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QUEEN

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今日の授業は、クイ−ン 「金髪先生の本」

クイ−ンというと、言うまでもなく偉大なバンドですが、今では常識になっているアーティストのビデオクリップ、あれをおそらく世界でいちばん最初に意識的に作り、かつ有効利用したバンドとしてもしられています。
それよりも何よりも大変面白いバンドで、まぁ、あまりにも商業的ではないかと批判されることもありましたが、何を隠そう先生が生まれて初めてお金を出して買ったレコードがこのクイーンのアルバムで、もうブッ飛びまくりです。
そんなクイーンが結成されたのは1970年。
あることがあって1991年から活動停止しています。
メンバ−は、ボーカルがフレディ・マ−キュリーギターがブライアン・メイベースがジョン・ディーコン
そしてドラムスがロジャー・テイラーという4人組。
好き嫌いはあるでしょうが、少なくともアルバム1枚は絶対聴いて欲しいバンドです。


[全員大卒の経歴もつ異色バンド]

まずこのバンドの結成のきっかけ。
1968年まで時代はさかのぼります。
ブライアン・メイというギタリストがロンドン大学の掲示板にメン募、つまりメンバー募集の張り紙をしたところから始まるんだよな。
よくあるね、必ず「当方プロ志向」 と書いてあるヤツ。そいう張り紙ね。
そのメン募で集まってきたメンバーで1970年ごろから活動を始めるんだけれど、4人とも大学卒業あるいは大学卒業に準ずる学位を持っている。
日本でいうと4人とも大卒者のロックバンド、なかなかいないよね、こういうの。
やっぱり最初の2〜3年は食えなかった。
これはどんなに素敵なバンドでもそうだったんだ。
日本みたいにデビュー前にタイアップが決まっているなんていうのはおかしいの。
だって、おかしいじゃない、なんでデビューする前のバンドがドラマの主題歌とか決まってんの?・・・・まぁ、個人的な怒りが入ってしまいましたが、彼らにも食えない時期があった。
でも生活をしていかなくてはならないので、メンバーはそれぞれ他の仕事していました。
ロジャー・テイラーは医学部を卒業してい歯科医と小児科医の資格を持っていたので歯科医。
それからジョン・ディーコン、彼は数学科を出ていたんで高校教師、そしてブライアン・メイは物理学者だったんで王立ロケット研究所に勤めていた。すごいですねぇ。
最後にフレディ・マーキュリーなんだけれど、彼はペルシャ系イギリス人。
父親が裁判の手伝いのような仕事をしていたんで結構世界を歩いていた。
例えば、昔インドもイギリスの政治下にあったからインドにもイギリス人の裁判官が行かなきゃいけない。
そんな感じでフディはインドとか世界中を転々としていたんです。
そのフレディはアート・スクールに通っていてね。
そのときの逸話が残っていますよ。 
「自分はロック・スターになるんだ」
て言い続けていて、図面とかを書くときに使うT定規をマイク代わりにジミ・ヘンドリックスを歌っていたらしい。
まぁ、そんな4人がなんだかんだで71年までに集まってクイーンとしての活動をスタートさせた。
そして1973年に 「クイーン」 というアルバムでプロ・デビューします。
ただ、みんながクイーンの存在を知るようになったのは75年ごろからじゃないかな。
というのも、なかなか売れなかったからなんだよ。
イギリスのバンドなんだけれどイギリス国内じゃぜんぜん売れない。
72年には年間5回しかライブをやっていない。
お客さんの数は最多でたった6人。
あのクイーンがですよ。
ちなみに彼らがその後の20年間で売り上げたアルバム枚数が全世界で1億枚。
そんなビックになる発端になったのが・・・実は日本だったんですね。
日本でブレイクしたんです。

[“女王さま”は究極の気配り屋 ]

