名前のない馬鹿 -A Fool With No Name-

5月3日〜5日の日中、ほぼ外にいた結果、顔にすごい日焼けをしてしまいました。

鬱ってしまいました

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8.自失 ― last word ―
 
葛野さんの私に対する態度は、日増しに悪化の一途を辿っていきました。
そして、それと並行して次第に葛野さんの言動が社会人としてどう考えてもおかしい、常軌を逸したものになっていきました。
 
葛野さんは自分の仕事量にある程度の余裕があるのですが、やはり一日中工程内検査を行っているわけにはいかず、自分の担当する受け入れ工程と印刷工程の往復という形で日々の仕事をしていました。
ですので、荷物が一度に大量に届いたときなどはそちらに張り付きとなり、こちらから内線電話を使って葛野さんを呼び、検査を行ってもらうことになっていました。
これが葛野さんにとって都合の良いタイミングでなかった場合、実に様々な罵声を浴びせられる結果となりました。
 
ある日、私は印刷の修正に手間取り、葛野さんがセンターから出て行ってからしばらくしてから葛野さんに検査依頼の電話をしました。
なぜ修正にそれほど手間取るかというと、どんな小さな印刷のはみ出しやズレなども、例えそれがじゅうぶん社内の印刷基準内に収まっていたとしても、葛野さんの主観で「社内基準がどうとかは関係ねえんだよ、俺はこの印刷が気に食わねえから良品とは認めない、やり直せ。」の一言でやり直しをさせられてしまうためでした。
このため、私は細心の注意を払って印刷したあと更に全てをチェックし、僅かなはみ出しを全て削り、修正を施していました。
そのせいで一度は上がった加工効率がまた一気に落ち込み、一日の4分の1程度を修正に費やす日まで出てくる始末でした。
 
そんなこんなで電話を切ってしばらくすると、どかどかと足音を荒げ、大またで葛野さんがセンターに入ってきました。
そして、開口一番
 
「俺は、おめえの為に仕事してんじゃねえんだよ! こっちだって忙しいつってんだろが!
 おめえはな、俺が気持ちよく検査できるようにタイミングを見計らって電話しろよ!」
 
また今日も始まったか…と思いましたが、私はとにかく平謝りし、何とか検査をしてもらうようにお願いしました。
その際に、私の手直しで葛野さんがセンターにいた時間内に検査をお願いできなかったことを謝罪しました。
すると葛野さんは
 
「あのな、おめえはさっきから手直しがどうこう言ってるがな、笑わせんじゃねえよ。
 おめえが印刷したモノは、修正したってほとんどが汚ねえ不良品ばっかりじゃねえかよ!」
 
長年培ってきた自分の技術を愚弄され、悔しくて悔しくて、涙が出そうになりました。
私は、葛野さんに歯向かう気力などは積み重なる言葉の暴力ですっかりと削がれてしまっていたので、言われた全ての言葉を不器用な笑顔を貼り付けた自分の中にしまいこむようになってしまっていました。
ですので、あくまで私は低姿勢を貫き、いつも私の作る不良品で検査に迷惑をかけて申し訳なく思っています、できるだけ気をつけるようにしますと伝えました。
しかし葛野さんの攻撃は止みませんでした。
 
「君は、本当に仕事が遅いんだねえ、何でこんなに生産性が低いんだ?」
 
もう、何も言えませんでした。
ただただ、謝り続けるだけでした。
 
しばらくして葛野さんは検査をはじめ、ゆっくりと嘗め回すように検査をしてから、また足音を荒げてセンターから出て行きました。
この頃から周りの人たちは、見事に誰もが見て見ぬふりを貫きました。
どうやら、知らぬ間にまた私は北部センターのときと同じく一人ぼっちになってしまっていたようでした。
もう、絶望しか残っていませんでした。
 
そんな葛野さんですが、発生した不良品の殆どを後ろの工程に流すことで有名なほど、仕事に関してはミスが多い人でした。
あるとき、私がしでかしてしまった筐体間違いのミスを葛野さんが検査で見落とし、品質管理の検査で不良が発見されて葛野さんに指摘が行ったとき、葛野さんは私のところに来てこう言いました。
 
「いいか、言っとくけどな、今回のこの筐体間違いのミスはおめえのせいだからな。
 俺はただ単に見落としただけだから悪くねえんだよ、だがな、おめえは違うんだよ。
 おめえは見落としたんじゃねえ、最初から見てねえんだ。だからおめえが悪いんだよ!」
 
葛野さんは自分が見落としてしまったというその事実を、自分が作り出した強引な理論で正当化し、私だけが悪いのだと散々大声でののしってきました。
自分自身でもミスをしてしまったことはその都度へこんでしまうほどに悔しい出来事なのですが、その上そんな事まで言われてしまった私は、恐らくうつろな顔で、それでも一生懸命謝っていたのだと思います。
もうそろそろ、限界が訪れようとしていました。
 
