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≪日刊スポーツ新聞社編集局・石井秀一編集局次長のコラムです。≫ 降ってわいたかのような欽ちゃん球団の解散騒動。 事の発端はクラブに所属していた「お笑い芸人」が遠征中の函館で、 17歳少女に淫行をするという事件だった。 余談だが、私は「お笑い芸人」というネーミングが大嫌いである。 愚にも付かぬテレビのバラエティ番組の、あのふわふわした存在が 「芸人」とはいかにも違和感がある。芸人とはもう少し重みのあるものだろうし、 一瞬の人気で一年もたたないうちに消えてしまうようなものを「芸」とは呼ばない。 この手のバラエティ番組は視聴率さえ取れればいいのだろうから、テレビ局も使い捨て感覚である。 「お笑い芸人」達がそれを認識しているのかどうかは知らないが。 ためしに、いくつかの先人の言葉を記してみたい。 ★俳優の小沢昭一。自らを「職業芸能人」とことわるあたりに矜持がのぞく。 「私ども職業芸能人の、昔々のルーツをたどりますと、それは、かつて正月に鼓を叩いて家々を訪れてきた万歳のような祝言職であり、めでたい言葉、ほめ言葉を重ねて、ひたすら人々の祝福をして廻ったというのが、芸能でもって生きる人々の、仕事のはじまりなんであります。この本質、この原点を、芸能がさまざまに進化した今日でも、忘れてはいけないと私は考えます」(「もうひと花・ヨイショ考序説」) ★フランスの劇作家、マルセル・パニョル。 「工場から油にまみれて家路を急ぐ人たち、災害で家を失った人たち、親兄弟や子供に先立たれた人たち。そういう人たちに、たとえ一時でも安らぎとほほ笑みを与えてあげられる者、そういう者を喜劇役者といい、そう呼ばれる権利がある」 ★喜劇王・榎本健一、通称エノケン。 「喜劇役者ってのはな、自分を泥まみれにしろ。自分をさいなめ。その分だけ皆さんが笑って下さらぁ」 芸人の立つべき場所を教えてくれる。 欽ちゃん自身も70年代は「お笑い芸人」だった。 「コント55号」を結成、寄席が中心の時代に先輩を飛び越して、主戦場をテレビに求めた。 「テレビに出る前に修行をしてこい」という風潮の中、画面を飛び出すほどはね回った。 そして、息の長い芸人になった。 だからこそ、テレビに対する思い入れは深い。 だからこそ、今回の事件はせつない。かつての、「お笑い芸人」として。 |
新聞に載らない内緒話
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≪日刊スポーツ新聞社編集局・石井秀一編集局次長のコラムです。≫ 「どうも日刊スポーツさんにはすっかり儲けさせてもらいまして」 と会社近くの豚カツ屋がほくほく顔である。 余談だが、この豚カツ屋、食通でならした作家、故・池波正太郎さんが通ったという名店。 もっとも通ったのは先代の時代で、二代目は豚カツもうまいが、シメサバなど日本酒のアテ も作る器用人である。 「豚カツ屋にしとくにゃもったいねぇや」。 あんまりおいしいので、アテばかり頼んでいたら「たまには豚カツも食べてくださいよ」と きたので「馬鹿いっちゃいけねぇ、江戸っ子が豚カツなんぞ食うかい」と茶化しておいた。 それはさておき「なんだい、その儲かったってぇのは」と切り返したら、 サッカーW杯の日本戦当日になると、小社から豚カツの出前が増えたそうな。 私が久しぶりにこの店を訪れたのは6月22日だったが、日本代表のブラジル戦を控え、 小社から59個もの豚カツ弁当の注文がきていた。 「何とか勝ってもらいたいって、皆さん念じているわけでさぁ」と主人。 なるほど「カツ」と「勝つ」でゲンを担いでいるわけで、小社社員もなかなか涙ぐましいではないか。 「それじゃぁ、こちとらも便乗しようじゃないか」と注文したので、この日の豚カツ屋の注文は 日刊スポーツだけで60個の大商いである。 オーストラリア戦、クロアチア戦も同様の盛況だったそうだから、主人のえびす顔は納得がゆく。 風吹けばなんとやらの体(てい)である。 後日。揚げものといえばやはり行きつけの、築地のてんぷら屋。一杯やっているときに気が付いた。 「そう言えば鯛の天ぷらってぇのを食ったことがないや。あるかい?」 と聞いたら「そいつはゲンが悪いや。徳川さんは鯛の天ぷらで死んだんでしょ」と主人。 