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キリンビール横浜工場の真ん前に、「生麦事件記念碑」がある。
こんな看板が立っており、奥の方に行くと、
こんな石の碑があるだけである。
ふうむ、8月21日には毎年追悼の儀式が開かれるらしい。
調べてみたら、事件が起こったのは、陰暦だが1862年の8月21日であったようだ。
実際に事件があった場所は、この工場から数百メートル東に行ったところである。
行ってみても、ごくごく普通の民家の塀の上に、
こういうな案内板が1枚、貼ってあるだけだ。
東海道は、当時の幹線道路とはいえ、人と馬の一団が通ると、すれ違うのも困難なほど狭い道だったのだ。だから、大名とか偉い方々のご一行が通る際は、対向する者たちは、もちろん身分の差もあるけれど、物理的にすれ違えないから、道の端にさがって通り過ぎるのを待つしかなかっただろう。
しかし、そういった日本のマナーを知らず、日本語通訳も伴に付けなかった4人の無知なイギリス人どものせいで、こんな事件になってしまった。
当時のイギリス政府も、薩摩藩との交渉のために翌年船団を薩摩港に送っている。当時の交通網を考えると、これがどれほどイギリス政府に税金を拠出させたか、想像もつかない。東洋の野蛮人どもに大切な国民を殺されたイギリスの怒りが伝わってくるようだ。私は「薩英戦争」は、最初からこれを目的としてわざわざイギリスが船団を送ってきたのだと思い込んでいたが、実際は、薩摩藩との交渉が不調に終わったあと、イギリス人が薩摩の船を拿捕したことに起因したものであって、戦争をふっかけることのみが目的で来たわけではないことを今回Wikipediaで初めて学んだ。
それでも、薩摩藩は、イギリスに、賠償金を払わされた。が、下手人は「逃亡中」として処罰されなかったという。この気骨やよし。
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