tontonの癒しのフォト&音楽日記・CRPSと友(共)に

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9/13 みなとみらい夜景

みなとみらい夜景 地上より


前回の記事の続きです ★ 音楽は手動に変えました きらきら星変奏曲



モーツァルト・キラキラ星変奏曲 みなとみらい   夜景地上より
↑↑↑をクリックすると、自作のほかの作品も見れますので、良かったら、見てくださいね♪


大桟橋より、綺麗な夕焼け、奇麗な夜景を見てから、約2時間大桟橋にいましたが、下りてきました  

写真をいっぱい撮ってきました

何度行っても飽きない所です。

いつも同じようなパネルだけど、その時によってまた感じが違っていました

パネルの所ではデートするカップル、友達同士で笑ったり、楽しそうにしていましたね♪

今日は、ちょっと、音楽を今までとは変えてみました




子供から大人まで知っている、「きらきら星」です

モーツアルトが作曲した、「きらきら星変奏曲」

モーツァルトの曲は細かい繊細な指使いをするのが特徴で、楽譜はほんと、細かい♪がいっぱい並んでいます

軽やかな曲が多いかと思います

このモーツァルトの曲は胎児の時から生まれた赤ちゃん、そして、年配になられても、脳が活性化して

賢くなる、感性豊な子供になる・・・といわれています

ぜひ、お子様がいらっしゃる方、子供さんと一緒に聴いてくださいね

そして、今現在、妊娠しておられる方も、お腹の子に聴かすと、きっと胎教に良いと思います♪


★夜景を見ながら、楽しく、心も軽やかになってもらえれば嬉しいです

イメージ 1

☆ 写真はクリックすると大きくなります

イメージ 2



写真撮影&編集&加工 : tonton

Canon EFS 18-55 レンズ使用


次回は本命の 9/13 に来航した、『 飛鳥2号 』 をUP予定しています

夜景はまだ、その後もつづきます♪

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モーツァルト   Wolfgang Amadeus Mozart (1756―91)