なるほど、徳川家康は鯛の天ぷらに当たって死んだことになっている。 しかし「にわかに信じられねぇなあ。天ぷらってぇのはだいたい体にいいんだろ。 それにあんなうまい魚、刺身ならともかく、油で揚げる馬鹿はない。 さしずめ家康末期の食事が鯛の天ぷらだってこった」と言い負かした。 そうじゃないのかな、実際。 さて、小社「豚カツ」の願いもむなしく日本代表は早々に負けてジーコ監督が26日、 退任会見を開いた。約40分間にもわたるものだったそうだが、印象に残ったのは 「(監督として)悔いもないし、恥もない」というコメントだった。 選手も一所懸命戦ったのだろうけれど、技術はともかく体力に劣る日本代表だけに 采配も苦労したろうなぁ。 素人目にも相手に「食い」つく迫力はなかったし、ボールを最後まで追いかける「走り」 も終盤は息切れた。 ジーコ監督の「悔いもないし、恥もない」は 「“食い”もないし、“走り”もない」という意味であったか。うがちすぎか。 |
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≪日刊スポーツ新聞社編集局・石井秀一編集局次長のコラムです。≫ 【海ゆかば】 今年のこのコラムは追悼記事ばかりが並ぶ。 昨年末仰木彬が急逝し、年が明けた1月2日、近藤貞雄が亡くなった。 2月9日は藤田元司。球界にとってかけがえのない人たちが彼岸へ渡った。 そして、5月26日。 アマチュア野球の総本山、日本野球連盟の会長を長年務めた山本英一郎が逝った。 さほどつきあいがあったわけではないが、一瞬の接点にもこの手の大物は何かしらの印象を残す。 小柄な老人(会った頃は、おそらく80歳前後であったと思う)だったが、 その背筋はいつもピンと伸び、矍鑠(かくしゃく)そのものだった。 「いい姿勢ですね」と声をかけたら、我が意を得たりとばかり元気の良い返事が戻ってきた。 「君、僕は海軍出身だよ」 昔、明治政府が軍隊を作った時、大ざっぱに言えば陸軍はドイツ(プロシア)型、 海軍はイギリスを手本とした。 紳士の国とはイギリスの代名詞だが、たとえ軍隊といえども「紳士」を尊ぶ空気がここにはあった。 終戦から時は久しいが、山本の言う「海軍」はピンと伸びた背筋となってその後の人生を 支えてきたのだろう。 毀誉褒貶はともかく、会長時代には世界のアマチュア球界と積極的に交流し、 IBAF(国際野球連盟)第一副会長に就任、野球の五輪採用に貢献し、 強豪キューバには何度も足を運び日本球界とのパイプ役を果たした。 一方、国内のプロアマ問題解決にも尽力した。 島国根性丸出しの日本プロ野球機構幹部とは大違いの仕事ぶりは、決して軍国主義的な解釈ではなく、 ただ公のために自己犠牲を払ったという意味で、山本の言う海軍ならずとも「海ゆかば」 の精神に満ちあふれている。 訃報を伝える紙面を読むと、王貞治のコメントが目を引く。 「(早実時代の)春の甲子園で優勝したときに審判を務められ『王君、王君』と言って かわいがってもらった」。 山本が高校野球、都市対抗の審判員であったことは不覚にも知らなかった。 詩人・寺山修司のこんな記述を、ふと思い出した。 「野球は、大の男たちがホーム(家庭)へ駆けこむのを競うゲームだが、 サードはいつも、ホームへ駆けこんでゆく男のうしろ姿を見送っているのだ」 審判生活の長かった山本は三塁塁審を務めたこともあったろう。 三塁手同様ホームに駆けこんでゆく男の背中を眺めたに違いない。 そして自らの、ホームへ駆けこむ時がきた。 享年87歳。自宅のテレビをつけたまま、椅子に腰掛けて眠るように息を引き取った、 と日刊スポーツには書いてある。(敬称略) |
