桃実 says

移行したFC2ブログは、http://mymomomi.blog.fc2.com/ です

言葉狩り、障害、差別、変な日本語

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索
東京スカイツリーのオープニングまであと1ヶ月となった。
これに合わせて、最寄りの東武鉄道の駅名が「業平橋」から「東京スカイツリー駅」、もとい、「とうきょうスカイツリー駅」に変更されたそうだ。
しかし、なんで「東京」が平仮名なんだ?
「東京」も読めないような層におもねているのだろうか?仮にガイジン向けだとしても、「東京」も読めないガイジンならば「とうきょう」すら読むまい。駅名は普通アルファベット表記もつけるのだろうから、平仮名カタカナを読めないガイジンは、そっちを読む。支那人や半島人も漢字の方が読みやすいだろうから、支那人半島人のためでもなさそうだ。子供のためだ、と噛みつく人もいるかもしれないが、それなら親が「あれは、とうきょうって読むのよ」と教えればよい。子供の頭脳は、あっと言う間に字を覚える。
Wikipediaに出ていたのだが、平仮名にしたのは、「より親しみを持ってもらうため」らしいが、親しむどころか、間抜け丸出しである。仮にも日本の首都の名前を、勝手に平仮名に貶めるべからず、である。
私は以前、ひらがなの市名について苦言を呈したことがあったけど、それと根底は共通しているか、もっとバカかも知れない。「東京」が読めない人らにそこまでサービスをすることはないし、仮に「とうきょう」と書いて親しみを感じる人がいたとしても、そういう人らに私は親しみを感じない。

「業平橋」という地名も非常にゆかしいのに、それをも捨ててしまうというのも痛い。平安のプレイボーイ皇子にちなむのに、日本人はどうしてこうも地名をおろそかにするのだろう。
 
話はそれるが、この在原業平なる貴族は、九十九髪の老女に思いを寄せられ、契ったそうである。源氏物語にも、源典侍という好色な老女と光源氏が契る設定になっているが、平安の昔の人らは老女の恋を邪険には扱わなかったらしい。いいなあ。
これは、私が中学校のときのこと。
確か「公民」(←いまでもこの授業科目あるの?)のとき、先生が、憲法25条と、朝日訴訟や生活保護などの話をしていたときだったと思う。その流れで、先生が
「貧困は、国の責任なのです」
と言ったとき、私の頭の中は「はあ?」と、思い切りクエスチョンマークだらけになったことを、いまだ覚えている。
生まれつき就労不可能な人を除けば、普通、個人の責任の方がずっと大きいではないか。
ちゃんと働くのが嫌いな人、収入を上げようと努力しない人、健康の維持に努めず暴飲暴食たばこ麻薬などをやっている人、浪費家の人、ギャンブル好きの人、それらの人々の貧困も国の責任だ、という説明は、成り立つまい。
あえて自分の意思でそんな生き方を選択しているのなら、そりゃまあ、勝手だろう。勝手だろうけど、その代わり、条件がある。いざというときには税金を頼らないでのたれ死ぬことだ。税金も健康保険料も年金も払っていないのなら、倒れたって入院も拒否すべきだろうし、延命措置などもってのほかである。出産も断念すべきだ。税金で生涯生活を守られたり、税金で出産しないようにすべきだ。自分で生活レベルをそういう方向に持っていったのなら(不本意ながらそういう方向に行ってしまった人も含む)、死ぬまでそのレベルを貫くならいい。運命はのろってもいいけど、国や役所のせいにしないことだ。
 
先ほどニュースを見ていたら、京都の観光地のメインの一つである祇園で、30歳の男性が、軽自動車で次々人をはね、7人を殺し、20人近い人に怪我を負わせたという、目を覆いたくなるような事故を報道していた。その男性自身も死亡したという。案の定、てんかんの持病の持ち主であったという。
以前にも書いたけど、てんかんを持病とする人に、運転をしない仕事を選べ、というのが、そんなに悪いことなのだろうか。てんかんを持病とする人たちでも、過去2年間発作を起こしておらず、運転をすることについて問題はないという医師の診断書を出せば免許の取得が可能となったらしいが、しかし、その後事故を起こしても、診断書を書いた医師が責任を問われることはないだろうし、ましてや、当のてんかん患者自身が、その事実を隠して免許を取得していては、まったく無意味である。
 
