tontonの癒しのフォト&音楽日記・CRPSと友(共)に

いつも沢山の方のコメントありがとう。ゆっくりペースですが、訪問優先とさせてくださいね

音楽

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自作のショパン・ノクターン第1番 天保山 夕景 が自動で流れます。
音量やや小さめですので調節してくださいね


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今日、3月1日はショパン生誕200年です 我が家の長男25歳の誕生日も同じですヾ(~∇~;)コレコレ




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ピアノの詩人ショパンは、果たしてどのような生き方をした人なのか?どのような人だったのか?

ショパンの生涯は、しばしば「波乱に満ちた」とか「不幸」などといった形容がなされることが

しばしばあるように、決して幸せに満ち足りたものではなかったようです。

愛する祖国ポーランドを出国という形で後にし、実りなき不幸な恋愛、破局という辛い経験、

当時不治の病だった肺結核との闘いの末、祖国ポーランドに帰国する夢も叶わず、

わずか39年の短い生涯を閉じました。



あまりにも繊細で美しい珠玉のピアノ名曲を残した天才作曲家、

ピアノの詩人がこのような不幸な生涯を送ったという運命に大きな悲しみと

報われない気持ちを持つのは私だけではないと思いますが、

そういう生涯を送ったショパンだったからこそ、ショパンの音楽には私たちの心を激しく揺さぶる

強い力が宿っているのかもしれません。


詳しくは下にリンク案内しています


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勝手に紹介しました (ё_ё)キャハ





長男も5歳からピアノを習っていましたが、中学で辞めて、そのピアノを弾く指は

今では、パソコンに活かされています

家では、PC3台同時に立ち上げ、魔法のように3台にキーを打ち込みます

こんなために習っていたのではなかったのですけどね。。。ヾ(;´▽`Aアセアセ





  ↑
自作の動画を使いました





この曲は思い出深い、発表会で弾いたことのある曲です。めっちゃ、難しいです(汗)
       ↓  動画、お借りしました

Chopin Fantasie Impromptu ショパン 幻想即興曲

街を歩きながら....









ちょっと、色々と落ち着いて来ましたので、また前のように、訪問もさせて頂きます





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lionel richie-say you say me

★今日の感動したこと 見てくださいね♪★

今日、ひさしぶりにTVを見た。

そしたら、偶然に昔、好きだったライオネルリッチがなんと、「ヘイヘイヘイ」の番組に出ていた。

昔よりは年を重ねていたが、やはり、この歌は名曲



結婚した年に25年前、大阪城ホールにコンサートに行った

確かあの当時で15000円くらいしたと思う。

でもなかなか、見れる、生で聴ける機会がないと思い、DANNAと行った

臨場感あふれるステージに酔い、帰りにホテルオオタニのラウンジで

またジャズ生ライブを聴いて帰ったことを思い出した









今日はすごく感動しました♪

tontonはいつもクラッシックばかり出しているので、他は聴かないと思われているかもしれないけど

本当はジャズ、バラードも大好きなんですよ


それも1980年代のダイアナロス、マイケルジャクソン、スピーディワンダー、等々

その当時のレコードやCDも一杯持っている

何か、青春時代を思い出したような感じだった。今日はラッキーでした♪


PS
若きころに好きだった人ばかりが集まって歌った「We Are the World 」

もう2度と、この同じメンバーで歌うことができなくなってしまった曲

マイケルが亡くなってしまったので、もうこのメンバーでの歌は永遠のものになってしまった





Wolfgang Amadeus Mozart (1756―91)