そして今年の4月中旬、私はついにとどめを刺されました。
 
その日は実に出荷の多い日で、私は印刷の効率を上げるためにいつも使用している作業台にでは無く、工場などでよく見られる110×110のパレットにダンボールの板を敷き、そこに注文1件につき10個ずつの筐体をダンボールの板を間仕切りにして幾重かに重ねて加工していました。
葛野さんは私の加工している様子をしばらく見ていました。
しかし特に何も言ってくる様子は無かったので私はそのまま作業を続け、印刷が完了したパレットを指定の検査場所まで運びました。
それからしばらくして、突然葛野さんの叫び声が響き渡りました。
 
「おめえ! この野郎!」
 
葛野さんは私の所へ急ぎ足で駆け寄ってくると、先ほど私が運んだパレットを指さして言いました。
 
「あんな置き方しやがったら、俺が検査しづれえじゃねえかよ!」
 
ちなみに、PAD印刷は大口物件の加工がメインのために先ほど私がやったようにパレットへ置いていますが、シルク印刷の場合は小口物件の加工ばかりなので、可動式の小さな作業台に載せて運んでいました。
その場合は筐体が棚に並べられたような形で置かれるため、検査は平置きにされるよりもやりやすいのは事実です。
ですが、私は葛野さんの検査のやりやすさを考えて、自分の作業効率を無視して全ての印刷面を外側に向けて置くことで、ひと目で検査が出来るようにしていました。
それでも葛野さんは地面に近い場所に積まれた筐体をしゃがんで検査することに我慢がならなかったらしく、顔を赤鬼のようにしてまくし立てました。
 
「いいか! これは完全に俺に対する嫌がらせだからな!
 おめえは俺に面倒くさい事をやらせたんだからな!」
 
私はごめんなさい、ごめんなさい…を繰り返していたと思います。
もう、この頃には葛野さんに対しては純粋な恐怖心しかなく、何を言われても自分が悪いんだと思ってしまうような状態になってしまっていました。
顔はその頃も葛野さんに対しては笑顔だったのか…、それは今でも解らないです。
とにかく、その後葛野さんに続けざまに言われた言葉が、私の思考を完全に停止させました。
 
「言っとくがな、俺はこういう事は絶対に許さねえんだからな!
 お前が俺に嫌がらせをして困らせたいってんなら、こっちには考えがあるんだよ!
 あらゆる手を使っておめえを俺と同じ目に遭わせてやるからそのつもりでいろ!
 おめえが作ったものを基準を厳しくして不良品にしてやることだって出来るんだからな!
 絶対に後悔させてやるから覚悟しろ!」
 
後悔させられる、許されない、同じ目に遭わせられる…。
まるで全身がふわり、と浮き上がってしまったような、今まで感じたことの無いような不快な感覚が私を包みました。
地面が無いような、すぐ頭の上に天井があるような、何をやっても、もう無駄なような、足掻く事を、守る事を、すべてを投げ出させられたような…。
 
足元に感覚が戻り、地面の上に立っているということを認識できたとき、あはは、と、笑った事を覚えています。
その後の記憶は、驚くほど冷静にこれから5日後までの出荷数を調べ、生産予定を立て、帰るときに見たタイムカードの時間は深夜の12時半を過ぎていたことぐらいしか覚えていません。
誰と何を話したか、その後葛野さんに何を言われたか、思い出そうとすると鈍痛を伴ってノイズが走るように記憶が歪むので、思い出す事は諦めました。
 
そして、次の日の朝、私は完全に心が折れていました。
そのときのことは、「オレがうつになりまして・1」に書いてあります。
 
ここから、私と私の心との無音の戦いが幕を開けました。
どうすることも出来ないほどの無気力な中で起こるさまざまな出来事と、色々な人間の側面や本性が、倒れてから今日に至るまでの間、実に様々なことを私に勉強させてくれました。
それはまた、この続きに書いていこうと思います。
 
 
とりあえず、これで私がうつ病になってしまうまでの経緯は全て書き終えました。
話はひとまずこれで前半部分を終了とさせて頂きます。
自分でもこんなに長くなってしまうとは考えていませんでしたが、ここまでこの駄文を読んでいただいた方にこれほどの長文となってしまったことをお詫びし、そして足あとを残していただけなくとも、読んでくれていた全ての方に心からの感謝を申し上げます。
本当にありがとうございます。
 
ここからは倒れた後の話を書こうと思っていますが、少し時間が経って、話をうまく整理できてから書こうと思います。
ですので、もうしばらくお待ち下さい。
ごめんなさい。
 
でも今はそれなりに私、元気でやってます。
7.限界 ― count down ―
 
2011年の1月ごろから、私の環境に変化が訪れました。
会社の品質アッププログラムの一環として工程の中に専門の検査員を導入し、これまで品質管理の担当者が出荷前のチェックを行っていただけだったのが、印刷→工程内検査→パーツ組み立て→品管の検査→梱包・出荷という流れになり、よりいっそう品質管理基準が厳しくなったのでした。
この頃の私は厳しい品質基準を策定されてからの2年に渡る技術研鑽を行った結果、福島工場の品質基準にほぼ沿った品質での印刷を手作業で行えるようになっており、シルク印刷工程からのミスも以前に比べて格段に減り、また、色々と試行錯誤をした結果、版の取り回しや洗浄の時間を短縮する技術も身に付いたために、2年前の倍以上にまで激増した加工件数を、工程にたった一人という環境において残業は相変わらず多いですが何とかこなせるようになっていたのでした。
ですので、工程内検査が新たに行われるようになっても、印刷基準から誤差2ミリ以内という精度はおおよそ守れていたために、それほど問題にはならないはずでした。
 
