訪 問 日:平成20年7月5日(2回目)平成21年5月30日(3回目) 主な城主:岩井信能(上杉氏家臣) 解説板等:解説板、石碑、標柱あり(画像参照) 詳しい地図で見る ↓昨日は上越→飯山→諏訪と日帰りで攻めてきましたw(°0°)w 昨日は更新できませんでしたが、取れたての飯山城UPします! 〜飯山城解説板・石碑より 一部修正〜 飯山城跡 この地は、東は千曲川に沿い、西は関田・斑尾の山地に囲まれ、信濃から越後への軍事・交通の要地でした。城は独立丘陵を削りならして構築した平山城で、梯郭式に本丸・二ノ丸・三ノ丸が南北に連なり、その西側は帯郭・西郭・外郭が構成され濠が巡らされていました。 本丸の南面は特に防備を固め、濠は広く、土塁は高く、急斜面で守られていました。東・北・西の三面は、直立に近い石垣が築かれ、本丸・二ノ丸・三ノ丸には城主の居館・政庁・城櫓があり、西郭には重臣の屋敷、濠外には家中屋敷・公共施設があり、その外側には城下町が発達していました。 この城は元々は常盤牧の泉氏の居城で、後に上杉謙信が領有し、数度に亘る甲越合戦の教訓から、春日山防衛のための信州における拠点として、永禄7年(1564年)頃から謙信の創意の縄張が施されました。 謙信亡き後、上杉景勝は、山口城主であった岩井備中守信能を城代に命じて、本格的に整備を図りました。信能は、城下町の形成に尽力し、有尾の長者と言われた清水大炊介らを起用し、今日の飯山町の基礎を築きました。 慶長3年(1598年)の上杉氏の会津移封後は、関・皆川・堀・佐久間・松平・永井・青山・本多の諸氏が交替して城主となりました。↓車を降りてスグ、市民会館の東側と南側に土塁発見!(゚∀゚) 飯山城の紹介というと普通はココまでですが、今回は英岩寺にも寄りました ↓ここには上杉謙信の股肱の臣・鬼小島弥太郎殿のお墓があります(ノ_・。) 〜鬼小島弥太郎の墓〜 上杉謙信の臣・小島弥太郎は、その武勇のために「鬼小島」と称せられていました。 永禄4年(1561年)9月10日の川中島の大激戦は、前半は上杉軍が有利に戦を進め、後半は武田軍が優勢に変わり、謙信は主従数騎にて逃れ、安田の渡しに差し掛かりました。 伝承によれば、この時、謙信に従う者は小島弥太郎だた一騎であったと云われています。 千曲川を渡った謙信主従は、追手を遮るために渡し綱を切って落とし、市ノ口から小佐原に差し掛かりましたが、弥太郎は前日来の深傷に耐えかね、主君の無事を祈りながら、割腹して果てました。 鬼小島弥太郎の最期の地は、後年「鬼が峯」と呼ばれるようになったと伝えられています。 この小島弥太郎の墓は、鬼が峯と数百mを隔てる英岩寺墓地に文禄4年(1595年)に弥太郎ゆかりの者によって建てられたものと考えられています。更に飯山城から南に2つ目の橋「綱切橋」にも行っちゃいました なんたって、再々訪ですからね^^ ↓ココも上杉謙信ゆかりの地なんです(≧∇≦)b 〜綱切橋の由来〜 越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄は十年に亘る争いを一挙に決するべく、永禄4年(1561年)9月10日に信州・川中島に対峙しました。 戦記によると、この戦は前半は上杉方が優勢、後半は武田方の挟撃に遭って上杉方が不利になったと伝えられています。乱戦の中、散り散りになった上杉方は、態勢を立て直す暇もなく敗走しました。 大将である謙信も主従わずかに数騎にて、高井の高社山を左に見て漸く千曲川安田の渡しに差し掛かりました。 当初、謙信は日頃から信仰する小菅神社に入ろうとしましたが、里人の忠告に従って、渡し舟に乗り千曲川を渡りました。この時、川西に張り渡した渡し綱を切って落としたため、追手の追跡を逃れて難なく春日山に帰り着くことができました。これ以来、この渡しを「綱切りの渡し」と呼ぶようになったと云われています。 現在の綱切橋は、川中島戦史を彩る綱切りの渡しの跡です。 昨年も再訪した飯山城ですが、画像が足りないため再々訪してきました。 何の画像が足りなかったのか?というと、英岩寺と綱切橋は初訪問でしたので、新たに撮影の必要があったのですが、何といっても本丸石垣、この画像が昨年は写せなかったんです(ToT) 「何故、そんなメインの被写体を写さなかったのか?」とお嘆きの貴兄もいらっしゃることと思いますが、ちゃんとした理由があるんです。 実は、飯山城跡は飯山北高校からも近く、昨年の再訪時には本丸の石垣上で制服姿の男女が凄く楽しそうに語らっていたのですLOVE~(^▽^(^▽^*)~LOVE 正しきキャッスルハンターとして、そんな場面にカメラを向ける(>[◎]oような不粋な真似はできず、「一通り城跡を見て、もう一度戻ってこよう」と思い、南中門跡や城門、石碑等を撮影して再び、本丸に戻りましたが、件の高校生は一向に立ち去る気配なし…(>ω<) 結局、2人の邪魔をして馬に蹴られてしまうよりは、矛じゃなかった、カメラを収めることを選択し、捲土重来を期して撤退しました。まあ、近いといえば近いですからね^^ そんな石垣とともに、飯山城のメインターゲットになる城門ですが、城内にあった門なのか、上級武士の屋敷の門なのか不明なのだそうです。オマケに、城下の丸山家の長屋門であったものを解体し、南中門の遺構のサイズに合わせて今の姿に創り上げたというのですから、「『現存』部材を用いて『復元』した限りなく『模擬』っぽい門」なのでした(≧▽≦ ) 要するに、いわゆるマガイ門ってことで…( ´,_ゝ`)ここにも「天地人」の幟が立てられていましたが、上杉軍の最前線基地であり、武田家滅亡後は織田家の森長可が飯山城に入り、魚津城の戦いの際には、後詰に出撃した上杉景勝の隙を狙い、春日山城まで約25kmに位置する関山まで兵を進めたりしているので、こちらは「マガイモン」という訳ではありませんね^^ |