前回の続き

3. ウィーン時代―1781年以後


1781年後半から生涯を閉じるまでの10年半の月日は、オペラを上演し、各種の演奏会に出演し、

弟子をとり、楽譜を出版するなどして生計をたててゆくという、近代的な音楽家の生活を実践したのである。

また82年8月には、マンハイム時代に恋愛関係にあった歌手アロイジア・ウェーバーの妹コンスタンツェと、

父の反対を押し切って結婚している。

しかもこの時期には、彼の創作を代表する数々の傑作が生み出されている。

オペラの分野では『後宮からの逃走』(1782)、『フィガロの結婚』(1786)、

『ドン・ジョバンニ』(1787)、『コシ・ファン・トゥッテ』(1790)、『魔笛』(1791)、

『ティトゥス帝の慈悲』(1791)などの、今日世界中のオペラ劇場の演目として定着している諸作品が書かれ、

交響曲の分野でも「第35番」以後のもっともポピュラーな6曲、弦楽四重奏曲では「ハイドン・セット」

とよばれる6曲(1782〜85)を含む、いずれも質の高い10曲が書かれた。

また教会音楽家としての職務からも解放されたので、いずれも未完に終わったミサ曲ハ短調とレクイエム、

そして数少ない小規模な宗教音楽を除けば、この種の音楽は書かれなかった。

それとは対照的に、この時代の彼の生活をよく示しているのが、17曲に及ぶピアノ協奏曲である。

これらは、自ら主催する自作自演の演奏会が自活のための重要な手段であったことを物語っている。

とくに85年の「第20番」以後の7曲は、この分野における歴史上最初の頂点を形成している。

またザルツブルクの音楽生活と関係の深かったディベルティメント、セレナーデ、カッサシオンといった

ジャンルは減り、かわってメヌエット、ドイツ舞曲、コントルダンスといった、

実際に踊られるためのおびただしい舞曲が書かれた。ウィーンの音楽要求にこうした形でこたえることは、

定収のない作曲家としてはやむをえないことであった。

ウィーン時代のその他の際だった事件としては、当時流行していた秘密結社フリーメーソンへの加入

(1784)があげられる。

これは彼の創作や思想に少なからぬ影響をもったし、実際にこの団体のために音楽をいくつも書いている。



1780年代の前半から中盤にかけて、ウィーンでの新しい生活も順調に運び、父との再会のため

約4か月ザルツブルクに旅行した以外にはウィーンを離れなかったが、87年から、3度にわたるプラハ旅行、

ベルリンおよびフランクフルト訪問といった短期間の出稼ぎ旅行が目だっている。

これは、ウィーンでの活動に陰りがみえ始めたことを反映していると思われる。

このころから借金申込みの手紙も多くなり、経済的に逼迫(ひっぱく)していったことがうかがわれるが、

記録に残されている彼の収入は驚くほど多く、今日も借財の理由は明らかになっていない。

そして91年の秋から健康がしだいに衰え、11月20日病床に伏し、12月5日、息を引き取った。

葬儀は翌日、シュテファン大聖堂内部の十字架小聖堂で行われたが、最後まで遺体に付き添った者が

いなかったため、共同墓地に埋葬され、遺骸(いがい)は行方不明となった。

現在、聖マルクス墓地にある墓には遺骨は埋められておらず、ウィーン中央墓地にもベートーベンと並んで

記念碑が立てられている。



4. ケッヘル番号


モーツァルトの残した作品は声楽、器楽にわたりきわめて多く、これをケッヘル番号

(KとかK・Vと略記)でよぶことが一般化している。

これは1862年にオーストリアの植物学者・音楽研究家のケッヘルが作成した『モーツァルト作品目録』に

端を発している。

作曲年代順に通し番号をつけたこのカタログは、その後何度もの改訂を受け、曲によっては二重番号が

付されて煩雑なものになっているが、研究の進展により、今日なお再度の改訂が必要である。

[ 執筆者:大崎滋生 ]参考



モーツァルト年譜



ザルツブルクに生まれる




1756 1月27日 午前8時ザルツブルクに誕生

1761 (5歳) 最初のクラビア作品を作曲

1762 1月最初 ミュンヘン音楽旅行(24日間)

9月 父に連れられ、第1回ウィーン旅行(約4か月)。

10月13日 シェーンブルン宮殿で御前演奏。皇女マリ・アントアネットに求婚したというエピソ ード

1763 6月9日 パリ―ロンドン旅行(約3年半)