しかし、現実は全く違っていました。
 
工程内検査に抜擢されたのは40台後半の葛野さんという人で、役職は課長でした。
この方はもともと荷受けや検品といった工程の担当者で、どうやら受け入れ工程に新人が入ったために仕事量に余裕ができ、その余剰時間を利用して印刷工程の検査に回ってくれるというものでした。
こうして新たに工程内検査が行われることになったのですが、予想どおり特に問題は無く、逆に今までならば見落としていたであろうミスも発見されるようになり、それに伴って工程全体の品質が上がっていき、工程内検査はシステムとして非常に上手く機能していました。
そんなある日、私と葛野さんの間で意見の食い違いがありました。
 
ユーザーが印刷色を指定してくる場合、例えば会社で使っている名刺や帽子・ヘルメット、あるいは画像を印刷したものが送られてくる場合が多いのですが、そういった見本となるものが無い場合は、色番指定というものが行われます。
大日本インキ工業という塗料会社が作成したカラー見本帳があり、1000種類を超える色それぞれにナンバーが割り振られているので、お客さんや販売代理店などからはカラーナンバー(DICナンバーといいます)を指定して、それに近い色で印刷して下さい、という指示がこちらへやってきます。
また、色には明度と彩度というふたつの要素があり、明度はそのとおり色の明るさを、そして彩度は色の鮮やかさを言い表す言葉になっています。
そして私達が使用している塗料は、何らかの色に白を混ぜていくと明度が上がる反面、色の鮮やかさは失われ彩度が落ち、くすんだ色になっていくという特徴があります。
 
そのときお客さんから指定されたDICナンバーの色は蛍光色に近い、非常に彩度の高い緑色でした。
その色は今まで何年もやってきた経験上、ひと目見ただけでどうしても現行の塗料では再現できない彩度だということが解り、私は今までやってきたとおりに色の明度をざっくりと近づけて色を作り、印刷を行いました。
今までこういった方法で色を作成してクレームが来たことはほぼ無いと言ってよく、他センターを含めた全国のシルク印刷技術者の統一見解として、見本の色と同じか、それ以上のキレイな色を作れば問題は無いという暗黙のルールがありました。
その日、印刷してからしばらくして私は葛野さんに呼び出され、指定された色と印刷された色が違うという指摘を受けました。
私は先ほどの明度と彩度の違い、使用している塗料の特徴などを葛野さんに説明し、技術的にどうしてもこの見本の色は作れないのですと伝えました。
どうやら葛野さんは納得いっていないようで、しきりに何とかならんのかと聞いてきます。
まあ、正直に言って気持ちは解りますので、私は今までも何度もこの属性の色指定をされてきたことと、各センターのシルク印刷技術者も同様の問題にぶち当たって苦労した結果、明度のみを近づけるという手法が出来上がったことを伝え、実際その方法で今までクレームが来たケースはほとんど無いのでご安心くださいと付け加えました。
しかしそれでも葛野さんは首を縦に振らず、この色じゃダメだろ絶対…などとひとりごちていました。
そして突然
「ダメだダメだ、こんな色! とっとと作り直せ!」
と、叫び始めたのです。
私が突然のことに言葉を失っていると、続けて葛野さんは
 
「いいか! 俺はこの色を認めないんだ! だから、これは不良品なんだ!
 色を作れないのはお前の能力の問題だ! つべこべ言ってねえで今すぐ作り直せ!」
 
周りは葛野さんの豹変ぶりに驚き、仕事の手を止めてこちらを見ています。
私はどう対処していいか解らず、あわあわとしていたと思います。
そして、怒りに目を吊り上げる葛野さんに私は、とりあえず先ほどと同じ説明を先ほどよりも丁寧にして、客先からはクレームにはならないと思いますし、この色の再現はどうしても無理ですと念を押しました。
すると、
 
「いいか、客なんか関係ないんだ! 俺が、この色がおかしいと言っているんだ!
 俺が品質がおかしいと言ったら、お前はそれに従うのが仕事なんだよ!」
 
何を言っているんだこの人は?
客なんか関係ないだと?
 
