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 息子の仕事に年末も年始もない。出ずっぱりだ。こちら老夫婦は年末の仕事を最小
限にして、息子の飼い犬のパグの世話をしている。何しろ来年1月でようやく1歳。
まだ甘えん坊で衝動的で、一人にされることを怖れる。

 で、パグに「何して遊ぶ? ねんがら? 鹿鹿角何本? かごめかごめ?」と問い
かける。パグはおもちゃ箱から噛み紐を咥えて持ってくる。「ようし、また隠しっこ
をするか」となる。要するに噛み紐を私の背中や太腿の下に隠してパグがそれを探す
という他愛ない遊び。

 私の「何して遊ぶ?」という口癖は、木下順二の戯曲『夕鶴』の中で、与ひょうが
子ども達と遊ぶ時のお決まりの言葉。子どもたちは「ねんがら!」と叫ぶと、与ひょ
うが「ようし、ねんがら」と応え、子どもたちが「鹿鹿角何本」というと「ようし、
鹿鹿角何本」と応じる場面が何となく私の口調のリズムになった。

 『夕鶴』は山本安英さんのロングランの国民的な演劇になった。…それも、遠い過
去のことになったが。『夕鶴』は今でも中学や高校の教科書に載ってるんだろうか。
私が教えた頃は、生徒たちはシンと静まり返って涙ぐむ者が多かった。

 与ひょうは、少し愚鈍だが優しい気性の男。そういう男でも、悪づれした男たちの
誘惑に乗せられて、カネに目が眩んでヒロインのつうに織物を無理強いするようになる。…ストーリーはこれ以上説明する必要もないだろう。

 純粋な愛とカネへの欲望との葛藤。…人間にとっての永遠の主題だ。漱石が『ここ
ろ』で展開した永遠の主題は「私欲と普遍性」との葛藤。宮沢賢治の『よだかの星』
も、この世の修羅で互いに傷つけ合って生きねばならぬことの葛藤。

 つうは痩せ細った鶴に戻って夕焼けの彼方へ飛び去っていく。よだかは地上に墜落
して(作者によって)哀しく瞬く星になる。そして『こころ』の先生は「明治の精神
に殉死する」と書き遺して自殺する。

 仏教で教える人間の「煩悩」や「業」、そしてキリスト教でいう人間の「原罪」と
いうのは文学の永遠のテーマだと思う。

 今日は息子が日勤なので、いつものように私が朝早くコミュニテイーバスで一足早
く息子のアパートへ。まもなく息子がバイクで飼い犬を運んで来る。息子はそのまま
職場へ。パグは急な階段を器用にリズムをとって駆け上がっていく。

 いつもの通り、パグはソファ―を居場所にする。いつものように私は適当にパグの
相手をしていたが、珍しいことにパグが天井を何度か眺めた。でも、すぐにソフアを
齧り始める。

  ・虚ろな瞳(め)で飼い犬稀に空見上ぐ「嗅いで齧って確かめて居よ」

 こういう歌ができた。これは穂村弘氏の「抜き取った指輪孔雀になげうって「お食
べそいつがおまえの餌よ」」という歌に対する私の反歌のようなもの。
 穂村氏は現実に巧く溶け込めないコンプレックスを抱いているから、自分の運命を
悟っているが、穂村氏と少し似た性を持つ私の歌の場合は、犬に仮託して、「もっと
現実に取り組まないとダメだ」という、自己に鞭打つような感じになっている。
 ただ、この歌は読者に立ち止まってもらわないと分かりにくい歌かと思う。

 昼に妻と交替して帰宅する。すると、マンションの入り口で、2階の夫人が車に乗
り込むところだった。周りで娘さん夫婦が世話を焼いている。この夫人は昨年の大晦
日に旦那を喪ったのだが、それ以来一人で頑張っている。娘さんが年末年始に自宅で
過ごすようにと迎えに来たらしい。娘さんは私に「よいお年を」と挨拶して去ってい
った。・・・私の心に急に少し空洞ができた。「そうか、そういう時期か」と。