前にも書いたけど、こんなふうに書くと、「障害者を差別するな」とかいう「権利バカ」の一派の方々から反論が出そうだが、こんなのは差別でも何でもない。行うのに適切ではないことをしてはならない、という常識論である。権利バカさんたちに、逆に問いたい。だったら、健常者は、てんかんの運転手にむざむざ殺されても、黙って我慢していなければならないというのだろうか。ならばむしろ「健常者差別」ではないか。健常者は障害者の前では何でも我慢せよ、というのなら、むしろ欺瞞であり増長だ。今の日本では、障害者はまるで聖なる天使のようで、悪口一つ言ってはいけない存在のようにあがめられているが、そんなことは絶対にない。障害者も健常者もただの人間である。聖人でも何でもない。
 
権利バカの団体などがあえて存在意義を持つとしたら、交換条件として、積極的に免許の取得の自粛を呼びかけることだ。自己申告しないことで免許を取り、それで死亡事故を起こしてしまうような実例を出すことは、却って患者の権利や人生のマイナスにしかならないこともあわせて積極的にアピールすること、そして、自己申告をしないで免許取得をすることに刑事罰を課すよう自ら申請することだ。免許がないと仕事につけない、と主張する人もいるらしいが、私の仕事を含め、世の中には運転などしなくて済む仕事はいくらでもあるのだから、そういう方面へ就職をすることを勧めるべきだ。そのくらい自己を厳格に律するよう求めるくらいでないと、健常者たちからの信頼は得られないと思う。
障害、持病があるということを武器や強弁に使うのは、共感しない。
 
毎日新聞って、変な記事を書くなあ、と思うことがしばしばある。
この記事もネットで見ていて「おや」と思った。
 
栃木県鹿沼市で、てんかんの持病がありながら、それを隠し、過去に何度も事故を起こし、医師に運転を止めるよう言われていたにもかかわらず、クレーン車の操縦を続け、なんの罪もない小学生を6人も殺してしまった26歳の男の話は記憶に新しい。
 
で、上記の毎日の記事は、てんかんという病気に対する非・患者側の理解が十分かどうか、患者側からの訴えをまとめたものである。
車がなければ、買い物にも行けない地域も多い。また、運転免許がないと就職もできない、職場で差別される、という。しかし、前者は十分わかるが、後者は説得力に欠ける。私の周りは、今の私の仕事も含め、運転免許など全く必要としない仕事だらけである。田舎ではそういった仕事しかない、と主張するなら、田舎から出れば良いではないか。世の中に、仕事の種類が、「無職」か「運転」の2択しかないのなら話はわかるが、世の中には、運転などしない仕事はいくらでもある。てんかんを患っているなら、なぜあえて「運転」を仕事にするのか、理解に苦しむ。上述の、罪も無い6人の子供を殺した男など、八つ裂きにされても良いだろう。
こんなことを書くとすぐ「障害者差別だ」と騒ぐ人が目に見えるようである。今の時代、弱者はやたら美化されており、特に、障害者は、何ら邪悪なこともない、聖なる天使のような扱いで、悪く言ってはいけないような風潮にある。これ系の話は、2月19日に盲人について書いた。しかし、容姿や体形が悪くて就職や結婚で差別される人、髪の毛が不自由で笑われる人、オヤジがヤクザな人、成績が悪い人、等々、世の中の人は大体なんらかのハンディを抱えながらなんとか生きているのである。「容貌差別」「毛髪差別」「家庭環境差別」「能力差別」を負いながらもなお、それ以外の能力で生きていかないとならない。ちょうど、トランプのように、手持ちのカードだけで勝負するのに似ている。てんかんの患者さんに対し、「運転以外の仕事を選べ」と言うことが、そんなに悪いことなのであろうか
先日、新聞を読んでいたら、横浜市内で、てんかんのトラック運転手に跳ねられて殺された中学生(当時)の両親が、その運転手と雇用主を相手取って起こした損害賠償請求の判決があり、横浜地裁は計8500万円の支払いを命じたという。この運転手はたまたま父親の会社で働いていたという特殊性もあり、父に、雇用主としても、てんかんの持病を隠しながら運転させていた使用者責任は重いと判決に出た。しかし、いくらカネを払ってもらっても、殺された子供はもう帰ってこない。
 