『クラビアとバイオリンのためのソナタ』




1764 最初の出版作品『クラビアとバイオリンのためのソナタ』。

4月 イギリスに渡り、J・C・バッハと知り合う

1765 腸チフスにかかる

1767 9月11日 第2回ウィーン旅行(約15か月)。

10月 天然痘になる

1768 ジングシュピール『バスティアンとバスティエンヌ』

『荘厳ミサ曲ハ短調』(通称「孤児院ミサ」)



第1回イタリア旅行



1769 10月 ザルツブルクの大司教宮廷のコンサートマスターに就任(無給)。

12月13日 第1回イタリア旅行(約15か月)

1770 4月11日 ローマ到着。サン・ピエトロ大聖堂の秘曲を採譜したというエピソード。

6月 教皇クレメンス14世より黄金拍車勲章を受ける。

12月26日 オペラ『ポントの王ミトリダーテ』ミラノ初演

1771 8月13日 第2回イタリア旅行(約4か月)

1772 8月 ザルツブルクで有給のコンサートマスターとなる。

10月24日 第3回イタリア旅行(約4か月)

1773 3月 イタリアでの就職活動に失敗し、帰郷。

7月14日 第3回ウィーン旅行(約2か月)。

弦楽四重奏曲第8〜13番(通称「ウィーン四重奏曲」)。交響曲第25番

1774 4月 交響曲第29番。

12月6日 オペラ『偽りの女庭師』上演のためミュンヘンへ赴く(約3か月)


母とマンハイム―パリ旅行



1777 8月 ザルツブルク宮廷への休暇願受理されず、彼自身による辞職願提出。

9月23日 職を求め、母とマンハイム―パリ旅行(約16か月)。

アウクスブルクで従妹マリア(ベーズレ)と知り合う

1778 1月 マンハイムで写譜家ウェーバーの次女アロイジアに恋。

3月 父の叱責にあい求職のためパリへ。6月交響曲第31番「パリ」パリ初演。

7月 求職果たせず。母死去。

8月 父によるザルツブルク宮廷への復職運動成功

1779 1月 宮廷オルガニストとして復職。3月ミサ曲ハ長調「戴冠式ミサ」

1780 11月5日 オペラ『クレタの王イドメネオ』上演のためミュンヘンへ出発



ウィーン定住




1781 1月29日 同オペラ、ミュンヘン初演。5月9日帰郷問題をめぐって大司教と決裂。

宮廷オルガニスト辞職。

8月 ウィーン定住を決意し、ウェーバー家のそばに転居。同家の三女コンスタンツェに恋

1782 7月16日 ジングシュピール『後宮からの逃走』ウィーン初演。8月4日コンスタンツェと結婚。




交響曲第35番「ハフナー」


1783 10月26日 ザルツブルク聖ペテロ教会でミサ曲ハ短調(未完)初演。

ウィーンへの帰途、交響曲第36番「リンツ」

1784 3月 彼主催の予約演奏会で、毎回新作のピアノ協奏曲を発表するなど演奏活動盛ん。

12月 秘密結社フリーメーソン入団



ピアノ協奏曲第20番、「ハイドン・セット」、『フィガロの結婚』




1785 ゲーテの詩による歌曲『すみれ』。

ピアノ協奏曲第20〜22番。

9月 ハイドンに弦楽四重奏曲第14〜19番(通称「ハイドン・セット」)献呈

1786 2月7日 後世にその関係が話題となった作曲家サリエリとの初めての競演。

5月1日 オペラ『フィガロの結婚』ウィーン初演。

交響曲第38番「プラハ」。弦楽四重奏曲第20番。ピアノ協奏曲第23〜25番

1787 5月 父死去。

8月 セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」。

10月20日 オペラ『ドン・ジョバンニ』プラハ初演。12月ウィーンの宮廷作曲家就任



三大交響曲、第39番、40番、41番「ジュピター」



1788 6月 経済的に困窮し、知人に借金依頼の手紙を書く。

交響曲第39番、40番、41番「ジュピター」。ピアノ協奏曲第26番「戴冠式」

1789 4月 ベルリン、フランクフルト訪問。

7月 妻病気になり、経済状態さらに悪化。弦楽四重奏曲第22番。

クラリネット五重奏曲「シュタトラー」

1790 1月26日 オペラ『コシ・ファン・トゥッテ』ウィーン初演。弦楽四重奏曲第22番、23番

1791 12月5日 モーツアルト 逝去









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モーツァルト   Wolfgang Amadeus Mozart (1756―91)


