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書庫詩『永訣の朝』(宮沢賢治)

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トシ子の気丈さが、賢治は兄として切ない。「俺を残してお前は独りで行こうと言うのか」と叫びたいところだろう。実際、賢治は『オホーツク挽歌』で、どうして兄に一緒に死んでくれと言ってくれなかったのだ…と号泣している。
 
この詩の後段は、こうして宇宙的規模に広がっていく視点から、兄の雄々しい決意表明へ収斂されていく。「ほんとうにきょうおまえはわかれてしまう」という一節からは、兄の未練とトシ子の言葉に殉じようとする葛藤が表現されている。その葛藤が、我々俗人の胸を打つ。美しい。
 
(うまれでくるだて…)「また人に生まれてくるときは、こんなに自分のことばかりで苦しまないようにうまれてきます」―むろん、トシ子は自分勝手な女性だったのではない。にも関わらず、この反省は?…トシ子は自省心の強い人だったのだろう。人のために尽くしても、それは結局自分自身のためーということは、我々の経験にもよくあることだ。トシ子はそういう自分を許せなくて苦しんだのだろう。あるいは、自分の苦しみに拘って、人の苦しみがわが心から排除されていることがあったのか…。
 
人間はいつだって自分から離れられないーそういう罪深い生き物だ。トシ子はそういう己の煩悩を見据えて生きてきた女性だったに違いない。その妹の苦悩を引き継ぎ、その祈りを自分の祈りとして、兄は誓う。この世の不幸な人々に等しく「聖い資糧」をもたらすことを。
 
なぜ「生きとし生けるもの」全てに「聖い資糧」をもたらす必要があるのか?
ーそこが、私にはまだ明確でない。いづれ、その時が来たら書きたい。
(Ora Orade Shitori egumo)―賢治はここをどうしてローマ字書きにしたのだろうか。おそらくトシ子の言葉に、今や個別性・肉体性から離れて個を越え、国境を越え、宇宙に拡散していく普遍性を持たそうとしたのだろう。
だから、このローマ字書きの言葉は無機的な理念性を帯びる。
 
ところで、このトシ子の言葉の何と健気なことか。「人間はどこから来て、どうしてここに在り、どこへ向かうのか」という疑問は、古来人類の頭を悩ます大問題である。…しかし、賢治はここではこれを、形而上的な問題として捉えていない。彼は科学者でもあるから、恐らく何らかの科学的な裏付けを込めて綴っている。
 
生命の起源は、遠い遠い暗黒空間に漂っていた宇宙塵にあるという。それがハレー彗星に運ばれて、この地球上に振り撒かれて粘土に付着したことから始まるという。だとしたら、生命の故郷は、宇宙の果てしなく遠い暗黒空間にある。とすると生命はそこから旅立って、結局はまたその故郷に戻っていく?
 
二人の人が手をつないでこの世に同時に生まれて来れないように、人は死んで宇宙へ旅立つ時も独りであらねばならぬ。それが掟だ。何億年もの暗黒への独り旅。…何と厳しく淋しい旅であることか!
 
生命に課せられたその掟に従って、トシ子は独り気丈に旅立とうとしている。この兄妹は、深い信仰で結ばれた関係だから、賢治の認識はトシ子の認識でもある。しかし、この詩が美しく、人の胸に迫るのは、妹の健気さと、煩悩に苦しみながら辛うじて立ち直ろうとする兄の決意にある。「まっすぐ」な美しさ。
 
 
この詩の中段は、前段部と違って沈静化した雰囲気で展開していく。「銀河や太陽気圏」という言葉は、この詩に一挙に時間的・空間的な広がりをもたらす。事は妹の死という一個の私的・地上的な事件から、宇宙的・普遍的な問題へと広がる。みぞれは「雪と水とのまっしろな二相系を」保って、この大自然の摂理の確かさを思わせ、「ふたきれのみかげせきざい」に立つ賢治は「あぶなく」辛うじて均衡を取る存在だ。その危うさは、業や煩悩を背負う人間の不安定さそのものであろう。
 