1975年、クイーンは 「ボヘミアン・ラプソディ」というロックとオペラを融合させたような素晴らしいシングルを発表しました。
これが日本人好みだったんでしょうか。
日本での人気は一気に頂点へ。
そして日本でブレイクしたことでロンドンでも火がついていた。
だから彼らは日本人に感謝していて「手をとりあって」という歌を日本語で歌ったりしている。
それからフレディは日本の骨董品を買うためにたびたび来日していて、自分の家の庭の池に錦鯉を泳がせたりしていたんだ。
だから、日本とはかなり相性がいいと思われていたんだけれど、実はクイーンは世界中でも同じように好かれていたということを言っておきたいな。
例えば、ブラジルでライヴをやるときはポルトガル語で歌ったりとか。
日本だけで感じがいいのではなく、世界中どこでも感じよかったんだ。
だからって「八方美人」とは思わない、彼らを「究極の気配り屋」だと思う。
だって、ライヴやっても客が来ないときにリンゴすってジュースにして出したり、ポテトテチップ作ったりしてサービスしていたんだよ。
まぁそれからはビックになったんだけれど、お金が入るようになってからどうしたか?自分たちの関係者を呼んでパーティーを開くんです。
そのパーティーというのが、記録に残っているうちで、いちばん安かったもので1000万、高かったもので5000万円も使っている。
どんなパーティーだったのかというと、それはそれ華やかで何十人ものトップレスの女性がいたらしい。
その女性たちが酒や食事をお客さんに持っていっていく、いわばコンパニオンだったわけだ。
一方、女性が集まるところには究極のマッチョマンがいる。
さらにはクイーンなので王冠の形の巨大なケーキを飛行機で運ばせて披露する。
そんな仕掛けがありながら、もちろん招待客には一銭も払わせないという、そういうお金の使い方をフレディたちはしていたんだ。


[ エイズを公表、そして翌日フレディは逝った ]

さて、ここからフレディ・マーキュリんの本質に迫っていきます。
まず覚えておいてほしいのはフレディという人はゲイだったということ。
男が男を好きになるというヤツね。
パーティーなんかでマッチョマンがいたのは、フレディ自身がそういう肉体派の男性がすきだったせいでもある。
だからパーティーに明け暮れて男性を恋人にしていたんだけれど、その一方で19年間連れ添った女のひともいたんでね。
フレディはいわい両刀使いで、肉体のSEXは男、精神的なSEXは女というふうに分けていたようなんだ。
でも結局、彼はエイズになってしまうんです。
86年に発病、そして91年に亡くなってしまうわけです。
*バスケットボールのマジック・ジョンソン*はHIVウイルスの保菌者であると記者会見で発表して今でも発病せずに生活してるけれど、フレディの場合はエイズであると記者会見した翌日に死んでしまった。
5年間誰にも言えなかったらしいんだね。
フレディは自分が死ぬとわかったとき、マネージャーとかまわりのスタッフ10人に何億もする家を1軒ずつ買ってやった。
ほら、「究極の気配り屋」だから、「今までありがとう」てお礼の気持ちを込めてね。
ほんとうにプレゼントしまくって死んでいったんだよ。
しかも、彼の遺言にこんなのがあった。
いちばん売れた「ボヘミアン・ラプソディ」の印税の権利すべてをエイズのチャリティ団体に寄付する、というもの。
そしてレコード会社が改めて 「ボヘミアン・ラプソディ」を追悼盤という形で発売して、莫大なお金がエイズのチャリティ団体に寄付されたんだ。
最後の最後まで「気配り屋」だったというわけだ。


*全米プロバスケット・NBAを代表するスーパースター。ロサンゼルス・レイカーズを5度のファイナル優勝に導くが、1991年HIV感染者であることを公表し引退する。が、92年バルセロナ五輪んのドリームチームに参加、念願の金メダルを獲得。作季、選手として復帰したが、シーズン終了後引退した。*


[ “気配り”拒否は愛情の証明 ]

20年間トップの座を守り続けることは大変だったと思うけれど、結局フレディはパーティとゲイに溺れてエイズで死んでしまった。
エイズにも薬害によるものとかいろいろな原因があって、ひとくちに性交渉が原因とは言えません。
でも、フレディの場合はやりまくって、遊びまくって、使いまくって、シンガーとしては一流のプロになったものの、結局そうやって死んでしまった。
で、280万ポンド (何百億) という遺産があって、プレゼントをしまくったのだけれど、最後まで受け取ってくれなかった人たちがいるんです。
フレディのお父さんとお母さん。
大事に育てた息子が、ロックスターになったことはうれしい。
でも、そんなわけのわからないお金は受け取れない、うれしくて仕方ないけどやっぱり受け取れない、と飛行場のすぐ近くのフラットでお父さんとお母さんは生活していたんだ。
で、最期の言葉。
フレディが息を引き取る前に遺した最期の言葉というのが「僕にはやり残したことがない」。
たった40何年かんの生涯で「やリ残したことがない」と言ったフレディも立派ですね。
でもそれ以上に、そんなフレディから一銭も受け取らなかったお父さんとお母さんがフディに贈った言葉というのが、「いつまでもあなたを愛しています」というものだったの。
いろいろな人生があるけれども、親というのはいつまでたっても子供のことを心配するもの、そんな親の愛情をクイーンから強く感じさせられてしまいました。