私は、この言葉にかちんと来ました。
そこで私は少し語気を荒げて、こちらのどうしようもない物理的要因による問題だった場合、その色の些細な違いをお客さんが問題としなければ、たとえこちら側が不良品だと騒いでもそれはお客さんにとっての良品となるのではないか、そして、何度も言うように私はこの属性の色を今までに幾度も指定され、そのたびにこのような色を作り、結果として客先からクレームになった事は無いし、そもそもインクの特徴などが解らないのにどうして葛野さんがそこまで強く言いきれるのかが解らない、そして何より客なんか関係ないというのはおかしいと思う、と伝えました。
 
理路整然と正論をぶつけられたことに対して葛野さんは頭にきたんだと思います。
「いいから作れ! これは命令だ!」
と叫んだかと思うと、拳を振り上げて、だん! と机を叩きました。
私はこれ以上説明してもムダだと思いましたので、
「私にはこの色は再現できません、このまま出荷して下さい。 これで、いいんです!」
こう言うしかありませんでした。
最終的にこの問題は葛野さんが品質管理部門の責任者を呼び出して不良品だと断定するように仕向けたのですが、品質管理部門には福島センターができて間もなく同様の内容で指摘され、説明をして色の再現が不可能であることを理解してもらっていたので、結局何の問題にもならず製品はそのまま出荷されました。
葛野さんはこの一連の流れで自分が下した結論が間違っていると会社側に証明される結果となったことに、どうしても納得が行かなかったのだと思います。
次の日から、葛野さんの態度はがらりと変わってしまいました。
 
とにかく、私は葛野さんに嫌われてしまったようでした。
事あるごとに大声を張り上げられ、一方的に怒鳴られ、恫喝される。
それはもう、完全に好き嫌いでのみ仕事をされました。
キレイ事かもしれませんが、私は会社にできるだけ私情を持ち込まず、好きや嫌いといった感情で仕事相手を見ないように心がけているフシがあります。
そういった考えの私にとって葛野さんの態度は極度のストレス以外の何者でもなく、私は何を喋ってもまともに相手をされずに怒鳴られるだけという日々を過ごすうちに、とにかくずっと普段から葛野さんに対して笑顔で接することだけを考えるようになりました。
いつかは私の事を認めてくれるだろう、いつかは、自分の取っている態度がエゴそのものであるということに気づいてくれるだろう…。
私は笑顔を貼り付けたまま、葛野さんの言う事を忠実に守り、どうしても無理な事はやんわりと断り、どうにか怒鳴られる回数を減らそうと努力しました。
結果として私は毎日延々と続く大量の仕事に加え、PAD印刷からの手直しの依頼も受け、更に葛野さんの逆鱗に触れないように気を遣いながら仕事をする…。
段々と、私は何の為に、何を目的として仕事をしているのかが自分でも解らなくなってきていました。
日増しにため息の数は増え、何時間布団にいても疲れの取れない、眠りの浅い日が続くようになりました。
何とかして葛野さんからの恫喝を停めなければ、このまま私はおかしくなってしまう、そう思い始めました。
 
しかし結果として最後まで葛野さんは自分の過ちに気づくことは無く、逆にその態度はエスカレートの一途を辿っていったのでした。
そして心が根元から折れる原因となった、葛野さんのあの言葉が私を襲うのです。
「オレがうつになりまして・7−1」の続きです。
 
 
そして問題はこれだけではなく、開設から2年ほど経った頃からこれよりも更に悪質な私への依存が始まりました。
 
PAD印刷が犯したミスの修正・手直し。
 
これが、本当に苦痛なのです。
 
PAD印刷はその単純作業に適した特性上、大口の物件には絶大な効果を発揮しますが、逆にデメリットとして版の交換に時間がかかるため小口物件はシルク印刷のような版の取り回しにほぼ時間を要しない印刷方法が適しているのです。
そして、筐体には成型時によく異物が混じります。
本来ならこういった異物混入の製品はパーツ組み立て工程などでチェックを受けて発見され、不良品として扱われるために各センターへ出荷される事はありません。
しかし福島工場では筐体成型工程から直接印刷工程へ流されるため、成型工程でのざっとしたチェックを潜り抜けてしまった不良品が印刷工程へ流れてきてしまうことが多々あります。
これを印刷者が発見できなかった場合は、パーツ組み立てやその後の梱包の工程で不良が発見され、印刷工程に良品の筐体と再加工依頼と書かれた紙とともに戻ってくるのです。
さて、これは、誰がやり直すべきなのか?
本来は、PAD印刷工程の印刷担当者か行うのが当たり前です。
しかし、福島工場では先述のPAD印刷は版の取り回しに時間がかかるという特性のせいで、そのミスのほとんどを私が善意で手直しして出荷しているのです。
更に、そのたったひとつの為に江波は色を作らなければならず、その面倒くさい行為から逃げたい彼は、不良品の筐体と良品の筐体を持ちながら、くしゃくしゃの顔をして私の横に立つのです。
しかも、江波は私に手直しを頼むという行為自体から逃避したいらしく、午前中の早い段階で発覚した不良を隠し、午後3時ごろに今見つかった不良ですと持ってくることが多々ありました。
私はパーツ工程からの、手直し品があったがまだこちらに流れて来ないという苦情により江波が不良品を隠している事を知ってしまうパターンが多く、こうなってしまうとそのたったひとつの製品の為にパーツ工程の予定が狂い、良品が届くまでは梱包・出荷ができなくなってしまうことで後工程に多大な迷惑を掛けてしまうことになるのです。
私はそれらの工程がそういった点で辛酸を飲まされている事を知っていましたので、江波に対しては不良が発覚したらできるだけ早く対処して欲しいと口すっぱく言い続けていました。
しかし、彼は今日に至るまで全く同じ事を繰り返し続け、私は午後の遅い時間から17時の出荷締め切りまでという限られた時間で印刷を行い、どうにかこうにか出荷に間に合わせるのです。
 
