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午後3時から畑へ。仰天した。畑の土の色が見えない。雑草が埋め尽くしている。
「ど、どうして?」と驚いた。そんなに長い間サボったつもりはないのに。
雨が続いて「野菜たちは喜んでハレルヤコーラスを歌っているんではないか」と
呑気なことを想像していたが、雑草も歌っているとは知らなんだ。
トマト、キューリなどの2畝だけとりあえず除草。それだけでヘトヘト。おまけ
に例によって、潮風で鼻の迷走神経が刺激され、鼻をかんでばかり。更に不幸なこ
とに、キューリ夫人が巨大女になっている。ノーベル賞の夫人には申し訳ないが、
バカキュウリ。ナスは生き急ぐこともなく、普通の大きさで待っていてくれた。
百姓仕事ってホントに根性が必要だ。私など30坪あるかないかの広さで降参。
(2017・7・6)
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身辺スケッチ
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この頃、近くの神社で神輿の台座を叩く音が響き、夏祭りの練習をしている。
浜降祭として全国区の知名度を持っている。朝早くから、近辺の30数社の神社
の神輿が氏子に担がれて渡御し、禊の為に茅ヶ崎西浜の早朝の海に入って行く。
神輿担ぎのときの「どっこいどっこい」という独特の掛け声も知られている。
今年は17日の海の日に挙行されるようだ。だが、年齢のせいか、私の気分は
もはやお祭りと一体になれないみたい。遠くから「渦中」を眺める。
神社に戻って地域を回り、夕方境内で再び神輿を担いで足踏みする頃は、氏子
のアドレナリンは全身を駆け巡って興奮が最高潮に達する。みな狐に憑りつかれ
たような目つきになる。最近流行の言葉で表現すれば「神ってる」となる。
羨ましいほどの陶酔状態。このままいけば、神輿も氏子も奈落の底に真っ逆さま
に墜落して、神隠しの現象が起こるのではあるまいかと懸念されるほど。
このマンションにも神輿が入って来てくれる。妻はそういう躾けをされて育っ
てきているので、「オヒネリ」を持って外に出ていく。若い人は「オヒネリ」の
意味が分からないだろうが。
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定年を迎える頃、よく海辺を散歩した。夏休みも終わり、湘南海岸には秋の
気配が漂っていた。人影も少ない。遠くから海の家を畳む音が頻りに響いた。
「人生の店仕舞いだな」と思いながら歩いた。息子の精神的不安定、私自身が
職場で孤立しっ放しだったこと…などを噛み締めながら。
・浮き沈む波の光の点滅は顧みざりしものの数々
堤防に腰を下ろしてそんな歌を詠んだ。自分の生命の自己拡張ばかりに気を奪
われて、身の周りの人の小さな善意とか哀しみに無頓着だったこれまでのことが
悔やまれた。海の小さな無数の三角波が浮いたり沈んだり、その度にその波の光
が点滅するのが悲しかった。波間に消えていった平凡な人々の気持ち…どうして
自分はそれを分かろうとしなかったのだろう。先へ先へと、無暗に急ぎ過ぎた。
息子の気持ちだって合理的には理解不能に見えるけれど、自分はそれをどれだ
け分かろうと真剣な努力をしただろうか。鍾乳洞の奥へ奥へと後退りする息子の
心の闇に突入し、鍾乳洞の出口までようやく引き摺り出したのは妻だった。
自分の人間性には根本的な欠陥があると痛感した。でも、先は長くない。
息子も安定してきた。この穏やかな余生をいくらかの歌と批評文を綴ってから
この世を去りたいと思う。
(2017・7・8)
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私の文は暗い。しかしいつも眉間に深い皺を刻んで生きている訳でない。
根はいたって単純で素直だ。しかし、今風のネアカの人間でないことは
確かだ。
車を捨ててよく歩くようになった。格別の目的があるわけじゃない。
そんな野心も意欲も残っていない年齢だ。だから目的もなく歩くのが億
劫になることもある。
・風巻いて電車が過ぎた踏切に敗残の身の快感が湧く
これは私くらいの年齢になれば誰でも実感する心境だと思う。踏切を渡
るとき、何だか自分の存在が頼りなく不安定になった気になる。
・風受けて横に傾く水鳥のごとくふわっと踏切渡る
踏切を過ぎて、畑のなかに建つ保育園に出る。昼寝の時間なので幼児は
皆パジャマに着替えてうろうろしている。多くの子がケットを掴み、指
を咥えている。幼児のこういう光景を改めて不思議に思った。何かに縋
らないと不安でたまらないという、人間の根源的な心の原型を見る思い。
・幼な子はケット掴みて指しゃぶる我の煙草もそれにあらずや
更に進むとさびれた商店街に出る。小さな個人商店にとって受難の時代
だ。看板も錆びている。ガラスが汚れている。照明も節約のため消して
いて暗い。
・「落花生の鳳凰堂」の横看板「の」のとこで折れ豆が噴き出す
無論、私の勝手な妄想だ。同じ地続きなのに明るいコンビニに向かう時
何か透明なカーテンをくぐった気がする。コンビニの駐車場にたむろし
ている数人の若者の眼に、そのカーテンをくぐった私の姿が見えている
だろうか?
(2013・7・29記)
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・吹き抜けのロビーのガラスに滾(たぎ)り落ち瀑布(ばくふ)のように
春の雪降る
息子の精神的安定には長い長い時間がかかった。緊張の連続だった。自分も対人関係が最悪で「自分の生き方は間違ってたのか?」と苦しんだ。・・・そして息子が少し安定してきたので、箱根の日帰り温泉に車で出かけた。名を出しても構わないと思うが、湯本の岡本ホテル。このホテルが好きなのは、以前にも書いたが、大抵の客が露天風呂に行ってしまうので、広い大浴場が、殆ど一人で独占できることだ。
風呂上がりに、バイキングの昼食。妻と息子と三人で窓際のテーブルを囲んでいると、四月の昼間なのに、急にぼたん雪が降ってきた。それも激しく。窓の外が真っ白になった。木も山も何も見えない。雪というのは人の心に不思議な安らぎをもたらす。これまでの緊張の日々があったから、一層、深い感慨で雪を見つめた。
その時、歌を詠む気が起こった。しかし、何かが足りない。しばらく考えて、この激しい雪が舞い落ちる様を表すには、窓を高く大きくする必要がある・・・そこで、同じ湯本にあって、泊ったこともあるホテルの吹き抜けのロビーを思い出した。
最初の歌は、二つのホテルを合わせた情景。「瀑布」とは滝のこと。
(2013・12・6記)
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