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“神様”復活に秘められた友情 『第二話』

しかし、そんなパンク・ムーブメントも80年代に入ると終わってしまう。
同時に、イギーもあまり歌わなくなってしまった。
そして、イギーの名は完全に音楽界から消えた、と言われるようになってしまう。
ピンチを2度も助けたボウイもさすがに今回は何もできなかった、と思うでしょ。
ところがまた助けるんです。デビッドボウイが・・・!
では、どうやってボウイは助けたか。
これがね、渋いんだ。
ストゥージズの時代に、バンドの解散の原因となってしまった3枚目のアルバムをボウイは手助けしてあげたよね。
その中にイギーと共作した曲があったんです。
その曲を引っ張り出して、ボウイが自ら精力的に歌ったんだ。
「チャイナ・ガール」という曲をね。
今度はボウイはイギーの前に現れないで、ただ「チャイナ・ガール」を歌いまくる。
それが全世界で売れる。
となると、印税はどこに入る? ボウイとイギーのところだね。
それでイギーはまた立ち上がったです。
ムチャクチャかっこいいよ、デビッド・ボウイ!これだけ裏切られて、本人の前に現れずにこっそりと助けてやるなんてね。
で、さすがにそんなボウイの思いが通じたんでしょう。
イギー本人も現在はドラッグに手を出してないと言っている、自虐的な行為こそ最近は目立たなくなりましたが、ステージでも活躍しています。

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今日の授業は、イギー・ポップ 「金髪先生の本」


パンクというと1970年代にセックス・ピストルズを中心に発達したムーブメントだと思われがちですが、それよりもずっと以前に自分の身体をナイフで切って客に血をなめさせる、そんな大暴れのステージをやっていたアーティストがいるんだね。
イギー・ポップです。
1947年生まれ。
父親は高校の先生、母親はNASA(米航空宇宙局)のエンジニアというすごく優秀な両親から生まれた子供で、いわばエリートだね。
デトロイト*1.という自動車で有名な街で育ったんだけれど、自動車産業が盛んな工業地帯だけに工場で働いている人が多かった。
イギー・ポップはそのなかでロックをやっていくわけで、のちに自分でも育った街の自動車の騒音だとか工場の音だとか、そういいもののが自分の音楽性に影響を与えたんじゃないかと言っているんだね。
ちなみにこのデトロイトからはパンク・ロッカーから崇められるMC5*2.もでています。


*1. 米ミシガン州の商工業都市。
自動車工業都市としてしられ、モーター・シティ (Motor City) とも呼ばれている。
60年代には公民権運動が盛り上がった。


*2. 60年代未期に活躍したパンク・バンド。
ドアーズ、ジェファーソン・エアプレインなどともにベトナム戦争に反対する若者たちをリードするが、72年に解散。
ギターのフレッド・スミスはパティ・スミスと結婚するが95年に死去。



ジム・モリソンに剌激されボーカルへ

さて、イギーは67年にストゥージズというバンドを結成する。
実はそれまでに大学をドロップアウトしてしまっているんだ。
ドロップアウトしてドラマーとしていろいろなバンドを転々とする。
いわいゆる雇われドラマーをやっていたわけ。
そんなとき、ドアーズ*3.というバンドを見てしまうんです。
このドアーズにはカリスマ的存在だったジム・モリソンという人がいた。
このジム・モリソンという人は詩を叫んだり、パフォーマンスすること不思議な魅力がある人で、ボーカルとしてのカリスマ性もあった。
で、イギーはそんなジム・モリソンを見てしまって、自分も才能を生かすためにはドラマーじゃなくてボーカルだ、とストゥージズを結成するんだね。
このストゥージズでも最初はドラマーだったんだけれど、途中からボーカルに転向しています。
このストゥージズで歌っていたころのイギーの服装がすごいです。
派手なカツラ、サテンのズボン、そしてマタニティドレス。
サンテのズボンは当時の北米のバンドで流行っていて、さらに自分の彼女の手作りという条件までついていた。
とても身体に傷をつけて客に血をなめさせるような過激な感じには見えませんよね。
そういうスタイルでイギー・ポップはストゥジズを率いてデビューするわけです。