なお、私は不良品の手直しを持ち込まれてもよほどの事でなければ断った事はありませんし、嫌な顔をしたこともありません。
結局は誰かがやらなければならない事を、その時点で最も早く対処できる人間がするだけのこと、そう思っているからです。
 
しかし、この手直しという行為はこちらで予定を組んで効率よく作業を行う上ではたいそう邪魔な異分子であり、不良が発覚した時点で私は一度軌道に乗っている作業を全て止めて、最優先で不良品の対処にあたらなければならなくなります。
そしてこの不良が多い日で一日に10件近く私の元へ運ばれてきて、今では江波だけでなく他の作業者までも、以前は作業を止めることに対してそれなりに申し訳無さそうに私の所へ手直し品を持ってきたのですが、最近ではすいませんねー、とだけ言い残して不良品を置いていくこともしばしばです。
これが、Mさんがいなくなってから間もなくの頃から3年間以上、最低でも週に3日は繰り返され続けました。
 
私は、本来の仕事が手直しに邪魔されて遅々として進まないストレスに加え、江波のふざけた逃避癖と言動に対して憤りを通り越し、どうしてこいつはこんな人間なんだ、どうしてこいつはこれだけ他人に迷惑をかけている事を自覚せずに無責任に振る舞えるんだと考えさせられる日々が続きました。
そんな中で江波は相変わらず卑屈を装い、宮内に名前を呼ばれると持っているものを放り投げてでも犬のように一目散に走っていき、話が終わるとわざわざ私のところに宮内さんにこんな事言われちゃいましたよ〜、などと満面の卑屈な笑みを浮かべて報告に来ました。
 
私は、どうやったらこいつに自分が間違っている事を気づかせ、周りに迷惑をかけないようにさせられるんだろう、どうやったら不良を減らしていくことができるんだろう、どうやったら私に依存する工程全体の体質を断ち切れるんだろう、どうやったらみんなの技術がもっと上がるんだろう、どうやったら、私が、どうすれば…。
 
こんな考えが毎日ぐるぐるぐるぐる私の中を駆け巡り、そして会社に行けば相変わらずな特定の依存体質に晒され、仕事を中断して不良品の対処に追われ、加工数が減少し…。
結局答えは出ず、周りの全員が、大抵の事は私に頼めば何とかなると思っているのでその期待に応えなければならず、そのせいで本当は私は仕事上孤独で辛いという事を誰にも相談できず…。
私はすっかりこの考えと現実の悪循環に落ち入り、抜け出せなくなっていました。
そして知らず知らずのうちにまたストレスが私の心を蝕み始めました。
 
更に、福島センター開設から2年が過ぎた頃からPAD印刷機を増設して各センターから担当地域の仕事を貰い受けるようになり、当然その中には大口物件だけではなくシルク印刷で行う細かい物件も多く存在しており、ただ一人のシルク印刷者となってしまった私には、開設初年度から比較してとんでもない量の仕事が与えられるようになってしまいました。
私は調色能力を高めたり洗浄やその他の準備作業を可能な限り早く行えるように取り回しの技術を向上させ、どうにか激増した仕事に対応していましたが、正直言って限界は近くまで来ていました。
加えてたった一人しか印刷を行えないという理由から、39度まで熱が上がり病院に行っても診察が終わったらすぐに会社に戻って来いと電話が鳴り、更には用事があってもほぼ全くと言っていいほど休ませて貰えず、親戚が次々と亡くなっても一切葬式にすら行かせてもらえないような状態が、私の中で不条理という言葉を伴って葛藤となって渦巻いていました。
そんな不安定な精神を抱えた毎日の中で、私の目の前にあまりにひどい人間が登場します。
 
そして、その人の悪意によって2012年4月、吐き出せず貯め続けたストレスも相まって、私は心にとどめを刺されてしまうのです。
思考停止の時は、もうすぐそこまで迫っていました。
6.依存 ― only one ―
 
私が福島工場に赴任して印刷加工を始めたとき、数人の社員と派遣さんが福島センターのスタッフとして同時に働き始めました。
福島工場では元来筐体の製造などしか行っていなかったために、当然印刷加工などを経験したスタッフは一人もおらず、いわば印刷や色作りに関しては、私とMさん以外の全員が素人という状態から福島センターはスタートしたのでした。
その素人集団の中では私のような者でも色々と頼られるもので、色作りから印刷位置の基本、印刷の概念に至るまで、とにかく色々な基礎部分をスタッフに教えていきました。
そして彼らは少しずつではありますが確実に技術を習得し、それをPAD印刷に応用して生産性を上げていきました。
当然、解らないことなどは随時私やMさんに聞いて対処し、いくつかのミスはありましたが、彼らは日々進歩を繰り返し、現在に至っています。
ちなみに福島センター開設当時にスタッフとして働いていた人は、それぞれ都合があり退職したり他の部署へ移動したりという理由から次々といなくなってしまい、開設から今現在まで通して福島センターで働いているスタッフは男性が二人だけになってしまいました。
そして、Mさんが更迭された後はそういった技術面で指導できる人間は私一人だけとなってしまい、それまでは私が印刷で手一杯の時には代わりにMさんが嫌々ながらも彼らの質問に答えて技術を教えていたのが、全ての彼らの質問や問題に印刷業務と平行して私一人で対処しなければならなくなりました。
この作業はある程度の技術伝達をもって終了し、後は自分たちで覚えていくというのが本来は当たり前なのでしょうが、とんでもない人がそこにいました。
 
