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今日の授業は、クイ−ン 「金髪先生の本」
クイ−ンというと、言うまでもなく偉大なバンドですが、今では常識になっているアーティストのビデオクリップ、あれをおそらく世界でいちばん最初に意識的に作り、かつ有効利用したバンドとしてもしられています。
それよりも何よりも大変面白いバンドで、まぁ、あまりにも商業的ではないかと批判されることもありましたが、何を隠そう先生が生まれて初めてお金を出して買ったレコードがこのクイーンのアルバムで、もうブッ飛びまくりです。
そんなクイーンが結成されたのは1970年。
あることがあって1991年から活動停止しています。
メンバ−は、ボーカルがフレディ・マ−キュリーギターがブライアン・メイベースがジョン・ディーコン
そしてドラムスがロジャー・テイラーという4人組。
好き嫌いはあるでしょうが、少なくともアルバム1枚は絶対聴いて欲しいバンドです。
[全員大卒の経歴もつ異色バンド]
まずこのバンドの結成のきっかけ。
1968年まで時代はさかのぼります。
ブライアン・メイというギタリストがロンドン大学の掲示板にメン募、つまりメンバー募集の張り紙をしたところから始まるんだよな。
よくあるね、必ず「当方プロ志向」 と書いてあるヤツ。そいう張り紙ね。
そのメン募で集まってきたメンバーで1970年ごろから活動を始めるんだけれど、4人とも大学卒業あるいは大学卒業に準ずる学位を持っている。
日本でいうと4人とも大卒者のロックバンド、なかなかいないよね、こういうの。
やっぱり最初の2〜3年は食えなかった。
これはどんなに素敵なバンドでもそうだったんだ。
日本みたいにデビュー前にタイアップが決まっているなんていうのはおかしいの。
だって、おかしいじゃない、なんでデビューする前のバンドがドラマの主題歌とか決まってんの?・・・・まぁ、個人的な怒りが入ってしまいましたが、彼らにも食えない時期があった。
でも生活をしていかなくてはならないので、メンバーはそれぞれ他の仕事していました。
ロジャー・テイラーは医学部を卒業してい歯科医と小児科医の資格を持っていたので歯科医。
それからジョン・ディーコン、彼は数学科を出ていたんで高校教師、そしてブライアン・メイは物理学者だったんで王立ロケット研究所に勤めていた。すごいですねぇ。
最後にフレディ・マーキュリーなんだけれど、彼はペルシャ系イギリス人。
父親が裁判の手伝いのような仕事をしていたんで結構世界を歩いていた。
例えば、昔インドもイギリスの政治下にあったからインドにもイギリス人の裁判官が行かなきゃいけない。
そんな感じでフディはインドとか世界中を転々としていたんです。
そのフレディはアート・スクールに通っていてね。
そのときの逸話が残っていますよ。
「自分はロック・スターになるんだ」
て言い続けていて、図面とかを書くときに使うT定規をマイク代わりにジミ・ヘンドリックスを歌っていたらしい。
まぁ、そんな4人がなんだかんだで71年までに集まってクイーンとしての活動をスタートさせた。
そして1973年に 「クイーン」 というアルバムでプロ・デビューします。
ただ、みんながクイーンの存在を知るようになったのは75年ごろからじゃないかな。
というのも、なかなか売れなかったからなんだよ。
イギリスのバンドなんだけれどイギリス国内じゃぜんぜん売れない。
72年には年間5回しかライブをやっていない。
お客さんの数は最多でたった6人。
あのクイーンがですよ。
ちなみに彼らがその後の20年間で売り上げたアルバム枚数が全世界で1億枚。
そんなビックになる発端になったのが・・・実は日本だったんですね。
日本でブレイクしたんです。
[“女王さま”は究極の気配り屋 ]
1975年、クイーンは 「ボヘミアン・ラプソディ」というロックとオペラを融合させたような素晴らしいシングルを発表しました。
これが日本人好みだったんでしょうか。
日本での人気は一気に頂点へ。
そして日本でブレイクしたことでロンドンでも火がついていた。
だから彼らは日本人に感謝していて「手をとりあって」という歌を日本語で歌ったりしている。
それからフレディは日本の骨董品を買うためにたびたび来日していて、自分の家の庭の池に錦鯉を泳がせたりしていたんだ。
だから、日本とはかなり相性がいいと思われていたんだけれど、実はクイーンは世界中でも同じように好かれていたということを言っておきたいな。
例えば、ブラジルでライヴをやるときはポルトガル語で歌ったりとか。
日本だけで感じがいいのではなく、世界中どこでも感じよかったんだ。
