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リトル・モンスターの部屋
☆感謝☆ (☆_★)

書庫カート・コバーンのプロファイル

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ニルヴァーナ、
ネヴァー・
フェイド・アウェイ
カート・コバーン・ストーリー
より。

遺書

彼は赤いインクで最後の言葉を書き記した。

『僕はもうずっと長いこと、音楽を聞くことにも、曲を作ることにも、何かを書くことにも、喜びを感じなくなってしまった』。

彼はそのことを非常に罪深いことだと感じていた。
聴衆の絶叫の心を喚起することはなかったと彼は書き続ける。
フレディ・マーキュリーは聴衆の愛と崇拝を喜び楽しんだが、カートは違った。

『フレディみたいにできるのは本当に立派だし羨ましいとおもう。
僕だって君達に嘘をつくのは嫌いだ。
ただの一人もだましたくない・・・・・・・』。
『僕達みんなに、どこか必ず良いところがある。
だから僕は本当に人間が好きだ。
あまりにも愛しているので悲しくなってしまうんだ。
[僕は] みじめでちっぽけな、弱々しい、何の価値もない、魚座の、救いようのない男だ』。
『僕は結婚には恵まれていた。
そのことは深く感謝している。
だが僕は七才の時から、あらゆる一般人を憎むようになってしまった。
何故なら僕以外の人々はあまりにも簡単に自分や他人の感情に共感し合ってやっているから。
                         エンパシ
僕のこの焼けついて吐き気のする胃袋の底から、みんなに礼を言うよ、今まで手紙をくれたり気にかけてくれてありがとう。
僕はすごく気まぐれな人間だから、もう情熱がさめてしまったんだよ』。

そこまで書いてから、ふいにニール・ヤングの歌が心に浮かんだ。

「ヘイ・ヘイ・マイ・マイ」の「だんだん消えていくよりは、激しく燃え尽きるほうがいい」
              イッツ・ベター・トゥ・バーン・アウト・ザン・フェイド・ウェイ
というフレーズだ。
カートはそれを書きとめた。

『だから覚えておいてくれ、だんだん消えていくより激しく燃え尽きる方がいい』。

やっと書き終えた。
サインをした。
「ラヴ・ピース・アンド・エンパシイー、カート・コバーン」。
そして持っていたペンをこの遺書に突き刺し、さらにそれを植木鉢に串刺しにした―――それから彼は猟銃に手を伸ばした。

終わり。

天使の髪の毛

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『Heavier Than Heaven
 a biography of KURT COBAIN』
より。

遺書

カートとは妻と娘に宛てて長い手紙をかいていた。
その手紙をシアトルまで持ち帰り、香水の匂いの残った机の下に隠した。
「君のこと、愛してるからね」と彼は手紙に書いている。
「フランシスも愛している。
本当にごめん。
俺を追わないでくれ。
ごめんね、ごめんね、ごめんね」。
彼は「ごめんね」を何度も繰り返し、1枚全部をこの言葉で埋めた。
そして、「俺はあっちにいるから。
君を守るから。
行き先はわからないけど、もうここにはいられない」と手紙は続く。
コートニーとフランシスに宛てたその手紙でさえ書くのは楽ではなかったが、次の第2書状も同じくらい大切で、言葉は真重に選らばばなければならないとわかっていた。

