川柳、へぼきゅうり

川柳は17文字のツイッター

川柳 大文字

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全1ページ

[1]

川柳大文字 第2号
       平成二十七年八月一日
目次
  近詠(御所柳掲載)      1
  京都の川柳家列伝(3)
齋藤松窓         2
  川柳は文学である      3
鈴菜句集鑑賞・奥山晴生   6
  五番目は          8
  ふらすこてんこの一句    11
  朝日新聞・京都川柳より   12
付録 川柳京洛一百題
近詠     藤本秋声
よく解らないけどかしこそうな石
いい名前ですねと褒めるものがない
喝采は早い喜劇はまだ半ば
(御所柳掲載)

京都の川柳家列伝(3)


齋藤 松窓

齋藤松窓。明治18年京都に生まれる。本名齋藤萬七。職業は商店員。京都川柳界の最年長者。
明治37年に新聞「日本」の柳檀に投稿したのが初め。明治39年、大阪の小島六厘坊とともに『葉柳』を発刊。京都の川柳界に参加するのは大正7年の井上剣花坊歓迎句会からで、この時は選者を務めています。
小島六厘坊は負け嫌いで、明治37年に東京で阪井久良伎が『五月鯉』を発刊したので大阪でも柳誌を出そうと決める。明治38年六厘坊18歳。まだ中学校も終えず詩をよくし、俳句に遊び、且つ商人としてもまた縦横の才を奮っていた。学校の先生から川柳は良く思われていなかったらしく、柳誌の作成を京都に家がある3歳年上の齋藤松窓宅に決めます。そして同年5月に『新編柳樽』を発刊。
『新編柳樽』は(1の1〜3)まで、翌年の明治39年6月号から『葉柳』に改題。(葉柳創刊号を2の1とする)。発行人は『新編柳樽』から『葉柳』同年7月号(2の2)まで小島六厘坊。(2の3)から明治40年5月(3の3)まで西田當百。同年の7月号から明治42年4月号までを齋藤松窓。同年5月15日小島六厘坊逝去。
『葉柳』は廃刊。齋藤松窓はそれ以降十年句を作らず偶に頼まれて柳誌の選者を務めるくらいでした。それは京都で最初の川柳誌『みづ鳥』が誕生する前の出来事でした。
大正7年、井上剣花坊が大阪京都を訪れるというのでその案内役を務めるべく剣花坊歓迎句会に参加した。藤本蘭華以外知る人がなかったが薦められ選者を務めたのがきっかけで、約十年の空白を経て京都の川柳界に加わることになる。
         ○
「金にしてみれば淋しい家と蔵」
――大正十五年の頃、僕が代表社員たりし会社の欠損数万円に及ぶ、即ち不動産を金に換えて補填し他人に一文の迷惑を及ぼさず、足元の明るい中に廃業して以来十余年今日に至る。句は当時を回想して後に得たるものなり、多年住み馴れたる家の運び去らるるを見る時淋しさの胸にひしひしと迫るなり。この句平凡にして別に異彩あるに非ず、只実感にして作者自身思出深きものあり。――
「伯母さんが洋服呉れる秋さ中」
――昭和二年冬同棲十七年の妻三児を遺して逝く。当時児等何れも未だ幼にして学業に追わるる外何等家庭の事を知らず薪水の労また僕の手を借る事多く、衣類其他に不自由の事のみ多かりしなり。此句は実に妻の逝きたる翌年、独身者の暮し好き夏も終りて秋に入る頃、僕の妹児等の為に伯母さんの一人が洋服を拵えて呉れたのである。当時偶々『紙魚』創刊の事ありこの句を示す。――
「白髪五六七八の秋深し」
――同じ年の秋なり、娘等の曰く「お父さん大分白髪が出来ましたなあ」と試みに数えさせたることあり。――
「かけものの山蒼々と仏の日」
――我が家は日蓮の信者なり。軸を見る時、思出の浮ぶ句なり。偶々亡妻の祥月命日に当たれるも更に重い深し。――
          ○
大正8年、京都に於いて『紙衣』を吉田六好、多田孤山、富永流美、池田柳舟、馬場緑天らとともに創刊。昭和3年、『紙魚』創刊に参加。等々『川柳街』にいたるまで十五六種の柳誌に関わっています。
松窓の大阪時代をよく知る者は川上日車、木村半文銭、麻生路郎らであり、京都時代は指導者として柳誌の運営に力を注いでいたようです。
 麻生路郎は『松窓句集』の序文で「剣術の仕合に、竹刀をブラ提げてボンヤリ突たつてゐて、それで、何處もかも打込む隙がないと言はれる達人がゐるそうなが、松窓の句作態度にはそんなところがある。うしろ鉢巻玉襷で眼眥をキリゝとつりあげ、ハアハア肩で息を切らしてゐる若者の手へサア剣の極意はこゝにあるとばかりに黙って投げ出したやうなのが松窓句集だ」と言っています。
 現代から見れば「古い」かも知れませんが、明治大正昭和と柳檀を引っ張ってきた人の作品は、或いは前衛であり、破調もあり、新しい見方もあります。
京都柳檀の中では、蘭華、千枝、楽山、紫明、二山らの京都川柳社を保守本流とすれば、松窓は常に革新派の先頭に立つ指導者でありました。
    ○
伯父さんの子だといふのが意見に来
後朝は月落烏鳴く時分
母の眼に息子の背中ながいもの
今結ふた髪が重たい病上り
嘘いふて此所へ来ました十八九
隣から貰うたおかず亭主見る
簪の玉の冷たき朝となり
燐寸すれば方三尺のうちに顔
柳に虫かたまりて炎天なる
物思ふお七へさくら散りかゝり
昼の風呂子供を一人ことづかり
ものおもふ凡ゆる中に児をおもふ
秋の陽に髪ながながと我娘居る
柿の艶娘の頬の艶秋晴るゝ
こんな月給でかうして暮し行く身かな
若葉して女の足袋の白さなど
茄子の葉が蝕んで秋深うなり
三月の霰さらさら別れかな
錦絵の霰ちるなり湯屋の前
簪で蜘蛛の子を追う物思ひ
子心に芸者と母を見較べる
半襟の色の好みも二十八
胡坐くんで夕立を見る昼寝おき
探してるもの見当らぬ花曇

