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書庫『遥かなノートル・ダム』(

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  「自分の中に経験が形成され始める時、それは一個の人間を定義する。
  「人間となる、人間そのものに本質的に属する歴史であり、経験その
   ものはある経験を超えるものを定義することによって、歴史と伝統
   とに参与するのである。」
 
通俗的な書き方が出来ない人ー森有正をそう言っていい。敬遠される要素を抱えているが、しかし、問題追求の姿勢は真摯だ。
 
「定義」というのも「経験」と並んで彼が頻繁に使用する言葉。ある「経験」をした人間は、初めて「…という経験をした人間」と規定され、人間らしい顔を獲得する。「社会」とはそういう「経験」をした「個人」の集まりだーとも言う。逆に言えば、何も「経験」しない人間は社会を構成する「個人」ですらない、となる。顔を持たない「人間」ー例えば、「彼は人に好かれる人間だ」というのは「彼」を説明しないことになる。「人に好かれる」というのは、個性とは言えない。他に掛け替えのない自己を証明し、定義するのがその人独自の「経験」となる。
 
「個人」とは社会を構成する最小単位であるとともに、「歴史と伝統」に参加する最小単位でもある。…ある芸術作品、例えばミロのヴィーナスを観て
「ああ、美しい」と思う。その感動はその人のものであり、それを伝統的でシンプルな言葉で「美しい」と表現した時、その人は歴史と伝統に参加したことになる。歴史と伝統はそういう「個人」の「経験」で支えられていく。
「歴史と伝統への参加」ということを、こういうふうに説明したのは(森有正が自負するように)確かに画期的だ。
 
森有正はフランスに永住し、日本に殆ど帰国せず、かの地で客死した。
数学の問題が解けなくて苦闘する。それは、自分がどこかで躓いていて、先に進めない状態。それがある時、急に「分かった!」と叫ぶ瞬間が来る。自分がどこで躓いていたかを理解し、目の前の視界が一挙に明るく広がるーまるで小高い所から街を見下ろすように。試行錯誤の過程が積み重なって、量が劇的に質に転化する瞬間。…これが「経験」だろう。躓いても、「過程」がない人が数学の出来る生徒に解法を聴いても、この視界が広がる経験はできない。「成熟」のための時間が足りないからだ。
 
森有正の言う「時間」とは、そういう「経験」に繋がる質的な時間を意味する。だから、数学で躓いた生徒が「経験」に到るまで、どのくらいの時間を経過するかということは誰にも事前に分からない。―その生徒の思考方法とか性格とか、努力の過程といったものが複雑にからんでくる。つまり、時間を自由に伸縮できない。明日試験だからといって、その都合に合わせて「経験」が訪れてくれる訳ではない。言わば、成熟の時間とはその人固有の性質を帯びる。
 
「学歴社会打破」なんてことは昔から叫ばれてきた。入社試験だって、表向きは「実力重視」なんて謳っていても、実態はどうか?
今の社会の枠組みでは、「経験」することの大切さよりは、できるだけ速く「結果」を出せることの方が重視される。人それぞれの「成熟」を待ってくれるゆったりした社会じゃない。哀しいが、それは今後も続くだろう。せめて認識の問題として、「経験」の意味が尊重されることを望みたい。
「やがてノートル・ダムの内部がだんだんと見えるようになってきた」「二列の大石柱と天井は、莫大な重量を支えるだけでなく、祭壇を中心とする大十文字の空間を定義している」「この空間がオルガンの響きや祈りと、ヴィトローからさし入る多彩な光とによって、外部に対して質的に限定している」
 
これらの森有正の表現の一つ一つに拘ることはあまり意味がない。我々はノートル・ダムに馴染みがないし、あっても彼の「経験」を自分の「経験」に置き換えられないから。…彼はこれだけのことが「感ぜられる」「見えてくる」ために、どれだけの「成熟」の時間を要したことだろう。
 
