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かなり大きな活字もぼやけるようになり、我慢して本を読み続けるとドッと疲れ
るようになりました。まして、ブログなんかは離れた方が無難なようです。
やはり4月からの穂村弘小論掲載は断念します。同時にこのブログを閉鎖します。
余生って処女航海みたいなもので、いろんな身体上の障害が出て閉口します。
腸腰(ちょうよう)筋が固くなって歩行時痛みがあって困るなんてことも。
それでも、不十分ながらも書庫も膨らんできたので、一応納得できます。
長い間続けてきましたが、12月15日でこのブログは自然消滅となります。
読んで下さった方々に改めてお礼を申し上げます。
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4月から穂村弘小論の第2部を記載しようと思っていましたが、この頃気力が落ち
てきて、何もヤル気が起きません。家事は義務だと思っているので頑張ってますが。
歳を取るとはこういうことか・・・と実感しています。80歳を超えてもブログを
続けておられる方もいますが、そういう方はきっと生命力が強いのだと思います。
私は短歌もサッパリ出来なくなりました。私が一応所属している結社では、90歳を
越えてもまだ毎号読み続けておられる方も複数います。凄いことです。
というわけで、4月から穂村弘小論が再開できるかどうか危ぶまれます。私の気持
ちとしては書庫をなるべく充実させてから完全閉鎖し、12月のヤフーブログ終結と
ともにこのブログも消滅させていくつもりでしたが、なにしろ気力が萎えてきたので、
4月を待たずにこのブログの更新を終了させるかもしれません。約束を守れず申し訳
ありませんが、なにとぞご容赦ください。
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・紅葉累々廃坑の町の墓に立つ姉の一生何も知らない
・墓に立つ我に雪虫蝟集(いしゅう)する 姉の一生不幸だったと?
・すれ違った微かな記憶辿り合う雪は上から我は下から
・「耐えてます春待つことを楽しんで」姉の便りは雪明りして
・喘ぎつつ雪原行けば蘇る直(じか)に生きてたあの頃のこと
私は冷たい性格でなく、要するに愚鈍な質。だから肉親への愛情が薄い。姉は二人
居るが、長姉には私が関節結核になった小学生時代世話になった。だが、自分のこと
ばかりにかまけて、炭坑に嫁いだ姉への恩返しも粗略になりがちだった。
今思うに、姉が嫁いで間もなく時代は石炭から石油の時代への移行期間だった。
姉が死んでから、しばらく墓参りも途絶えていたが、20年ほど前それをした。
赤平という炭坑だったが、私が訪れた頃は、この町は非常に活気がなかった。姉の
墓の前に立った時、それは小高い地にあったのだが、紅葉が凄かった。おまけに晩秋の候だったから雪虫が私の体を埋め尽くした。
4首目の姉というのは次姉。札幌に居る。兄も札幌に住んでいる。
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・がうがうと音立てて燃ゆ札幌の紅葉の終演見る人もなし
・雪原を引き摺るごとく喘ぎいる汽車の悲鳴に猶も鞭打つ
・逃げてゆく津軽の海のみぞれ雪浮きつ沈みつ溺れて離(さ)かる
・地吹雪と罵り声の地を出(い)でてショパンの曲にげに戸惑ひぬ
愚鈍で血の巡りの悪い私だったが、家庭の暗さ、北海道の厳しい風土から脱出を
しようと思っていた。その手段は「勉強」だった。一浪してようやく東京の国立大
学に合格できた。脱出するために乘ったのは、当時は汽車。青函連絡船も船底の大
部屋だった。その時デッキで見た津軽海峡の海を埋めたみぞれ雪のことは忘れられ
ない。溺れる人を見捨てて逃亡するような気分だった。
内地に来て、東京の人が炭炉一つで3月の寒さに耐えているのにビックリした。
その後も考えたが、実は北海道の人々は寒がり。家の外は酷寒だが、家の内は真夏
のように暑い。石炭ストーブをガンガン焚いているから。当時はまだ石油の時代じ
ゃなかった。やがて湘南の地に来て、その穏やかな風土に感心し、柔らかで婉曲的
なものの言い方に慣れていったが、殊にショパンの曲にビックリした。
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