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≪日刊スポーツ新聞社編集局・石井秀一編集局次長のコラムです。≫ 【テレビとプロ野球】 子供の頃、家にテレビが無かった。 夕方になると友達と連れだって、テレビのある近所の家へ出かけ見せてもらった。 良くしたもので、押しかけられた家でも家族団らんの茶の間には入れてくれなかったが、 電灯を消した隣の部屋の、襖(ふすま)を半分開けてくれて見物を許してくれた。 夕食時のどこの家もテレビの野球観戦で、ちゃぶ台(もう死語かもしれない)の中央に 主人がデンと座り込んでビールを飲んでいた。 私は、母親が「よそ様に迷惑をかけるんじゃないよ」と言って作ってくれたおにぎりを ほおばりながら野球を見つめた。 テレビのある、明るい部屋での夕食風景は傍から見てもうらやましかったが、 暗がりから見る野球はそんな屈折した思いをも吹き飛ばすほど楽しく、面白かった。 さて、プロ野球のペナント・レースが始まって1ヶ月。 巨人が首位を快走、ヤクルトは古田兼任監督の采配、清原のオリックス移籍など 各球団は話題が豊富で、昔の感覚で言えば万々歳の展開ではある。 しかし、3、4月の巨人戦月間視聴率は平均12・6%と過去最低だった昨年を 0・3ポイント下回ったという。 まぁ、前述の茶の間の風景でいえば、父親のチャンネル権などとうの昔に無くなって、 テレビは子供達の見るバラエテェイ番組に席巻されているのだろう。 その意味で言えば野球人気を視聴率だけで推し量る時代ではなくなったようだ。 WBCの日本代表世界一が追い風になる、との見方もあったが、確かにあの一連の試合、 視聴率は驚異的だったが、それは国別対抗戦の持つナショナリズムが背景にあったためで、 サッカーの国際試合に比べ、Jリーグ視聴率が芳しくないのと同様の事情だろう。 その一方で、4月18日の名古屋地区、中日対阪神戦の視聴率は15・9%、 同時に同地区で放送された巨人対ヤクルト戦の7・9%の倍近い数字をたたき出した、 と東京新聞(5月4日付)は伝えている。 福岡のソフトバンクも、仙台の楽天もそのような傾向を見せている。 全国区の巨人より地元意識、おらがチームへの関心、ということだろう。 その体で言えば安易に野球人気のかげりを強調することもないし、 この視点に立ってこれからの野球界を眺めてゆく必要がありそうだ。 43歳の巨人工藤、600日ぶりに勝ち星を挙げた桑田、鉄人・阪神金本、 そしてメジャー挑戦を続ける野茂。苦しみを乗り越えたベテラン勢の活躍が共感を呼ぶ。 ファン層の高齢化が顕著ではあるが、団塊の世代が定年を迎え、もう一度テレビ桟敷に戻ってきたとき、 子供時代の草野球にもつながる、身近で、親しめるプロ野球でありたい。 活路はそんなところにある。 |
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≪日刊スポーツ新聞社編集局・石井秀一編集局次長のコラムです。≫ 【ある定年】 運動具メーカーから球団に出向して23年。定年を迎えてある職員が退職した。 メーカーにしてみれば「彼」の出向は、いわば商売相手の球団に食い込むための「人身御供」で、 要員を提供したことで恩を売った程度の認識である。 だからその仕事ぶりを誰も期待しなかったし、「彼」もまたほとんど裏方で試合前練習の用具を セットしたり、打撃練習用のボールを籠に集めるなどの、要は雑用係に黙々と徹した。 ただ、仕事は陰ひなたがなかったし、休みもそこそこに、皆勤に近い働きぶりだった。 「定年になったのでそろそろ仕事も切り上げます」 と、「彼」から言い出されて球団関係者も「もうそんな歳になりましたか」 と気が付いたくらいである。 型どおりのささやかな送別会が行われて、「彼」は職場を去った。 特別重要な仕事をしていたわけではなかったから、後任はアルバイトでまかなった。 当座は何の変化もなかったが、しばらくして練習用のボールの消耗がいやに早いことに 関係者は気が付いた。 球場試合前の打撃練習で使用するボールだからそんなに無くなるはずはない。 ただし、ボールの傷みが妙に早い。アルバイトに尋ねてみたが特に管理に問題があるわけではなかった。 誰もが首をひねったが「そう言えば…」とある古参の職員には思い当たる節があった。 ボールを管理する倉庫の片隅に以前はボロ雑巾が積まれていたし、 「彼」の後ろポケットにはいつも小さな缶の、皮用メンテナンス・グリスが入っていたことを 思い出したのである。 4月9日、阪神金本が連続フルイニング出場を904とし世界新記録を樹立した。 足かけ8年にも及ぶ、黙々と積み上げた偉業だった。 「休むと言うことは…仕事を放棄することだ」 「弱音や言い訳は、心の中で言っている。心の中は言い訳ばかり。 言わないのは、負け犬のように思われたくないから…」 金本の言葉は重い。 「彼」もまた、思いは同じではなかったか。 |



