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書庫小説『山月記』(中島敦)

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今、この批評を綴りながら、私の眼前に一人の男の後ろ姿がありありと浮かんでくる。深田久弥に原稿を託しつつ、その批評も聞かず、南洋に旅立っていった中島敦の後ろ姿が…。
 
当時、この作家は自分の肉体の破滅がそう遠くないことを予感しつつあった。しかし、このときの彼にとって、原稿の採否はどうでもよいことであったに違いない。
何故ならば、『山月記』は彼が、彼の過去に、彼の後方に置き残していった遺書なのだから…。全てを与え尽くし全てを失い尽くした後で、彼を待っているかもしれない虚無への旅立ちー覚悟とは、いわばこの時の彼の背中のようなものだ。そして、この瞬間一人の芸術家が誕生したのだ。
 
ー最後に、孤独という試練に触れなければならない。今まで何点かにわたって述べてきたことーそれらの全てが、芸術家にしか実感できない性質のものであろう。
「この胸を焼く悲しみをだれかに訴えたいのだ。おれはゆうべも、あそこで月に向って吠えた。誰かにこの苦しみが分かってもらえないかと。」「天に躍り地に伏して嘆いても、だれ一人おれの気持ちを分かってくれる者はない。」
 
李徴の孤独が自ら招いた不幸であったと人は言うかもしれない。もちろんそうだろう。だが、招かなかったら決して訪れることのない不幸であったとも言えないだろうか?…その人が「人間にとって、幸福とは一体何なのか?」という問題をもう一度吟味してみることは、決して無駄なことではあるまい。
「いったい、獣でも人間でも、元は何かほかのものだったんだろう。初めは、それを覚えているが、しだいに忘れてしまい、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか。」―私どもは、今の形に充足し過ぎていて、それを再検討することを忘れているのかもしれない。 (完)
己の握っているものが、不渡り手形かもしれないという不安と、そうは信じたくないという未練の交錯のうちに彼は立ちすくみ、銀行へ駆け込むことができない。
そうして時間は容赦なく彼の外側を通り過ぎ、彼の内側には焦燥のみが残される。
芸術家に通有なあの尊大で傲慢な表情のすぐ裏側に、彼の不安な魂がピッタリ
張りついているのを人は理解しない。未来を怖れ、過去を悔いることー人間であるがゆえに繰り返すあの愚かしくも無益なる精神の消耗…。「どうすればいいのだ。おれの空費された過去は。おれはたまらなくなる。」
 
時間とは、芸術を目指す者にとって、彼を苦しめることにのみその存在理由を持つところの極めてサデスティックな観念であろう。何故ならば、獣は現在にしか生きていないから。観念は獣を苦しめない。
 
第三の問題に移ろう。心を狂わせてまでの芸術への執着ーだが、その報酬は何なのか?「おれにはもはや人間としての生活はできない。たとえ、今、おれが頭の中で、どんな優れた詩を作ったにしたところで、どういう手段で発表できよう。まして、おれの頭は日ごとに虎に近づいてゆく。」―死後百年に名を遺す道が断たれても、なお芸術に徹することの意味は何なのか?名声も経済的実利も担保されないところに、芸術の究極的な純粋性が保証されるとしたら、芸術家であり続けるとは何と厳しい生き方であることか。何と厳しい覚悟を要求されることか。
芸術家として生きようとする時、数々の苛烈な試練に出遭う。彼はまず第一に、妻子の衣食の問題に突き当たる。彼は芸術家である前に人間なのであり、父として夫として、彼らの扶養の義務を負う。それを放棄しなければ芸術が成り立たないとすれば、芸術とは「一将功成って万骨枯る」荒涼とした風景の中に咲いた徒花ではないか?―それはどうでもよい。肉親を犠牲にして芸術に徹することは、彼のエゴイズムではないのか?
 
李徴が妻子のことを語るとき、自嘲的になるのは理由のないことではない。父として、夫として、自分は失格者なのだという哀切な思い…。李徴の告白を唯一の根拠として、(いわば、結果論的に)彼の人間的愛の欠如を非難するのはたやすい。
だが、李徴に愛が欠けていたのではない。妻子のために、彼も一旦は自己を殺したのである。彼の自嘲的な告白自体が、そもそも彼なりの屈折した妻子への愛の表現ではなかったか?
 
「災患相よって逃るべからず」ーそうだ、試練は外からだけでなく、内からも押し寄せる。芸術家を目指す者が宿命的に背負い続ける黒い十字架ーすなわち、芸術家としての自己の才能への不安、挫折への不安。
李徴は努力しなかったのではない。むしろ(彼の告白とは逆に)苛烈な努力をしたとさへ言える。だが、その努力の方向が(あるべき方向と)微妙にずれてくる。…彼が人と交わりを断った理由は、彼自身の告白によって、「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」と説明される。そして、師からも詩友からも俗人からも、李徴はまるで罪人のように身を避けるのだ。「己の珠にあらざることを懼れるがゆえに」、そしてまた「己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえに」彼は孤独に閉じこもってしまうのだ。

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