 年末とかお正月とか、伝統的な慣習に従って人は生き、人は死んでいく。何か人間
の素直さをそこに見て、私は「生きる」ということの認識を新たにした。精神の偉大
さなんて儚いものだと思う。当たり前のことをして、当たり前に死んでいくことが
人間の幸せなのだ、と痛感する。

  ・抱かるることなく過ぎん如月のわれは透きゆく黄水仙まで
  ・子守歌うたうことなき唇にしみじみ生(あ)れて春となる風
  ・孝子峠 風吹き峠 紀見峠 故郷紀州へ風抜ける道

 短歌の世界で、60年安保のヒーローが岸上大作だとすれば、70年安保のヒロイ
ンはこの3首の作者たる道浦母都子だろう。岸上は田舎に老母を遺して自殺した。
道浦も挫折して故郷和歌山に還って行く。青春とは何と気負いに満ちて愚かな時期な
んだろう。パクパクと手応えのない観念を食べて生きているような時期。

  ・真に偉大であった者なく三月の花西行を忘れつつ咲く

 三枝昂之の歌。彼も恐らく70年安保の洗礼を浴びた歌人だったろう。朝日歌壇の
選者である馬場あきこ氏、佐佐木幸綱氏は教師としての立場でやはりそういう洗礼を
受けた経験がある人達だ。同じ朝日歌壇の永田和宏氏、読売歌壇の選者である小池光
両氏もまた団塊の世代で学生運動経験者だろう。
 1960年代半ばにビートルズが初来日し、日本武道館で公演。テレビがカラーで
放映したそうだが、私は音楽に無関心だったし、第一家にテレビがあったかどうかも
記憶にない。だが、何かの機会でその映像を観たとき、特に女性の観客が熱狂的に叫
ぶから「バカかっ!」と思った印象が残っている。そういえば、その公演の7、8年
前から、平尾昌晃、ミッキーカーチス、山下敬二郎のロカビリー3人男の公演の時も
女性観客が熱狂して(嘘かホントか知らないが)下着を舞台に放り投げたというエピソードがあった。

 私は音楽って、座って静かに聴くものだという常識に囚われていたから、ああいう
キチガイ染みた熱狂ぶりは理解できなかった。…しかし、段々私の頭は発達してきて
ビートルズの幾つかの曲は分かるようになった。いや、音楽って頭で「分かる」もの
じゃなく、心で「共感」するものだとも理解するようになった。個人的には『イエス
タデイ』という曲なんか、心に滲みて来る。メンバーの一人も「僕たちの音楽は聴衆
の心に直接訴えるものです」と語っていたことを記憶している。文芸評論家の小林秀
雄氏も「名画を見る心」という評論で、「画は頭で分かるものじゃなくて、心で見る
ものだ」という趣旨のことを書いていた。

  ・世界中一筆書きの風が吹くどこから始めたっていいんだ (やすたけまり)

やすたけという女性がこの短歌を詠んだのは30代か40代だったと思うが、記憶が
はっきりしない。この歌が穂村弘氏に「ロックンロールみたいなノリですね」という
趣旨の評価をされたことを穂村氏の著書で読んだことがある。

 ロックンロールって知らないが、私もこの短歌にひどく共感した。生産力が発展して、余暇の時間が増えて来るにつれ、主婦も時間を見つけて友人と旅行を楽しみ、
老人たちも若い頃できなかった登山に熱中するようになった。
…私も定年が迫ってきて、何か残るものをしたいと意識するようになり、手軽な短歌
を始めてみた。

 いつ、どこでも始められる・・・短歌も音楽も芸術鑑賞もスポーツも。そういう時
代になったのだと痛感する。ブログというものも、自己表現あるいは自己主張として
の性格が強いのではなかろうか。そういう時代に恵まれたことを素直に喜びたい。

 詠んだ歌と作った歌

  ・三陸へ向かう雲かと目を上げてただ目を伏せるだけの我なり
  ・本当は大好きだよと告げぬまま親に死なれたティーンは居るか

 あの東日本大震災の時に私が詠んだ歌。1首目は三陸海岸沿いの惨状をニュースで
知って、無力な自分を自覚したもの。2首目はたまたま仙台に住む学友の誘いで南三
陸に向かった際に詠んだ歌。