展覧会に出かけて、我々の習癖としてそこで売られているパンフレッドの類の解説を読む。それから絵を観る。その時既に、我々は他人のメガネで絵を観ることになる。そうではなくて、自分の目と心で観ることが必要なのだ。何かが「感ぜられてくる」まで。絵が「外面的、偶然的なものを剥奪されて」自然に「見えてくる」まで、我々が透明になることなのだろう。
 
対象がその本来の姿で語りかけてくるまで、どのくらいの「成熟」のための、あるいは「促し」のための時間が必要なのだろう?…それは「どのくらい」とあらかじめ予測できない。…このことは我々の身近な体験でも納得できることだ。
ビートルズが登場した頃の場面を思い出す。テレビを観ていたら、米国へ演奏旅行に出かけた際、アナウンサーがマイクを突き付けて「あなた達の音楽は今までのどんな伝統を受け継いでいるのですか?」と質問した。ポールが笑いながら「分類なんて意味ないと思うけどな」と返した。
 
当時の大人たちにはビートルズの音楽も、若者たちがそれに熱狂する理由も分からなかった。大人は既成の知識のなかで、新しいものを分類し整理して安心しようとする。…なかなか印象的な場面だった。
 
  感ぜられてくるということは、対象がそのあらゆる外面的、
  したがって偶然的なものを剥奪され、内面に向かって透明に
  なってくることであり、それは対象が対象そのものに還るこ
  とだ、と言い換えてもよいであろう。
 
こんな文に高校生がいきなり直面したら「もう駄目だ!」と悲鳴をあげるだろう。彼は情熱家であり、哲学者だから、通俗的な書き方ができないのだ。
「対象が対象そのものに還る」―それは、自分の眼に「囚われていた」対象がその本来の姿に戻ること、その本来の場所に戻ることである。新しい絵が誕生したら、美術館の人はそれをどの壁に飾ろうかと戸惑うだろう。資料館員は新しい資料をどの棚に整理しようかウロウロするだろう。…そういう囚われた目から、ものそのもの(対象)を解放してやることだ。
 
それは、我々の側で言えば、無心になり、ある「促し」によって「変貌」していくことに他ならない。対象のほうを変貌させるのではない。
この森有正の文は、最初彼がノートル・ダムと共に年齢を取っていったことが述べられる。そして「機縁」としてのノートル・ダムということに触れる。「何の機縁か、と人は問うであろう。しかし正直のところ私にもそれはよくは判らなかった。」とあるが、後のほうで「思想に到る唯一の道」としての「経験」とあるから、恐らく彼はノートル・ダムを通して深い「経験」に導かれたーそう言いたいのだろう。人はノートル・ダムを観て、何かを「体験」することは出来る。しかしそれは「経験」とは違う。
 
例えば、外国へ出かけてさまざまな見聞を広げる観光旅行は「体験」に留まる。それは(表現は悪いが)相手のものを自分のために掠め盗って来るやり方とも言える。そうして、自分がいくらか理解した気になる。観光旅行というのは短時間だから、その間にできるだけ多くのものを学ぼうと焦る。
 
それに対して、相手に支配されて自分が透明になっていき、「変貌」していくようなことを「経験」という。これは質と量という言葉に置き換えても好い。外国の情報や知識に量的に豊富になっても、自分が透明になり、何らかの変貌を伴うようにならなければ、質的な意味での「経験」にならない。
 
自分自身が「透明」になるというのはどういうことか?―自分の側の問題が脱け落ちていかないと、対象が真に見えてこないということだ。自分の既成の知識の枠内で相手を規定しようとしたり、一定の時間の中で早く相手を理解しようと焦る態度は「透明」に導かない。情熱とか努力とかはあくまでもこちら側の都合であって、相手の側の都合ではない。自分の肩の力が脱け、眼球の濁りが消えたとき、相手がフッと見えてくる…それが「感ずる」ということなのだろう。

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