私に質問をしてくる調色担当者に、私よりひとつ年下の江波(仮名)という推定140キロほどの男がいます。
彼はもともと福島工場の下請けにあたる会社の従業員であり、そちらに籍を残したまま福島センターへ出向しています。
彼の人間性や特徴を短くて端的な言葉で表すのは非常に難しいのですが、箇条書きにすると以下のとおりです。
 
偽卑屈・狡猾・極端な被害妄想・失敗を過剰に恐れる・歌うように嘘をつく・失敗を他人のせいにするように陰で動く・プライドの塊・弁解や言い訳というものを理解していない・保身最優先・臆病・やりたくない仕事から平気で逃避する・自分より立場の低い相手を卑下する(死ねばいいなどと言って追い出す)・野心家・無責任・周りは自分に最注目していると勘違いしている(自信過剰)・不潔・悪臭・これらのことを指摘しても一切認めず、改善の余地が全く無い
 
今まで色々な人と関わり、仕事をしてきましたが、正直に言って彼ほど社会人として一緒に働きたくない人間は今までいません。
宮内が頭が悪いために社会や仕事を知らない上に権勢を振るいたがる攻撃的な無能なのに対して、この江波という男は自分が卑屈に振舞うことで周りから同情を集めようとし、自分は被害者であるということをアピールすることで味方を作りたがる保守的無能でした。
しかしその正確や行いはえてしてすぐに周りの人間に見抜かれ、結果として彼を知る人間は彼を見放して相手にせず、風呂に入らない不潔さや悪臭も伴って、社員や派遣さんを問わず悪評が絶えない状態になっています。
また、先日本社のCEO(トップの方)が関係部署の役員数名を引き連れて視察にいらっしゃるという話が出た際には、いよいよ普段から働きの悪い自分にCEOがクビを宣告しに来るんだ、俺はこれから先どうやって生きていけばいいんだと半泣きになりながら騒いでいました。
まずもって本社の、それもトップが、数多ある子会社工場の最も末端の現場で働く一人の従業員のことを知っているわけがないという事すら考えず、更に、役員を引き連れて自分のような末端現場作業員をクビにしに来る必要などは全く無いということにさえ考えが回らないのです。
私はどうしたらいいでしょうと言いながら、掃除の時間中ずっと私の後を着いて来る彼のその考えの無さと自信過剰ぶりに、心の底から辟易して、いや、聞いていてよく恥ずかしくなくこんな事を他人に言えるものだと悲しくなってきた事を覚えています。
 
そんな性格の江波に私は色の配合や印刷の基本などを教えたのですが、プライドや卑屈さが邪魔してもとより覚えが悪い上に、すぐに面倒くさいことを諦めて投げ出す性格がもろに出て、開設から4年経った現在でも平気で色の作り方を聞いてきます。
その聞き方がまた問題で、私は開設から1年ほど経った時点から、毎日私のところに質問に来る彼に対し、こちらにも印刷の仕事があるので、まずは自分でやってみて、それでも解らない事があればヒントやアドバイスを聞く程度にしてくれとずっと言い聞かせてきました。
そうしなければ自分でやってみて失敗して、それを糧に覚えるというプロセスを経験できない上に、人に頼りすぎるクセが付いてしまうためなのですが、彼はいくら私がそういった説明をしても一向に理解せずに、解りにくい色の指定があった場合には自分で調色をトライせずにまずは私のところに色見本を持って来て、どうしたらいいか聞いてくる、つまりは一方的な依存状態にあるのです。
そして、もはや言い聞かせることを諦念した私は黙ってその色の構成色を教えるのですが、私が色を混ぜて構成色を調べている際にずっと私の横で
「さすがだなぁ〜、スゴイなぁ〜、やっぱりオレとは違うなぁ〜、オレもこういう風になりたいなぁ〜、 どうやったらこうなれるんだろな〜、
 やっぱりその色はその塗料を使うのか、予想通りだったな、だいたいオレの予想と合ってたんだな、良かった〜。」
などと、わざと私に聞こえるように独り言を言い続けるのです。
これは私をヨイショして自分が怒られないようにしたり、さも自分はこの程度の色は本来自分ひとりで作れるが、念のために私に聞きに来ただけですよというアピール、つまりは自己保身のための下らない言い訳でしかないのです。
私はこの行為や彼の卑屈を演じる言葉遣いに長いこと非常にストレスを感じており、彼が申し訳無さそうにくしゃくしゃの今にも泣き出しそうな表情(もちろん演技)で色見本を持ったまま、作業に没頭している私の横に立つたびに、またか…! という気持ちにさせられ、胃がキリキリと痛んだりもしました。
これが、今現在に至るまで4年もの間、私を苦しめています。
 