*3. UCLA映画科卒のジム・モリソンとレイ・マザレクを中心に結成。
モリソンの刺激的な詞でドラマ性の高いライヴを展開。
「ハートに火をつけて (Light My Fire) 」などのスマッシュヒットを放つが71年モリソンが急死し、バンドは崩壊する。
後にオリバー・ストーン監督がモリソンの生涯を軸にした映画を発表している。



自虐的ロッカーの誕生

では、なぜ過激なステージをやるようになったか?2つ説があるんだけれど、事実かどうかは定かじゃないよ、ただまことしやかに言われているだけだかね。
ある日のライヴで最前列にすごいグラマーな美人が2人いるのをイギーは見つけたんだ。
で、こう思うわけです。 「あそこに飛び込んだら気持ちいいだろうな」と。
実際にイギーは飛び込んでしまうんだけれど、みごとに客は引いてしまって自分は血だらけになちゃった。
そんなイギーに客はヤンヤンの喝さいを送ったわけです。それ以来、血を流すステージを始めたという説。
もう一つ。イギーは彼女が作ってくれたサンテの生地のズボンをはいていたんだけれど、どうも彼女の作り方がイマイチだった。
そのせいか、ライヴ中にズボンが脱げてしまったというハプニング。
それが裸のパフォーマンスの始まりだという説。
ウソかホントかわからないけれど、一応この2つの説があります。
いずれにしろ、だんだん彼の本性とも言うべき、体の中に秘められていたパワーが表に出てくる。
なにがきっかけだったのかはわからないけれど、自分の体を傷つけたり、ロウソクの蝋をたらしたりとかしながら歌うようになってしまった。
そんなイギーを見て「私こういうのダメー」という人もいるでしょう。
そんな人にとってはイギーは単なるヘンなヤツにしか見えないだろうね。
でも、もし彼が心の中に燃え上がるものがあり過ぎてしまって、歌をただ歌っているだけではそれを押さえ付けることができない、としたらどうだろう。
もちろんボーカリストは、バンドの編成に合わせて歌っていればそれでいいのだけれど、仮に自分の魂がそれ以上のところまでいってしまってお客にもっとスゴイもの見せてやる、俺の命がけの何かを見せてやる、と思ってしまったらどうだろう。
「ヘンなヤツ」と思われる行為であったとしても、どこかで「これがロックなんだ」という気持ちが彼にも芽生えたとしたら。
周りは理解しないだろうけれどね。
いずれにしろ、全米中に“自虐的なロッカー”として彼の名前は広まっていきます。