オーストリアの作曲家。西洋音楽の歴史が生んだ最大の大家の1人。

1月27日、ザルツブルクに生まれ、91年12月5日、ウィーンに没する36年にわずかに満たない短い生涯に、

数多くの名曲を残した。

父レオポルトJohann Georg Leopold M.(1719―87)はザルツブルク大司教の宮廷楽団のバイオリン奏者

(のち副楽長)で、作曲家としても活躍。また三男四女の末子ウォルフガング誕生の年に著した

『バイオリン奏法』は、その分野の古典的文献である。


1. 幼・少年期―1773年まで



幼少時から父親によって天才教育が施されたモーツァルトは、すでに5歳のとき最初の作品を書いたと

いわれる。

しかし、こうした最初期の作品はほとんど父の書いた原稿の形で伝わっており、

それらにおいて父親が果たした役割は推測の域を出ない。

父レオポルトは息子を音楽に関心の深い人々の前で披露し、名声を得ようとし、また同時に、

多くの刺激を息子に与えて、その実りの豊かな発展を期待した。

たいていはこうした目的で企てられたたび重なる旅行が、彼の生涯を彩っている。

延べ日数にするとその旅行は10年以上にも及び、生涯の4分の1以上が旅の間に過ぎていったといえる。

ことに1770年代までに行われた相次ぐ旅行は、当時ヨーロッパの各地でそれぞれ独自に展開していた

音楽を吸収する絶好の機会となったし、その影響が刻々と変化するさまは、

その作品にはっきりと跡づけることができる。

しかしもちろん、こうした少年時代からの肉体的な消耗が、早逝の遠因をつくったことも

否めないであろう。

また、こうした数多い旅の間に家族と取り交わしたおびただしい手紙が、彼の生活ぶりや考え方、

作品成立の事情、また18世紀後半の音楽情況などをよく伝えてくれる。



6歳の誕生日の前後に行ったミュンヘンへの24日間の旅行が最初のものであったが、

このときに関してだけ記録が残っていない。

翌1763年6月(7歳)に開始されたパリ―ロンドン旅行は、66年11月(10歳)までの3年半近くにも及び、

生涯で最大の旅行であった。

音楽の重要な中心地を巡りながら、各地の宮廷で演奏し、教会でオルガンを弾き、道中や仮住まいの家

で作曲をする、という旅であった。


ミュンヘンをはじめとするドイツ各地を経て、出発から5か月すこしたってパリに到着、

5か月滞在する。

同地で活躍するショーベルトJohann Schobert(1735ころ―67)らドイツ人作曲家たちの影響を受け、

バイオリン・ソナタを作曲、この作品集の刊行(1764・パリ)が彼の最初の出版となる。

続いて65年7月までロンドンに15か月滞在するが、

とくにここではヨハン・クリスチャン・バッハ(J・S・バッハの末子)と一家をあげて

親しくつきあった。

こうして、かつてミラノにいたJ・C・バッハを通じて、当時の音楽界をリードしていたイタリア様式

を学んだ。

その成果が初めての交響曲創作(6曲、うち2曲は消失。

K19aと番号をつけられた1曲は長らく失われていたが、1981年に再発見された)として現れている。

その後約15か月をかけてオランダ、ベルギー、フランス、ドイツ各地を巡って、ザルツブルクに戻った特

貴族から贈られた多くの金輪時計、小箱などを手にしていた。

約9か月を故郷に過ごすが、その間の1767年初めには最初の劇作品である宗教劇『第一戒律の責務』、

ラテン語喜劇『アポロンとヒアキントス』が書かれた。

同年9月ウィーンへ出発、15か月滞在。

その間にオペラ・ブッファ『ラ・フィンタ・センプリーチェ(みてくれのばか娘)』、