だからって「八方美人」とは思わない、彼らを「究極の気配り屋」だと思う。
だって、ライヴやっても客が来ないときにリンゴすってジュースにして出したり、ポテトテチップ作ったりしてサービスしていたんだよ。
まぁそれからはビックになったんだけれど、お金が入るようになってからどうしたか?自分たちの関係者を呼んでパーティーを開くんです。
そのパーティーというのが、記録に残っているうちで、いちばん安かったもので1000万、高かったもので5000万円も使っている。
どんなパーティーだったのかというと、それはそれ華やかで何十人ものトップレスの女性がいたらしい。
その女性たちが酒や食事をお客さんに持っていっていく、いわばコンパニオンだったわけだ。
一方、女性が集まるところには究極のマッチョマンがいる。
さらにはクイーンなので王冠の形の巨大なケーキを飛行機で運ばせて披露する。
そんな仕掛けがありながら、もちろん招待客には一銭も払わせないという、そういうお金の使い方をフレディたちはしていたんだ。
[ エイズを公表、そして翌日フレディは逝った ]
さて、ここからフレディ・マーキュリんの本質に迫っていきます。
まず覚えておいてほしいのはフレディという人はゲイだったということ。
男が男を好きになるというヤツね。
パーティーなんかでマッチョマンがいたのは、フレディ自身がそういう肉体派の男性がすきだったせいでもある。
だからパーティーに明け暮れて男性を恋人にしていたんだけれど、その一方で19年間連れ添った女のひともいたんでね。
フレディはいわい両刀使いで、肉体のSEXは男、精神的なSEXは女というふうに分けていたようなんだ。
でも結局、彼はエイズになってしまうんです。
86年に発病、そして91年に亡くなってしまうわけです。
*バスケットボールのマジック・ジョンソン*はHIVウイルスの保菌者であると記者会見で発表して今でも発病せずに生活してるけれど、フレディの場合はエイズであると記者会見した翌日に死んでしまった。
5年間誰にも言えなかったらしいんだね。
フレディは自分が死ぬとわかったとき、マネージャーとかまわりのスタッフ10人に何億もする家を1軒ずつ買ってやった。
ほら、「究極の気配り屋」だから、「今までありがとう」てお礼の気持ちを込めてね。
ほんとうにプレゼントしまくって死んでいったんだよ。
しかも、彼の遺言にこんなのがあった。
いちばん売れた「ボヘミアン・ラプソディ」の印税の権利すべてをエイズのチャリティ団体に寄付する、というもの。
そしてレコード会社が改めて 「ボヘミアン・ラプソディ」を追悼盤という形で発売して、莫大なお金がエイズのチャリティ団体に寄付されたんだ。
最後の最後まで「気配り屋」だったというわけだ。
*全米プロバスケット・NBAを代表するスーパースター。ロサンゼルス・レイカーズを5度のファイナル優勝に導くが、1991年HIV感染者であることを公表し引退する。が、92年バルセロナ五輪んのドリームチームに参加、念願の金メダルを獲得。作季、選手として復帰したが、シーズン終了後引退した。*
[ “気配り”拒否は愛情の証明 ]
20年間トップの座を守り続けることは大変だったと思うけれど、結局フレディはパーティとゲイに溺れてエイズで死んでしまった。
エイズにも薬害によるものとかいろいろな原因があって、ひとくちに性交渉が原因とは言えません。
でも、フレディの場合はやりまくって、遊びまくって、使いまくって、シンガーとしては一流のプロになったものの、結局そうやって死んでしまった。
で、280万ポンド (何百億) という遺産があって、プレゼントをしまくったのだけれど、最後まで受け取ってくれなかった人たちがいるんです。
フレディのお父さんとお母さん。
大事に育てた息子が、ロックスターになったことはうれしい。
でも、そんなわけのわからないお金は受け取れない、うれしくて仕方ないけどやっぱり受け取れない、と飛行場のすぐ近くのフラットでお父さんとお母さんは生活していたんだ。
で、最期の言葉。
フレディが息を引き取る前に遺した最期の言葉というのが「僕にはやり残したことがない」。
たった40何年かんの生涯で「やリ残したことがない」と言ったフレディも立派ですね。
でもそれ以上に、そんなフレディから一銭も受け取らなかったお父さんとお母さんがフディに贈った言葉というのが、「いつまでもあなたを愛しています」というものだったの。
いろいろな人生があるけれども、親というのはいつまでたっても子供のことを心配するもの、そんな親の愛情をクイーンから強く感じさせられてしまいました。
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