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・紅葉累々廃坑の町の墓に立つ姉の一生何も知らない
・墓に立つ我に雪虫蝟集(いしゅう)する 姉の一生不幸だったと?
・すれ違った微かな記憶辿り合う雪は上から我は下から
・「耐えてます春待つことを楽しんで」姉の便りは雪明りして
・喘ぎつつ雪原行けば蘇る直(じか)に生きてたあの頃のこと
私は冷たい性格でなく、要するに愚鈍な質。だから肉親への愛情が薄い。姉は二人
居るが、長姉には私が関節結核になった小学生時代世話になった。だが、自分のこと
ばかりにかまけて、炭坑に嫁いだ姉への恩返しも粗略になりがちだった。
今思うに、姉が嫁いで間もなく時代は石炭から石油の時代への移行期間だった。
姉が死んでから、しばらく墓参りも途絶えていたが、20年ほど前それをした。
赤平という炭坑だったが、私が訪れた頃は、この町は非常に活気がなかった。姉の
墓の前に立った時、それは小高い地にあったのだが、紅葉が凄かった。おまけに晩秋の候だったから雪虫が私の体を埋め尽くした。
4首目の姉というのは次姉。札幌に居る。兄も札幌に住んでいる。
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自作短歌
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・がうがうと音立てて燃ゆ札幌の紅葉の終演見る人もなし
・雪原を引き摺るごとく喘ぎいる汽車の悲鳴に猶も鞭打つ
・逃げてゆく津軽の海のみぞれ雪浮きつ沈みつ溺れて離(さ)かる
・地吹雪と罵り声の地を出(い)でてショパンの曲にげに戸惑ひぬ
愚鈍で血の巡りの悪い私だったが、家庭の暗さ、北海道の厳しい風土から脱出を
しようと思っていた。その手段は「勉強」だった。一浪してようやく東京の国立大
学に合格できた。脱出するために乘ったのは、当時は汽車。青函連絡船も船底の大
部屋だった。その時デッキで見た津軽海峡の海を埋めたみぞれ雪のことは忘れられ
ない。溺れる人を見捨てて逃亡するような気分だった。
内地に来て、東京の人が炭炉一つで3月の寒さに耐えているのにビックリした。
その後も考えたが、実は北海道の人々は寒がり。家の外は酷寒だが、家の内は真夏
のように暑い。石炭ストーブをガンガン焚いているから。当時はまだ石油の時代じ
ゃなかった。やがて湘南の地に来て、その穏やかな風土に感心し、柔らかで婉曲的
なものの言い方に慣れていったが、殊にショパンの曲にビックリした。
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・忍従は何の因果と窓拭けば太き氷柱(つらら)が冷たく鎖(とざ)す
・木の電柱一本の線を細々と繋いで運ぶ地吹雪の中
・我を抱く狂ひし母の影巨大結核菌の膨満の影
・漁師になる覚悟せし子が号泣す校内模試が中止になりて
・苛めらるるアイヌ見捨てし我の痣この先二、三加へて死ぬべし
私は道産子。家族が満州に渡り、終戦の混乱の中、病院船で帰国したらしい。
何故病院船かというと、母が結核だったから。病人を乗せた船だから、戦後の食糧
事情もあって船の中で死ぬ人もあったらしい。その時は遺骸に包帯を巻いて海へ。
私は赤ちゃんだったから、終戦時の記憶は全くない。だが、父や姉の話だと、私
は栄養不足で腹が膨れ上がっていたらしい。
物心つく頃、帯広の戦後の光景は記憶に残っている。土下座して道行く人に哀れみ
を乞う傷痍軍人や「ひろしま」という映画のポスターなど、様々なものに私の幼い魂
は凍結してしまった。私が小学生の2年になった始業式の朝、母は死んだ。結核菌が
最後には脊髄から脳に駆け上がった結果だった。
4首目の「漁師になる覚悟せし子」というのは、戦後の貧しい時代に地方の新聞に
載っていた小さな囲み記事で知ったこと。昔、ニシン漁で栄えた岩内という港町での
ささやかな哀話。ニシンが全くとれなくなって岩内はさびれゆく一方だった。
中学生が校内模試が中止になって何故号泣したのか?…同じ中学生だった私にはピン
と来た。校内模試で1番になって、これからの貧しい漁師生活の心の支えとしたかったんだろう。
最後の5首目。北海道には和人と混血したアイヌが珍しくなかった。私は冷たい
人間だったというよりは、愚鈍な子だったから、級友たちに虐められるアイヌを見
てもどうしていいか、どうすべきかが全く分からなかった。
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