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

川柳は文学である
川柳が文学であるというのは当たり前のことです。
しかし、一句のみをもって「文学である」というのには、何かが不足しているように思える。
川柳を含む文章であるとか、意味をもって複数の句をまとめたものであれば、これは間違いなく文学である。
一句のみをもって盗作や暗合に目くじらを立てるのは大人気ない事だ。
同想はいくらでもある。寛容であることが大人の川柳家だと思う。
   (秋声)


 「古川柳で遊ぶ」
 古川柳とは大ざっぱに言って江戸時代の川柳のことです。実は、今の川柳を「川柳」と呼ぶようになったのは明治時代からで、江戸時代は「前句付」とか「やなぎだる」とか「雑俳」とか「狂句」などと呼ばれていました。
 柄井川柳の選句によるものを特に「川柳点」と呼ばれ、その中から呉陵軒可有が選び抜いて編集したものが「誹風柳樽」です。誹風柳多留は初代川柳の死後も幕末まで出版されますが、評価の高いのは初代川柳の選句による二十四篇までです。
 この誹風柳多留の初篇から二十四篇までは我々川柳家のバイブルであり、宝物です。解説本もたくさんあります。私は最初に田辺聖子の「古川柳おちぼひろい」を読みました。誹風柳多留そのものを初めから読もうとしましたが、一句目から意味が分からず数ページで挫折しました。先人の教えに「分からなくても柳多留を読め」というのがあり、再度挑戦しましたが、また挫折。
 ある時こんな事を思いつきました。柳多留のまねをしてみようと。パロディーですが元の古川柳がなくても現代川柳になっていること、言葉遊びのみになっていないことを心しながら真面目に作ってみました。最初からの五十句ですが、古川柳に親しむきっかけになりました。
(秋声記)
 『秋風柳多留』 初篇
さみだれのつれづれに、書棚より誹風柳多留をさがしだし机の上に読むる折りふし、初篇の句より順に頭から挙げて手本とし、当世風に似たるものを作り一帖となしぬ。誹風の余情には遠きものなれど手習い帖秋風柳多留と題す。
平成廿五年仲夏 洛外の藤本秋声述