無気力で幼稚なぼやき屋になる方がましだと思っている、長年の経験を積んだベテランの大バカ者として言わせてもらう。
この手紙はわかり易いはずだ。
こんなに長い間、パンク・ロックの基礎としての警告があんなに発せられていたのに。
独立精神とかコミュニティーへの信棒といった価値観とでも言うべきものを知って以来その警告はまさに真実だということが証明されてきたのだ。音楽を聴き、作り、読書をし、自分でなにかを書くことの興奮を、俺は何年も感じていない。
こういうことに対して、言葉に出来ないくらい罪の意識を感じている。例えば、バックステージにいるとき、客電が消え、観客の熱狂的な叫び声が聞こえ始めても、俺は感動出来ないんだ。
観客の愛情と崇拝を愛し、楽しんでるいるように見えたフレディ・マーキュリーのようにね。
そういう彼を俺は心から尊敬し、羨ましくおもう。
つまりうらやましくおもう。
つまりこういうことだ――――俺にはみんなをだますことは出来ない。
君たちの誰ひとりとして。
君たちにとっても、俺にとっても、それってフェアじゃないよね。
俺に考えられる最悪の罪は、自分は100%楽しんでるふりをして、人をはぐらかすことなんだ。
時々ステージに出ていく前に、タイムカードでも押すべきじゃないかって感じることがある。
俺はこの状況に感謝しようと力の限り努力したし、実際に感謝してるんだ。
信じて欲しい。
でも、十分にではないんだ。
俺が―――俺たちが大勢の人を感動させ楽しませてきたという事実に、ちゃんと感謝してはいる。
俺は、失ってみて初めてそのありがたみがわかるという、ナルシストに違いない。
センシティヴすぎるんだ。
子供の頃待っていた情熱を取り戻すために、少し無感覚になる必要がある。
最近の3回のツアーでは、俺の個人的な知り合いやファンに対して、もっと感謝出来るようになるっていた。
だけどそれでも、フラストレーションを、罪悪感を、あらゆる人間への感情移人を取り払えないんだ。
誰にでも良さはある。
とにかく俺は人を愛しすぎるんだ。
だから死ぬほど悲しくなるんだ。
俺は悲しくて、少し感じ易しくて、感謝したり楽しんだりすることの出来ない、魚座の人間なんだよ!
どうしてただ楽しめないんだろう? わからない。
俺には野心と共感にあふれる女神のような妻と、昔の自分にそっくりの娘ががいる。
娘は愛と喜びに満ち溢れている。
誰もが彼女にはいい人で、傷つけるようなことはしないから、あの娘は会う人誰にでもキスをする。
それを見て、俺は身体を動かせないくらいの恐怖に襲われる。
フランシスが俺のようなみじめで自己破壊的な死神ロッカーなったらどうしようと思って。
俺はいい人生を送っていた、とてもいい人生を―――感謝してるよ。
でも7歳のときから、俺はすべての人間を嫌悪するようになった。
みんないとも簡単に群れ合って、共感し合うようにおもえたから。
共感! 多分俺が人を愛しすぎ、思いやりすぎるからだと思う。
これまで何年にわたる君たちからの手紙と気遣いに、俺の焼けるような吐き気を起こしそうな胃の底から感謝するよ。
俺はあまりに突発で気分屋だ! もう情熱が失せてしまったんだ。
だから覚えていてくれ、だんだん消えていくくらいなら、一気に燃え尽きた方がましだ。



