった。賭博に殺人、関所破りと罪を重ねた忠治は磔の刑に処せられることになった。
・1850年12月21日、忠治は処刑の前に上州産の銘酒を飲み、役人に「もう一杯どうか」と勧められると「死に臨んで酔ってしまっては、死を恐れたことになってしまう」と答え、そして悠然と磔台に登ったという。
・その後14回槍で突かれ絶命。侠客の男気を貫いた最期だった。

<侠客の博打とはどんなものだったのか>
・江戸の侠客として名を馳せた幡随院長兵衛と国定忠治。彼らが生業にしていたのが博打。江戸時代の博打とはどのようなものだったのか。
・主流だったのは2つのサイコロを使った丁半賭博。サイコロの出た目が偶数なら「丁」、奇数なら「半」。これを予想し当てるという実にシンプルなもの。丁半の多くは盆ゴザという白い布で巻かれたゴザの上で行われた。賭場を敷くことを「盆を敷く」というのはそのためだ。出た目の判定人兼進行係が中盆、サイコロを振るツボ振り、胴元が侠客の親分で3人の座る位置は決められていた。
・客は大抵の場合、盆ゴザを挟んで丁座、半座に分かれて座る。このとき丁座は丁に、半座は半にしか賭けることができなかった。丁と半の賭金は必ず同じ額になるまで募り、中盆の合図でツボが開き判定。現金の代わりに賭けた駒札が客へと渡される。その中から胴元は4〜5%の手数料を取るため、賭場を開けば儲かるという仕組みになっていた。

<東海の大親分と言われた清水次郎長>

「清水次郎長 絵」の画像検索結果

・動乱の幕末に現れた伝説の侠客がいた。東海の大親分と言われた清水次郎長(本名・山本長五郎)。1820年元日、駿河国清水町の船頭の次男として生まれた。その後まもなく米穀商を営む叔父・山本次郎八の養子となった。次郎長とは次郎八のところの長五郎を略した呼び名だった。
・1835年、養父が亡くなると次郎長は米穀商の跡を継ぎ、妻を娶り懸命に家業に打ち込んだ。
・しかしその性格は喧嘩っ早く大の博打好き。23歳のとき些細な喧嘩の末、人を殺めてしまった。
・追われる身となった次郎長は妻と別れ、生まれ育った清水の町を後にして全国を渡り歩いた。
・侠客として一家を構えたのは28歳のときだった。「刃物も切れれば頭も切れる。筋も通せば義理も固い」。そんな次郎長の人柄に惚れた男たちが集まり、僅か10人だった子分は次々と増えていった。
・その次郎長の子分たちは個性あふれるメンバーばかり。一の子分は大政。田舎相撲出身で腕っぷしが強く、一方で教養も持ち合わせた一家で最も頼りになる存在だった。
・小政は11歳のときから次郎長が預かって育てた子飼いの子分。身のこなしが軽く、殺しも厭わないニヒルなアウトロー。
・講談などでお馴染み森の石松は、喧嘩相手を斬ってしまい東海地方に逃げていた際に次郎長と出会い子分になった。
・次郎長はとても子分思いの男で、こんなことを言っていたという。「子分のためならいつでも死ねらぁ」。実際、森の石松が惨殺された際には自ら刀を取り仇をとったほどだった。

<侠客が仁義を切る理由とは>
・清水次郎長は頻繁に旅に出ていたが、その中で特に重要だったしきたりがあった。それは侠客同士で「仁義を切る」ことだった。

旅を続けるためにそれぞれの土地の親分に会って、一宿一飯の恩義をこうむり草鞋銭を得ていた。仁義はそれぞれの土地の親分からの信頼を得るために必要だった(河合氏)

・「お控えなすって」というのは「どうぞ私の紹介を聞いてください」という意味だった。自分の生まれ、どこの一家に所属しているか、一家での自分の立場、用向きを流暢に包み隠さずに言わなければならなかった。
・こうして旅先で他の親分と親交を深め、侠客のネットワークをつくった。全国の侠客の相互援助システムが、旅をする侠客の身の安全を守った。
・荒くれ者の子分たちを抱え一家を束ねていた仁義に厚い侠客・清水次郎長。49歳のときこんなエピソードが残されている。江戸幕府崩壊直後の1868年8月、旧幕府軍の軍艦である咸臨丸が暴風雨により房総沖で破船してしまった。修理のため清水港に停泊していたが、新政府の海軍に発見され激しい攻撃を受けてしまった。
・逆賊として駿河湾に無残に放置されたままの遺体をみた次郎長は、心を傷めて収容し手厚く埋葬した。これを知った新政府は次郎長を咎めたが「死者に官軍も賊軍もない」と突っぱねたという。次郎長は時の権力にも屈しない男だった。