碁盤目は雪駄ちゃらちゃら京育ち
雷を逃げてあなたの胸へ着き
上がるたび玉屋鍵屋の大ジョッキ
故郷に父母なく犬に吠えられる
ひやひやのハンドル向こうからベンツ
番頭と噂のあった大女将
鍋にする葱大根は彼が持ち
人をみな社長社長とネオンの灯
こめつきばったと呼ばれナンバー2にまで
すっぽんのドリンクそんなもん要らん
祭日と言われてみても定年後
いれ方があると玉露に叱られる
百両を片手でつかむお代官
じれったい彼へ花びらむしられる
プログラム第九だらけの十二月
使者はまず昆布茶で喉を湿らせて
梅はまだまだ鶯はスピーカー
なげけとて干からびている油虫
酒場から酒場ギターは泣きたがり
妻はいつ帰るレンジがチンと鳴り
こわそうな顔があんみつ食べている
から箱は母が大事にとっておき
捨てるのを拾ってからのくされ縁
新橋も歌舞伎座も観て春の顔
うちにかと見れば隣のお中元
美しい日本梅干ど真ん中
四五人はわかるAKBの顔
天ぷらが裸にされる血糖値
いつ来ても同じ値段の奉仕品
ミノだけは苦手かみかみしてもなお
菅笠は平蔵行商はおまさ
片袖を出す振りするは鼻ぐすり
お初ポン涼しくなって男前
同期でも彼は社長の娘婿
七草の謂れを母は祖母に聞き
赤とんぼここら辺りも様変わり
饅頭は知らぬと秘書のせいにする
被害者なのに写メールに取り巻かれ
隠してもあんたらあくびまで一緒
水煙へ来ては輪を描くあめんぼう
ふんどしをぎゅっと男が出来上がり
主婦の勘煮物汁物さしすせそ
親指が迷うメールで済まぬこと
ああ言えばこうとご長寿ご健勝
国会には腹の具合も安倍総理
食いつぶすよう道が出来ダムが出来
たこが出来て割った瓦も数知れず
宅配へ出る眉のない風呂上がり
親からの財産馬に食われけり
幼児らに聞けばかぼちゃは馬車に化け

『誹風柳多留』 初篇
さみだれのつれづれに、あそこの隅ここの棚より、ふるとしの前句附のすりものをさがし出し、机のうへに詠むる折ふし、書肆何某来りて、此儘に反古になさんも本意なしといへるにまかせ、一句にて句意のわかり安きを挙げて一帖となしね。なかんづく当世誹風の余情をむすべる秀吟等あれば、いもせ川柳樽と題す。
干時明和二酉仲夏 浅下の麓呉陵軒可有述。

五番目は同じ作でも江戸産レ
かみなりをまねて腹掛やつとさせ
上るたびいつかどしめて来る女房
古郷トへ廻る六部は気のよわり
ひよ のうちは亭主にねだりよい
伴頭は内の羽白をしめたがり
鍋いかけすてつぺんからたばこにし
人をみなめくらにごぜの行水し
米つきに所を聞けば汗をふき
すつぽんに拜まれた夜のあたゝかさ
齋日の連レは大かた湯屋で出来
入髪でいけしやあ と中の丁
百両をほどけば人をしざらせる
じれつたく師走を遊ぶ針とがめ
九郎介へ代句だらけの絵馬を上げ
使者はまづ馬からおりて鼻をかみ
梅若の地代は宵に定まらず
なげ入の干からびてゐる間ィの宿
鞠場からりつぱな形リでひだるがり
初ものが来ると持仏がちんと鳴
こわそうに鯲の枡を持つ女
唐紙へ母の異見をたてつける
すてる芸はじめる芸にうらやまれ
新発意はたれにも帯をして貰ひ
内にかと言へばきのふの手を合せ
美しい上にも欲をたしなみて
四五人の親とは見えぬ舞の袖
天人もはだかにされて地ものなり
いつとても木遣リの声は如在なし
身の伊達に下女が髪迄結て遣り
菅笠の邪魔に成まで遊び過
片袖を足すふり袖は人のもの
お初にと斗姑メたてにとり
銅杓子かしてのろまにして返し
七草をむすめは一ツ打て逃げ
赤とんぼ空を流るゝ龍田川
まんぢうに成は作者も知らぬ智恵
取揚婆々屏風を出ると取まかれ
しかつてもあツたら禿炭を喰ヒ
水茶屋へ来ては輪を吹き日をくらし
ふんどしに棒つきのいる佐渡の山
主の縁一世へらして相続し
親ゆへにまよふては出ぬ物狂ひ
能い事を言へば二度ビ寄付ず
初会には道草を喰ふ上草履
喰つぶすやつに限つて歯をみがき
子が出来て川の字形リに寝る夫婦
取次ぎに出る顔の無いすゝはらひ
煮うり屋の柱は馬に喰れけり
りやう治場で聞ケば此頃おれに化