 1首目は「三陸」という言葉があるから、読む人に背景が分かると思うが、2首目
はその背景が分かりにくい歌だ。2首目の歌は、津波に流されて何かの建物に引っかかった母と娘が居て、母が「あなたは早くここを離れて逃げなさい」と言い、娘(高
校生)は「大好きだよ」と叫んで必死に泳いで助かった―そんなエピソードを新聞で
知って詠んだもの。

 大事件を見聞すると、感情が昂ってきて、つい肩に力が入ってしまうものだが、私
としてはこの2首は割合素直な気持ちで詠めたと思っている。私も男だから、詠む歌
が「普遍性」を目指すものとなりやすい。大震災のとき「絆」という言葉が流行して
その言葉は日本人の自覚を鼓舞したが、歌は「平常心」で詠まないといけない。
「同胞愛」とか「人道主義」とかの普遍的な理念に寄りかかって詠むのは邪道だ。
現に、この私も南三陸の被災地に向かった時、お線香も花束も用意していくのを忘れ
ていた。その時の私は所詮興味本位の観光客だったと思う。

  ・浜風の砂がわが目をはたと撃つ痛み一瞬過客の痛み

 私が南三陸の砂浜に立ったとき、風が強かった。私は自分の欺瞞性を罰せられたよ
うに感じた。目の痛みは所詮一過性の痛みに過ぎない。…それとは別に、この時の歌は、どこか構えている感じがする。肩に余計な力が入っている感じ。こういう歌は、
読む人の心に響かない。普遍性を目指して普遍性を失っている歌だろう。普遍性とは
「結果」として齎されるものだと思う。短歌とは「詠む」ものであって「作る」もの
ではないのだろう。そういう視点で穂村弘の次の歌2首の優劣は歴然としている。

  ・抜き取った指輪孔雀になげうって「お食べそいつがおまえの餌よ」
  ・翔び去りし者は忘れよぼたん雪ふりつむなかに睡れる孔雀

 1首目には、空想と現実を区別できない心の痛みが表出されて、読む人の心に響く
が、2首目はその痛みを美化している気配がある。

 ・逃げてゆく君の背中に雪つぶて 冷たいかけら わたしだからね (田中 槐)
 ・最後だし「う」まできちんと発音するね ありがとう さようなら  (ゆず)
 ・ペガサスは私にはきっと優しくてあなたのことは殺してくれる (冬野きりん)

 最初の歌は穂村弘の『短歌の友人』(2007年)、次の2首は『短歌ください』
(2011年)からの引用歌。最初の歌の作者の年齢は分からないが、後の2首の作
者は18歳(当時)だという。3首とも女性の歌。

 驚く、これらのストレートな詠み方に。旧世代の男性の専門歌人なら、どこか天下
を睥睨するような大上段に振りかぶった詠み方をするものだが。例えば思想とか正義
とか規範に添った…。そういう詠み方は、総じて「普遍性」への信仰に導かれている。
たとえ自然を写生的に詠んでも、斎藤茂吉の「実相観入」みたいに、自己と大宇宙の
真実とを結びつけるような。

 女性は(一概に言えないまでも)理屈とか観念を嫌うようだ。細部の感覚のリアリティを尊ぶみたい。若い女性同士の会話を聞いてもそう思う。

 息子の飼い犬のパグという犬種はご存知の通り、目・鼻・口という顔の中心が黒な
のだが、鼻肛があってないようなペチャンコで、その癖、鼻の穴は確かにある。
時々、人に向かって「フン」と鼻を鳴らすので、鼻水が飛ぶ。妻は苦笑して「迷惑な
のよね」と言う。…私なら「汚いなぁ」と文句を言うところだが。

 私は妻の「迷惑」という表現がひどく印象に残った。この言葉が女性同士の会話で
発せられたら、女性たちはおおいに共感して笑うだろう。私にも「汚い」と「迷惑」
のニュアンスの違いを巧く言えないが、子犬のパグに鼻水を引っかけられての感情と
しては「迷惑」という表現の方がリアリティがありそうだ。

 現代短歌で若い人達がどんな歌を詠むのか、穂村弘氏のおかげで知ることができ、
すごく刺激を受けた。穂村氏の若い歌人の歌への鑑賞力はたいしたものだ。

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