ちなみに、私は昔、人事労務の仕事をしたことがあるが、ある部署にてんかんの男性が働いていた。本人はけろっと「倒れてもほっといてくれればいい」と言っていた。まあ、職場で急に倒れられたらまわりも困るだろうから、どうしようと考え、西早稲田にある「てんかん協会」に足を運び、てんかん教育のビデオを借りてきて、マネージャーたちと見て勉強したことがある。勤務先の理解を求めることは、本人が真面目で勤勉な人柄であれば、さほど難しいことではないはずだ。

盲人と「駅の防護柵」

私は今日、誤解を招いたり、顰蹙を買ったりしそうなことを、敢えて書こうと思う。
 
1月16日に、盲人のマッサージ師(42)が、JR目白駅のホームから転落し、電車にはねられて亡くなった。盲人用テニスを開発したりと、盲人界では知られた方だったらしい。ご冥福を祈る。TVで見ると、目白駅のホームの幅は通常の駅よりかなり狭いようだった。
 
これを受けて、盲人の協会の人らが杖をつき、駅のホームに転落防止用の柵を設置するよう、団体でJR本社に請願に行ったシーンがニュースで流れた。国土交通省も、1日当たりの利用客が5千人以上の全国約2800駅を対象に、柵を設置するよう鉄道事業者に呼びかけているそうだが、何分、膨大な費用のかかることで、昨年3月時点で設置が完了しているのは449駅にとどまっているという。さらに、構造上の問題で、柵そのものを設置することができない駅もあるという。
しかし、JRもいまやただの民間企業。すべての駅に柵を設置するのは、気の遠くなるような支出を強いられるので、一朝一夕に決断できる問題ではない。構造上、柵を設置できないところには、いかんともできない。
 
あえて誤解を招きそうなことを書こうと思ったのは、この「請願に行く」という行為は、非常にニュースネタになりやすい半面、それだけの巨額な支出を、彼らの人口で、募金も協力条件も何も持たずに要求する権利があるかどうか、疑問に思ったからである。日本では、「障害者」は常に弱者で、聖なる天使で、清く正しく、従って、悪口など到底言ってはならない存在だと扱われている。しかし、資本主義下の民間企業の鉄道会社は、経営を維持し、切符の料金を抑えるため、コスト削減に非常な尽力をしているに違いないのである。この柵の設置費用を賄うため、今、最低料金が110円から130円の切符が、500円や1000円に跳ね上がったら、一般の旅客の不満をどうするつもりなのだ。障害者には、そこまで支出を要求する権利が当然に存在するのであろうか。
私が視覚障害者だったら、外出の際、極力、晴眼者の供をつける。もちろん、常時、供の調達ができ無い場合があるのも承知している。もし供がいない場合は、駅員に、
「私はめくらですので、誰かホームまで介助をしていただけますか」
と丁寧にお願いする。駅員の手が足りないときは、その同じ駅を歩いている人をつかまえ、
「お願いですから私をホームまで連れて行ってください」
と頼みまくる。私は過去に駅で盲人の介助を何度もした経験がある。これは、晴眼者なら、必ずや協力してやらねばならない義務だと確信しているからだ。頼むほうは気後れするかもしれないが、盲人はこういったことなら堂々頼んで良いのだし、こういうことは、頼まれる方がむしろ幸せなのである。逆に言うと、柵の設置を要求する裏には、そういう同伴者が足りないか、盲人が頼みたがらないか、であろう。しかし、すべての人が障害者を介助するのが当たり前の習慣になれば、柵の必要度は極端に減る。
柵があると、他にも、車椅子や、酔っ払いの転落を防止できる、という利点をあげられるかもしれない。しかし、車椅子の人に対してはいま駅員がほとんどホームまで同伴し、電車に乗るときに板を渡す仕事をしているから、今でも大丈夫であろう。酔っ払いに関しては、駅のホームを千鳥足で歩くというのは完全に自己責任の世界であるから、好きで酔っ払って転落した人間には何も言う権利は無い。
盲人の人らは、よく、
「自分らは何でもできる。障害者扱いしないで欲しい」
という。確かに目が見えない以外、体が健康であるなら、その気持ちも分かる。私が知る限りだが、アルプスに登山したり、スキーやマラソンをする盲人がいる。しかし、当然、晴眼者の供がいる。供がいてこそ初めてそういった行動が取れるのに、供への感謝の言葉少なく、まるで一人でやり遂げたかのような態度を取るのが、かねてからずっと不愉快だった。晴眼者の供の人らは、どれほどの努力で盲人に怪我をさせないよう準備するのだろか、と、いつも思う。また、観劇や旅行が好きな盲人もいる。「風景の美しさは肌でわかるんです」と言っていた。
 
