天下布ブログ

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訪 問 日:平成20年7月12日(初)
対戦勢力:武田晴信VS小笠原長時・諏訪頼重・木曽義昌・村上義清 
解説板等:解説板、石碑あり(画像参照)
 甲州道中沿いの古戦場&城を順次UPしていきます 

↓まずは瀬沢合戦跡!
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/f5/de/myriver1020/folder/1581958/img_1581958_47834423_0?1241965137


〜瀬沢合戦解説板より 一部修正〜
 瀬沢合戦跡

 瀬沢合戦とは、「甲陽軍鑑」におよそ次のように記されています。
 天文11年(1542年)2月、信濃の小笠原、諏訪、村上、木曽の四大将は、甲斐の武田晴信を攻めようと合議し、甲信国境の瀬沢に陣取りました。
 この動きを察知していた晴信は、密かに軍勢を発し、3月9日の朝、信濃勢の不意をついて攻めかかりました。戦いは辰の刻(午前8時)に始まり、未の刻(午後2時)に終わり、武田軍は信濃勢1621人を討ち取って大勝しましたが、味方にも多数の死傷者を出しました。
 その戦場となったのは、瀬沢を中心に新田原から横吹に及ぶ広い範囲と考えられています。
 江戸時代初期に成立した「甲陽軍鑑」の記述には、実際の年次と合致しない点があり、また、同時代の記録の中には瀬沢合戦のことは見当たりません。しかし、地元には、その伝承と瀬沢合戦があったことを裏付けるものが存在しているのです。
 戦死者の屍は、九つの穴に埋めて塚を造ったと伝えられ、その「九ツ塚」は横吹の西の口、武智川と中山の中間にありました。今では全て失われてしまいましたが、大正時代の初め頃までは甲州から墓参に来る人もいました。
 瀬沢の西照寺(養福院)の境内の笠塔婆と思われる石塔には、「于時天文十三甲辰年三月一日 旦那九人 敬白」と刻まれており、その日付は、瀬沢合戦の三回忌に符合します。
 享保18年(1733年)に作られた「諏訪藩主手元絵図」の瀬沢村図には、今の御別当の地籍に「此所武田信玄公御陣場ト申候」と注記され、立場川を隔てた新田原の地籍に「此所諏訪頼重公御陣場ト申伝候」とあります。
 その一方で、諏訪頼重はトヤヶ峯に布陣し、合戦に敗れて入笠山を越えて逃れたとも云われています。
 そのほか、古戦場を思わせる「おんまわし」と呼ばれる地籍、戦死者の末裔にあたる尼僧が亡霊を鎮めたという「あまんどう」と呼ばれる地籍など、関連する地名が伝えられています。

↓石碑は2パターンあります
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/f5/de/myriver1020/folder/1581958/img_1581958_47834423_1?1241965137

↓全体はこんなカンジ 松が良い雰囲気醸してます^^
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/f5/de/myriver1020/folder/1581958/img_1581958_47834423_2?1241965137

↓オマケ画像 11月に件の「九ツ塚」にも行ってみました
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/f5/de/myriver1020/folder/1581958/img_1581958_47834423_3?1241965137

 瀬沢合戦は、歴史的変則タッグマッチ!でした ( ゜ロ゜)ノ VS (゜ロ゜)(゜ロ゜)(゜ロ゜)(゜ロ゜)

 甲陽軍鑑にのみ記され、兵力比も伝わっていない幻の合戦ですが、拙者は地元の伝承を信じたいです!だって、ロマンがあるじゃないですか^^

 なんたって1VS4の変則タッグマッチですから、判官贔屓で晴信の勝利の史実化を期待してしまいます♪輝かしい栄光の戦史にまた1つチャンピオンベルトが加わることになるんじゃないかと^^
?H1>それに、もしも存在しなかったとすると、大正時代まで墓参に来ていた方々が浮かばれないじゃないですか…(ノ_<。)  拙者は徒歩だったので問題ありませんでしたが、現地はR20のヘアピンカーブ箇所ですので、車で行かれる方はくれぐれもご注意を!駐車スペースがあったかどうかは、記憶が曖昧なので言及できません(-ω-。)悪しからず^^

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閉じる コメント(8)

R20ドリフトですね〜

2009/5/10(日) 午後 11:52 長州人のんた 返信する

よよさん

ドリフト、5人(1vs4)、長さん(小笠原「長」時)とくれば、もうドリフしかないですね( ̄▽ ̄;)
合戦の幕開けは午後8時だったりして(^-^)

2009/5/11(月) 午前 0:55 マイリバ 返信する

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なんか晴信(信玄)の勝ち戦を演出する伝承のような気がします。
父信虎を駿河に追放し日も浅いですから、甲斐国内に信玄のポイントを上げる必要があったのではないかと悲観的に推測してみました。
信濃の小笠原、諏訪、村上、木曽勢力は総力で攻めたとすれば決して侮れない軍事力ですし、小勢力での小競り合いの勝ち戦を誇張?した??ちょっとロマンがないか・・・・・・

2009/5/11(月) 午後 6:34 四国の城郭 返信する

亡霊怖い!南無阿弥陀仏!
世界が平和でありますように!

魚津城がついに落城してしまいましたね。
先日、米沢の林泉寺にて吉江殿の墓所に手を合わせて来ました。

2009/5/11(月) 午後 10:53 ゲンゴロウ〜Diving beetle 返信する

四国さん

なるほど、そう見ますか〜?^^
深謀遠慮の晴信殿ならばあり得ることですな
ただ、塩尻峠の時もそうですけど、小笠原あたりは弱いですからね〜

2009/5/12(火) 午前 0:11 マイリバ 返信する

源さん

500城以上も攻略し、数多の古戦場も駆け抜けていると、「何人か背負っちゃってないかな〜TOT」なんて思うときもありますよ^^
魚津城、壮絶でしたね><
吉江殿の墓所、拙者も3月に参りました
ちゃんと米沢に移しているあたり、景勝&兼続の気持ちが汲み取れますよね

2009/5/12(火) 午前 0:16 マイリバ 返信する

そうですねー。有った、と信じたいですねー。
記録・資料等も大事ですけど、地元の伝承も大事ですよね。

2009/5/13(水) 午後 11:13 [ mat**u_p*pa ] 返信する

マッツゥさん

伝承にのみ残された合戦って、逆に興味惹かれますよね♪
殆ど甲州道中沿いですし、地形的にも「あってもおかしくないな」と思います(^-^)

2009/5/14(木) 午後 0:41 マイリバ 返信する

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