ジングシュピール『バスティアンとバスティエンヌ』、最初のミサ曲『荘厳ミサ曲ハ短調』(K47a)、

6曲の交響曲などを作曲した。


69年はほとんど故郷で過ごし、ミサ曲ハ長調(K66)、その他短い宗教音楽、実際踊られるための

メヌエット集、オーケストラのためのセレナーデなどを作曲、

10月にザルツブルクの大司教宮廷のコンサートマスターに任命された。



1769年12月中旬に初めてのイタリア旅行に出発、約15か月滞在。

イタリアにはその後71年8月から4か月、72年10月から4か月と、計3回旅行している。

イタリアでは主としてオペラ(『ポントの王ミトリダーテ』『アルバのアスカニオ』

『ルチオ・シッラ』)、8曲の交響曲、6曲の弦楽四重奏曲、

オラトリオ『救われしベトゥーリア』などを書いたが、

いずれもイタリア様式の新鮮な影響が濃く映し出されている。

第2回と第3回イタリア旅行の間約10か月ほどザルツブルクの自宅で過ごしたが、この間に、

これまでモーツァルト父子がたびたび提出する休暇願につねに寛大であったザルツブルクの

大司教シュラッテンバッハ伯ジギスムントが世を去り、後任はコロレド伯ヒエロニムスとなった。

その就任祝いのために劇的セレナータ『スキピオの夢』を書いて上演するかたわら、

8曲の交響曲を作曲している。



2. 青年期―1773年から81年まで




第3回イタリア旅行から戻って1773年3月から4か月ザルツブルクに落ち着いていた間には、

4曲の交響曲、3曲のセレナーデないしディベルティメント、ミサ曲ハ長調(K167)を作曲。

しかし、ザルツブルクという小さな町の、大司教を中心とした音楽生活に明るい見通しをもたなかった

父子は、同年7月から2か月間ウィーンを訪れ、就職口を探した。

就職の面ではよい成果が得られなかったものの、この旅行は新しいウィーンの音楽

(ハイドン、ガスマンら)を十分に吸収する役目を果たし、彼の作品に新風が吹き込まれた。

そうした影響をよく示すものに6曲の弦楽四重奏曲(K168〜173)がある。



1773年9月末から翌74年12月までの1年2か月をザルツブルクで送るが、この時期に書かれたいくつかの

作品は、神童から大作曲家への転換がおこりつつあることをよく示している。

初めての短調交響曲(ト短調・第25番。1773.10)や次のイ長調の交響曲(第29番。1774.4)などが

その例である。

しかし同時に、このころから新大司教の政策がはっきりと打ち出されるようになり、モーツァルトの

創作活動にも大きな影響を及ぼすことになる。

旅に出て職務をなおざりにすることは制限されるようになったから、ザルツブルクでより多くの時間を

使うことになり、いきおい、同地の音楽生活と密着した作品が数多く生み出されるようになった。

その一つは教会音楽であり、しかも礼拝音楽の簡素化を求めた大司教の意向によって、

いわゆる略式ミサ(ミサ・ブレビス)が多く書かれた。

一方、ザルツブルクの大学や貴族とかかわりの深い、軽い器楽曲や各種の協奏曲なども

この70年代中盤に多く作曲された。唯一の例外は、オペラ作曲の依頼を受け、『偽りの女庭師』上演の

ために74年暮れにミュンヘンに行ったことである。

その3か月の滞在中に当地での就職の可能性を探るが失敗。

現存する最初の6曲のピアノ・ソナタはこの時期に成立している。

請願書を出してようやく彼だけが旅行を認められ、1777年9月、母親と2人でマンハイム―パリ旅行へ出発。

約16か月に及ぶこの旅行も、彼の音楽様式の発展に大きな影響を与えた。

ピアノ・ソナタ、バイオリン・ソナタ、フルートのための協奏曲や四重奏曲、交響曲ニ長調(「パリ」第31番)

