癌や認知症を患う人が増えているが、これはただただ、寿命が延びたせいである。
信長の時代のように、人間50年であれば、癌になる人は多少はいたであろうが、認知症になる前に大半の人は死ぬ。
あの時代は、盲腸はおろか、虫歯の1本でもどうしていたのだろう、と思う。
1月24日に、作家の曽野綾子さんが、産経新聞1面のコラムに、「90歳代で、ドクターヘリを要請した患者がいた」という話を書いていた。
素直に、たまげた。一体1回のヘリ派遣でいくらかかるのだろう。
「高齢者が治療を受ける権利を否定するわけではないが、ある程度の年になったら、人間は死ぬという教育をすべき」
と書いておられたが、同感である。
そして、案の定、ネットを見たら、彼女に対する猛烈な批判が書かれていた。
曽野氏はこの理論を、週刊ポストのインタビューにも展開しておられたようだが、曽野氏への「ブーメラン」として、
「あなたからどうぞ、としか言えない」
「『適当な時』は誰がどういう基準で決めるんでしょう」
等の意見を見た。
曽野氏の書かれた言葉の一部だけに噛みついているようだが、曽野氏ご自身、
「自分もこの年になったらドクターヘリも呼ばないし、できるだけ救急車のお世話にもならない」
と述べておられる。
いまはまだお元気だけれど、死ぬような病になったら、あまり治療もせずに逝く方を選択するのではないか。
奇しくも、1月31日の「論説委員 日曜に書く」という渡部裕明氏という方のコラムを読んだら、京都市にある老人施設の、76歳になる専属医師が、
「健康診断は受けず。救急車は呼ばない、入院しない」
をモットーになさっている、とあって、曽野氏と同じタイプの考え方の方だなあ、こういうお医者さんはいい、と思った。
医療の進歩により、昔なら死んでいた病も治るようになった。それ自体は素晴らしいことではあるが、こうなってくると、何歳まで生きる、もとい、生かされるのが適切なのか、わからなくなってくる。
しかも、寿命は延ばせば延ばすほど、非生産人口を増加させると言う点では、「長命はめでたいこと」という美麗な建前のもとに、その問題点はなかなか大きな声では言えなくなっている。曽野氏や上述の医師のような方がこの点を的確に指摘すると、攻撃はされるだろうが、賛同の声はあまり報道されにくい。
ナントカ細胞で世間を騒がせた研究者がいたが、自分の細胞から、臓器を自由に作り出せるという技術は世界中で研究開発中である。
心臓が悪くなったら、心臓を作って移植し、脳がぼけたら、脳を作って移植する、骨も血管も、ということも可能になる時代がやってくるかもしれない。
そうなったら、いくつで死ぬのが「妥当」になるのだろう。
金があれば、120歳や150歳まで極力生かすのが「正当な医療」になるのだろうか。
ぞっとする。
私は、人間、最低限の身の回りのことができなくなったら死んだら良いと思うが、これ自体「オプション(選択制)」の一つだといま悟った。
「私は○歳まで生きたい」
と言うのは、かつては、というか、これまではほぼ「天命」だったと思う。それが、これからは、どこまで治療し、どこまで臓器を移植し、何歳まで生きられるようにするのか、希望を聞いてお金を払う「オプション制」に変わるのかもしれない。
ややっこしい時代になった。