オーストリアの作曲家。西洋音楽の歴史が生んだ最大の大家の1人。

1月27日、ザルツブルクに生まれ、91年12月5日、ウィーンに没する36年にわずかに満たない短い生涯に、

数多くの名曲を残した。

父レオポルトJohann Georg Leopold M.(1719―87)はザルツブルク大司教の宮廷楽団のバイオリン奏者

(のち副楽長)で、作曲家としても活躍。また三男四女の末子ウォルフガング誕生の年に著した

『バイオリン奏法』は、その分野の古典的文献である。


1. 幼・少年期―1773年まで



幼少時から父親によって天才教育が施されたモーツァルトは、すでに5歳のとき最初の作品を書いたと

いわれる。

しかし、こうした最初期の作品はほとんど父の書いた原稿の形で伝わっており、

それらにおいて父親が果たした役割は推測の域を出ない。

父レオポルトは息子を音楽に関心の深い人々の前で披露し、名声を得ようとし、また同時に、

多くの刺激を息子に与えて、その実りの豊かな発展を期待した。

たいていはこうした目的で企てられたたび重なる旅行が、彼の生涯を彩っている。

延べ日数にするとその旅行は10年以上にも及び、生涯の4分の1以上が旅の間に過ぎていったといえる。

ことに1770年代までに行われた相次ぐ旅行は、当時ヨーロッパの各地でそれぞれ独自に展開していた

音楽を吸収する絶好の機会となったし、その影響が刻々と変化するさまは、

その作品にはっきりと跡づけることができる。

しかしもちろん、こうした少年時代からの肉体的な消耗が、早逝の遠因をつくったことも

否めないであろう。

また、こうした数多い旅の間に家族と取り交わしたおびただしい手紙が、彼の生活ぶりや考え方、

作品成立の事情、また18世紀後半の音楽情況などをよく伝えてくれる。



6歳の誕生日の前後に行ったミュンヘンへの24日間の旅行が最初のものであったが、

このときに関してだけ記録が残っていない。

翌1763年6月(7歳)に開始されたパリ―ロンドン旅行は、66年11月(10歳)までの3年半近くにも及び、

生涯で最大の旅行であった。

音楽の重要な中心地を巡りながら、各地の宮廷で演奏し、教会でオルガンを弾き、道中や仮住まいの家

で作曲をする、という旅であった。


ミュンヘンをはじめとするドイツ各地を経て、出発から5か月すこしたってパリに到着、

5か月滞在する。

同地で活躍するショーベルトJohann Schobert(1735ころ―67)らドイツ人作曲家たちの影響を受け、

バイオリン・ソナタを作曲、この作品集の刊行(1764・パリ)が彼の最初の出版となる。

続いて65年7月までロンドンに15か月滞在するが、

とくにここではヨハン・クリスチャン・バッハ(J・S・バッハの末子)と一家をあげて

親しくつきあった。

こうして、かつてミラノにいたJ・C・バッハを通じて、当時の音楽界をリードしていたイタリア様式

を学んだ。

その成果が初めての交響曲創作(6曲、うち2曲は消失。

K19aと番号をつけられた1曲は長らく失われていたが、1981年に再発見された)として現れている。

その後約15か月をかけてオランダ、ベルギー、フランス、ドイツ各地を巡って、ザルツブルクに戻った特

貴族から贈られた多くの金輪時計、小箱などを手にしていた。

約9か月を故郷に過ごすが、その間の1767年初めには最初の劇作品である宗教劇『第一戒律の責務』、

ラテン語喜劇『アポロンとヒアキントス』が書かれた。

同年9月ウィーンへ出発、15か月滞在。

その間にオペラ・ブッファ『ラ・フィンタ・センプリーチェ(みてくれのばか娘)』、

ジングシュピール『バスティアンとバスティエンヌ』、最初のミサ曲『荘厳ミサ曲ハ短調』(K47a)、

6曲の交響曲などを作曲した。


69年はほとんど故郷で過ごし、ミサ曲ハ長調(K66)、その他短い宗教音楽、実際踊られるための

メヌエット集、オーケストラのためのセレナーデなどを作曲、

10月にザルツブルクの大司教宮廷のコンサートマスターに任命された。



1769年12月中旬に初めてのイタリア旅行に出発、約15か月滞在。

イタリアにはその後71年8月から4か月、72年10月から4か月と、計3回旅行している。

イタリアでは主としてオペラ(『ポントの王ミトリダーテ』『アルバのアスカニオ』

『ルチオ・シッラ』)、8曲の交響曲、6曲の弦楽四重奏曲、

オラトリオ『救われしベトゥーリア』などを書いたが、

いずれもイタリア様式の新鮮な影響が濃く映し出されている。

第2回と第3回イタリア旅行の間約10か月ほどザルツブルクの自宅で過ごしたが、この間に、

これまでモーツァルト父子がたびたび提出する休暇願につねに寛大であったザルツブルクの

大司教シュラッテンバッハ伯ジギスムントが世を去り、後任はコロレド伯ヒエロニムスとなった。

その就任祝いのために劇的セレナータ『スキピオの夢』を書いて上演するかたわら、

8曲の交響曲を作曲している。



2. 青年期―1773年から81年まで




第3回イタリア旅行から戻って1773年3月から4か月ザルツブルクに落ち着いていた間には、

4曲の交響曲、3曲のセレナーデないしディベルティメント、ミサ曲ハ長調(K167)を作曲。

しかし、ザルツブルクという小さな町の、大司教を中心とした音楽生活に明るい見通しをもたなかった

父子は、同年7月から2か月間ウィーンを訪れ、就職口を探した。

就職の面ではよい成果が得られなかったものの、この旅行は新しいウィーンの音楽

(ハイドン、ガスマンら)を十分に吸収する役目を果たし、彼の作品に新風が吹き込まれた。

そうした影響をよく示すものに6曲の弦楽四重奏曲(K168〜173)がある。



1773年9月末から翌74年12月までの1年2か月をザルツブルクで送るが、この時期に書かれたいくつかの

作品は、神童から大作曲家への転換がおこりつつあることをよく示している。

初めての短調交響曲(ト短調・第25番。1773.10)や次のイ長調の交響曲(第29番。1774.4)などが

その例である。

しかし同時に、このころから新大司教の政策がはっきりと打ち出されるようになり、モーツァルトの

創作活動にも大きな影響を及ぼすことになる。

旅に出て職務をなおざりにすることは制限されるようになったから、ザルツブルクでより多くの時間を

使うことになり、いきおい、同地の音楽生活と密着した作品が数多く生み出されるようになった。

その一つは教会音楽であり、しかも礼拝音楽の簡素化を求めた大司教の意向によって、

いわゆる略式ミサ(ミサ・ブレビス)が多く書かれた。

一方、ザルツブルクの大学や貴族とかかわりの深い、軽い器楽曲や各種の協奏曲なども

この70年代中盤に多く作曲された。唯一の例外は、オペラ作曲の依頼を受け、『偽りの女庭師』上演の

ために74年暮れにミュンヘンに行ったことである。

その3か月の滞在中に当地での就職の可能性を探るが失敗。

現存する最初の6曲のピアノ・ソナタはこの時期に成立している。

請願書を出してようやく彼だけが旅行を認められ、1777年9月、母親と2人でマンハイム―パリ旅行へ出発。

約16か月に及ぶこの旅行も、彼の音楽様式の発展に大きな影響を与えた。

ピアノ・ソナタ、バイオリン・ソナタ、フルートのための協奏曲や四重奏曲、交響曲ニ長調(「パリ」第31番)

などにそれはよく現れているが、この旅行でも目的としたよい就職口はみつからず、

結局79年1月にザルツブルクに戻った。

帰郷後、宮廷オルガニストの職を得た彼には、一見平穏な宮廷音楽家としての日々が続くが、

80年11月にミュンヘンからふたたびオペラ『クレタの王イドメネオ』の依頼を受け、その上演のため

赴いた旅行は、彼の生涯において決定的なものとなった。

6週間の予定の休暇がすでに4か月にもなって、当時首都ウィーンに滞在中であった大司教に呼びつけられて

叱責(しっせき)を受けたことをきっかけに、ついに81年5月に辞表を提出した。

その後、大司教の部下に足蹴(あしげ)にされる事件も起こり、そのまま、だれにも雇われない

自由な音楽家として、ウィーンに居着いてしまった。





[執筆者:大崎滋生]参考





以下、続きは次回にて。。。


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