などにそれはよく現れているが、この旅行でも目的としたよい就職口はみつからず、

結局79年1月にザルツブルクに戻った。

帰郷後、宮廷オルガニストの職を得た彼には、一見平穏な宮廷音楽家としての日々が続くが、

80年11月にミュンヘンからふたたびオペラ『クレタの王イドメネオ』の依頼を受け、その上演のため

赴いた旅行は、彼の生涯において決定的なものとなった。

6週間の予定の休暇がすでに4か月にもなって、当時首都ウィーンに滞在中であった大司教に呼びつけられて

叱責(しっせき)を受けたことをきっかけに、ついに81年5月に辞表を提出した。

その後、大司教の部下に足蹴(あしげ)にされる事件も起こり、そのまま、だれにも雇われない

自由な音楽家として、ウィーンに居着いてしまった。





[執筆者:大崎滋生]参考





以下、続きは次回にて。。。


ショパンについて 1

https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e1/2a/momoko_souko/folder/491020/img_491020_29328795_28?20070309235154.gif

偉大なる音楽家の紹介



★ これから有名な音楽家の紹介をしていきますので、雑学として読んで頂ければと思います

ショパン Fryderyk Franciszek (Frdric Franois) Chopin

(1810―49)

ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。

主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、

雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的

に親しまれている。

父ニコラスは16歳のときからポーランドに移り住んだフランス人、母ユスティナは没落貴族の出の

ポーランド人で、フレデリック・ショパンは長男としてワルシャワ近郊のジェラゾワ・ウォーラに生ま

れた。

生年月日については諸説があり、1810年3月1日が一般に支持されているが、1809年説も有力である。

両親をはじめ家族そろって音楽を愛好したが、4、5歳から姉のルドウィカにピアノの手ほどきを受け、

16年からはウォイチェフ・アダルベルト・ジブヌイに師事した。

7、8歳ごろから作曲に興味を示し、民族舞曲やロンドなどいくつかピアノ曲をつくったが、

17年作のポロネーズは作曲後すぐに出版され、最初期の作品として今日に伝えられている。

当時から作曲や即興演奏に秀で、ワルシャワの音楽愛好家たちの間では「モーツァルトの後継者」など

と噂(うわさ)されていた。

1818年2月24日、最初の公開演奏会を開き大成功を収めて、貴族社会の寵児(ちょうじ)となった。

そしてほどなく師のジブヌイをしのぐほどの上達をみせ、ワルシャワ随一の音楽家と世評の高かった

ユセフ・エルスネルの指導を受けて、26年にはエルスネルが院長を務めるワルシャワ音楽院に入学した。

エルスネルの教育法は独創性を自由に伸ばすことを主眼とし、型にはめることを極力避けるものであった。

それはショパンの個性的な作曲語法の形成にきわめて有益であったし、同時にまた、生涯にわたる

対位法などの技術修得への渇望や、規模の大きな作品での構成的な苦心の原因ともなった。

2年生のときに協奏的作品を課題として与えられ、モーツァルトの主題による

『ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ(お手をどうぞ)の変奏曲』を作曲したが、

この作品はのちにシューマンの「諸君、帽子をとりたまえ、天才ですぞ」の評言によって

ショパンの名をヨーロッパ中に広めることになった。

この時期、ヨーロッパ楽壇への進出や自作自演による音楽活動への布石としてオーケストラを伴う

ピアノ作品を集中的に作曲したが、『ロンド・ア・ラ・クラコビアク』(1828)、

ピアノ協奏曲第2番ヘ短調、同第1番ホ短調(ともに1830)など、当時ウィーンで人気の高かった

ベートーベン門下の巨匠チェルニーらの名技主義やフンメルなどに代表される叙情美を多分に意識した

