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書庫小説『檸檬』(梶井基次郎)

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「生活の中の美」は、あるいは「詩美」は現代でもありますね。縁日のあの雰囲気に残されている。ガス燈や綿あめ、風船、ホオズキ、金魚掬い…そういう空間に漂うと、日ごろの気忙しさや殺伐とした気分から解放される。
あるいはまた、夏の夜空を彩る花火がどんなに人々の心を慰めてくれることか。…つまり「詩美」の伝統は今も息づいていると言える。
 
人間は若い時には無性に高尚なことに憧れる。理想に向かって努力しようとする。そうして、ともすれば「現実」を軽視しがちなものだ。芥川龍之介はその著作で「人生は一行のボードレールにも如かない」と書いていますが、この小説の「私」という人も、かつては自分の足元を見ることを忘れて、崇高な芸術や生き方に傾倒していたに違いない。しかし、貧乏と病気という「現実」の条件が身に応えるにつれ、今の自分の気持ちにしっくりくる「美」を愛するようになる。「みすぼらしくて美しいもの」を。…果物屋の描写はハッとするほど美しい。「詩美」をこれほど見事に描写した人がいたであろうか?…そしてレモンと出合う。
 
「―つまりはこの重さなんだな。」と「私」はレモンを手に取って呟く。心の中で長く探しあぐねていたもの。その時の「私」に、このレモンは重過ぎることもなく、かといって、軽過ぎもしない。心の負担になるような重さでなく、相応に手応えのある重さ。今の自分の心にバランスの取れた丁度手頃な重さ。その単純な色、ユーモラスな形。そして無論、このレモンが手頃な値段で買えるものであったことも忘れてはならない。
 
この時の「私」にとって、この一個のレモンは「完璧な美」であったことだろう。それはあのお高くとまった丸善の高級な美と立派に対抗し得るものだったはずだ。…否、むしろ、丸善が象徴する既成の芸術全般に君臨する美であり、それらを一挙に破壊し得る「危険な美」であったはずだ。…そうして「私」の想像の内で丸善は崩壊する。そうして彼を呪縛していた「呪われた」息苦しい閉塞感はものの見事に打ち破られるのだ。時代の閉塞感も。
この小説、暗くて淋しくて閉塞した印象だ。貧乏で病気で、出口のないような憂鬱に取りつかれた「私」が、それまでと違って「みすぼらしくて美しいものに強くひきつけられた」気持ちは、これだけ豊かになった現代の生徒にもかなり分かるのではないか。現実の生活が惨めであるが故に、それまでの高尚趣味が嫌になり、おはじきやびいどろ、花火といったもの…貧しい自分にも買えてしかも贅沢な美しさに惹きつけられていく気持ちは分かる。おはじきやびいどろって、今の生徒は知らないだろうが、案外綺麗なものだ。沢山のおはじきを眺めていると、確かに贅沢な美しさ。
 
普通の庶民の生活のなかに息づく、こうしたみすぼらしくて美しいものには、どこか「詩美」といったものが漂う。そういう雰囲気というか、世界を、谷内六郎という画家が表現している。貧しい生活のなかでも、子供たちは「みすぼらしい」ものから美しい夢や憧れを育てていくのです。色鉛筆の削り屑で昔は万華鏡を覗いたものです。そこは、この世ならぬ美しい幻想世界であった。
 
近代の芸術は、製作者の意図から離れて、一部の特権階級や資産家の屋敷の、壁や庭を飾るものとなっていく。あるいは、豪華な画集に製本されて、丸善の書店に置かれる。「美」が金力・権力のある人々に独占されて、彼らの虚栄心を満足させるものとなる。こうして力のない庶民の生活とは縁遠いものとなっていったのではないか。玄術と生活の分裂が進み、生活の中の「美」はなくなっていく。…いや、元々なかったか。
 
しかし庶民の人間としての心が、美しいものを求め、日々の貧しく苦しい生活を潤わしてくれることを願ってやまない。…それが花火でありおはじきだったのでしょう。それらは大抵の人が購入できる。それ故、花火やびいどろ、おはじきには、庶民の生活に密着した「詩美」が漂っている。「詩美」とは生活空間の中に漂う色や音、匂いといったものが込められた「美」だ。そういうものから切り離されて壁や庭に飾るものではない。
実感からすると、日本がこんなに物が溢れる豊かな国になったのは、そう遠い昔からではない。戦前・戦後は、国民は概ね貧しく慎ましく暮らしていた。
 
私の小学生低学年の頃、戦後6〜7年位までは、ツベルクリン反応で大抵の生徒は陽性だった。つまり、結核の初期症状。そしてそれまでは、結核菌に対する有効な治療薬が出回っていなかった。だから結核になると、徐々に死んでいくしかなかった。それ故結核は「死病」として大変恐れられていた。
 
昭和25、26年頃が転換期で、まもなくペニシリンやストレプトマイシンが出回って画期的な治療薬となるが、それまでの国民の死亡原因の一位を占めていたのが結核だった。この結核で日本は多くの優れた文学者を失うことになった。『永訣の朝』という詩のトシ子(宮沢賢治の妹)は文学者ではありませんが、やはりこの病気。『風立ちぬ』で有名な堀辰雄とその婚約者の矢野絢子もそうだった。湘南にあった平塚の杏雲堂病院や茅ヶ崎の南湖院は有名な結核療養所だった。杏雲堂で徳富蘇峰が、南湖院では国木田独歩や詩人の大手拓二などが入院していた。南湖院の跡地に、今の茅ヶ崎西浜高校が建っている。梶井基次郎も比較的若くして夭折した文学者であった。
 
何故、こういう長い前置きを書くかと言えば、私自身が幼い頃結核になり、出回り始めた高価なストマイで救われたことと、この『檸檬』の一つの背景として理解しておく必要を感じたから。日本が貧しかったこと、従って食糧事情が良くなかったこと、結核の治療方法が分からなかった時代を頭に置いてこの小説を読んでいくといい。

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