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・呼吸する色の不思議を見ていたら「火よ」と貴方は教えてくれる
『シンジケート』はおもちゃ箱を引っくり返したような印象の歌集だ。統一的な
世界観によって各歌がそれぞれの位置を占めて、全体として調和的であるような
歌集とは違う。それどころか、そういう統一性や調和性を拒否したようなカオスの
世界を思わせる歌集だと言える。
だが、そういう歌集の中に、こういう掲載歌のようなものを読むと、穂村の深層
心理で「世界の再構成」を願っているのかも…と思わないでもない。
炎のことを「呼吸する色」とは何と新鮮な感覚だろう。「確かにそうだ」と納得
させられる。三重苦の偉人として有名なヘレン・ケラーは、少女の頃家庭教師の
サリバン先生に導かれて「水」というものを認識する。手のひらを流れるこの冷た
くて形のないもの―それが「水」という「名」を持ったものであるという認識。
哲学者の唐木順三氏はこのヘレンの経験がヘレンの「精神革命」だったと指摘す
る。物にはすべて「名」があって、その「名」がそのものの意味を表している、と
いうことに目を開かれた経験が「精神革命」の意味するところだろう。
我々人間は幼児の頃、母親から「おべべを着ようね」とか「これがマンマよ」と
教えられていく。幼児はそうやって「物」と「名」の関係を知っていく。物と名と
の新鮮で原初的な出会いと言える。
聖書に「初めに言葉ありき」という一節があるが、本当は「初めに物ありき」だ
ろう。だが、他方で我々は誕生した瞬間に沢山の未経験のロゴス(名)に取り囲ま
れるというのも真実だ。そういう意味では「初めに言葉ありき」になる。これは、
人間の悲劇に繋がる。我々は時として意味も分からず「民主主義」とか「独裁」と
か、自明のことのようにそれらの言葉を乱発する。
「呼吸する…」の歌から、『シンジケート』全体の意味付けも可能かもしれない。
しかし、深入りは危険な気がする。30歳そこそこの青年がそれほど深い世界観を
持って登場しているはずもないから。
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短歌『現代歌人の歌一首」
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・子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向かって手をあげなさい」
穂村弘の処女歌集『シンジケート』の題名にもなった歌。シンジケートというと、
どうしても米国辺りのギャング映画を連想する。若い男女が痴戯に耽っている場面を
想像するんだが、1960年代の前衛短歌運動の旗手であり、穂村自身も深い影響を
受けたとする塚本邦雄氏はこの歌を激賞して「この歌集に込められた意図は紛れもな
く悪意である」と批評した。
塚本邦雄氏はかつての日本が軍隊そのもの、軍隊候補の学生、在郷軍人会、国防婦
人会、愛国婦人会のどれかに所属し、そこの発行したパスポートを持っていない限り、一歩も動けず、一日も生きていられなかった時代のことを連想し、それへの強い
憎悪を穂村のこの歌の「シンジケート」という言葉に結び付けたようだ。
つまり、戦争中日本では「産めよ、殖やせよ」というスローガンが叫ばれたのが、
穂村の歌はそれへの反語的な皮肉・抵抗となっている、と言いたいらしい。
大歌人に対してこういう言い方は失礼だと思うが、塚本邦雄氏の解釈はあまりにも
牽強付会・我田引水というものだ。穂村のこの歌はもっと単純に解釈すべきだろう。
私なら、この歌を詠んだ穂村の深層心理を「怯え」と解釈する。穂村は子どもを産
んで父親となること、父親としての「役割」を背負うことに恐怖を感じているのだ。
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・「十二階かんむり売り場でございます」月の明かりの屋上に出る
穂村弘の『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』より。私が比較的好きな歌。
むかし、市内バスにも車掌の役割をするバスガールが居た。デパートにはエレベーター
ガールが。エレベーターガールは「6階紳士用品売り場でございます」と案内する。
「十二階かんむり売り場でございます」というのは、むろん穂村の空想が産み出した
言葉。デパートの屋上は売り場としての何の「役割」も与えられていない外れ者だが、
穂村ワールドの中では、「かんむり売り場」としての美しい「役割」が付与される。
誰もが、屋上で無料で月光の冠を授けられる。…他愛ない空想であり言葉遊びと言
えば言えるが、穂村ワールドを解く一つのキーワードとしての「役割」というものを
考えた時、案外楽しめる歌だ。穂村の自己認識として「自分はこの現実社会において
居場所がない外れ者だ」という自覚がある。
・階段を滑り墜ちつつ砕けゆくマネキンよ僕と泳ぎにゆこう
この歌、『ラインマーカーズ』より。穂村は恐らくデパートで店員がマネキンを
担いで階段を降りて来る光景を見て、想像した歌だろう。マネキンは世間が期待する
一定のポーズを取らされる。店側はマネキンにいろんな服を着せて世間に夢を売る。
マネキンはそういう社会が期待する「役割」に応えなければならない。
穂村は、世間や社会が無言のうちに強制してくる「男として、大人として、父として」の役割に怖気づく人間だ。だから砕けて役割を放棄したマネキンを想像して、
勝手に親近感を覚えているのだろう。
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・抜き取った指輪孔雀になげうって「お食べそいつがおまえの餌よ」
穂村弘の処女歌集『シンジケート』(1990年)より。
孔雀にとって指輪は現実に生きる為の餌にならない。そういうことを知っていて、
指輪を投げうつ女性もずいぶん冷酷なものだ。女性の正体は? …この歌を理解する
ためには、少し穂村のことを知っておく必要があるかもしれない。私の観察するとこ
ろでは、穂村は少々「現実社会への不適応者」の側面があると思う。むろん人間誰し
もそういう傾向はあるのだが。
トールキンの大長編のフアンタジー小説『指輪物語』が想起されるが、穂村は読書
家だから、空想と現実の境目が混沌とした人間ではあるだろう。穂村自身もそのこと
を認識している。そういう意味では「発達障害者」とも言えるかもしれない。
この冷酷な女は恐らく人間の運命を司る女神だろう。「空想を食べて生きるのが、
おまえの宿命なのだ」と言いたいのかもしれない。孔雀はむろん「言葉遊び」で生き
る穂村を指す。
・翔び去りし者は忘れよぼたん雪ふりつむなかに睡れる孔雀 (シンジケート)
「翔び去りし者」とは何を指すのか分からない。恐らく穂村が空想に耽っている間に喪った何者かであろう。その漠然とした痛みは孔雀も感じている。しかし、孔雀は孔雀の運命を生きなければならぬ。その哀しみ…。
それにしてもこの歌は綺麗だ。白いぼたん雪とその中に埋もれていく白い孔雀。
絵画的な歌だ。小倉百人一首を編んだ藤原定家の歌を思い出す。
・駒とめて袖打ち払ふ影もなし佐野のわたりの雪の夕暮れ (新古今集)
この定家の歌は、万葉集の「苦しくも降り来る雨か三輪が碕佐野のわたりに家もあらなくに」を本歌とした「本歌取り」の歌だが、「雨」を「雪」に変えて絵画的に再構成している。その分、本歌の実景・実感性が失われているのだが。
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