《朝日新聞・京都川柳より》
   ◇・ひげ・◇(6月17日掲載) 藤本秋声選評
好きなよう好きなことして生きるひげ   重田 和子
 〔評〕「そのひげ、よくお似合いですね」などと言われると照れ笑いするおじさん。自由を満喫しています。
無精ひげ剃って思案の印を押す      和田 幹男
 〔評〕自由に生きることが最善であるとは限らない。前に向かって進むには時として妥協も必要だと作者。
無精ひげ伸びたまんまに忌中札      浅野  悟
〔評〕妻を亡くした男に時間は止まったまま。それでもひげだけは毎日少しずつ伸びる。諸行無常である。
昼寝から覚めたらひげを描かれてた    橋本  隆
頭髪が寂しくなってひげ生やし      武内千賀子
山男ひげ剃り落としプロポーズ      石田 和雄
ひげだけは何が無くともよく伸びて    余田 厚夫
ひげ剃って終活ノート書き始め      高橋三枝子
プロ野球ひげより腕で勝負しろ      日比 英隆
猫のひげプライド高く伸び揃う      木下 正己
かろうじてひげで威厳を保ってる     吉岡  民
付けひげをして雑踏へ紛れ込む      那須 明夫
頬ずりの痛かったこと父のひげ      上羽富美子

✐✱✰✽✍ 裏表紙 ✍✽✰✱✐

○5月より京都番傘の「御所柳」の誌友近詠欄の選句を仰せ付かりました。その近詠欄のタイトルが「大文字」でこれも何かの縁であろうと、この冊子の題に戴くことにしました。○同じタイトルの「川柳大文字」は大正7年京都川柳社によって発刊され、大正10年40号をもって廃刊となりました。その大文字の記事の中で阪井久良伎と井上剣花坊との創始争いを「面談して話し合えばよい」と書いたところ、久良伎から「その必要はなし」との手紙が藤本蘭華へ届きました。表紙の題字はその手紙から転写しました。久良伎は今で言う毒舌家で一時は川柳界から顰蹙を買っていたようですが、根本は明るく会った人には好かれていました。次第に誤解も解け、川柳界にはなくてはならない存在となりました。久良伎は川柳の江戸趣味を唱えた人と言われていますが、京都のこともお気に入りで、京都の川柳を応援してくれました。一方の井上剣花坊も京都が好きで何度も訪れています。○本誌は月刊の予定です。郵送希望の方はお申し出くださいませ。
(秋声敬白)

川柳大文字 創刊号 平成27年7月1日発行      編集・発行 藤本秋声
京都の川柳家列伝(2)


