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高校国語(現代文・古文)の学習を手助けします

 淋しさ半分の涼しさ

 朝起床して、燃えないゴミ出し。5時過ぎだったが、さっそくホームレスの人
がエレキギターを持ち去った。一瞬躊躇ったが、結局黙認した。

 昨日、「役に立たない自分こそ断捨離の対象かな?」と冗談を書いたが軽率だ
った。今日は相模原市の殺傷事件の1周年。遺族の方にもお詫びしたい。

 自分は現役の時も、リタイア後のブログ活動でも、主観的には懸命に頑張って
きたつもりだが、冷ややかな反応ばかりだった。…でも、少なくともブログでは
何人かの読んで下さる方もいたから、感謝すべきだろう。

 生の拡張欲の時期は終わった。これからは、現実を受け入れて静かに生を収束
していく時期だろう。

 6畳のゴミが片付いたので、すっきりした。これから休憩した後で掃除。
不要物って、物入れとか押入れとか、目につかない場所に詰まっているんだが、
何となく家の中が涼しくなった気分。淋しさ半分の涼しさ。

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 日本人最初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹氏は、敗戦に打ちのめされていた
日本の国民に非常に喜びと勇気を与えた。

 その湯川博士の書いた随筆に題名は忘れたが、「箱庭」に触れた文があった。
物理学への氏の情熱は、この世の現象を箱庭のような静的な世界として捉えたい
ということらしかった。「不動の美しい世界に固定化する」―それを、私なりの
表現に換言すれば、不可解なこの世の現象を「コスモス」として固定化しようと
する情熱と言えようか。

 私の授業の一つのキーワードは「カオスとコスモス」という対概念だった。
その応用として、ヘレンケラーという三重苦の少女の場合を説明した。
三重苦の少女にとって、この世はカオスそのものだろう。「例えば」と生徒に説
明する。「この教室にケラーを無理に連れてきた場合を想像してみる。ケラーは
いきなり机にぶつかって、混乱し恐怖に駆られる。あちこち暴走して逃げようと
するが、その度に机や椅子やドアにぶつかって、この世が悪意の修羅と化す。

 「しかし」と言って私は生徒の手を取り「目をつぶるんだよ」と命令して、生
徒の手のひらに「教室」という言葉を何度も書きながら、机の間を歩かせる。
両脇の机に触らせながら歩いていくと、何にもぶつからないでスムーズに歩ける。
「サリバン先生がケラーに水を教えてケラーが覚醒したのはそういうことだ」

「ここは教室という整然とした空間なんだ。勉強という目的に合わせて、中央に
黒板があり、それに向かって机が並んでいる空間。天井には蛍光灯が勉強の為に
照らしている」「こういう、物があるべき位置に存在し、秩序と調和をもって
形成されている空間を宇宙とかコスモスというんだ」と私は威張って説明する。

 断捨離というのも、自分の静的で統一ある宇宙を形成する為の営みだろう。
物が意味もなくそこらに転がって居たり、押入れに眠っているのは、空間をカオ
ス化するものだろう。

 ところで、私などは何の意味もなくこの世に転がっているような存在だから、
私こそ断捨離の対象かな?(笑) 

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 今朝も4時起床。早く寝るから当然のこと。断捨離で出たもので寝袋なんかは
燃やせるゴミになるらしい。だが、何といっても明日が楽しみ。大量の断捨離品
が片付く。私の6畳の部屋が正常に戻る。最終的には大型ゴミの回収日となる金
曜日が今回の断捨離の締め括り。

 これからは年賀状などの始末。わが家のシュレッダーは小型なので、一枚毎に
始末していくからとても面倒くさい。「あゝ、燃やせる場所があったらなぁ」と
溜息をつく。何かうまい方法があるだろうか。埋めても土に還るのは凄く時間が
かかるだろうな。

