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書庫『「である」ことと「する」こと』

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「近代社会の多様な役割関係」
 
徳川時代は、身分社会であった。武士は四六時中武士であり、町人も同様。そういう社会では、価値観も行動様式もその人の「身分」から自然に流れだす。ところが近代社会の人間集団は、その目的に照らして編成される。会社での仕事の分化も、目的に添っての機能分化。その部署での上下・命令関係というのも、仕事の必要から生じたもの。
 
ところで、一人の人間は近代社会の中で多様な「役割」を持つ。会社、家庭、教育団体、地域の自治会などで、同時に複数の役割を演じる。従って、それぞれの集団の目的に照らしての多様な評価のされ方をする。社長として有能、家庭では父親失格、自治会では無責任…などの評価。従って、身分による価値判断ではない。
 
しかし、社長と社員が同じ地域に住んでいるとして、自治会長の社員が、自治会の仕事に非協力的だとして、社長に命令することが出来るか?…出来ないからといって、その自治会長の意識が遅れているとは決めつけられない。
丸山氏の指摘がいくら理屈に合っているとしても、理論通りにいかないのが現実でしょう。会社の上下関係は力関係でもある。下手をしたら、適当な理由を付けて僻地に飛ばされるかもしれない。
 
理論を実際に適用する方法は、また格別の知恵が必要となるでしょう。何でもそうですが、理屈を振り回すのは考えもの。教条主義にならないよう、慎重であるべきです。
「民主主義という名の制度」という言葉の「という名の」に傍点が打たれています。制度の名称自体は「名」に過ぎない。容器は砂糖壺でも中身は塩ってことがある。「民主主義」という制度の名に安住してはいけない、中身を制度にふさわしくするための「不断の民主化」が必要…と丸山氏は言う。
 
これは、お隣の中国・北朝鮮の正式国名を観れば一目瞭然。「人民」とか「共和国」とか「民主主義」と仰々しいが、中身・実態とあまりにも隔絶しているのではないでしょうか。
 
丸山氏がこれを書く時、繰り返しますが、日本の戦争体験とドイツのヒットラーを意識している。しかし、丸山氏の指摘することは間違いではない。ただ今日、権力者だけでなく、民主主義を標榜する勢力もまた、厳しい検証を必要とされるでしょう。権力者であると否とに関わらず、人間の支配欲・権力欲、更には自己正当化の衝動は普遍的であり、煩悩や業と言っていいものです。
 
丸山氏の指摘は正しい。しかしこれを実践することは難しい。特に、この問題に現実の力関係・優劣の関係が絡むと、「言うは易し」となりかねない。
夏目漱石の偉さの一端は、その点にあります。漱石の『私の個人主義』についての私の解説を読んで下されば、それが分かるはずです。
「プディングの味はたべてみなければ分からない」
ヨーロッパの近代は懐疑精神、実証主義精神の発達とともに始まったと言われます。コペルニクスやガリレオやを思い浮かべるといいでしょう。中世の教会は「地球はお盆のように平たいもの」と、人々に教えてきました。しかし、コロンブスやマゼランたちの冒険によって、教会の絶対的権威は徐々に崩されていきました。
 
プディングって、お菓子のようなものでしょうか。ともかく実際に「食べる」という行為によって、それが本当に美味かどうか分かる…そういうことって、我々の身近な問題ですね。現代の消費者は賢いから、単なる「評判」だけで鵜呑みにはしない。しかし未知の分野でこの懐疑精神を堅持するのって案外難しい。そこに、権威や力関係や先入観が絡むとなお難しい。
 
私は若い頃、喫茶店でコーヒーを頼み、出されたものに砂糖壺から二杯スプーンで掬って入れた時、飲んだコーヒーが辛かったことがあります。
店の人を呼び、注意したところ、その人は砂糖壺に指を突っ込み「あ、またやられた!」と吐き捨てました。…つまり、お客の中に悪戯で壺の中に塩を
入れる奴がいるのです。
 
その時の私の頭では、「砂糖壺に入っているのは砂糖」という決めつけというか「先入観」があったのです。だから何も疑うことなく飲んで、辛いコーヒーを味わうことになった。この程度ならさほど危険はないが、毒でも入っていたら災難です。で、こういう場合どうしたらいいんですかね?…壺が出されたら、必ず指を突っ込んで確かめる?…店にも他の客にも失礼かな。
この文、最初に「権利の上にねむる者」という小見出しがあって、次の一節が書かれています。
 「債権は行使することによって債券であり得る」
 
私が(その1)で述べた「である」と「する」の論理的関係は、実はこの一文に示されているのですが、その後は触れていません。債券に限らず、お金の万札だってそうです。福沢諭吉の一万円札は紙切れに過ぎません。その紙切れに内包されている価値は、そのお札を行使して自分が欲しいものを買うことによって出てきます。
 
日本国憲法によって、国民は様々な自由や権利を保障されている。その自由も権利も(お札と同様)実際に行使しなければ、いつの間にか自由も権利もなくなっている…という事態が生じることは歴史が証明している。
 
私はこういう事態が今日でも日常頻繁に起こっていると断言できます。自由や権利を叫ぶ人々が、実際は言論の自由も良心の自由も認めていないのです。丸山氏は過去の権力者の例を挙げているようですが、私は権力に逆らう側も、自分の足元では力のない者を攻撃して自由な言論を封じ込めている現実があると注意したい。私がこの評論を採りあげる意味もそこにある。
 
…これは、人間の煩悩みたいなものでしょうか。権力を憎悪する人も、自分の権力的な態度は決して反省しないのです。芥川の『羅生門』で学んだことを思い出してほしい。ー人間は自分の都合で善悪の線引きをする。
 
丸山氏がこれを書いたのは、歴史を反省し国家権力との厳しい関係を意識して国民を啓蒙する側面があったと思われますが、私などはそういう視点がやや古いと感じます。自分の権利を行使すると言っても、実際は力関係がものを言って、なかなか思うようにならない。
この教材はずいぶん古くから教科書に載っていました。近代日本を推し進めた論理や価値観を鮮やかに分析してみせた名評論だと言えます。しかしかつてほどの人気はなくなりました。しかし古典的な位置にあると思います。しかも、この評論は、今日でも意味ある側面を持っています。そのことは、後で述べます。調べたら、今の教科書にも一部採用されているようです。
 
この評論文を初めから丁寧に解説したら、かなり長くなりそう。そこで、いくつかの問題に絞って、可能な限り簡潔に述べていきたい。
 
まず最初に言いたいことは、筆者はこの明快で切れ味鋭い文を書きながら、私からすれば、一点だけ不満が残ります。…それは、「である」と「する」の論理的な関係を端的に言い切っていないことです。そこで私は、最初にそこから入っていきます。
 
 ・「である」論理・価値……何「である」かが何を「する」かを規定する
 ・「する」論理・価値………何を「する」かが何「である」かを規定する
こういうふうに整理するとスッキリするでしょう。
  武士「である」→ゆえに「武士らしく」振る舞う、偉い
  会社に多大な貢献を「する」→ゆえに部長「である」、偉い
部長の「偉さ」は、封建社会の身分的偉さとは違います。会社という空間でのみの上下関係を示す偉さです。 

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