薬物中毒者とデヴィッド・ボウイ

そういう形でイギーは自分のスタイルを確立しながらやっていきます。
しかし、よくある話なんだけれど、イギーを含めてストゥージズ全員が薬にはまってしまう。
それがげ原因でレコード会社から2枚めのアルバムを出したところで解雇されてしまった。
もう活動できない、と思っていたとき、ニューヨークである人物と出会います。
その人物はイギーのことを非常に気に入ってしまう。
それは友情なのか、それとも愛なのかよくわからないけれどね。
彼は後々、自分はバイセクシャル、つまり男性も女性も愛するということを認めているから、これは友情を超えた愛だったのかもしれない。
そのイギーと親密になった人物、それは、デヴィッド・ボウイ*4. です。
どれだけボウイがイギーを気に入っていたか。
例えば、ボウイの有名な曲で「ジギー・スターダスト」というのがあるけれど、その「ジギー」は「イギー」にかけたものなんだね。
それぐらいボウイはイギーをかわいがっていた。
さて、イギーたちを見たボウイは「このままニューヨークにいたんでは薬づけになっていくだけだ」と、彼らをイギリスへ連れて帰ります。
ここでやり直そうということで。結果的に、レコード会社をクビになっていたストゥージズは、ボウイがプロデュースをするからということで、3枚目のアルバムを出すことができるようになったんです。
でも、イギーはボウイの申し出を断るんだな。
「プロデュースは自分たちでやる!」と。
まぁ、勢いのある若いバンドなどこによくありがちな強気な行為だけれど。
で、ボウイもそこで折れて、ミキシングを担当することになった。
いわば監督からただのエンジニアに格下げになった感じです。
そこまでしてストゥージズの3枚目のアルバムに協力してやるんだ。
ところが、ボウイのミキシングがいやだと出来上がったアルバムに文句をつけて、ストゥージズは解散してしまいます。
アルバムの出来を理由に。
1974年のことです。
これはボウイにしてみれば大変な裏切りだよね。
薬づけになっている連中をイギリスにまで連れてきてやり、アルバム製作のためのお金を出して、ミキシングまでやってあげてるのに、「お前のミキシングは気にいらねえ」て解散されちゃったんだもの。
さぁ、このころからイギーはひどくなっていく。
酒、たばこ、薬、そして自虐的な行為がエスカレートしてステージに立ってもマイクのところにたどりつくのがやっとという状態になってしまう。
それでも彼は歌うんだよ。
もうとにかくエネルギーが自分ではどうしようもないくらい、湧いては爆発し湧いては爆発し、という感じだね。
結局、イギーは精神病院に入ってしまう。
「もうイギーは復活できない」。
誰もがそう思っていたんだ。
と、そんなイギーのもとへ、お見舞いに来た男がいた。
ボウイです。
そして彼はイギーに言います。
「僕といっしょにまたデモテープを作ろうよ」と。
1976年、ボウイは再びイギーをイギリスに連れていきます。
そして1977年、イギー初のソロアルバム「Idiot」をボウイのプロデュースによって発表するんだな。
このアルバムでのボウイがすごい。
全曲作曲、全曲プロデュース、そして製作の現場では全楽器を担当した。
「全部作ってあげるから君は歌いなさい」て。
イギーの歌声って魅力的なんだよ。
ボウイも彼の歌声に惚れたんじゃいかな。
その後、ボウイのプロデュース2枚のアルバムを発表するんだけれど、この1976〜77年ごろというとセックス・ピストルズやクラシュとかがデビューして、ロンドンやニューヨークではパンクブームが起こっていた。
そんなパンクの連中ってステージで大暴れするんじゃないですか。
でも、イギーはそんなステージを60年代からやっていた。
だから、イギーはパンクの連中から「神様」のように慕われるんだね。
いわば「パンクの神様」です。

『第二話え』

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今日の授業は、ジャニス・ジョプリン 「金髪先生の本」


ではジャニスのヒストリーを見ていこう。


孤独な南部のビートニクス


ジャニス・ジョプリンは1943年テキサス州で生まれました。
幼いころから感愛性の強い子供で、傷つきやすかったらしい。
その一方で、何かをやりたい、やってみたい、と心で叫んでいたんが、それが何かわからない。
高校生のころに湧き起こる問い掛けがすでに始まっていたわけだ。
そんなジャニスに心を許すような友達がたくさんできるはずもなく、少女時代はけっこう孤独だったようですね。
アートや詩に興味を待っていたジャニスはテキサスでビートニクス*1.
(Beatniks) として活動します。
ビートニクス、日本語で言うとビート詩人というんだけれど、街に出ていって自由に詩を叫ぼう、と言う運動です。
しかし、「ひどい目にあったわ」という彼女自身の言葉が残っているように、超保守的な南部の町テキストではビートニクスという、当時としては先進性の高い運動など理解されるはずもありません。
17歳のころ、ジャニスはジャズと出会い、たちまちそのとりこになっていきます。
その後のアーティスト=ボーカリストになるための種がまれかれた時期です。
しかし、まだアートへの興味を持ち続けていたジャニスはテキサス大学へ進学、勉強をつづけます。
そんなときジャニスの将来を決定づける大事件が起きるんだな。
彼女はあるコンテストで弟一位になります。
それは、テキサス大学の男子学生の投票による「キャンパス・ブスNo1コンテスト」。
大学一のブス・・・・。
不名誉な選出に深く傷ついたジャニスは大学を中退します。
追い出されるように、故郷を出てしまうんです。
ただ、それまでの平凡な人生に彼女自身嫌気がさしていたのも事実。
だから「ブスコン」で傷ついたのというのは、単に旅立つきっかけにすぎなかったのかも知れないね。
そんなズタズタになったジャニスの心の支えとなっていたのは、やはり、ビートニクス。
当時、ニューヨークやサンフランシスコではビートニクスが盛んだったんだ。
そのビートニクスに救いを求いを求めたジャニスは故郷のテキサスからカリフォルニアへと旅立ちます。
しかし、そこでも何をしていいのかわからない。
薬物の使用はエスカレートし、ついには薬がなければ生きていけないぐらいの状態になってしまう。
結局治療のために、故郷テキサスに再び舞いもどります。
でも、故郷に帰ってもすべてが好転するわけではない。
むしろ悪くなることもある。
まるで死と隣り合わせのような毎日を過ごすことになってしまう。
そんなある夜、暗闇の中でブルースのレコードを聴いていたジャニスに、ふとこんなひらめきが芽生えます。
「ひょっとしたら私にも歌えるかもしれない・・・・。歌手になろう」それが、ロック史に名を残す女性ボーカリスト誕生の瞬間でした。1966年のことです。
彼女は1970年にこの世を去っているので、ジャニスに残されていた時間は、あと4年しかないことになるね。