<町火消の侠客・新門辰五郎>

イメージ 1

・江戸時代末期の1867年10月14日、15代将軍・徳川慶喜が政権を返上した(大政奉還)。その翌年、鳥羽伏見の戦いで慶喜率いる旧幕府軍と新政府軍が激突。勢いに乗る新政府軍を前に旧幕府軍は追い詰められた。
・そして開戦から3日。身の危険を感じた慶喜は逃げるように大坂城を脱出したが、一つ心残りがあった。徳川家康以来、将軍家に代々伝わる「金扇の大馬印」を大坂城に置いてきてしまった。馬印を敵方に取られることは首を取られるのと同じ、慶喜にとってこの上ない屈辱だった。
・このとき果敢にも城中に戻り命懸けで馬印を取り戻した人物がいた。それが新門辰五郎だった。彼は侠客でありながら将軍・慶喜に寵愛され、今でいうところのSPのように慶喜を守り抜いた男だった。
・侠客と呼ばれた辰五郎だったが、本職は町火消という別の顔を持っていた。16歳のときに浅草の町火消である浅草十番組「を組」の組頭の弟子になった。粋で強くてきっぷのいい辰五郎は周囲からすぐに認められて、男の中の男と称されるようになった。
・早くから町火消の中で頭角を現していった辰五郎は、着実に地位を上げていき18歳のときに浅草寺境内の伝法院にできた新門の防火・警護役に抜擢された。

辰五郎は浅草新門の防火責任を立派に果たしていった。そんな辰五郎の男伊達に惚れた寛永寺の執当・覚王院義観が浅草寺界隈すべての取締と防火を辰五郎に依頼した。そんなことから浅草に絶対的な勢力を持つようになった(河合氏)

・25歳で「を組」の組頭になり、3000人の子分がいたという。
・1845年1月24日、青山を中心に大名屋敷115か所、旗本屋敷285か所、寺院187か所が灰と化した大火事が発生。辰五郎率いる「を組」はもちろんのこと、江戸中の火消が総動員された。そこで大喧嘩が始まってしまい、25人もの死傷者を出してしまった。辰五郎は大親分として喧嘩の全責任を負う覚悟を決め、自ら佃島監獄に入ってしまった。
・その翌年、再び辰五郎の運命を変える事件が起こった。今度は小石川で火事が発生。その猛火は瞬く間に佃島監獄にまで迫ってきた。罪人たちが我先にと避難していく中で、辰五郎はただ一人残り、火の粉を浴びながら火事を食い止めた。その姿に町奉行は「さすが火消の頭よ。これまでの罪はお咎めなしとする」。そう褒め讃えた。

<将軍や勝海舟から愛された辰五郎の魅力とは>
・江戸一の火消として3000人もの子分を持つ辰五郎は、いつからか侠客的な存在となっていた。
・その頃、徳川慶喜はまだ将軍になる前の一橋家の当主で、孝明天皇から禁裏御守衛総督(京都御所の護衛)に任じられたが、このとき一橋家は深刻な家臣不足に悩まされていた。
・そこで慶喜の側近・黒川嘉兵衛が浅草での評判を聞きつけ辰五郎をお抱えの火消隊として一緒に上洛させてはどうかと進言、慶喜もそれを承諾した。
・このとき辰五郎は65歳、200人の子分を引き連れて上洛。慶喜の身辺警護だけでなく二条城の防火・警備も任された。
・厚い信頼を得た辰五郎は、慶喜が鳥羽伏見の戦いで大坂城から江戸に逃れる際には脱出の手助けをしたとされ、またその後、慶喜が蟄居・謹慎した際にも上野・寛永寺などでの警護を担当した。
・そんな中で辰五郎は、幕臣だった勝海舟とも親交を持ったという。海舟は自らの回想録の中でこう述べている。

新門の辰は
ずいぶん物のわかった男で
金や権威にびくともせず
ただ侠客ならではの
人情や意気で交際していた


・辰五郎の人柄に江戸っ子たちはもちろん、将軍までもが心底惚れたのだ。

・江戸城無血開城、その後も辰五郎は慶喜とともに水戸から静岡へも同行した。しかし1871年、72歳になった辰五郎は火消も侠客も引退し、浅草に戻り余生を静かに過ごしたという。このとき辰五郎に託され慶喜の警護を担当したのが清水次郎長だった。静岡で兄弟の盃を交わしていたという。(2016/6/2視聴・2016/6/2記)

   日本の現在ではこの人を上げておきましょうか〜。

イメージ 3リチャード・コシミズ
         https://richardkoshimizu.wordpress.com/

   政治的にはこの人は忘れられません〜

  腐った幕府! あの人の人生を知ろう 〜 大塩平八郎

http://blogs.yahoo.co.jp/mvbzx0147/folder/1106660.html?m=lc&sv=%C2%E7%B1%F6%CA%BF%C8%AC%CF%BA&sk=0


全15ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.
gann
gann
男性 / 非公開

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
コンタクトレンズで遠近両用?
「2WEEKメニコンプレミオ遠近両用」
無料モニター募集中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事