 考えてみれば、もっとも手間がかかるのが書類関係だ。必ず名前や住所が宛名
として貼り付けてあるから処分に手間がかかる。

 明日、燃やせないゴミの日なので、先に食器関係の整理に取り掛かった。以前
にかなり処分したので、数は多くないが残すものと捨てるものの分別に手間取る。
貰いものの綺麗なお皿などが残すべきかどうか迷う。使いにくいから。

 柳宗悦が『雑器の美』で書いていたことだが、使いやすいのは雑器だ。庶民は
気軽に使えるものがいい。少し欠けていても使い続けている。

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 断捨離で慎重になるのは人形類とアルバム類。無造作にゴミとして処分するの
は罪深いことに感じる。

 1917年のロシア革命直後にソ連を訪問し滞在した宮本百合子という作家は、
ロシア国民が日曜日などに、家族の写真を撮ったりして生を楽しんでいる様子を
好意的に描いた。一方、ゴーリキーという世界的作家の展覧会には、幼児期の写
真が一枚もないことに気づく。そこに飾られているのはゴーリキーの育った故郷
の風景写真ばかり。

 生きられるものか生きられないものか分からない極貧生活に喘いでいた幼児の
ゴーリキーの生をいとおしんで、写真一枚を撮ってくれる人も居なかったのだ。

 ブログでは、自分が食べた自宅やレストランの料理の写真が溢れている。観光
地の写真も。…日本が豊かになった証拠だ。しかし、この頃私は食傷気味。
私はもっと違うものに飢えている。「飢えている」というのは大袈裟だが。

 グルメや写真を楽しむのも、自分の一回だけの「生」を充実させることであり、
決して軽蔑すべきことじゃない。だが、他人の趣味にどれほどの興味が湧くだろ
うか。私はそのことで幾つかの体験をしている。

 ・外つ国に行きたる人は容赦なく疲れ果つるまで写真を見せつ

 これは、ロシアのドストエフスキーのお墓参りや、生徒がカナダへ留学したと
きの膨大な写真を見せられた時の感想を短歌に詠んだもの。

 友人や生徒への思い遣りから写真を見てあげたが、途中から脂汗が湧いてきた。
何しろ数が多い。「また今度に」と言って打ち切ろうとしたら、相手は酷く不満
そうな表情をし、「もう好いんですか?」と言う。自分が楽しんだことは他人も
喜ぶに違いないという思い込みなのか、単に自慢したかっただけか。

 ある程度の自制心を持つのも「思い遣り」というものだろう。

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 断捨離補遺

 私の6畳の和室は捨てるもので一杯だ。明日と明後日で3点だけ残して片付く。
3点というのは、茣蓙と天体望遠鏡とスノーボード。茣蓙なんか絨毯の上に敷く
と夏が気持ちいいと思ったが、いかんせん掃除がしにくい。殆ど使わないままに
処分することになった。市の方に電話して確かめたら、この3点は大型ゴミで、
それぞれ500円かかる。3点で1500円。金曜日に回収とのこと。

 金曜日が楽しみだ。遠足や運動会を待つ幼児の気持ちと似たようなものか。
妻もその気になったのか、物入れから自分の古いバッグを引っ張り出した。私の
リュックと併せて大きなビニール袋2つ分。妻は「もしかしておカネが…」と笑
って、一つ一つ確かめたら、450円になった。

 妻はおカネにあまり頓着しないタイプで、物を処分することにも無関心。私が
たまりかねて、埃をかぶっているバッグを幾つか調べたら、凄い金額が出て来た。
そんな経験があって、今回も「もしかしたら、100万円程度は出て来るのでは」
と妄想を膨らませたが、たったの450円だった。

 わが家には、切手帳が2冊ある。クリアファイルに挟んであるのだが、昔と違
って、切手のコレクターも少なくなったようだ。それに比較的新しい切手が多い
から、オークションに出せるものはない。でも、書き損じたり、未使用の葉書が
5円の手数料で引き取ってくれるから、切手も同様に扱ってくれるのかな。

 もし、そうなら、老人ホームに入れる程の金にはならないだろうが、一晩の
享楽を尽くすほどのカネにはなるかな?…なるはずもない。せいぜい2万円位か。

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