だのに、駅のホームの問題となると、なぜ急に障害を前面に押し出し、「弱者」に早変わりするのだろう。
 
例えば、1駅に防護柵の設置をするのが平均いくらくらいかかるか、彼らの団体は把握しているのだろうか。把握したなら、少しでも設置を加速するよう、募金活動でも開始したらどうだ。今回の事故が起こる以前から、ホームに転落する盲人は後を絶たなかったというのに、そういった募金活動はあったのだろうか。仮に、設置費用が1駅5000万円かかるとする。で、「目白駅募金」とでも名づけた募金が、なんとか100万円集まったとする。頑張っても、1駅分の設置費用の50分の1しか集まらないとしたら、「ああ、防護柵の設置って、こんなに大変なんだなあ」と改めて実感できよう。団体で頼みに行くのはタダだが、その後の費用の調達と、夜間の工事(日中は電車が動いているので、設置工事は1〜4時くらいしかできない)については、彼らは全然関知しない。だったら、盲人協会が奮起し、柵がないなら、駅の盲人介助ボランティアでも募集したらいい。そういった活動があるのかないのかわからないが、もししていないとしたら、それすらせずに、ただ莫大な支出を民間企業に強いるのは、エゴ丸出しの気がする。それに、盲人が危ないのは、駅のホームだけではない。普通に道を歩いていたって、溝に落ちたり、車にはねられたり、上から何か落ちてきたり、等、リスクはいくらでもある。盲人が出かけるのはそれだけで十分リスクが伴う行為であるのに、なぜことさら駅のプラットホームにばかり膨大な支出を求めるのだろう。
 
こんな文章を書くと、「視覚障害者を差別している」、と短絡的に考えて怒る人が出るかもしれない。しかし、そうではない。私は右目の視力が極端に悪く、めくら寸前である。人間誰でも明日どういう障害を負うかわからぬ身であることも承知している。要は、他人に物を頼むには、それなりの頼み方というものがあり、そして、膨大な支出を少しでも軽減するために協力できないかまず考えるのがマナーでは、と言うことを言いたいのである。権利ばかり主張する光景は、見良いものではない。
ついでに言うが、マスコミも、障害者を美化しすぎた報道をするのはやめて欲しいものだ。これが不要な言葉狩りにつながり、過去の文芸作品を一方的にお蔵入りさせ、溜飲を下げる輩を増加させる原因の一つとなっている。
 

「俺」と常用漢字

「俺」という字が、やっと常用漢字に加えられた。
「品がない言葉」とか言って、強行に反対した識者(←こういう、常用漢字を選定する「識者」ってどういう人から選ばれるのだろう?)がおり、ずっと見送られてきたらしいが、晴れて、かのNHKさまの字幕でも使えるようになった。
男の子が「ぼく」から「オレ」と言い始めると、成長がうかがえて、ちょっとしたほほえましさすら覚える。これまで、新聞各紙やテレビでは、やむなく「おれ」ないし「オレ」と表記してきたが、「おれ」では何となく間が抜けて見えるし、「オレ」ではなんと言うか、スレたような、はたまた軽薄なような感じを受ける。やはり、漢字で「俺」と書いて、初めてマチュアな男っぽさを感じる。
実は、先ほど述べたNHKさまで初めて字幕でこの字を見たのは、汚沢一郎が他の民主党幹部と会話をしている光景であった。汚沢が、自嘲気味に、
「俺も嫌われているから」
と言ったときに、それがそっくり字幕スーパーで出たのである。はあ、自分でもわかっているんだね。なんか、自嘲気味の悲哀さすらこの「俺」一文字に感じられた。このような思いは、アルファベット26個前後しか字を持たない民族には、そして、一人称が「I」しかない英語民族にも、到底味わえるものではない。日本語、万歳。

少し話がそれるが、これほどまでに男女で一人称が分かれる我が国語であっても、最も丁寧な一人称が「私(わたくし、わたし)」と共通しているのを不思議に思うのは私だけであろうか。

.
アバター
桃実 (Momomi)
女性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!
話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事