私は今日、誤解を招いたり、顰蹙を買ったりしそうなことを、敢えて書こうと思う。
1月16日に、盲人のマッサージ師(42)が、JR目白駅のホームから転落し、電車にはねられて亡くなった。盲人用テニスを開発したりと、盲人界では知られた方だったらしい。ご冥福を祈る。TVで見ると、目白駅のホームの幅は通常の駅よりかなり狭いようだった。
これを受けて、盲人の協会の人らが杖をつき、駅のホームに転落防止用の柵を設置するよう、団体でJR本社に請願に行ったシーンがニュースで流れた。国土交通省も、1日当たりの利用客が5千人以上の全国約2800駅を対象に、柵を設置するよう鉄道事業者に呼びかけているそうだが、何分、膨大な費用のかかることで、昨年3月時点で設置が完了しているのは449駅にとどまっているという。さらに、構造上の問題で、柵そのものを設置することができない駅もあるという。
しかし、JRもいまやただの民間企業。すべての駅に柵を設置するのは、気の遠くなるような支出を強いられるので、一朝一夕に決断できる問題ではない。構造上、柵を設置できないところには、いかんともできない。
あえて誤解を招きそうなことを書こうと思ったのは、この「請願に行く」という行為は、非常にニュースネタになりやすい半面、それだけの巨額な支出を、彼らの人口で、募金も協力条件も何も持たずに要求する権利があるかどうか、疑問に思ったからである。日本では、「障害者」は常に弱者で、聖なる天使で、清く正しく、従って、悪口など到底言ってはならない存在だと扱われている。しかし、資本主義下の民間企業の鉄道会社は、経営を維持し、切符の料金を抑えるため、コスト削減に非常な尽力をしているに違いないのである。この柵の設置費用を賄うため、今、最低料金が110円から130円の切符が、500円や1000円に跳ね上がったら、一般の旅客の不満をどうするつもりなのだ。障害者には、そこまで支出を要求する権利が当然に存在するのであろうか。
私が視覚障害者だったら、外出の際、極力、晴眼者の供をつける。もちろん、常時、供の調達ができ無い場合があるのも承知している。もし供がいない場合は、駅員に、
「私はめくらですので、誰かホームまで介助をしていただけますか」
と丁寧にお願いする。駅員の手が足りないときは、その同じ駅を歩いている人をつかまえ、
「お願いですから私をホームまで連れて行ってください」
と頼みまくる。私は過去に駅で盲人の介助を何度もした経験がある。これは、晴眼者なら、必ずや協力してやらねばならない義務だと確信しているからだ。頼むほうは気後れするかもしれないが、盲人はこういったことなら堂々頼んで良いのだし、こういうことは、頼まれる方がむしろ幸せなのである。逆に言うと、柵の設置を要求する裏には、そういう同伴者が足りないか、盲人が頼みたがらないか、であろう。しかし、すべての人が障害者を介助するのが当たり前の習慣になれば、柵の必要度は極端に減る。
柵があると、他にも、車椅子や、酔っ払いの転落を防止できる、という利点をあげられるかもしれない。しかし、車椅子の人に対してはいま駅員がほとんどホームまで同伴し、電車に乗るときに板を渡す仕事をしているから、今でも大丈夫であろう。酔っ払いに関しては、駅のホームを千鳥足で歩くというのは完全に自己責任の世界であるから、好きで酔っ払って転落した人間には何も言う権利は無い。
盲人の人らは、よく、
「自分らは何でもできる。障害者扱いしないで欲しい」
という。確かに目が見えない以外、体が健康であるなら、その気持ちも分かる。私が知る限りだが、アルプスに登山したり、スキーやマラソンをする盲人がいる。しかし、当然、晴眼者の供がいる。供がいてこそ初めてそういった行動が取れるのに、供への感謝の言葉少なく、まるで一人でやり遂げたかのような態度を取るのが、かねてからずっと不愉快だった。晴眼者の供の人らは、どれほどの努力で盲人に怪我をさせないよう準備するのだろか、と、いつも思う。また、観劇や旅行が好きな盲人もいる。「風景の美しさは肌でわかるんです」と言っていた。
だのに、駅のホームの問題となると、なぜ急に障害を前面に押し出し、「弱者」に早変わりするのだろう。
例えば、1駅に防護柵の設置をするのが平均いくらくらいかかるか、彼らの団体は把握しているのだろうか。把握したなら、少しでも設置を加速するよう、募金活動でも開始したらどうだ。今回の事故が起こる以前から、ホームに転落する盲人は後を絶たなかったというのに、そういった募金活動はあったのだろうか。仮に、設置費用が1駅5000万円かかるとする。で、「目白駅募金」とでも名づけた募金が、なんとか100万円集まったとする。頑張っても、1駅分の設置費用の50分の1しか集まらないとしたら、「ああ、防護柵の設置って、こんなに大変なんだなあ」と改めて実感できよう。団体で頼みに行くのはタダだが、その後の費用の調達と、夜間の工事(日中は電車が動いているので、設置工事は1〜4時くらいしかできない)については、彼らは全然関知しない。だったら、盲人協会が奮起し、柵がないなら、駅の盲人介助ボランティアでも募集したらいい。そういった活動があるのかないのかわからないが、もししていないとしたら、それすらせずに、ただ莫大な支出を民間企業に強いるのは、エゴ丸出しの気がする。それに、盲人が危ないのは、駅のホームだけではない。普通に道を歩いていたって、溝に落ちたり、車にはねられたり、上から何か落ちてきたり、等、リスクはいくらでもある。盲人が出かけるのはそれだけで十分リスクが伴う行為であるのに、なぜことさら駅のプラットホームにばかり膨大な支出を求めるのだろう。
こんな文章を書くと、「視覚障害者を差別している」、と短絡的に考えて怒る人が出るかもしれない。しかし、そうではない。私は右目の視力が極端に悪く、めくら寸前である。人間誰でも明日どういう障害を負うかわからぬ身であることも承知している。要は、他人に物を頼むには、それなりの頼み方というものがあり、そして、膨大な支出を少しでも軽減するために協力できないかまず考えるのがマナーでは、と言うことを言いたいのである。権利ばかり主張する光景は、見良いものではない。
ついでに言うが、マスコミも、障害者を美化しすぎた報道をするのはやめて欲しいものだ。これが不要な言葉狩りにつながり、過去の文芸作品を一方的にお蔵入りさせ、溜飲を下げる輩を増加させる原因の一つとなっている。