ペンを置いたとき、ページはあと2インチほどのこしてすべて埋まっていた。
この下書きを書く間に、彼はタバコを3本吸った。
言葉はよ容易に出てきたわけではなく、スペルの間違いや途中で終わっている文章もあった。
彼の過去の日記帳につづられた手紙のように、今回は20回も書きなおしをする時間はなかった。
外は明るくなりつつあった。
彼は世間が起き出す前に行動を起こさなくてはいけなかった。
手紙の最後に、彼は「平和、愛、思いやり。カート・コバーン」と書いた。
名前はサインではなく、活字体でかいた。
「思いやり」という単語には、下線が二本引いてあった。
この手紙の中で、彼はこの言葉を5回使っている。
彼はもう一行、「フランシスとコートニーへ。俺は君たちの祭壇にいるからね」と付け加え、紙とペンをコートの左ポケットに入れた。
彼はベッドから立ち上がり、クローゼットに入ると、壁の板を取り外した。
この秘密の押し入れには、ベージュのナイロン製のガン・ケースとショットガンの弾丸の箱とトム・ムーアの葉巻の箱が隠されていた。
板を元に戻して、弾丸をポケットに入れ、葉巻の箱をつかむと、彼は重いショットガンを左腕で抱きかかえた。
そして廊下のクローゼットから、タオルを2枚取り出した。
彼が使うことはなかったが、これを必要とする人が出てくるはずだった。
これも思いやりだ。
そして彼はゆっくりと、広い19段の階段を下りた。
数フィート先にはキャリの部屋があったが、カートは誰にも自分の姿を見られたくはなかった。
彼はアルバムやビデオの構想を練るときと同じように、今回のこともすべてちみつに計画していた。
大量の血が流れるつませいさいな状況が予測されたが、家の中を汚したくはなかった。
自分のようにフランシスが悪夢にうなされることがないよう、ここを呪われた家にしたくないというのが一番の理由だった。
台所に入るとき通り過ぎたドアの脇の柱には、フランシスの成長ぶりを記録しようとコートニーと一緒につけ始めた娘の身長がしるしてあった。
柱の傷はまだ一箇所だけ、床から31インチの場所に鉛筆で一本線とフランシスの名前が書かれていた。
今後増えていくであろう線を、彼はもう見ることはない。
それでも自分がいない方が、娘は幸福な人生を歩めると彼は確信していた。
カートは一万ドルもしたトラウルソンのステンレス冷蔵庫から、ショットガンを落とさないよう気をつけながら、バークのルート・ビアの缶を取り出した。
後からおかしな組合わせだとおもわれるであろう品々――――ルート・ビア、タオル、箱入りのヘロイン、ショトガン―――――を抱えて、カートは裏庭に通じる扉を開き、小さな中庭を通り抜けた。
夜は明けつつあり、霧が地面近くまでおおっていた。
アバディーンの朝は、たいていこんな感じだった。
じっとり、湿気でじめじめしたかんじだ。
アバディーンを見ることは、もうないだろ。
彼は温室まで20歩ほど歩き、木の階段をのぼって後部のフランス戸を開けた。
床はリノリウム材だ。
後始末するのにも楽だろう。
これも思いやりだ。
彼は表のドアの方を向き、ワンルームの温室の床に腰をおろした。
家の裏の木にでも登らない限り、ここはだれからも見えない。
まさか木に登っている人はいないだろう。
ちゃんと死にきれずに植物人間になるような、苦痛を増すだけの失敗は避けたかった。
これ以上病院に行くことも、白衣姿の医者にごちゃごちゃ詮索されるのも、痛むお腹に内視鏡を突っ込まれるのも御免だった。
そいうことはもうたくさんだった。
腹痛もたくさんだった。
もう、こりごりだ。
偉大な映画監督のように、彼は、すべてを詳細にわたって計画し、この場面のリハーサルを監督としても俳優としても行った。
これまでにも偶然にせよ、ローマ事件を初めとして今回のためのリハーサルは何度も行われてきたのだ。
けして消えない痛みの唯一の治療法として、彼はこのアイデアをずっと心の奥底に秘めていた。
切望からの解放など、どうでもよかった。
彼はただ痛みかあら解放されたかったのだ。
しばらくの間、彼はこういったことを考えて座っていた。
その間、キャメルン・ライトを5本吸い、ルート・ビアも何口かすすった。
ポケットから手紙を取り出してた。
まだ少し余白がある。
リノリウムの床に紙を広げた。
今度は大きめの字で書かなければいけなかった。
それでもなんとかもう少し書き加えることが出来た。
「コートニー、どうか生き続けてくれ、フランシスのために、俺がいなければもっと幸福になるあの娘の人生のために。愛してる、愛してる」。
最後の言葉は、他のどの部分よりも大きなも文字で書かれていた。
そして余白はなくなった。
彼は手紙を鉢植え用の土の上に乗せ、ペンをその真中から突き刺した。
杭のように土に刺さったペンが、手紙を宙に浮かせていた。
彼はソフト・ナイロンのケースからショットガンを取り出し、小さな男の子が教会から帰ってきて、日曜礼拝用の晴れ着をしまうように、丁寧にケースを折りたたんだ。
ジャケットを脱いでケースを脱いでケースの上に重ね、さらにその上に2枚のタオルを置いた。
ああ、なんという思いやりだろう。
彼はドラックを温熱器にかけるためめに、流しの水道水を少し取ってくると、また腰を下ろした。
25発入りの弾丸の箱を開けると、三つだけ取り出し弾倉に詰めた。
そしてレミントン銃の装置を動かして一発を装てんすると、安全装置を外した。
そして最後のキャメル・ライトを吸い、バークをすすった。
彼は、日記帳に、自分がこの世に生まれた瞬間を描写したことがある。
「最初に記憶しているのは、薄いアクア・グリーン色のタイトルの床と、俺の足首を強く握っていた手。
この手の力強さで、もう羊水の中ではないのだ、もうあそこには戻れないのだとはっきり自覚した。
蹴ったり、のけぞったりして、穴の中に戻ろうとしたけれど、俺は母親のヴァギナの中からぶら下がったまま、医師に捕まえられていた。
まるで医師にいたずらされている気分で、液体や血が蒸発して、皮膚が張ってくるのを感じた。
実際には、酸素が俺を消耗し、もう穴には戻れないことを示す殺菌の臭いがして、二度と繰り返されることのない恐怖が訪れた。
これで楽になれると思い、俺なりの物事の対処方法がこのときを最初に始まったのだ。
つまり、俺は泣かなかった」
彼は葉巻の箱から100ドル相当のメキシカン・ブラック・タール・ヘロインの入ったビニール袋を取り出した。
これは大変な量だ。
彼はその半分にあたる、指先ほどの量をスプーンに取った。
丁寧に慣れた手つきでヘロインと注射器を準備すると、彼は肘の少し上の、「k」のタトゥー近くに注射を打った。
道具を箱に収めると、道端に身体が宙に浮き上がるような感覚に襲われた。
ジャイナ教は、 30の天国と7つの地獄があり、その全ては私たちの人生の中で層を成していると解いている。
彼に運があるならば、これは7晩目の最後の地獄となるはずだ。
道具箱をどけると、ますます速く浮き始め、呼吸が遅くなる感じだ。
急がなければならない。
すべての行動がだらけ始め、なにを見てもアクア・グリーンの色合いに縁取られている。
彼は重いショットガンを握ると、口を開け、上あごに当てた。
大きな音がすることはわかっている。
そして、彼は逝ってしまった。