藤本 蘭華


 藤本蘭華。本名福次。明治二十五年三月一日生。(ちなみに、岸本水府は同年二月二十九日生まれで、一日違い)
 昭和九年発行の宮尾しげを画並編『初編・昭和川柳百人一句』に「柳歴」として「川柳と仲好しになって銀婚を過ぐ、先方は御存じなからんも知らざれど、當百、而笑子二氏を初心の師と仰ぐをゆるされたし」とあります。
 川柳中興の祖と言われる阪井久良伎、井上剣花坊とも親交が厚く度々京都を訪れる両氏を歓迎し、久良伎の「花束」、剣花坊の「大正川柳」へも投句していますが、両氏がまだ狂句時代の名残をとどめている事を感じ、独自の川柳を求めていたのではないかと思われます。
 窪田而笑子には読売新聞の川柳檀への投句で、川柳の基本を学んだと思われます。明治末期に而笑子の影響を受けた川柳家は日本全国に多数いましたが、直接の交渉の記録が残っていません。
 西田當百は大阪で関西川柳社、番傘川柳社の創立にかかわった人ですが、一時京都に住み、京都柳檀の黎明期に若い川柳家たちの指導に当たっていました。
 藤本蘭華は明治四十年頃、「彩柳会」というのを創り、蜻蛉庵・蘭華と名乗り川柳を始めます。最初は新聞雑誌の投句から始め、そこで井上剣花坊、阪井久良伎、窪田而笑子、関口文象らを知ることになります。明治四十三年に本田渓花坊とともに「平安川柳社」を創り、京都で初めての川柳誌「みづ鳥」を発行します。
実家は中京区姉小路麩屋町の彩雲堂という絵具屋で、蘭華は二代目。隣が蕎麦屋の河道屋。蘭華宅と河道屋でよく句会を開いています。現在河道屋は蕎麦ぼうろの専門店で、蕎麦屋は近くの晦日庵に移っています。
 大正の初めに二十歳そこそこで、新聞雑誌の選を担当し、句会を催し、川柳誌を発行するなど、京都の川柳界を牽引し、まとめ上げた功績は非常に大きく、特に大正元年から15年までの日出新聞柳檀にはその後の京都川柳界を担っていく多くの新人を育てました。
あまり表へ出ることを嫌い、その目的を果たしたが如く大正十五年、三十四歳、「蘭華」の雅号を捨ててしまいます。
 後事を若い川柳家に任せて「福造」と改号し、川柳を楽しもうとします。昭和8年「福造句集」を上梓。時代は戦争へと向かい、昭和十一年、四十五歳で再び「蘭華」に戻り、戦中戦後の京都柳檀を守ります。
 遡って、最初に「彩柳会」「平安川柳社」、さらに大正元年に「京都川柳社」を創りますが大正七年に川柳誌「大
文字」を発行し「京都川柳社」に統一します。大正十五年、川柳誌「京」を創刊。
 京都川柳社と「京」は、昭和十六年に京都の全柳社を国策により統一、大京都川柳社となり「月刊川柳」になりますが、戦後、昭和22年1月「京」を復刊。(秋声記)

    藤本蘭華 句抄

春雨の柳を潜る最相傘
鋸へ瓦が午砲を告げる也
尻からげ交番へ来て息をつぎ
頬冠り黙って犬に何かやり
風鈴屋之より遅う歩かれず
先生は逆に歩いて手を叩き
手袋に車掌は馴れたつりを出し
畳んでる着物着て行く松の内
いゝ娘貰はれてから貰はれる
号外を読む順がある店火鉢
髪結が髪を結ってるひまなこと
歌留多会時計を見ると雪が降り
紋付で活動へよる松の内
夜桜も朝の桜も見て帰り
交番に裸が見える暑いこと
生きてゐる様だと小芋突きさゝれ
光陰矢の如くおいらの代になり
嚏をするが月見の終い也
宿直に湯気の上つた物が来る
スケツチが済むと其の花いゝ匂ひ
虫の音をほめてゐるのが泊り客
秋の月此處を廻れば質屋へ出
男親やつと一丁歩かせる
電報を褞袍の處へ持つて行き
夜が明けて来ると豆腐屋しんとする
抱かされてゐると女房の長い用
悲しさは注射をしても痛からず
爪弾に男は足袋をぬいでゐる
涼しさは盥に雨の音がする
客来に牡丹餅の口拭いて立ち
夕刊を一寸覗いて飯にする
軽焼屋噴火しさうになつてやめ
夜桜へ京の埃を浴びに来る
雌黄だけ汚して虎は出来上り
店頭にラヂオ勝手に喋つてる
イメージ 1


本家から検分に来る新所帯
伏せた猪口又仰向かす客が来る
律義者もう元旦に義理が済み
帳場から紙撚一本二本くれ
小さい寺大きな寺の鐘で起き
鐘一つ子供の分に撞いてやり
湯の留守へ友達上り込んぢまい
円タクへさあ乗りまひよと濡れに立ち
ガスに馴れ文化に馴れて嫁にゆき
箸紙が破れかゝると注連があき
玉子屋の自転車おつとどついこいしよ

