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昨日は久しぶりの五月晴れで青空が広がった。
朝、1時間ほど薪割りをして心地よい汗を流した。
そして、今日は一転、朝から雨が降っている。
玄関を出ると、
1㎝あるかないかの小さな蝸牛がたくさん這っている。
この蝸牛は今の家に住むようになって初めて見た。
殻の色が青っぽく、透明感がある。
カタツムリを漢字で蝸牛と書くと幸田露伴を思い浮かべる。
露伴は何度も引っ越しをしたので、自分の住む家を蝸牛庵と呼んでいた。
思えば、露伴という名前も北海道から東京に向かう旅の途中で野宿を余儀なくされ、露に濡れながら眠ったことからつけられた。
露伴も蝸牛庵もやや自嘲気味な命名のようにも思われるが、露伴はそんな状況も楽しむことのできたひとだから本人としては自嘲の気持ちは無かったのだろう。
話は変わるが、昨日は東京へ出稼ぎに行った。その出稼ぎ先の近くに露伴と同年生まれの夏目漱石の生家があった。現在も夏目坂という地名が残っている。そして、昨年、漱石を慕って漱石山房記念館というのが出来たらしい。やはり出稼ぎ先から歩いて行ける距離にあるようなので、一度訪ねてみよう。
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正岡子規
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今年は正岡子規生誕150年。
子規は慶応3年生まれで、慶応4年が明治元年、つまり江戸時代の生まれ。子規の他に、夏目漱石、幸田露伴、尾崎紅葉、文学者ではないが南方熊楠も同年生まれ。
生誕150年に合わせたわけではないだろうが、子規のこれまで知られていなかった俳句5句を含む歳旦帳が発見され、9月には根岸の子規庵で一般公開されるそうだ。
寝後れて新年の鐘を聞きにけり
暗きより元朝を騒く子供哉
うらうらと初日の影や枯木立
初夢や炬燵ふとんの暖まり
留守の戸に名刺投げ込む御慶かな
子規といえば俳句と短歌を革新したことで知られている。
特に短歌ではそれまで詠まれることのなかった身近なあれこれや個人的なあれこれを写生することで短歌に、そして俳句にも新しい命を吹き込んだ。その意味ではまさに明治日本に新しい文学のあり方を導いたと言っていいだろう。
ところが、子規よりも百年以上前に漢詩の世界では同様な変化が起こっていたという。
富士川英郎著『菅茶山』によると、菅茶山(かんちゃざん 1748-1827)は
しばしば「実境を写し、実感を歌う」ということを説いて、
それをその試作において実行した。 (中略)
作為や技巧や虚飾を排して、まことに就こうとする気持ちは、
早くから彼がもっていたものなのだろう。
とされる。
それまで江戸時代の漢詩というと儒学者の学問の修養の一部として詠まれていたのが、天明から寛政へかけて、儒学という学問から独立し、近代的な意味での詩人が誕生してきたという時代の流れがある。その代表者が菅茶山というわけである。
さて、正岡子規は幼年の頃から漢文を学び、俳句や短歌よりも先に漢詩を詠んでいた。菅茶山の詩にも親しんでいたという。
そんな子規にとって俳句と短歌の革新に取り組むことは当然の成り行きだったに違いない。
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明治35年8月24日付けの『病牀六尺』で子規は「渡辺のお嬢さん」に一目惚れしたいきさつを記す。
二年振りに訪ねて来てくれた二人の友人が渡辺のお嬢さんを紹介したいと、すでに連れて来ていると云う。それは是非と会ってみると、噂には聞いていたが、想像以上の美人で子規はすっかり心を奪われる。
しばらくの歓談の後三人が帰ろうとするが、病床の子規は心が騒いで仕方ない。ついに意を決して帰りかけた友人を呼び戻して意中を明かす。そしてお嬢さんにだけは残って泊ってもらうことになった。
子規はお嬢さんを是非自分のものにしたいと望み、その意を伝えたのだが、よんどころないわけがありそれは叶わぬと言われる。心乱れた子規は友人に手紙を送り心の苦しみを訴える。そしてとうとうお嬢さんを譲り受けることとなる。
文章の締めくくりで子規は
「嬉しいのなんのとて今更いふまでもない。」
と書いた後、お嬢さんの素性を明かす。
「お嬢さんの名は南岳艸花画巻(なんがくそうかえまき)。」
