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書庫小説『棒』(安部公房)

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「先生」あるいは安部公房が、棒に対して「そこからは新しい発見などもうあり得ない」と断定しているところは、私などは少し胸が痛い。右側の学生と同様、私もこの棒に「未練」を感じる。同時にそう言い切っている安部公房の前衛意識を憎む気もある。本当にそうだろうか?
 
右側の学生、左側の学生という設定もなかなか面白い。作者の前衛意識と絡んで、どうしても右は保守伝統派あるいは右翼、左は革新派あるいは左翼…という言葉を連想してしまう。
 
この小説を実存的に解釈することに、私などは少し抵抗がある。それは迷宮に入り込むことにならないか?そういう知識がなくとも、生徒をかなり理解へ導くことが出来ると思う。この棒のような生き方をしている人間は今でもかなり居るだろう。状況から「逃げる」生き方をしている人は。「選択」という主体的、近代的な生き方から逃げて、状況に埋没している人は。
 
しかし、安部がこれを書いた時代と今日とでは違う。今日、棒のような人だって、人間らしく生きる条件がある。徐々に徐々に状況に関わる目が育っていると思う。人間を固定的に捉えることには疑問だ。
 
最後に一点。この男の生前、子どもたちの声から逃れて、屋上から転落したのをどう評価すべきか。いろいろ考えているが、結論を得ていない。
いつでも取り換え可能な、下等な道具に過ぎない「棒」にどういう「裁き」が可能か…。その前に裁く基準は何か。ー端的に言えば、「人間」としてどのように主体的に状況へ関わってきたか?…だ。状況に受身で生きて来て、いつも流されるだけだった生前の男は「人間」と言えるか?…答えは無論「否」だ。
 
裁けるのは「人間」だけ。個性的で独創的な生き方をしてきたものが、神の前で裁かれる。…善人だけでない、悪人だって、自らの意志で悪を為したら、裁きようがある。しかしこの棒は、自分の意志が元々なかったから、つまり「流される」だけだったから、裁く対象がない。裁くに値しない。
 
ここから「置き去りの刑」が出てくる。自分の意志が存在しないなら、意志を持ち、目的を持って生きるものが徹底的に利用するに任せる。棒は擦り切れていき、やがて消滅していくだろう。ー「裁かないことによって裁かれる」評価に値しない、無視されるとは、残酷な刑罰だ。路傍の石ころだ。
 
だが、この棒が人間でないとしても、物質であることに変わりがない。こんな棒でも当たり所が悪ければ、人は死ぬ。「先生」が左側の学生を打つことが出来る棒は、同時に学生が「先生」を打つこともできる。何しろ棒はそれ自体の意志を持たず、利用されるだけだから。…ならば、その危険を考えて、この棒を処分した方が良くないか?
 
しかし、教授と学生たちの目的は、人間を観察し研究することにあるらしい。目的外のことは敢えてしないということだ。
 
右側の学生の「盲を導く」という言葉に突っかかって、左側の学生が言う。
 「棒が盲を導くんだって?ぼくはそんな意見に賛成することはできませ
  ん。盲は棒に導かれているのではなく、棒を利用して、自分で自分を
  導くのだと思います。」
左側の学生も切り返して「それが誠実ということではないでしょうか」と。
 
右側の学生の言う「それ」の内容を押さえておきたい。「他の目的のために利用されること、犠牲になること。「誠実」という言葉の意味がはっきりしてきたようだ。「誠実」とは、自分を殺して他の目的に奉仕する献身性。
「自己」がないからこそ、その献身性が可能になるとも言える。
 
戦後の教育は、先の戦争への反省から、「自分を殺す」ことの反対、すなわち「自分を生かす」ことを眼目としてきた。各人の個性を尊重し、生命の大切さを教えてきた。…どちらが正しいか?―答えはすぐ出るように見えて、実はなかなか難しい問題だ。
 
作者の安部公房は少年の頃、満州で敗戦を迎えた。それまで叩き込まれた軍国主義的な教育と価値観が崩壊して、それこそ瓦礫の廃墟の上に立った。そうして、これまでの日本人の伝統的な価値観に本質的な検討を加えたものと思われる。日本人の美徳の中心をなす「誠実」という言葉に焦点を当てて。
 
安部公房のこの小説は、そういう意味で優れた日本人論になっている。安部はこの伝統を根本から否定し、そこからの訣別の気持ちを、この小説に託したものと思われる。
屋上から落下してきた棒について、通りかかった三人連れがさまざまに分析し批評する場面から始める。まず、右側の学生の分析と批評。
 「この棒は、かなり乱暴な扱いを受けていたようだ。一面に傷だらけで
  す。しかも捨てられずに使い続けられたというのは、おそらくこの棒
  が、生前誠実で単純な心を持っていたためではないでしょうか。」
       
「捨てられずに使い続けられた」というのは、この棒を使った側から言えば、この棒が文句も言わず、自己主張もせず、黙々と働き続けるから扱いやすい、あるいは利用しやすい…となる。支配階級からすれば、国民が従順でおとなしければ、好都合ということになりそう。ところで、「誠実」というのは何か?…極めて難しい問題だ。ここでは日本の伝統的な価値観、美意識を表す言葉とだけ言って置きたい。
 
これに対して、左側の学生が反発して言う。
 「この棒は、ぜんぜん無能だったのだろうと思います。だって、あまり単純
  過ぎるじゃありませんか。ただの棒なら猿にだって使えるんです。」
すかさず右側の学生が言い返す。
 「でも逆に言えば、棒はあらゆる道具の根本だともいえるんじゃない
  でしょうか。それに特殊化していないだけに、用途も広いのです。
  盲を導くこともできれば、犬を馴らすこともでき、テコにして重い
  ものを動かすこともできれば、敵を打つこともできる。」
 
左側の学生の言う「単純」という言い方には、それ自体の特殊な目的性がないためということで低い評価になる。右側の学生は道具としての用途の広さを評価する。
それは同時に、何にでも誰にでも利用できる、利用できないという分析となる。
…この辺り、知的労働者と肉体労働者との違いを連想してしまう。
 
 

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