1985年

8月
カートがデイル・クローヴァー、グレッグ・ホカソンと、フィーカル・マターを結成。
「フィーカル・マター(糞問題)」

12月
フィーカル・マター初のレーコーディング・セッション
レーコーディングメアリおばさんの家で
カートがまず自分の歌を吹き込み、その後、ヴォーカルの上にデイルと共にギターとベースとドラムを乗せた。「メアリおばさんは、ウェンディーの妹。」
その時、メアリおばさんは“スイサイド・サムライ(自殺サムライ)”の歌詞を見てぎょっとした。
他にも、“バンビ・スローター(バンビ殺戮:少年が両親の結婚指輪を質に入れたという内容)”、
“バフィーズ・プレグナント(バフィーはおめでた)”、
“ダウナー(不快な幻覚体験)”、
“ラミネイテッド・エファクト(複合効果)”、
“スパンク・スルー(疾走)”
“サウンド・オブ・デンテージ”
といった曲を録音した。
けど、フィーカル・マターはライブを一度もすることもなく解散することになる。

1986年

12月
カートとクリス・ノヴォゼリックが、セルアウツというカヴァー・バンドを始める。
「セルアウツ(*満員御礼)」

1987年

初頭
カート、クリスにドラマーとしてアーロン・バークハードが加わり、名前のないグループを結成した。

3月
ハウス・パーティで初めてのライヴ。
カートは、バンドの名前をいろいろ考えていたが、決められないでいた。
彼が考えていた名前は、
プープー・ボックス(うんちボックス)、
デザイナー・ドラッグス、
ウィスカー・ビスケット(ほお髭ビスケット)、
スパイナ・ビファイダ(脊髄破裂)、
ガット・ボム(太陽爆弾)、
エッグ・フロッグ(たまごに鞭打ち)、
ピュークアリーア(ゲロ下痢)、
ピューキング・ワームス(ゲロ吐き虫)、
フィッシュフード(魚ごはん)、
バットグアナ(こうもりイグアナ)、
イムコムポーテント・フールズ(無法なあほども/*わざと綴りを間違えている)
など、たくさんあったが、まだひとつに絞りきれずにいた。

12月
結局バンドの名前は、
デッド・エド・フレッド、
ペン・キャップ・チュー、
ウィンドウペイン、
スキッド・ロウ、
と何度もバンドの名前を変えた末、ニルヴァーナにおちつく。