妹の死に関わる自らの悲しみに拘泥するのは、人間の性として美しいと同時に、業としての危うさも包含する。何故ならば、それは私的で狭い感情だから。…この世には不幸が充満している。そこに目を向けることを拒んで、わが一身の悲しみや喜び、そして幸福に拘り続けるなら、人の心は闇だ。人間はそういう危うさを抱える存在なのだ。
 
その危うさを抱えて、賢治はトシ子に導かれるようにして、自分を懸命に立て直す心持ちで松の木に向かう。「わたくしのやさしいいもうとの さいごのたべものをもらっていこう」―この「もらっていこう」に、自分一個の感情から離れて大自然の、宇宙の摂理に立ち戻ろうとしている賢治の思いが込められる。超越的な存在からの恵みとしての「みぞれ」…賢治の謙虚な感謝。
庭に降り立った兄は、少し冷静さを取り戻し、妹の「頼みごと」の意味を考え直す。最初は単純に、高熱に喘ぐトシ子が喉の渇きを癒すため…と受け取った。今はそうではなくて、暗い悲しみに沈んでいる兄のためではなかったか…と。
 
兄を外の明るい大自然の中に導き、広い心を取り戻させるため「頼みごと」をしたのだと確信する。自分の苦しさをさておいて、兄の心を明るくしようとするトシ子の健気さ。自分のことより兄の心を癒そうとする思いやり。それを察して、兄は「ありがとう」と感謝する。
 
トシ子の意図が、本当に賢治の解釈の通りであったか…。そこに妹を聖化する傾向はなかったか…。―そういう邪推を下衆の勘繰りと言う。ここでは、それこそ「まっすぐに」賢治の解釈に従おう。
 
感謝の後に「わたくしもまっすぐにすすんでいくから」と続く。自分のことより、他の人のことを思う心、その姿勢を「まっすぐ」と形容したのだ。
 
「まっすぐ」の対義語は「まがった」ーこの言葉も既に「てっぽうだま」の比喩として使われている。この「まっすぐ」と「まがった」という二つの言葉は、日本人が古来、倫理的な価値判断の尺度として使い続けてきた。「人はどうあるべきか、どう行動すべきか」ということを考える時、この二つの物差しで測ってきたのだ。自分のことしか考えない生き方は「まがった」生き方。その反対に、世のため、人のために自分を犠牲にするのが「まっすぐ」な生き方。…これはなかなか出来ないことだが、少なくとも、人のあるべき理想像として。
四回目の(あめゆじゅ…)は、かくして静かで崇高な響きとなる。
宮沢賢治ーその人の全貌を私は掴んでいない。殊に宗教家、科学者、実践家としての側面は無知に近い。かつてこの人の、美しくも哀しい散文詩のような『よだかの星』を読んで、深い感動を覚えた。しかしこの『永訣の朝』という詩を読んだ時、その内容の深さと広がりにほとほと感服した。
 
古来、挽歌といわれる文学作品に、印象的なものは沢山ある。妻の死を悲しむ柿本人麻呂の挽歌、シベリアに抑留されて死んだ息子を傷んだ窪田空穂の挽歌が、私の脳裏に深く刻まれている。『永訣の朝』は、その主題のスケールの大きさと普遍性で、これからも朽ちることない生命力で輝き続けるだろう。
 
一篇の詩ではあるが、以上の理由でこれから綴ることは長くなる。他の教材とのバランスを失う面があろうが、ご了承を願う。
 
この詩の前半に、妹トシ子の言葉(あめゆじゅとてちてけんじゃ)が四回繰り返される。兄は病室のトシ子のそば近くに居るらしい。「みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ」とあるから、兄は外を眺めている。「へんに」という表現には、兄の不安な内面が投影されている。落ち着かぬ外の明るさ。…賢治の内面の暗さと外の明るさのアンバランスさが、兄の焦燥感を露わにする。
 
二回目の(あめゆじゅ…)というトシ子の言葉で、兄はハッと我に返り庭に飛び出す。(一回目のトシ子の言葉は自分の不安に囚われて聞き逃した形)
あんまり慌てたものだから、あちこちぶつかりそうになる…その様子が「まがったてっぽうだまのように」という比喩表現。この表現に、賢治の一生懸命さと不器用な誠実さが窺われる。三回目の(あめゆじゅ…)は飛び出した兄の背中にかぶさるように響く…映画のエコーのような効果。

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