*1.(ビート族ともいう。アメリカ西海岸で誕生した体制への異議申し立て運動家。知識断層が中心で、その行動は直接的政治運動ではなく、詩の朗読書など文化面であったのが特徴。紫煙がたちこめるカフェで誕生、芸術・文化さらに生き方の衝撃的な改革を目指し、ジャズと結びついたボヘミアニズムをもっとした。サンフランシスコのノース・ビーチ周辺「ハングリー・アイ・カフェ」などにたむろして詩の朗読会を開いたりしていたが、この地域は1930年代以来の急進派の流れをくみ、同姓愛サブ・カルチャーともつながっていた。そんな彼らも、やがて長く垂れたエスニック風の服装を色彩豊かに着こなす反体制集団・ヒッピーにとって代われる。)


ボーカリストとして西海岸へ

いよいよジャニスの短い音楽人生が始まりまります。
たまたま女性シンガーを探していたサンフランシスコの友人からの誘いを受けたジャニスは、再び西海岸へとむかいます。
そして、ビック・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーというバンドのボーカルとして迎えられます。
やがて、彼らは「ダウン・オン・ミー」という曲で注目をあつめる。
67年にはモントレーポップフェスティバルに参加して、ここでその人気を不動のものにするんだ。
ビック・ブラザー&ホールディング・カンパニーはコロンビア・レコードと契約。
アルバム「チープ・スリル」でメジャー・デビュー飾る。
その「チープ・スリル」からのシングル・カットされた 「心のカケラ」は68年ビルボードで12位の大ヒットを記録します。
さぁ、ジャニスの残りの人生はあと2年です。
やっと順風満帆。
ところが、1年もたたないうちに彼女はバンドから脱退してしまうんだな。
でも、今思うと彼女のこの選択は間違っていなかったと思うんだ。
というのは、どんな理由があったかはわからないけれど、
ここで順調なバンド活動を捨てたからこそソロのボーカリストとして光り輝くことができたと思うから。
もしも、このままビック・ブラザー&ホールディング・カンパニーにとどまっていたら、2年後に死ぬことはなかったかもしれないけれど、25年以上だってもなお語り継がれるボーカリストになっていたかはわからない。



「パール」 は永遠に光輝く・・・・


ソロになったジャニスは69年、アルバム「ジャニス・ジョプリン、コズミック・ブルースを歌う」を発表。
その後、しばらく活動を休む期間もあったけれど、最後となったアルバム「パール」の製作に取り掛かる。
しかし・・・・。
「パール」はついに完成することはなかった。
1970年10月4日、ハリウッドのランドマーク・モーテルで、二度と歌うことのないジャニスが発見されました。
死因はヘロインの大量摂取だった。
ちなみに彼女の死の3週間前、あのジミ・ヘンドリックスが亡くなっている。
くしくもジャニスと同じ27歳だった。
これでジャニスの物語は終わりを告げる。
でも、実はまだ続きがあるんだ。
彼女の死後の71年、アルバム「パール」はリリース。
収録されていた「ミー・アンド・ボビー・マギー」はビルボードのヒットチャートで第一位に輝いた。
この曲は、あのクリス・クリストファーソンとフレッド・フォスターの作品。
クリスは一時期ジャニスと付き合っていたが、この曲を残して別れたそうです。
ジャニスの死後、大ヒットした自分らの曲を、彼はどんな思い出聴いていたんだろうね。
ところで遺作となったアルバムのタイトル「パール」は、ジャニスの愛称。
陳腐な言い方だけど、まさしく「パール」のような光輝く作品になった。
でも、なんだかとても切ない気持ちになるね。

パティ・スミス

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今日の授業は、「シャウト!金髪先生の本」
パティ・スミス