1988年

1月
プロデューサーのジャック・エンディーノと共にシアトルのスタジオで初のレコーディング

5月
新ドラマーとしてチャド・チャニングを迎えての初ライヴ

11月
サブ・ポップからデビュー・シングル“ラヴ・バズ”をリリース

12月
「ブリーチ」のレコーディング開始

1989年

2月
新ギタリスト、ジェイソン・エヴァーマンがバンドに加入して4人編成となる

6月
サブ・ポップからデビュー・アルバム「ブリーチ」を発表

26日間にわたる初の全米ツアー開始。
その後ジェイソンはバンドから脱退

10月
サブ・ポップのレーベル・メイト、タッドと共に初のヨーロッパ・ツアー

1990年

4月
プロデューサーのブッチ・ヴィグとスタジオに入り、デモ・セッションを行なう

5月
2回目の全米ツアー後、チャド・チャニングを解雇

8月
ニルヴァーナも参加したキッス・トリビュート「Hard To Believe」発表

ソニック・ユースの前座として米西海岸ツアー

10月
新ドラマーとしてデイヴ・グロールが加入

1991年

4月
レコード会社争奪戦の未、ゲフィンとメジャー契約

5月
ブッチ・ヴィグをプロデューサーに迎え、新作の創作に突入

6月
ダイナソ−Jr.の前座で全米ツアー

ニルヴァーナが参加したヴェルヴェット・アンダーグラウンドのトリビュート・アルバム発表

9月
2枚目「ネヴァーマインド」発表。
全米での初回出荷枚数は5万枚弱で、ビルボード・チャートでは初登場144位

11月
「ネヴァーマインド」が全米で100万枚のセールスを記録

12月
レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、パール・ジャムと共に全米ツアー

1992年

1月
遂に「ネヴァーマインド」が全米1位に輝く

2月
最初で最後の来日。
この時に来日記念盤として「ホルモウニング」を発表

カートがコートニー・ラヴとハワイで挙式

8月
ヴァニティ・フェア誌で「コートニーが妊娠中にヘロイン使用」と報道される。これがきっかけとなり、
コートニー・バッシングが始まる

娘のフランシス・ビーン・コバーン誕生「8月18日」
赤ん坊の名前は、ヴァセリンズのフランシス・マッキーにちなんで、フランシスと命名された。
もし男の子だったらやはりヴァセリンズのユージン・ケリーからユージンと付けるつもりだったらしい。
後女優のフランシス・ファーマーから付けたと言う説がある。

1992年のレディング・フェスティヴァルで、ニルヴァーナはトリを勤めている。
しかも基本的なラインナップを決めたのはカートだった。
出演者には、
メルヴィンズ、
スクリーミング・トゥリーズ、
L7、
マッドハニー、
ユージニアス、
その他。

9月
MTVビデオ・ミュージック・アワードに参加し、ステージ上でガンズ&ローゼズを挑発
後、本番で、“レイプミー”のオープニング・コードが聞こえてきて。このときMTVの幹部たちはコントロール室に向かって走っていった。
しかし、彼らが放送を中断出来る前に、ニルヴァーナは、曲を変更し、“リチウム”の最初のコードを演奏していた。「あいつらをからかうためにやったんだ」と、クリスは言う。
それは、20秒にも満たない事件だったが、ニルヴァーナにとっては最高の瞬間だった。
MTVは再放送の際に、この部分をカットしている。

