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ちょっと面白いアンケート結果を見た。
アメリカで、5歳(!)から75歳までの幅広い層に「何歳からを高齢者と呼ぶか?」と聞いたところ、5歳では「13歳から」、13歳は「30歳から」、30歳は「50歳から」、50歳は「75歳」と多くが答えたそうだが、当の75歳の、最も多かった回答が、
「高齢者はいない」
というものだった、というのである。
アンケートを読めて、それに答えられるレベルの力を維持しているのだろうが(認知症だったら、前提として、回答者にはなれまい)、しかししかし、75歳にもなって「高齢者はいない」って、どういう認識をしているのだろう。
確かに、いまの75歳は昔でいったら55歳くらいかもしれない。とはいっても、人間、自分の老いはきちんと認識しておくべきだ。「わたしゃまだ老けとらん」という意気込みは良いが、それと、高齢者である自覚を持つことは別問題だ。
毎週末、母の様子を見にホームに行っているが、この頃、正直言っておっくうになってきてしまった。話がまったくかみ合わないからである。そもそも、会話のすべてが頓珍漢で、支離滅裂。ぼけ老人は俗に「子返り」とか「二度わらし」と呼ばれるが、母も、頭は少女期に戻ってしまっており、自分は今、秋田にいると思っている。40年も前に死んだ母親のことを「今どうしている?」と、何度も尋ねる。父や妹たちが死んだこともわからない。私が「死んだよ〜〜」と耳元でシャウトすると、「そおお?」と不思議そうだ。そしてまた少し時間を置くと、「母親どうしている?」。
私にとってこの母は、生まれた時から母だったけど、そういう母にも赤ちゃん期、少女期があったということを、今更ながら思う。
ボケながらにして、何か考えていることがあるのか、狂ったことを真剣にやらかしている。
例えば、この置き時計。母が以前使っていたもので、母のホームの部屋に置いてきたものだが、母は、夜中に目を覚ますと、必死になって、電池を取り外してしまう。だから、母のところに行くと、いつも時計は止まっている。何回も、「電池を外したらだめ」と諭し、入れ直してくるのだが、そんな言葉は、母の頭を素通りである。何度、電池を入れても、そのたびに外してしまう。それから、夜中に余計なアラームを鳴らしたりするということなので、電池カバーとアラームのスイッチのところに、ガムテープを貼り、おいそれと動かせないようにした。
そうしたら、今度は、時計の前面部のプラスチックのカバーをはがしとってしまい、どこかへ捨ててしまっていた。
まだ動く時計だが、もう、捨てる。
そもそも、今日が何年何月何日かも、自分が何歳かもわからなくなってしまった母に、時計は必要なくなった。
母のホームに行くといつも不思議なのだが、私以外の親族が面会に来ているのを、ほとんど見たことがない。もともと、身寄りが全くない人もいるので、そういう人は除くけど、皆さん、言ったら悪いが「姥捨て」「じじ捨て」を決め込んでいるのだろうか。
そして、そんな話も通じない高齢者の世話をすることを職業とする人々には、頭が下がりっぱなしである。
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2018年12月09日
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