川柳の学校
「省略と擬人法」
 ――鋸へ瓦が午砲を告げる也――
*「午砲」は「ドン」と読みます。
 昔、正午に空砲を打って時を知らせた。土曜日の仕事を午前中で終えることを「半ドン」というのはここから。
 そこでこの句は擬人法かと思いきや、これを省略法と言います。
 擬人法はものを人に例えるのであって、ここは「下で鋸を引いている人」へ「屋根で瓦を葺いている人」が「昼飯にしよう」と言った、ということであり、省略法なのであります。
 擬人法とは「イヤリングが今日は帰りたくないのと言う」というようなもので「イヤリングがものを言うわけない」と言われればもうそれまでなのであります。
     ○     ○
と、こんなようなことを蘭華は大正7年の「大文字」で述べておりました。(秋声記)

イメージ 1


本田 渓花坊

 大阪の造幣局に本田渓花坊の「大阪に花の里あり通り抜け」の句碑があります。
 「絵日傘」「大大阪」「川柳国」を発行し、大阪で活躍した川柳家ですが、元々は京都の人で、京都最初の川柳誌「みづ鳥」の発案、創刊者です。
明治23年10月4日、京都市西陣糸屋町に生まれる。職業は貸家業。本名本田敬之助。別号、渓の助、渓花荘、櫻國。柳誌の発行のほか川柳の研究にも尽力。
18歳で川柳を始めるのが明治41年頃。20歳の明治43年に藤本蘭華とともに「みづ鳥」を創刊。平安川柳社、京都川柳社を創立後、大阪へ転居しますが、京都川柳社の顧問的立場でこれを応援します。
明治後期の京都には京都柳友社というのがあったようです。暫く活動停止、明治43年の記録に京都柳友社復活、1月例会(第1回)に當百、卯木、水府、ひさご、渓花坊出席。2月例会(第2回)蘭華坊、渓の助他。3月例会(第3回)石田静波、高城玩月。4月29日臨時小集、岐阜「青柳」の田中蛙骨入洛とあり、京都柳友社は大正7年まで続いています。
 京都の川柳の黎明期に於いてすでに各地の川柳家との交流も盛んで、明治43年は特に活発に発展しようとした年であった。本田渓花坊(渓の助)が川柳誌「みづ鳥」を発案し藤本蘭華がこれに応じて創刊。小笹楽山、西山富士子、船木夢考、後藤千枝が賛助同人となり、発行所を平安川柳社と名付けます。
 この時渓花坊20歳、蘭華18歳。賛助同人も同年輩でこれらの若者たちを四十歳近い西田當百が指導者として協力しています。當百は大阪の人で、明治42年に関西川柳社を創立しますが一時京都に住み大阪へ出て商いをしていたので、京都でも活動しています。
 大正元年、平安川柳社は京都川柳社としますが、渓花坊は大阪へ転居し「みづ鳥」は廃刊に。
 大阪へ移った渓花坊は大正6年に「絵日傘」を発刊。大阪に晴雨二つの傘(雨は番傘)が誕生します。大阪での活動を中心としながら、京都川柳社の顧問的な立場で終生これを応援します。また川柳を研究した文章もたくさん書いています。
 昭和8年に「渓花坊句集」を上梓。その序文を蘭華が書いています。
――思へば古い友達です。京の新町時代の、渓の助、渓華、渓花坊、京都最初の純川柳専門誌「水鳥」の創
刊、京都日報其他の選者時代、大阪千年町綿屋町等を経て今の老松町時代まで、明治、大正、昭和と経て来
 てゐます。「絵日傘」「大大阪」の華かさから一歩を進ませて「大大阪研究会」の名に於いて会員の量に質に何時でも表へ打って出るだけの用意を整へて、研究に没頭してゐられます。――
 また小笹楽山は、
――川柳研究に没頭数年に到る。今尚その研究は実に日本川柳界の生き字引と称して過言ではない。――
と讃えています。
 昭和9年に「渓花坊川柳随筆」を上梓。その内容を目次から拾うと、
 誹風柳多留板行年表
浪華柳多留
 水茶屋と萬句合取次所
 川柳評萬句合(春期板)
 誹風柳多留百六十七篇
 序説より見た川柳の名詞
 宮島新柳樽と一丸
 素行堂松鱸翁
 しん篇もかみせんりう
と専門的です。