12月
編集版「インセスティサイド」を発表。

1993年

2月
プロデューサーにスティーヴ・アルビニを迎え、新作のレコーディング

インディのタッチ&ゴーからジーザス・リザードとのカップリング・シングル“オーザ・ギルト”をリリース

4月
戦争地域のレイプ被害者を支援するチャリティ・ライヴに出演

6月
カート&コートニーが大ゲンカしたと警察に通報され、自宅から2丁の銃が押収、カートは身柄を3時間
拘束される

9月
3枚目「イン・ユーテロ」を発表。
全米初登場1位を獲得

10月
2年振りの全米ツアー開始。
元ジャームスのパット・スメアがギタリストとして参加。
サポートはマッドハニー、
ミート・パペッツ、

11月
ニューヨークでアンプラグド・ライヴを敢行する。
後にアルバムとして発表

1994年

1月
地元シアトルでの最後のライヴ

2月
バズコックスを前座にヨーロッパ・ツアー

3月
ローマでカートが昏睡状態に陥る。
シャパンとドラッグの過剰摂取のため

カートが銃を持って部屋に閉じこもり自殺をほのめかしているとコートニーが警察に通報

ドラッグのリハビリ治療のため、ロサンゼルスの病院にカートが入院

4月
入院から数日後、カートが病院から抜け出す

カートがシアトルの自宅にて猟銃自殺

終わり。

続き。

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64、1994年3月6日 カートがツアー先のローマで昏睡状態に陥る。バリウムに似た成分のドラッグ、ロヒプノル50服と多量のシャンパンを飲んだことが原因と報告された。20時間後に意識を取り戻したカートは、さっそく病院食にケチをつけたという。ローマでの一件が自殺未遂だったという記事を、彼は後日、否定した。

65、1994年3月18日 カートが38口径リボルバー銃を持って部室に閉じこもり、自殺をほのめかしていると、コートニーから警察に通報が入る。

66、1994年 3月31日 カリフォルニア州マリナ・デル・レイにあるダニエル・フリーマン病院内のエクソダス・リカバリー・センターに入院。

67、1994年4月1日 入院からたった2日で、塀をよじのぼって病院をぬけだす。

68、1994年4月8日 シアトルの自宅の駐車場の上にある部屋で、カート・コバーンの死体が発見される。警察かんの報告よれば、死亡推定日は4月5日。銃で頭部を撃ちぬき、自殺を図ったとされている。
享年27才。
終わり。

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プロファイル
1名前、カート・ドナルド・コバーン
2誕生日、1967年2月20日
3、産れた場所&その他、アメリカのワシントン州のアバディーンを見下ろす丘の上の病院で、産まれた。
カートの出生時の体重は、7ポンド1/2オンス[約3388グラム]。
髪と肌は黒かったが、5ヶ月もしないうちに髪はブロンドになり、肌は、白くなった。
彼の父方はフランスとアイルランドの血を引いている。
祖母は1875年にアイルランド、タイロン都のスケイ・タウンランドから移民した。
カートの角張ったあごは、父の家系から受け継いだものだ。
ドイツ、アイルランド、イングランドの血をひく母方のフレインデンバーグ家からは、ばら色の頬とブロンドの髪を受け継いだ。
なんと言っても彼の外見で一番目を引くのは、驚くほど澄んだ青い瞳だろう。
つづく。

4、1975年8才の時、両親が離婚。それお機に、明るく陽気だった少年は、暗く、引っこみ思案な少
年へと変貌する。
彼の生まれてはじめての詩とおもはれるものを書いた。
彼は壁にこう殴り書きしたのだ。

ぼくはママがだいきらい
ぼくはパパがだいきらい
パパはママがだいきらい
ママはパパがだいきらい
それはほんとうに
かなしくなること

5、1976年 てこずる息子に困り果てた母親によって父親のもとへ引き取られるが、父親ともなじめ
ず、親戚の家をたらいまわしにされ、転校を繰り返す何年間が続く。

6、1978年ロック・ミュージクと出会う。すきだったのはエアロスミス、レッドツェペリン、そして
キッス。

7、1980年TV番組[サタデー・ナイト・ライヴ] に出演したB52’Sを見て、ニユー・ウェイ
ヴに開眼。

8、1981年14回目の誕生日のプレゼントに、新しい自転車とエレキ・ギター&アンプのどちらがい
いかと尋ねられたカートはギターに飛びついた。そしてすぐさま‘‘うんとやかましいロックソン
グ を自分で書くようになる。

9、1982年 クリーム誌のバックナンバーでセックス・ピストルズの記事を読むが、まだ実際の音楽
を聴いたことがなかった。

10、1984年夏 ついにパンク ロックを耳にして、人生が、おおきく変わる。

11、1985年 5月 卒業を数週間後に控え、高校中退。激怒した母親に家を追い出されたカートは、
約1年間、ホームレスの日々を送ることになる。この時期、初めてヘロインに手を出す。