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おぉ、ここは私が愛車を購入した記念に一番最初にドライブした記念の場所じゃないですか! まだ一年も経っていないのに、とても懐かしい気がします。
愛を語らっていた2人、今も兼続とお船のように仲良くしてるといいですね(笑)。
2009/5/31(日) 午後 11:54
JFKさん
そのような思い出の場所だったとは!しかも1年も経っていないなんて、ひょっとして行ったのは昨年の7月5日(拙者の再訪日)では?^^
御両人には、幸せになって欲しいですが、ひょっとすると、「愛」ではなく歴史談義に興じていたのかも…
2009/6/1(月) 午前 1:29
高校生恐るべしですね。
LOVE高校生が籠城していては、なかなかの要害となり難攻不落になってしまいますか・・・・・
2009/6/1(月) 午後 7:46
やっぱ石垣でしょ〜
2009/6/1(月) 午後 10:22
取れたて記事で5000字。内容が詰まってますね^^
>門前の自転車、いつ来ても停まってるな〜
ってありますが、写真を撮るときに横に寄せて良いのか迷いますよね。私は小心者なのでそのままにして撮る事にしています^^;
2009/6/1(月) 午後 11:16
四国さん
これが戦国時代の出来事であれば「マイリバ軍の進攻から飯山城を救った若者」なんて民話として語り継がれていたかもしれませんね(^-^)
2009/6/2(火) 午前 11:36
よよさん
ココは石垣がなきゃ、話しになりませんからね^^
再々訪は義務でした
2009/6/2(火) 午後 0:35
ともひでさん
再々訪ですし、「どうせなら・・・」と英岩寺や綱切橋まで見て来ちゃいました(^-^)v
あの自転車、初訪の時の写真と再訪の時の画像にもキッチリ写ってます(+_+)
よく解釈すれば、城門手前で下馬しており、なかなか礼節を重んじるモノノフの持ち物なのかもしれませんね(^^)
2009/6/2(火) 午後 0:42
上杉家ゆかりの地でも、その後の城主はかなり変わってしまってる。でも、上杉家ゆかりの地という伝承はうれしいですね♪
2009/6/2(火) 午後 7:02
ひさにゃんさん
そういう城って多いです。上田城と真田氏とか小田原城と北条氏とか…
どれだけ民衆に愛されてるかがカギなのでしょうね^^
2009/6/3(水) 午前 0:19
この辺りは、ぜんぜん攻略して無いなぁ〜〜
石垣も門もあって、整備されてる良い城ですね
それにしても、門前の自転車 残念ですよね〜〜
2009/6/3(水) 午前 8:31
飯山城 こんな感じなんですね。
この辺りスキーで訪問することはあったのですが。
勉強になりました。
2009/6/4(木) 午前 6:11 [ mat**u_p*pa ]
この城門って推定復元された門ですね。
民家に移築門あった気が…あれは飯田城の方でしたね(;^ω^A
同じ「飯」だったので…^^
2009/6/4(木) 午後 10:38
おしょうさん
拙者は信州得意なんです♪
ブログ始める前に500城近く攻略しているうち、実に36城が信州の城でした^^
あの自転車は、ひょっとすると毎日弓道場に通っている人が乗ってきているのかもしれませんね!
2009/6/5(金) 午前 0:16
マッツゥさん
石垣とマガイ門が見所です♪
ここ3シーズン、スキーには行っていません(TnT)
通算99スキー場で足踏み状態ですorz
2009/6/5(金) 午前 0:18
るなさん
推定というか…マガイ門です^^
「飯田の赤門は民家ではないよな〜」っと思って調べたら…二の門っていうのが、民家に移築されてますね〜
木曽・伊那も今年中に再訪しますよ〜♪
2009/6/5(金) 午前 0:22
綺麗に桝形虎口が残っているんですね。(紛いモン?)
飯山は近い?から登城したいと思っている城です。☆
2009/6/7(日) 午後 6:34
鬼児嶋弥太郎公のお墓は、越後長岡の龍穏院にもありますが、どちらが本物なんでしょう?
戦士地も栃尾城の城下にあるのですが・・・
2009/6/7(日) 午後 6:48
源さん
虎口の「U」は出来過ぎのような気がしないでもありませんね^^
飯山城は100のコレクションに是非、お加えくだされ!
2009/6/8(月) 午前 0:30
源さん
綱切橋のエピソードには、鬼小島ではなく「和田喜兵衛」という名が出てくる説もあります
龍穏院には位牌もあるみたいなので、オフィシャルはそちらなのではないでしょうか??
2009/6/8(月) 午前 0:35