 研究家で文章も巧みで、さらに絵が上手く自らの川柳誌その他の表紙のデザインから挿絵まで手掛けています。(秋声記)
〈渓花坊句抄〉
灯が点いて立つと女の派手な帯
釣りを出す財布に手首みんな入れ
絵かきにもなればと思ふ日の永さ
振袖を着せて父親連れて出る
父親が壁で逆立ちして見せる
山寺で眼に立つ色は椿なり
咲いて散る其人ごみを抜けるだけ
牛の尾と蠅とひねもすこんくらべ
装束を脱げば行者は痩せてゐる
丸木橋雪解の中にありはあり
奈落の灯造花のあやめ照らすなり
蓮池へ画家の三脚影を引き
    京の春
ねんごろに襟巻をする比叡おろし
渓仙へ嵯峨の春まだつぼみにて
さくらには早き四條の橋渡る
    水都の初夏
瞑想のまうへ北区の蚊がおどる
妓の膝もまろしさくらんぼもまろし
水都風景に地階の金魚鉢
あやめ咲く宵の新地に箱出切る
天守閣書斎へ倒けそうに見え
   地蔵一題一萬句より
紀の久爾の春の情緒に地蔵ゐて
子の寝棺地蔵の上に朽ち果てる
勿体なやついでに地蔵拝まれて
潮来いま地蔵の近くにもあやめ
お地蔵の頤の丸みのなつかしさ
黎明にお地蔵さまの咽喉ぼとけ
地蔵さま奇数に列び陽は落る
雀らに地蔵の手付きおかしかろ
みちのくの地蔵と別れ二千日
お地蔵さまねんごろに墓場を向いて
朝のこゝろに来るもの地蔵さま
桐の花と地蔵いちにち雨にゐて
    句帖に寄せる
温泉の宿で絵筆と別に句帖あり
雪空の暗さ机の灯に句帖
句帖へも都の桜散る桜
    桜紅葉の日
ふらんねる着て十八の娘のかほり
空を見て飲む眼に桜紅葉して
筑前博多の帯しめて囲はれて
いちはやく祇園の妓らに夜の霙
踊子の靴のつまさき冬せまる
     川柳国より     本田渓花坊
 ◇川柳国に生るゝ人々よ。昨秋関東の大震災は何と謂ふ、惨ましいショックであろう。幾多の川柳家の前途を、惜しむらく挫折せしめて了った。再び得易からざる川柳界の研究書も、珍書も一陣の火災のために永遠に葬り去られて了った。
 大正川柳の震災号を読んでは誰か涙せんや、その有形無形の莫大なる川柳界の損失より頭を擡げ、漸くにして甦らんとなせる、復興の大東京川柳界の人々に比べると、関西川柳界の人々は実に至幸と謂はねばならない。
◇川柳国に生るゝ人々よ。川柳国の盛衰は一つに、御身の双肩にあるのであって、この多くの新しき作家を抱擁した、関西川柳界の大事業は、要するにこれからである。時代の要求は大正十三年の初春をして、川柳雑誌社を起たしめ、我が大大阪川柳社が起たしめる。実に痛快ではないか、多くの専門誌が生れ、手を繋ぎ、共に語り、共に笑ふ賑はしさは実に期せずして御身の熱情ある十七字の声の連鎖と思はねばならない。
 ◇川柳国に生るゝ人々よ、川柳は尊い実生活の呻きである。ひねもす煤煙より或は町々の砂埃より、襲われて、こゝに赤裸々に、最も深刻に社会の半面は展開されてあるのである。都会に住む川柳国の人々の幸福と使命は全く、終日終夜無尽蔵に、其材料を提供実習されつゝあるを感謝せねばならない。社会の活きた取材を教科書に、
或は練習帳に、或は手習草紙となさねばならない。
 ◇川柳国に生るゝ人々よ。川柳国には先生の隔てもなく、先輩の隔ても無い、一切無差別のところに誇るべく、語るべく、進むべき親しみがあるのである。自然に伸びよ、自然に進め、心のままに、柳の芽のやうに何日も柔かい心の持主であって、川柳国の温みに憧れてありたい。あるときは東に、あるときは西に、あるときは魂を抜殻として、夜の街々の華やかさを讃美するのもよかろう。
 ◇川柳国に生るゝ人々よ。御身の一七字は御身の魂の叫びであらねば不可ない、練習帳が何時になっても白紙の儘にては作句上の上達は覚束ない。手習草紙へ落書きばかりして居ても見込みがない。雑誌が多く出る、雑誌は御身たちの来るを、快く迎へるであらう。我が大大阪川柳社の大大阪誌もあるときは御身に提供して紙面を割愛しやう、さうして共に共に川柳のために活きやう。
(大正十三年「川柳大大阪」創刊号巻頭言より)