死の一カ月ほど前の話であるが、晩年の子規は草花の絵を見、自らも絵を描くことを最上の楽しみとしていた。そんな子規のもとに友人が渡辺南岳の画集を持ってきてくれたのである。持ち主は譲ることはできないと断ったが、友人たちの説得で、この先長くは生きられない子規であるから生きている間だけは手元に置くことを認めたのであった。
ところで、我が家にも眷恋のお嬢さんをようやく迎えることができた。
この春お迎えして、ようやく花を咲かせてくれた。
京鹿の子
シモツケが好きで
京鹿の子もシモツケの仲間だが、
この色がなんとも言えない
こちらはシモツケ
引っ越した年に植え
かなり大きくなってくれた
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明治22年5月9日夜大量に吐血した「のぼさん」は5月11日付の叔父宛ての手紙に
病気之事母上はじめ他の方々へは可成御話無之様奉祈候(なるべくお話これなきよう祈り奉りそうろう)
・・・一行略・・・
私卯歳なれば卯の花にも縁あり従而(したがって)啼血するといふ杜宇にも廻り親類に相成候もいとおかし
卯の花をめがけてきたかほととぎす
・・・後略・・・
と書いた。
当時結核は死の病であり、ほととぎすは口の中が赤いため血を吐いて啼く鳥とされ結核の象徴と見られていた。そのほととぎすは渡り鳥で卯の花(ウツギ)が咲く5月中旬頃やってくることから、梅に鶯と同様、卯の花にはほととぎすが取り合わせとされる。そんなことから吐血をした夜「のぼさん」は50句ほどのほととぎすの句を詠んだ。
ほととぎすは時鳥、杜宇、不如帰、郭公、子規、蜀魂など様々な漢字があてられ、上の句では最初時鳥という漢字があてられていた。そんな中から長くない命を覚悟した「のぼさん」正岡昇常規は自分の号に子規の字を選び、以後正岡子規と名乗る。
ところで、上掲の手紙の略した一行だが、「都合つき候ハバ金少々御送被下度奉願候(お送りくだされたく願い奉りそうろう)」である。いずれ死ぬにしても生きている間は金が必要だ。子規は当時まだ22歳の学生で仕送りを受けていた。
卯の花(ヒメウツギ)
卯の花がすでにかなり散った今朝
とうとうほととぎすがやってきた
原発をめがけてきたか不如帰
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明治三十三年のこと、
「五月廿一日朝雨中庭前の松を見て作る」という詞書きをつけて病牀の子規は松の葉に置いた露を十首の連作に詠んだ。
その中の一首、
松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く
調べが美しく、描かれた光景も美しい一首だが、子規以前にこの松の葉に置く露を詠んだ歌はないらしい。萩や菊に置かれた露を詠んだ歌はたくさんあるが、なぜか松の露は詠まれることがなかったようだ。
和歌というのは子規以前にはかなり制限の多い世界だった。いわゆる歌語というものがあり、また歌に詠む植物も限られていたり、その植物も一定の連想の中で詠まれたり、何でも好きなものを歌に詠んでいいという世界ではなかった。たとえば松なら常盤木であることや松に吹く風の音、松籟、あるいは末の松山は波が越さない、といったことだけが詠まれた。そのような窮屈な世界であれば行き詰るのが当然であるが、子規の時代まではまさに行き詰まり、停滞していたのが和歌の世界であった。そんな和歌の世界を革新しようとして「貫之は下手な歌よみにて候」とあえて挑発的なスローガンを打ち上げたのが子規であった。そして、俳句の革新でも基本原理とした「写生」を和歌の世界にも持ち込んだ。
「松の露」連作十首もそうした「写生」の結果生まれた歌である。子規はこの松の露の美しさを発見したことがよほどうれしかったらしく随筆の中でもこれらの歌を詠んだときの様子を書いている。いまでこそ、個性を尊重し、あらゆる対象を歌に詠むことが当たり前であるが、それももとをたどれば子規のおかげだったわけである。
ところで、日本の和歌の世界では詠まれることのなかった松の露であるが、『唐詩選』を読んでいたら張説の詩に次のような一句があった。
懸池的的停華露(池に懸かり的的として華露を停どめ)
「(一本の松が)池に覆いかぶさりきらきらと輝いて
美しい露が宿っている」
*華露・・・美しい露
*的的・・・きらきらと輝くことの形容
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