 
文字数の関係で、「オレがうつになりまして・7−2」へ続きます。
5. 希望 ― Among the hard days ―
 
死ぬことをやめた翌日、やはり相当ストレスを感じていたのか、耐え難い偏頭痛に襲われた私は脳神経外科へ行き、その場で脳腫瘍を疑われて初めてCTスキャンなるものを受け、お医者さんからきれいな毛細血管ですねえと感心されただけで異常は発見されずに済みました。
しかし根本的な死への憧れは、まだなりを潜めているものの心の奥底には確かにあり、2日間の休みの後会社に復帰した私は、溜まっていた仕事を何も考えずにこなすことで無理やり忘れるようにしていました。
そんな私を救ってくれたのが、当時一緒に働いていた安達さんというパートさんでした。
この救われた出来事については以前日記を書いていたYahoo! Daysに詳しく載せていたのですが、ここではかいつまんで要点だけ書いておきます。
 
安達さんは私の変化を敏感に感じ取り、昼食時間に私に優しく「もしかして、何か嫌なことあった?」と話しかけてきました。
私は、今置かれている現状の不満を誰かに話すことは愚痴であり、それは男がやってはいけない行為だと思い込んでいました。
しかし、そのときの私は目の前で優しく微笑む安達さんに、死のうと思っていたことも含め、自分が抱えている苦しみを切々と10分以上に渡って吐露し続けました。
安達さんは一言も口を挟まずうんうんとうなづきながら最後まで聞き終えると、その微笑みを崩さないまま私の眼を見て言いました。
 
「きっと、一人で抱え込みすぎちゃったんだね。
 本当に、本当によく頑張ってるね。みんな、知ってるよ。」
 
この瞬間、私の中で何かが弾けたんだと思います。
安達さんが、自分の友達にうつ病を患っている人がいるけど、病気なんかしてても、その人はすごく魅力的で私が大好きな人なんだと話す言葉を聞いているとき、私の目から涙がとめどなく溢れ始めました。
本当に、私は久しぶりにまるで子供のように大声を上げて、気を遣って席を外してくれた安達さんのいなくなった、がらんとした休憩室に響き渡るほどの声でわあわあと泣き続けました。
次々と涙と嗚咽が溢れ続け、私は顔中をぐしゃぐしゃに濡らしながら、泣き続けました。
 
安達さんは、頑張れとは言わなかった。
頑張ってると、言ってくれた。
妻は毎日遅くまで働く私をねぎらい、大変だねとは言ってくれているが、頑張っているという言葉は誰もかけてくれたことがなかった。
自分のやっている事を、ちゃんと見てくれていた人がいた。
まだだ、まだもう少し進める。
進めるんだ!
 
始業のチャイムが鳴り出した頃、私の心は驚くほどに晴れ上がっていました。
そしてそれから何日か後、私は意を決して宮内と対峙することになるのです。
 
実は私が宮内と対峙する前日、福島工場には、本社で私たちの業務を統括していた取締役が退任されるということで挨拶に見えられていました。
この取締役という方は私が北部センターを閉鎖するにあたり、一人で苛烈な仕事に忙殺されていた際に、以前に本社で行われた会議で同席させていただき、私が行ったプレゼンを気に入っていただいた縁もあってか、本社の人間としてはただ一人だけ、北部センター閉鎖に関わる諸作業や仕事の過密さを気に掛けて下さっていた方であり、反面、ろくに仕事をしないMさんをたいそう嫌っていた方でした。
その取締役に、私は退任挨拶後の飲み会に誘われました。
私なんかが参加していいような席ではないとも思いましたが、福島工場へ転勤することへ踏み出す際の勇気をくれた方でもありましたので、私は及ばずながらその席に同席させていただきました。
そして、累々と福島工場の上層部が顔を揃える中で、その席にはラインリーダーである宮内の姿はありませんでした。
どうやら、私のいる工程からは取締役の判断で私が代表として出席したようでした。
その席で私は取締役に言われました。
 
「現場のリーダーとして福島センターを引っ張っていってくれ。
 俺が、君の仕事の能力を高く評価していることを忘れないでくれ。」
 
私は、嬉しくて言葉も出ませんでした。
今まで楽に数百人という部下を従えてきたであろう取締役に、たとえ酒の席での社交辞令であったかもという懐疑はぬぐえないまでも、そんな言葉をかけてもらえるとは夢にも思いませんでした。
そしてどうやら宮内は、酒の席に私が呼ばれたことが非常にカンに触ったらしいのです。
何で立場が上の俺が声も掛けられずに、あんなバカの作業員が本社の取締役に気に入られているんだ、と。
確かに、お先に失礼しますと挨拶をした際に、宮内はかなりの目つきで私を睨んでいました。
 