12,1985年 生まれて初めてのライヴが、ワシントン州オリンピアにあるジエスコ・ホールで実
現。ベースはバズ・オズボーン、そしてドラムはアンバディーンのバンド、メルヴィンズに在籍し
ていたデイル・クローヴァー。

13,1985年 秋 ノッポでぶきっちょなクロアチア系アメリカ人の少年、クリス・ノヴァゼリックと
出会う。彼もまたパンクに夢中だった。2人はステイッフ・ウッデイーズといったいくつかのバン
ドで一緒にやるようになるが、まだ自分達のバンドを結成するには至らなかった。

14,1985年冬 ドラムのクローヴァーと2人で 「Fecal Matter] というデモを、おば
の家で録音。

15,1987年 12月 カートはオリジナル曲を演奏するために、ノヴァゼリック、 ドラマーのアー
ロン・バークハードとバンドを結成。テッド・エド・フレッド、ペン・キィップ・チュー、ウイン
ドウインペイン、スキッド・ロウと何度もバンドの名前を変えた未、ニルヴァーナにおちつく。

16,1987年 春 ニルヴァーナのファースト、ギグはワシントン州の田舎町レイモドの人家で催され
たパーティだったが、カヴァー曲をまったく演奏しない上に、客用のビールを全部飲んでしまった
ため、大目玉を食らう。

17、 1987年 秋 アバディーンからオリンピアに移り、女友達のトレイシー・マランダーとアパー
ト暮らしを始めるが、その数ヶ月後、原因不明の腹痛に突然襲われる。

18、 1988年1月23日 グランジの名づけ親でもあり、シアトルの伝説的プロデューサー、ジャッ
ク・エデイーノと10曲入りのデモテープを録音。 レコーデイング費用としてカートが支払った
金額は152ドル44セント。クローヴァーが代役でドラムを叩いた。デモを聴いたサブ・ポッ
プの共同経営者の一人、ジョナサン・ポーマンからシングル製作の話をもちかけられ、承認する


19、1988年 初春 バークハードがクビになる。後任のデイヴ・フォスターも数ヶ月しかもたず。、
バークハードが再加入するが、カートの車を飲酒運転で暴走させて捕まるというへまを犯し、また
してもクビに。

20、1988年 7月 バークハードに代わり、高級住宅地として知られるピュージェット湾沖のベイブ
リッジ・アイランド出身のチャド・チャニングが、加入。

21、1988年10月 サブ・ポップ傘下のシングルス・クラブより、1000枚の限定シングル「ラ
ヴ・バズB面「ビッグ・チーズ」]がリリースされる。

22、1988年 10月30日 オリンピアにあるエヴァーグリーン州立大学の寮生向けのハロウウィ
ー ン・パーティで、カートが初めてギターを叩き壊す。

23、1989年 3月 イギリスの有名音楽雑誌メロディ・メイカーによって、シアトルの音楽シーンが
数週に亘って紹介される。第一期グランジ・エクスプロージョンも目前。

24、 1988年 12月〜1989年 ジャック・エデーノを迎え、サブ・ポップからのデビュー・ア
ルバム用のベーシック・トラックの録音が開始される。レコーディング総予算の606ドル17
セントを支払ったジェイソン・エヴァーマンは、まもなくセカンド・ギタリストとしてバンド
に加入。

28、 1989年6月 サブ・ポップより「ブリーチ」 がリリースされ、バンドは一ヶ月に及ぶアメリ
カ・ツアー開始。 ツアー終了後、エヴァーマンはクビになる。

29、1989年10月20日 TADと6週間に及ぶヨーロッパ・ツアー開始。

30 、1989年テュペロ・レコードより「ブルー」のEPがイギリスでりりースされる。

31、1990年4〜5月 全米ツアー終了後、チャド・チャニングがクビになる。

32、1990年8月 ソニック・ユースの西海岸ツアーのオープニングを務める。不在のドラマー
の代役はクローヴァー。

33、1990年9月22日 マッドハニーのダン・ピーターズをドラムに加えて、モーター・スポーツ・インターナショナル・アンド・ガレージで演奏。ピーターズは数日後クビに。