悲しみの“乳母車工場

パティ・スミスは1946年、アメリカのシカゴで生まれている。
幼いころは父親の仕事の関係でフィラデルフィアなどを転々とするんだけど、
女子高生のころになると、
*1.ランボーの詩やピカソの絵にあこがれるような、いろいろな芸術関係に感性をときめかせる少女に成長
します。
*1.(今日の詩人たちに多大な影響を与えた19世紀フランスの天才詩人。15〜16歳のころから反体制的な作品を数多く発表するが、19歳で断筆。「酔いどれ船」ほか。)
もちろんそのころは自分自身が表現者=アーティストになることなど考えもしていなかった。
その後大学に進学して、20歳のときその大学の教授と恋仲になり、子供を身ごもってしまう。
そして67年に出産。
ところが、教授は結婚はおろか、いっしょに生活もしてくれない。
パティは乳飲み子を抱えてシングルマザーになってしまうんだな。
これでは大学なんて通っていられない。
パティはそれまでの生活をすべて捨てて、子供のために乳母車工場で働き始める。
でも、20歳の女の子にとって世の中はまだまだきびしかった。
生活に行き詰まって子供を育てられないと観念した彼女は、子供を里子に出してしまいます。
このとき以来、パティは心の中に、とてもつらいもの、とてもきびしいものを抱えるようになるわけです。
このころパティは、「Pis Factory」 という詩を残している。
Pisは子供言葉で「おしっこ工場」 というのは 「乳母車工場」 の意味です。
その「乳母車工場」という詩にはこんなことが書いている。

『 もうこんな街からにげてやる
  私はニューヨークに渡ってスターになるんだ 』


苦しい中にもきびしい決意が見られる言葉だね。
これがのちに 「ニューヨーク・パンクの女王」*2.と呼ばれるようになるパティのスタートラインでもあったわけだ。

*2.(ニューヨークのライヴハウスCBGBを中心に発達。
パーティらのほかラモーンズ、ブロンディなどが退屈な日常をありがままに歌った。)



Poetry Rock’n Roll Bandの誕生

1969年、パティはニューヨークへ単身やってきます。
そしてこのニューヨークで、彼女はその後の人生を決定づける人物と出会うことになる。
それがロバート・メイプルソープ*3.という写真家。
2人は恋に落ち、やがていっしょに暮らすようになるんだけど、メイプルソープは当時ニューヨークでも
No.1と言われた写真家。
「どうやらメイプルソープが新しい恋人と暮らし始めたたらしい」と、いろいろな有名人が彼のまわりに集まってきてはパティと親しくなっていく。
例えば、あのローリング・ストーンズの唇の絵をデザインしたポップアーティストのアンディ・ウォーホル*4.とか。
そんなニューヨークのトップ・アーティストたちに混じってトッド・ラングレン*5.というミュージシャンがいた。
そしてある日、彼はパティにこんなことを言う。「君の詩は素晴らしい」。
当時、パティは詩を書いていてはクラブとか喫茶店で朗読していた。
さらにトッドはこんなことを言います。
「君の詩とロックを融合させたら、どんなことになるだろう。きっとスゴイことになるよ」
このトッドのひとことが、元祖Poetry Rock‘n Roll Band誕生のきっかけになるわけだ。
パティはトッドの言葉に従ってメンバーを集め、パティ・スミス・グループを結成。
そして1975年、デビューアルバム 「Horses」 を発表する。
ということは、もう20年以上活動していることになりますね。「この本は、1977年にでたやつ。」
でも、なぜかシングルは1996年になるまで1枚も出してない。
とにかくパティ・スミス・グループは 「Horses」 デビュー、このアルバムで詩の朗読にバンドがのる、あるいはバンドが詩の朗読にのる、という新しいスタイルを世の中に発表した。
はっきり言ってこれは本当にスゴイ。

*3.(肖像、花、ヌードをテーマに衝撃的な作品を発表した写真家。男性ヌードや同性愛者たちを撮影した作品などでも話題を集め、全米ボディービルの女王リサ・ライオンのヌード写真で新進写真家としての地位を固める。エイズの宣告を受けた後、花の命に自らの運命を重ねたような作品を発表し、再び話題に。1989年エイズにより死去。)

*4.(「キャンベル スープ缶」、「マリリン」 などの名作で知られているアメリカン・ポップアートの第一人者。 ベルベット・アンダーグランドと組み、音楽と映像の融合を図るなど、センセーショナルな活動に注目が集まった。