飲み会の次の日の朝、いきなり宮内は私が細かいルールを破ったと言いはじめ、そんなことでは効率など上がらないと詰め寄ってきました。
私は宮内に、私がやった方法を用いた方が効率がはるかに上がっていることを、ここ数日の生産数などを例に挙げて伝えましたが、結果はいつも通りのお前は単なる作業員だ、考える行為は俺たちがやるから、お前らは何も考えないで手を動かせの一点張りでした。
更に、私は宮内が決めたルールどおりに進捗のチェックを行っていたにもかかわらず、進捗チェック表をばんばんと叩きながら、どうしてこんなチェック方法なんだ、解りにくいから違うやり方にしろと騒ぎ始めました。
とりあえず何を言いたいのかが全く解りませんでしたが、私あなたが決めた進捗のチェック方法を守っていただけで、あなたが今言った方法は昨日の時点では決められていませんでしたよと言うと
 
「俺がたった今ここで決めたルールなんだよ!
 つべこべ言わないで俺が決めたルールに黙って従うのが、お前ら作業者の仕事だろうが!」
 
いつもならここで何も言い返さずに、言い争いを避けるように作業に戻るのですが、私は諦めませんでした。
どんな人間が決めたルールでも、現場の生産性や会社の利益に即していないやり方は間違っている、とはっきり伝えたところ、宮内は激昂し、一気に私との歩を詰め、ものすごい勢いで怒鳴りつけてきました。
そして私の眼前まで顔を近づけ、殴りかかる一歩手前の状態で睨みつけてきました。
 
お前は誰に物を言っているんだ? 会社にいられないようにしてやんぞ?
 
まずもってたかだかラインリーダーごときに誰かを解雇する権限などはありませんし、私は出向者という立場ですので、私の解雇などに関する人事権は出向元である福島工場の親会社にしかないのです。
私はそのことに加えて、今宮内がやっている行為は恫喝という行為であり、私が精神的苦痛を訴えればその時点で恐喝罪になってしまうということまでを、出来るだけ解りやすく宮内に伝えると、話の半分も理解できなかったであろう彼は更に逆上し意味のわからない罵倒を私に向けて叫び続けていました。
 
しかし私は気づいていました。
中身の無い主張や恫喝を繰り返す宮内の目は、おそらく初めて誰かに本気で論理的に抵抗されたのだろうと思われ、突然現れたその現実に少なからず驚き、動揺していました。
私は眼前10センチまで迫った宮内に対し、結果を出せば文句は無いのだろうとだけ冷静に言い、とっとと作業に戻りました。
宮内はお前なんかがやれるもんならやってみろと言い残して、鼻息も荒く足音を立てて出て行きました。
勢いよくドアを閉める音が響き、その後で周りを見てみると、一緒に働いている人たちから、ゴタゴタには関わりたくないというオーラが半分と、よく言ったというオーラが半分ずつ漂っていました。
そんな中、安達さんだけは笑顔でこちらを見ていたような気がします。
 
そして、それを機に私の印刷効率は上がり、北部センターにいた頃とまでは行きませんが、それなりの加工数を確保できるまでに至りました。
宮内は、一応は現場の管理者であるにも関わらずそれ以来事務所にいる比率が多くなったせいであまり加工センターに姿を見せなくなり、現場に来たとしてもPAD印刷の作業者に指図をするだけとなり、私とはほぼ一切関わらないようにしているようでした。
まあ、福島センターに新しく入ってきた人や他の部署の人には私の悪口をあること無いこと言いふらしていたようですが、そんなことを言われていた人たちは、後で宮内が言っていたことを私に笑いながら教えてくれました。
私の悪口を吹き込まれていた人たちも、宮内という人間の底の浅さに辟易していたのです。
 
 
さて、季節は過ぎ転勤から1年が経った頃、ついに福島センターは動きました。
 
Mさんの更迭。
 
要は、全く仕事の役に立たない40過ぎの男に、出向に伴う費用を払い続けるのは無駄だという結論に至ったのです。
どうやら福島工場はだいぶん以前からMさんを追い出す計画を練っていたようですが、Mさんはもともと本社では使えないという理由で加工職にでっち奉公に出された立場なので、本社のどこの部署からも引き取るという回答が得られず、ようやく春先にしぶしぶ筐体の生産を統括する部署が引き取り先として手を上げてくれ、福島工場としてみればこれですっきり堂々と不用品の整理が出来るようになったということでした。
まあ、これは後で聞いた話なのですが、とにかくいかにして追放するかという会議が何度も持たれたせいで、この工場始まって以来、これほど会議で名前が上がった人はいなかったということでした。
しかし当のMさんはそこらへんの危機感が全く無いようで、本社で自分の力が必要になったと勘違いして自分は栄転だと勘違いしながらいなくなったようですし、実際その部署と福島センターは切っても切れない繋がりがあるために、後日仕事上の理由でMさんに電話をした際にも上から物を言ってきたりと、相変わらず頭に来るとの悪評が流れました。
そんなMさんは当然その部署でも良い評価を受けてはいないようで、あちこち担当配置を変えられ、現在に至っています。
 
さて、こうして特異な人たちの問題は少しずつ解消していったので良かった良かった…、とは行きませんでした。
皮肉なことに、私を散々苦しめたMさんがいなくなってしまうことで、それまではなりを潜めていた別の問題が私にのしかかってくるようになってしまいました。
 
この問題が、先日うつで倒れるまでのおよそ3年に渡る長き間私をじわりじわりと苦しめ、最終的に心根が折れる原因のひとつとなっていったのでした。

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