技巧的で華やかな作風が特徴的である。

音楽院を卒業すると、より広い活動の場を求めてワルシャワを離れることを決意、

1830年10月に告別演奏会を開き、11月ウィーンに旅立ったが、故国での反ロシア暴動、独立革命失敗の

報を聞き悲憤と絶望に憔悴(しょうすい)した。

彼自身は故国の危機に際して同志たちと行動をともにすることを選ばなかったが、

この事件は若い魂に決定的な影を落とし、彼の創作の根底に流れる悲劇性やニヒリズムの源となった。

ショパンは芸術家として生きるべきことをはっきりと自覚して帰国を断念、以後二度と故国の土を踏む

ことはなかった。

1831年9月中旬、自由の都としてさまざまな文化人や芸術家たちの集まるパリに落ち着き、

不遇のうちに研鑽(けんさん)を積むかたわら、連日オペラに通いベッリーニなどから旋律のもつ

意味について深い啓示を受け、ピアノという楽器に人間の声のようなしなやかなメロディを歌わせる

表現方法を研究、アクセントの移動とリズムのくふう、和声上の革新や音色変化、三部形式を発展させ

て独自の音楽的発想を盛り込むなど、個性的な音楽語法を確立した。

パリではピアニストのカルクブレンナーや、リスト、ロッシーニ、ケルビーニ、ベルリオーズらの

作曲家、ユゴー、ミュッセ、ハイネ、バルザック、シャトーブリアン、ラマルティーヌらの

文人、画家のドラクロワ、アングルなどが妍(けん)を競っていたが、

ショパンもまた32年のパリ・デビューの成功によって夜会に招かれ、淑女たちにピアノのレッスンをし、

トレードマークになった白い手袋をはめてサロンに出入りし、請われて演奏したり貴族や芸術家たちと交友を結んだ。

36年リストの紹介で女流作家ジョルジュ・サンドを知ったが、2年後にはいっしょに暮らし始め、

2人の共同生活は9年間続いた。

この間、肺結核を病んでいたショパンの療養のために転地したマヨルカ(マジョルカ)島では

『24のプレリュード』(1839)を完成している。

その後も悪化する健康状態のなかで、リズムの洗練、複雑化、形式の拡大、幻想性の重視など創作力は

豊かさを増し、ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調「葬送」(1839)、同第3番ロ短調(1844)、幻想曲(1841)、

『幻想ポロネーズ』(1846)、バラード第2番(1839)、同第3番(1841)、同第4番(1842)などの傑作

を次々に発表、名声を博した。

48年、二月革命の喧噪(けんそう)を避けて多年の宿望だったロンドンに渡り、スコットランドにも旅したが、

濃霧や寒さに病状は悪化する一方で、ふたたびパリに帰るが経済的にも逼迫(ひっぱく)し、

孤独と焦燥のうちに49年10月17日その生涯を閉じた。

ショパンはピアノの性能が急速に改良・発達しつつある時代に創作期の頂点を迎え、作品は演奏法や

ペダル技法の拡充と密接に結び付いている。

ことにエチュード(練習曲)集には高度な音楽的着想やその成果がちりばめられ、演奏技術を磨くための

エクササイズであると同時に、彼が発見したピアノ表現の奏法上の秘訣(ひけつ)にさまざまな形を与えた

記念碑的な名曲となった。

先輩作曲家のなかではバッハ、モーツァルト、フィールドのノクターン様式などを愛し、研究の成果を

作曲にも取り入れた。

ポーランドの民族舞曲であるマズルカやポロネーズのリズムと精神は彼の大きな支えとなり、

それらを芸術的に昇華した名曲を数々生み出している。

演奏の容易なワルツやノクチュルヌ(夜想曲)から演奏至難なエチュードまで広く親しまれているが、

ピアノ作品以外ではチェロ・ソナタ(1846)と歌曲が比較的よく知られている。


[執筆者:青澤唯夫]参考より





https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e1/2a/momoko_souko/folder/491020/img_491020_29328795_28?20070309235154.gif


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