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京都の川柳家列伝(2)
藤本 蘭華 藤本蘭華。本名福次。明治二十五年三月一日生。(ちなみに、岸本水府は同年二月二十九日生まれで、一日違い)
昭和九年発行の宮尾しげを画並編『初編・昭和川柳百人一句』に「柳歴」として「川柳と仲好しになって銀婚を過ぐ、先方は御存じなからんも知らざれど、當百、而笑子二氏を初心の師と仰ぐをゆるされたし」とあります。 川柳中興の祖と言われる阪井久良伎、井上剣花坊とも親交が厚く度々京都を訪れる両氏を歓迎し、久良伎の「花束」、剣花坊の「大正川柳」へも投句していますが、両氏がまだ狂句時代の名残をとどめている事を感じ、独自の川柳を求めていたのではないかと思われます。 窪田而笑子には読売新聞の川柳檀への投句で、川柳の基本を学んだと思われます。明治末期に而笑子の影響を受けた川柳家は日本全国に多数いましたが、直接の交渉の記録が残っていません。 西田當百は大阪で関西川柳社、番傘川柳社の創立にかかわった人ですが、一時京都に住み、京都柳檀の黎明期に若い川柳家たちの指導に当たっていました。 藤本蘭華は明治四十年頃、「彩柳会」というのを創り、蜻蛉庵・蘭華と名乗り川柳を始めます。最初は新聞雑誌の投句から始め、そこで井上剣花坊、阪井久良伎、窪田而笑子、関口文象らを知ることになります。明治四十三年に本田渓花坊とともに「平安川柳社」を創り、京都で初めての川柳誌「みづ鳥」を発行します。 実家は中京区姉小路麩屋町の彩雲堂という絵具屋で、蘭華は二代目。隣が蕎麦屋の河道屋。蘭華宅と河道屋でよく句会を開いています。現在河道屋は蕎麦ぼうろの専門店で、蕎麦屋は近くの晦日庵に移っています。 大正の初めに二十歳そこそこで、新聞雑誌の選を担当し、句会を催し、川柳誌を発行するなど、京都の川柳界を牽引し、まとめ上げた功績は非常に大きく、特に大正元年から15年までの日出新聞柳檀にはその後の京都川柳界を担っていく多くの新人を育てました。 あまり表へ出ることを嫌い、その目的を果たしたが如く大正十五年、三十四歳、「蘭華」の雅号を捨ててしまいます。 後事を若い川柳家に任せて「福造」と改号し、川柳を楽しもうとします。昭和8年「福造句集」を上梓。時代は戦争へと向かい、昭和十一年、四十五歳で再び「蘭華」に戻り、戦中戦後の京都柳檀を守ります。 遡って、最初に「彩柳会」「平安川柳社」、さらに大正元年に「京都川柳社」を創りますが大正七年に川柳誌「大 文字」を発行し「京都川柳社」に統一します。大正十五年、川柳誌「京」を創刊。 京都川柳社と「京」は、昭和十六年に京都の全柳社を国策により統一、大京都川柳社となり「月刊川柳」になりますが、戦後、昭和22年1月「京」を復刊。(秋声記) 藤本蘭華 句抄
春雨の柳を潜る最相傘
鋸へ瓦が午砲を告げる也 尻からげ交番へ来て息をつぎ 頬冠り黙って犬に何かやり 風鈴屋之より遅う歩かれず 先生は逆に歩いて手を叩き 手袋に車掌は馴れたつりを出し 畳んでる着物着て行く松の内 いゝ娘貰はれてから貰はれる 号外を読む順がある店火鉢 髪結が髪を結ってるひまなこと 歌留多会時計を見ると雪が降り 紋付で活動へよる松の内 夜桜も朝の桜も見て帰り 交番に裸が見える暑いこと 生きてゐる様だと小芋突きさゝれ 光陰矢の如くおいらの代になり 嚏をするが月見の終い也 宿直に湯気の上つた物が来る スケツチが済むと其の花いゝ匂ひ 虫の音をほめてゐるのが泊り客 秋の月此處を廻れば質屋へ出 男親やつと一丁歩かせる 電報を褞袍の處へ持つて行き 夜が明けて来ると豆腐屋しんとする 抱かされてゐると女房の長い用 悲しさは注射をしても痛からず 爪弾に男は足袋をぬいでゐる 涼しさは盥に雨の音がする 客来に牡丹餅の口拭いて立ち 夕刊を一寸覗いて飯にする 軽焼屋噴火しさうになつてやめ 夜桜へ京の埃を浴びに来る 雌黄だけ汚して虎は出来上り 店頭にラヂオ勝手に喋つてる 本家から検分に来る新所帯 伏せた猪口又仰向かす客が来る 律義者もう元旦に義理が済み 帳場から紙撚一本二本くれ 小さい寺大きな寺の鐘で起き 鐘一つ子供の分に撞いてやり 湯の留守へ友達上り込んぢまい 円タクへさあ乗りまひよと濡れに立ち ガスに馴れ文化に馴れて嫁にゆき 箸紙が破れかゝると注連があき 玉子屋の自転車おつとどついこいしよ 川柳の学校
「省略と擬人法」 ――鋸へ瓦が午砲を告げる也―― *「午砲」は「ドン」と読みます。 昔、正午に空砲を打って時を知らせた。土曜日の仕事を午前中で終えることを「半ドン」というのはここから。 そこでこの句は擬人法かと思いきや、これを省略法と言います。 擬人法はものを人に例えるのであって、ここは「下で鋸を引いている人」へ「屋根で瓦を葺いている人」が「昼飯にしよう」と言った、ということであり、省略法なのであります。 擬人法とは「イヤリングが今日は帰りたくないのと言う」というようなもので「イヤリングがものを言うわけない」と言われればもうそれまでなのであります。 ○ ○ と、こんなようなことを蘭華は大正7年の「大文字」で述べておりました。(秋声記) |
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