*5.(1948年フィラデルフィア生まれ。1968年デビュー。「ハロー・イッツ・ミー」などのヒットのほか、グランド・ファンク、ニューヨーク・ドールズなどのプロデュースも手掛けてる。



絶好期からの転落、そして 「Gone Again」

パティ・スミス・グループはその後毎年1枚のペースでアルバムを発表、79年に通算4枚目のアルバム 「Wave」 を出すところにはパティも 「ニューヨーク・パンクの女王」 として確固とした地位を築いていた。多小男性遍歴がすごいという点もあったけれど、とりあえずアーティストとしてのパティは順風満帆だったと言っていいでしょう。
ところが、79年「Wave」 を発表してしまうと、88年まで活動を停止してしまんです。
なぜ? ここで初めて彼女は家庭を持った、つまり結婚したんだよ。
相手はメイプルソープではなく、元祖パンクバンドMC5 のギタリストのフレッド・スミス。
そして、2人の間には子供が誕生する。
このときまでパティは「ニューヨーク・パンクの女王」としてものすごい内容の詩を叫んできたのに、
結婚して子供が2人生まれたことで、すごく世界を意識した歌を歌うようになる。
例えば、地球はこのまま汚染されていってしまっていいのだろうか、とかね。
結婚した79年から88年の間に、そんな風に考えに考え抜いて、88年アルバム「Dream of Life」で再び活動を開始します。
この「Dream of Life」では、世界の平和とはいったいどんなことだろうとか、地球とはなんなんだろうとか、人間はどうあるべきなのか、といったような内容を歌っている。
要するに平和とか幸福を探求するような内容なわけで、「私は家庭を持って幸せになりました」から、こんな歌を歌えるようになったんだろうね。
さて、20歳で泣く泣く最初の子を里子に出し、単独ニューヨークに乗り込んできて 「ニューヨーク・パンクの女王」と呼ばれるまでになったパティ。
結婚して2人の子供にもめぐまれ、幸せをつかみ取ったわけだけれども、ここから先またも大きな転機をむかえます。
女の子たちがシビレちゃうのはここからだね。
94年、最愛の夫フレッドが心不全で急死します。
パティにとっては8年間、自分が愛したパンクを捨ててまで愛しあった夫、新しい人生を歩ませてくれた夫、そして音楽も自分のためにたくさん作ってくれた夫だった。
そんな相思相愛の協力者を失ってしまう。
その直後、今度は弟のように可愛がっていたニルヴァーナのカート・コバーンが死んでしまう。
さらに長い間パティ・スミス・グループを支えてきたキーボードのリチャード・ソウルも死んでしまう。
そして、実は「Dreamof Life」を発表した翌年の89年に、パティにチャンスを与えてくれたメイプルソープも死んでるんだね。
メイプルソープとはすでに別れていたけれど、パティのアルバム・ジャケットはほとんどメイプルソープが撮影しているから、おそらく別れていてもいい友達だったんだろう。
しかし、そんな理解者もすでにこの世にはいなくなっていた。
さぁ、せっかくここまでやってきたのに、せっかく最初の子供を手放した苦しみ、悲しみから立ち直ってきたのに、自分を支えてくれた人々が次々にこの世を去ってしまった。
おそらくパティにとっては人生最大のピンチだったろうとおもう。
しかし、彼女は考えるんです。
「たくさんの人たちがしんでしまった。でも、私にはまだ2人の子供がいる」。
そう、確かに夫を含め、いろいろな人は死んでしまった。
でも、自分が里子を出した子を含めて3人の子供を、3つの命を生みだしたことは事実だ。
そのうちの2つの命は今も目の前に存在している・・・。
そう考えてなんとか前進しようとするわけだね。
そしてもうひとつ事件がおこります。
そんなこんなでパティが落ち込んで落ち込んで仕方がなかったときに、生んだきりの里子に出した子供から29年ぶりに手紙が届く。
おそらく里子の両親が実母=パティのことをおしえたんだろう、そしてその子も新聞かなにかでパティが
悲運のどん底にいることをしったんだろうね。
手紙には「これからは友達になりましょう。私もミュージシャをしています」という内容が綴られていた。
これからを機にパティは失意のどん底からはい上がります。
そして、96年にアルバム「Gone Again」を発表する。
パティは気が付くと50歳になっていた。
けれども再び復活して叫び始めたんだね。
終わり。

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