34、1990年9月25日 ワシントンDCのハードコア・バンド、スクリームにいたデイヴ・グロール加入。

35、1990年10月 L7と短期イギリス・ツアーを行なう。

36、1991年4月30日 熾烈なレーベル合戦の未、ニルヴァーナはゲイフィン[DGC]レコードと契約。

37、1991年5月〜6月 メジャーからのデビュー・アルバム「ネヴァーマインド」のレコーディングが、ブッチ・ヴィグをプロデューサーに迎えて行われる。

38、1991年6月 ダイナソーJR.の前座として、短い全米ツアーを行なう。

39、1991年8月 ソニック・ユースの前座で、ヨーロッパでのフェスティバル・ツアーに出演。レディング・フェスティバルでのステージは今でも語り草になっている。

40、1991年9月20日 6週間に及ぶ全米ツアーが開始される。

41,1991年9月24日 アルバム「ネヴァーマインド」 がリリースされる。全米での出荷数は46,251枚。

42、1991年10月12日 ビルボード・アルバム・チャート初登場114位。

43、1991年10月29日 「ネヴァーマインド」がゴールド・ディスク達成。

44、1991年11月2日 全米にニルヴァーナ旋風が捲き起こる中、6週間のヨーロッパ・ツアーが開始される。MTVでは 「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」 がひっきりなしに流され、それは‘‘世代のアムセム・ソング’’と称えられた。

45、1991年11月 「ネヴァーマインド」がプラチナ・ディスク達成。

46、1992年12月 パール・ジャム、レッド・ホット・チリ・ペッパーズと短い全米ツアーを行なう。

47、19921月11日 「サタデー・ナイト・ライヴ」 に出演したその当日、「ネヴァーマインド」がビルボードのアルバム・チャート第1位に輝いた。

48、1992年1月〜2月 オーストラリア、ニュージーランド、日本、ハワイでツアー。

49、1992年2月1日 「ネヴァーマインド」、再びナンバーワンへ返り咲く。

50、1992年2月24日 カート・コバーン、ホールのコートニー・ラヴとハワイで挙式。

51、1992年6月〜7月上旬 ヨーロッパ・ツアー。

52、1992年8月 リン・ハーシュバーグによる「コートニー 妊娠中にヘロイン使用」という内容の記事がヴァニティ・フェア誌に掲載される。

53、1992年8月18日 フランシス・ビーン・コバーン誕生。ヴァニティ・ファア誌の記事が巻き起こしたメデイア論争のあおりを受け、‘‘Children‘s Service of Los Angeles County’’ はただちにふたりに子供の養育能がないことを主張。

54、1992年 12月15日 B面曲とレアな未発表曲を集めた 「 インセスティサイド」がリリースされる。

55、1993年2月 ミネソタ州キャノン・フォールズで、毒舌家で知られるインディ・プロデューサーのスティーヴ・アルビニ[ビック・ブラック、PJ・ハーヴィ、ジーザズ・リザードら]を迎え、「イン・ユーテロ」をレコーディング。

56、1993年3月23日 ロサンゼルス家庭裁判所が、‘‘Children‘s Service〜’’に対して、コバーン夫妻の養育能力の監督を中止するよう通達。

57、1993年3月〜4月 製作中のニュー・アルバムの内容が ’’コマーシャルではない''との理由から、ゲフィンがアルバムを拒否するとの噂が論争を呼ぶ。

58、1993年6月4日 カートとの口論の未、コートニーが警察に通報。自宅から銃3丁が押収され、カートは、留置所に3時間、身柄を拘束される。

59、1993年7月 ニューヨーク市アーヴィン・プラザで催されていたニュー・ミュージック・セミナーで、ニルヴァーナは予告なしのギグを行なう。

60、1993年9月21日 「イン・ユーテロ」がリリースされる。

61、1993年10月18日 2年ぶりの全米ツアー開始。

62、1994年1月 「イン・ユーテロ」の店頭販売を拒否していたウォール・マートならびにKマート両チェーン・ストアへ対策としてアルバム・ジャケットを変更することに、ゲイフィン・レコードとカートの間で同意が交される。

63、1994年2月5日 ヨロッパ・ツアー開始。続く。

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