川柳 大文字 創刊号

川柳大文字 創刊号(1)
       平成二十七年七月一日
目次
  近詠(御所柳掲載)      1
  京都の川柳の歴史概略    2
  京都の川柳家列伝(1)(2)
本田渓花坊        3
藤本蘭華         7
  川柳の学校         9
  古川柳で遊ぶ        10
  朝日新聞・京都川柳より   12

近詠     藤本秋声
壁ドンは禁止と相撲部の部室
花揺れてへえおおきにと断られ
にらめっこ猫も相手をしてくれず
解らなくなってバッハを聴いている
それは違いますと氷雨に叩かれる
言いたくて喉から胸を掻きむしる
(御所柳掲載)





  京都の川柳の歴史概略


 


川柳には二五〇年の歴史があります。


江戸時代、下の句「七七」を先に決めて上の句「五七五」を募集する前句付が流行しました。たとえば、「切りたくもあり切りたくもなし」の七七へ、五七五の「盗人をとらえて見れば我子なり」とか「さやかなる月をかくせる花の枝」が付きます。


それは江戸庶民が生活の中から自由な発想で庶民自らが創りあげた文化でした。


特に柄井川柳が選んだ作品は川柳点として高く評価され、更に川柳点の中から優れたものを呉陵軒可有が編纂した『誹風柳多留』は大変な人気を博しました。しかし柄井川柳の没後は内容より言葉遊びに走り堕落していきます。これを柳風狂句と言い、明治の中頃まで約百年続きます。


明治中期、正岡子規の短歌俳句改革の提唱に刺激を受け阪井久良伎、井上剣花坊らにより新川柳運動が興り、日本全国で新しい川柳を志す若者が増えて行きます。大阪では小島六厘坊が明治38年に六厘社を設立し「葉桜」を発刊します。京都では本田渓花坊と藤本蘭華が川柳誌「みづ鳥」を発刊し新川柳の幕が開きます。

 大阪の六厘坊は23歳の若さで死んでしまいますが、

その後を西田當百、岸本水府らの関西川柳社が誕生し

後の番傘になって行きます。


 京都では「みづ鳥」の平安川柳社は京都川柳社となり、渓花坊、蘭華に加え西山富士子、小笹楽山、後藤千枝らが参加し、後に山川紫明、紀二山らも加わり大正・昭和初期の中心に存在することになります。


 また、大阪で「葉桜」の発刊に加わった齋藤松窓が京都に戻り、吉田六好、池田柳舟らとともに京都川柳社とは別の柳社を興し新しい川柳を指導していきます。昭和2年に吉田緑朗が葵川柳社を興し、東京から転居した平賀紅寿が加わり、昭和5年に葵川柳社を解散して京都番傘川柳会が生まれます。


しかし、紅寿が京都から離れると京都番傘は衰退します。やがて戦時色が濃くなって川柳の活動も制限され、昭和16年には京都の柳社、柳誌は一つにまとめられ、大京都川柳社として昭和19年4月まで命脈を保ちますが、その後は日本川柳協会京都支部へ移行し、活動停止状態になります。


 終戦後は、京都へ疎開していた水府の番傘の句会が京都で開かれます。昭和21年には紅寿が東京から戻り京都番傘が活動を再開するなど復活していきます。


 昭和32年に京都の統一を図り平安川柳社が発足、職場川柳会が盛んになります。その後平安川柳社は分裂し、現在は多くの川柳社が京都で活動しています。



2


(秋声記)






全1ページ

[1]


.
へぼきゅうり
へぼきゅうり
男性 / AB型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

標準グループ

http://blog.zaq.

登録されていません

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事